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筑波山

天園

1998年4月18日〜4月19日 各日帰り 単独行 雨/曇り

筑波山 つくばさん(875.9m) 一等三角点本点 筑波山塊(茨城県) 5万 真壁 2.5万 筑波、柿岡、加波山 ガイド:分県登山ガイド「茨城県の山」(山と渓谷社)、日本百名山登山ガイド(上)(山と渓谷社)、日本300名山ガイド 東日本編(山と渓谷社)、関東百名山(山と渓谷社)、山と高原地図「赤城・皇海・筑波」(昭文社)

天園 てんえん(159m) 鎌倉(神奈川県) 5万 横須賀、横浜 2.5万 鎌倉、戸塚
ガイド:分県登山ガイド「神奈川県の山」(山と渓谷社)、関東百名山(山と渓谷社)

4月18日(金) 6:03 新潟発=(常磐線 あさひ300号)=8:07 上野〜8:30 発=(ひたち9号)=9:25 土浦〜9:40 発=(関東鉄道バス)=10:30 筑波駅〜10:40 発=(関東鉄道バス)=10:50 筑波神社バス停―11:03 一合目―11:28 五合目―11:38 男女川―11:56 御幸平―12:05 男体山〜12:10 発―12:17 御幸平―12:33 女体山―12:56 弁慶茶屋―13:15 五合目―13:35 つつじヶ丘からの合流点―13:48 筑波神社バス停〜14:02 発=(関東鉄道バス)=14:10 筑波駅〜14:20 発=(関東鉄道バス)=15:10 土浦〜15:21 発=(常磐線 フレッシュひたち54号)=16:04 上野
4月19日(土) 12:39 川崎発=(東海道線、横須賀線)=13:20 鎌倉駅〜13:25 発=(京浜急行バス)=13:35 大塔宮―13:53 瑞泉寺入口〜14:03 発―14:08 尾根分岐―14:09 明王院分岐―14:23 貝吹地蔵―14:38 天園〜14:45 発―14:53 大平山―15:12 覚円寺分岐―15:23 建長寺裏口―15:41 建長寺総門―16:10 鎌倉駅

