日本百名山 山行記録


1 筑波山

 私の実家は、東京である。東京でファミリーハイク(当時の言葉で言えば、お弁当を持っての遠足)に出かける場所といえば、東の筑波山に、西の高尾山が代表であっただろうか。小学校の頃だったと思う。電車を乗り継ぎ、ケーブルカーで山頂直下まで登り、男体山と女体山を往復し、ガマの油売りの口上を聞いて、帰途についた覚えがある。いつしか、筑波鉄道、そういう名前だっただろうか、も廃止になり、新しいロープウェイも掛けられているようである。子供の頃とどのように変わっているのだろうか。日本百名山の完登までに、もう一度登っておこうか。あるいは、昔の思い出の山として、このままでいいのかも知れない。

筑波山再訪の記録
 1998年4月18日

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2 至仏山

 私の実家は、東武伊勢崎線沿線にあり、夏のハイキングや冬のスキーで何度も奥日光を訪れていた。中学生の頃、金精峠経由で日光駅から尾瀬戸倉までのバスルートが開通し、東武線経由の尾瀬ルートが可能になった。最初の年は、鳩待峠へタクシーで上がり、尾瀬ヶ原、尾瀬沼経由の二泊三日の山旅であった。二年目に、至仏山に登った。当時の鳩待峠への林道は、運転慣れしている地元のタクシーでも腹をこするような悪路であった。尾瀬への入山口としては、富士見峠と大清水が代表であり、まだ沼山峠あるいは御池ルートはアプローチが不便なことからほとんど利用されていなかった。はじめての本格的登山で、樹林帯の中の登りは辛かった。それでもオヤマ沢田代から先は、天上のプロムナードとなり、展望と高山植物を楽しんだ。当時の尾瀬は、「夏がくれば思い出す」と唱われて人気は高かったが、至仏山は、夏スキーのゲレンデとして有名ではあったが、夏山の人出自体は、それ程多く無かった。山頂での休憩後、今は閉鎖になっている山ノ鼻への登山道を下った。当時すでに、この登山道の周辺は踏まれて荒れており、尾瀬ヶ原からでも、広くなった登山道がそれと判る程であった。石の転がる急斜面を、石に足を取られながら下っていくと、雷雲が襲ってきた。ビニールポンチョをきても、雨が隙間から入ってきたのか、あるいは蒸れたのか、下着まで濡れねずみになり、夏というのに唇も青くなるような寒い思いをした。山ノ鼻まで下ると、雷雨も通り過ぎ、下着を着替えようやく人心地を取り戻した。その後の、下田代十字路までの尾瀬ヶ原の横断は、暑くて長かった。当時は、浮島の上に乗って揺らして遊ぶという、今となっては恐ろしいことが普通に行われていた。また、尾瀬に行きだした最初の頃は、長靴と運動靴が山の履き物であった。いつ頃か、青のキャラバンシューズにかわりはしたが。尾瀬沼に渡し船が運行し、手漕ぎボートが浮かぶ、昔のことであった。その後、中学から高校の頃にかけて、至仏山にはもう一度登っている。


至仏山再訪の記録 
96年8月31日

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3 燧岳

 尾瀬には、中学から高校卒業まで、毎年のように出かけていた。至仏山に登って次に目を向けたのが、燧岳であった。沼田まで夜行列車、乗り合いのタクシーで富士見下まで入り、まず下田代十字路の燧小屋に宿泊した。何回かの尾瀬訪問で、下田代の常宿は、燧小屋になっていた。燧小屋は、少し奥まった所にあって、団体客はおらず比較的空いており、個室であった。当時の燧小屋の主人は釣りの名人であり、平日の朝食には釣りたての岩魚の塩焼きが出て、囲炉裏の上で薫製にした岩魚の甘露煮もメニューのひとつであった。燧岳への登山コースのうち、最も登り易そうな長英新道を選んだ。一旦尾瀬沼まで出てから、燧岳へ登り始めた。樹林帯の中の登りは、しだいに傾斜もきつくなり、展望も効かず、途中でダウン。笹薮に寝ころんで少し元気を取り戻し、なんとか歩き続けた。爼ぐらの下までなんとか辿りついたが、山頂は目の前であるのに足が進まなかった。荷物を下ろして身軽になり、山頂に到着した。しばらく休んでから荷物を取り戻しに下りると、今度はあっさりと山頂に登り返すことができた。柴安ぐらへは一旦下ってから再び登り返す必要があったが、休んだ後の為か、見た目よりも楽に登ることができた。爼ぐらからの展望は、尾瀬沼が主役であったのに対し、柴安ぐらからは、尾瀬ヶ原の眺めが大きく広がっていた。下りは、下田代十字路に再び戻るため、見晴新道に向かった。山頂直下の急で石の転がる急斜面に、転ばないように下るのに神経を使い、ようやく笹原の中で傾斜が緩やかになったと思ったら、下田代十字路に飛び出した。燧岳にはもう一度登り、その際には、燧裏林道を経由して七入小屋に泊まり、さらに会津駒ヶ岳に登ろうかと思ったが、体力的に無理と思って、まる一日がかりで会津田島経由で鬼怒川に出て東京に戻った。