 双耳峰の筑波山は、関東平野の東に眺めることのできる独立峰で、西の富士山と並び称され、古くから歌に読まれてきた山である。筑波山は、いにしえの歌垣の山として親しまれてきたが、現在では、観光・ハイキングの山として賑わっている。
 鎌倉市街地の北部を東西に走る丘陵があり、天台山、天園、大平山、鷲峰山などの峰々が連なって、鎌倉アルプスと呼ばれている。登山口周辺の史跡巡りを合わせて、時間・体力に合わせた歩きを楽しむことができることから、ハイキングコースとして親しまれている。
 筑波山は、子供の頃に家族で数度は行ったであろうか。おそらく、小学校も下級生の年齢であったのか、ケーブルカーにがまの油売りの口上などを覚えているものの、記憶は定かではない。出張のついでに、山行記録を揃えるために、筑波山に登ることにした。国境のトンネルを通り過ぎると、今にも雨が落ちてきそうな空模様で、いつも楽しみにしている高崎付近の山の眺めも閉ざされていた。上野駅で、余分な荷物をコインロッカーに入れ、常磐線に乗り換えた。昔は、他の路線と比べて、古くて汚い列車が走り、電化も最後の方まで遅れていた常磐線であったが、今は、新しいスタイルの特急列車に変わっていた。車窓から眺める町並みもとぎれることなく、そのまま土浦に到着。昔は筑波鉄道というローカル線に乗り換え、それなりに観光客で賑わっていたような記憶があるのだが、現在では、廃線となって、バスの運行に代わっていた。郊外のそこそこの大きさの駅におきまりのように、大手のスーパーのビルがかたわらに建つバスターミナルで、筑波駅行きのバスを待った。幸い接続も良く、バスに乗り換えることができた。バスは、市街地を走っていくが、山はどこにも見えず、雨も降り始めた。ローカル線の車窓から眺めた、見渡す限りの水田の上に頭をもたげた筑波山は、幻だったのであろうか。一時間程も走った頃、家並みもようやくとぎれ、筑波山も姿を現した。二つのピークが美しいが、鞍部付近にはアンテナ群が並び、麓からは町並みが侵食しはじめていた。バスの終点は、筑波駅。バス停の名前としてはおかしいが、昔の駅舎がそのまま残されていた。改札口は閉ざされていたので、脇からホームをのぞくと、レールは外されて雑草が茂り、屋根から吊るされた広告の半ばは壊れ、半ばは今でも読めるのが、ものさびしい感じであった。到着する列車から吐き出される観光客は無く、降り出した雨の中に、乗り換えのバスを待つハイカーは、二人だけであった。今度の乗り換えも、スムーズで、振動の激しい小型バスで筑波神社に出発した。山に向かってひと登りすると、筑波神社のバス停に到着した。
 本降りとなった雨の中を、傘をさして出発した。お土産屋の軒先をかすめ、まずは、神社の本殿にお参りした。どのようなコースをとるか迷ったが、ケーブルカー沿いから男体山に登ることにした。左手のケーブルカー駅へ向かうと、階段で汗が吹き出てきた。「関東ふれあいの道」として整備されている登山道に入ると、周囲は植林地となって、見晴らしは利かなくなった。木の根が露出し、所々ぬかるみの出た道は、次第に傾斜も急になった。日本百名山のうちでも、低山ということで評価の低い筑波山であるが、本気になって登る必要のある山であった。途中で、登山道がケーブルカーの線路脇を通っている所もあり、8分で登ることのできるケーブルカーを、山登りに来たにもかかわらず恨めしく思ったハイカーも多かったことだろうと思った。子供の頃、ここのハイキングの下りは歩いた記憶があるのだが、子供の足でこの道を下れたのだろうか。高尾山と記憶が入り交じっているのだろうか。雨の平日にもかかわらず、登山道上では時々ハイカーと出合う状態であった。登りが一旦止んで、左手に緩やかに下ってトラバースになると、万葉集で有名な男女川(みなのがわ)の源流部に到着した。パイプが差し込まれた水場になって、雨の中で勢い良く水が流れ出ていたが、その上部は、木の葉が浮いた水溜まりになっていた。ひと口含んでみたが、頂上部の観光施設のことも考えると、飲み水として安全かどうかは疑問であった。ともあれ、ここにはベンチもあり、五合目表示も過ぎた所で、休憩には良い所であった。男体山の山頂が頭上に近づいてくると、稜線めがけての、最後の急な登りになった。
 登り着いた鞍部の御幸ヶ原は、ケーブルカーの駅や休憩所が立ち並んで、すっかり観光地になっていたが、雨のために閑散としていた。まずは、左手の男体山に向かった。頂上付近は、ブナの木も混じる自然林が広がっていた。ひと登りで、神社で占められた男体山の頂上に到着した。吹き抜ける風は冷たく、足を止めて休むことのできる状態ではなかった。この狭い山頂には、かすかに記憶があるような気もした。一旦、鞍部の御幸ヶ原に戻り、女体山に向かった。軒下でおばさんハイカーが雨を避けながら休んでおり、休憩所には、小学生の団体が休憩しているものの、その他の観光客は見あたらなかった。晴れていたならば、関東平野の広大な眺めを楽しむことができたであろうが、雨で視界も効かない中を、意外に立派なブナの木を眺めながら、緩やかな登りを続けながら女体山に向かった。女体山山頂の神社の脇の岩場に上がると、一等三角点が埋められていた。岩場は切り落ちているようで、濡れた岩に足を滑らさないように、縁には近寄らないことにした。子供の時の記憶では、女体山はなだらかなピークであったような覚えが。おそらく、岩場には上がらせてもらえなく、神社にお参りして、下の茶屋付近で休んでから引き返したのであろう。
 下りは、つつじヶ丘に向かって、弁慶茶屋から筑波神社に戻ることにした。神社の脇から岩場を巻くように下ると尾根通しの道になった。次から次に、大仏岩や北斗岩、母の胎内くぐりなどの巨岩が現れ、天候も良い日なら、これらの岩を楽しにながら歩けそうであった。水たまりもでき始め、岩場で滑らないように、中高年のための登山教室なみに、慎重に歩くことにした。最後の弁慶七戻りは、大きな岩を支えた二つの岩の間を通り抜けるもので、今にも岩が落ちてきそうで、なかなかの見ものであった。この岩を通り抜けた所が、つつじヶ丘と神社との分岐になった弁慶茶屋であった。右手の神社への道を下ったが、しばらく行くと、この道はつつじヶ丘への道では無いという警告の案内板が二度まで現れた。つつじヶ丘は、ロープウェイの山麓駅もあり、迷い込む観光客も多そうであった。すっかりぬかるんだ道を、雨具に着損なったと反省しながら下った。麓近くになると、スミレも見られるようになり、杉の下生えの中にウラシマソウも見つけることができ、開発の波が迫っているとはいうものの、神社の神域ということで、豊かな自然は保たれていることを知った。神社に下山してバス停に戻ると、幸い、それほど待たずにバスに乗ることができて、東京に向かうことができた。振り返る筑波山は、降りしきる雨の中に、遥かな記憶のようにかすんでいた。
 学会のあいた時間で、低山ハイクに出かけることにした。分県登山ガイドの「神奈川県」の本を見ると、鎌倉周辺にいくつかの山が取り上げられており、その中から名前も聞いたことのある鎌倉アルプスを歩いてみることにした。電車の中でガイドブックに目を通しながら、鎌倉をめざした。鎌倉の駅前は、春になったせいか、大勢の観光客で賑わっていた。大塔宮行きのバスに乗り、それ程遠くはない終点で下車した。まずは、観光モードで、大塔宮とも呼ばれる鎌倉宮を見学した。鎌倉宮は、大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんおう)を奉る神社である。護良親王は、後醍醐天皇の皇子であり、鎌倉幕府倒幕の際に、楠木正成と共に戦って功のあったものの、後に足利高氏によって捕らえられて土牢に幽閉され、二十八才の若さでその生涯を閉じた歴史的な人物である。神社は、明治天皇によって創建された、そう古いものではないが、本殿の後ろには土牢も作られて、歴史をしのぶことができる。入口に戻り、右手のトイレの脇から狭い車道に出て、瑞泉寺に向かった。町中の歩きであったが、庭先に咲く春の花を楽しむことができた。30人程の高齢者の団体も、マークのリボンを肩に付けて歩いていた。どうやら、ここらはハイキングよりも、ウォーキングの世界といった方が合っているのかもしれない。天園へのコースは、瑞泉寺の手前で、右に曲がる必要があったが、観光モードで瑞泉寺にも寄っていくことにした。先ほどの鎌倉宮は、拝観料300円であったが、瑞泉寺は100円であった。瑞泉寺は、花の寺として有名なようであり、新緑が美しくはえ、木々の下には、薄紫色の花をつけたショカツサイ(ハナダイコンあるいはオオアラセイトウ)が咲き乱れていた。途中の道の脇にもこの花が咲いているのを見かけたが、家に帰って山渓カラー名鑑「日本の野草」を開いてみると、この本に載っている写真も鎌倉で撮影したものであった。石段を登った所の本堂の前に、さりげなく樹木を配した美しい禅庭が設けられていた。寺の裏手には尾根が横たわっており、ここが、これから歩くハイキングコースのようであった。入口に戻って、天園へのコースに進んだ。曲がって直ぐに、民家の脇の狭い石段の登りになった。ひと登りすると、右手からの道と合わさり、雑木林やしの竹で覆われた尾根上の道になった。急坂が現れて登っていくと、右手の岩の間に貝吹地蔵がおかれていた。登り着いた付近が天台山のはずであったが、それらしいピークはなく、緩く高低する道が続いた。天園の周辺には、手前の窪地と頂上に二軒の茶屋があって、客をとりあっているようであった。天園の山頂標識は、頂上の峠の茶屋の敷地内に置かれていた。ガイドブックと傘だけを持った手ぶらで歩いていたため、この茶屋でひと休みした。山頂付近からの眺めは霞んでいて、どのような展望が開けているかを確かめることはできなかった。一息いれて歩き出すと、ゴルフ場のフェンスが近づいてきた。レストハウスの裏手の岩肌の斜面を登ると大平山の頂上であった。振り返ると、天園から先の尾根が緩やかに続くのを眺めることができたが、目の前のレストハウスが、展望を妨げていた。樹林帯の中の下りになったが、昨日の雨で泥だらけになって滑りやすく、注意して歩く必要があった。運動靴のハイカーもいたが、歩くのに苦労していた。横穴式の墳墓跡の「やぐら」を眺めながら歩いていくと、建長寺の裏手の分岐に出た。建長寺の敷地内に入ると入場料をとるとの看板がてたっており、どうしようか迷ったが、見物も兼ねて建長寺に下ることにした。急な石段を下ると半僧坊に出て、さらに見物をしながら広い境内を抜けて、300円を払って総門から出た。ここから北鎌倉駅と鎌倉駅では、ほぼ同じ距離のようであったので、ついでに鶴岡八幡宮を見物し、お土産屋をのぞきながら鎌倉駅に戻った。家へのお土産を買う必要があったが、鎌倉名物としてはハトサブレーくらいしかみつからず、途中で横浜に立ち寄って、中華街で買い物と夕食にすることにした。事前に歴史のおさらいをしておくと、鎌倉ハイキングはより楽しめるようであった。

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