燧ヶ岳再訪の記録 
96年10月5日  98年4月26日

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4 大菩薩岳

 大菩薩峠は、子供の頃、東京付近で最も人気の高い山のひとつであった。当時の山行きは、夜行列車が主であり、新宿発の各駅停車の夜行列車は、登山客専用列車になっていた。大菩薩岳に出かけたのは、高校の時、季節は晩秋、同級生と三人連れであった。夜行列車に乗り込むのに、夕方から駅で順番取りをした。新宿から塩山まで、当時の各駅停車であっても四時間はかからなかっただろうに、駅のホームで数時間座り込んでいたわけである。今にして思うと無駄な時間のような気もするが、当時はそれが普通。登山の気分を盛り上げるためのセレモニーのようなものであった。塩山駅からバスに乗って、まだ暗い大菩薩岳の登山口に到着した。登山用のヘッドランプなど持っているはずは無く、家から持ち出した、懐中電灯を頼りに歩きだした。コースは全く覚えていないが、途中の休憩所にランプが灯されているのに驚いた覚えがある。山頂自体は記憶は無いが、草原状の斜面に腰を下ろし、白い雪をかぶった富士山と南アルプスの大展望を楽しんだ。

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5 八幡平

 大学の最終学年、臨床自習の間の夏休みに、仲間四人で東北旅行に出かけた。東北周遊券を手に入れ、計画はあって無いような旅を続けた。陸中海岸から盛岡に出て、八幡平から十和田にバスを乗り継いで移動した。八幡平のバス停で、バスを乗り換える間の時間を利用して、八幡平の山頂を往復した。霧で視界はまったく無かったが、山頂の標識があったことだけは覚えている。八幡平をもう一度きちんと歩いてみたいと考えているが、山頂付近をバスが通過しており、車で出かけて歩くのに都合の良い周遊コースも無いため、再度出かけるのに腰が重い山である。

八幡平再訪の記録 
97年7月26日

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6 岩木山

 大学最後の夏休みの東北旅行は、八幡平の後、八甲田山ロープウェイを利用して赤倉岳まで登り、みょうに山づいてしまった。その結果、弘前から岩木山に登ることになった。津軽岩木スカイラインのあきれるほどのつづら折りを、バスは八合目までいっきに登ってしまった。そして、リフトに乗り換えて、九合目まで。しかし、最後の一合は、岩場の急登で、登山道そのものであった。普通の靴の観光客も登っていたが、歩くのに苦労していた。山頂からは、日本海の海岸線が北に延びていくのが見えた。休んでいると、家族連れの小学生が登ってくるのに驚き、バスとリフトで上がってきたことを少し恥ずかしく思った。新潟への帰りに、仲間の二人は象潟で下車し、鳥海山の鉾立に向かった。今にして思うと、観光版の日本百名山巡りをやっていたようなものである。

岩木山再訪の記録 
97年8月17日

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登山の再開、あるいは開始

 大学に入ってから山から足は遠のき、余暇は、ウィザードリイなどのダンジョンを歩き回って過ごすようになった。大学受験の頃から肥満であったが、中年になってさらに高血圧が問題になり、減量も必要になった。久しぶりに写真撮影を目的に、休暇をとって仲間と尾瀬に出かけた。自分でも驚いたことに、沼山峠から下田代十字路までの歩きだけで疲れてしまい、三条の滝まで行くことができなかった。体力の衰えがこれ程のものとは思ってもいなかった。失われた体力と健康を取り戻すために、私は、おぼつかない足どりで、息を切らせながら山に登り始めることにした。

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