9932

赤安山、黒岩山、孫兵衛山

1999年6月12日〜13日 1泊2日 単独行 5名グループ(室井、川田、池田、斎藤、岡本) 晴

赤安山 あかやすやま(2050.0m)  三等三角点 帝釈山脈(群馬県、福島県)
黒岩山 くろいわやま(2162.8m) 二等三角点 帝釈山脈(栃木県、群馬県)
孫兵衛山  まごひょうえやま(2063.8m) 三等三角点 帝釈山脈(福島県) 5万 燧ヶ岳 2.5万 燧ヶ岳、三平峠、川俣温泉、帝釈山
ガイド:会津百名山ガイダンス(歴史春秋社)、山を訪ねて(歴史春秋社)

6月11日(金) 9:00 新潟発=(磐越自動車道、会津坂下IC、R.49、会津坂下、会津本郷、大戸町、R.118、湯野上、R.121、会津田島、R.289、南郷、R.401、伊南、R.352 経由)
6月12日(土) =0:30 檜枝岐着  (車中泊)
7:35 燧の湯発=7:50 トヤス沢出合近くの林道口=8:20 七入駐車場=(会津バス780円)=9:15 沼山峠〜9:30 発―9:48 沼山峠―10:14 大江湿原分岐―11:10 長蔵小屋分岐―11:25 小淵沢田代〜12:00 発―12:17 大清水分岐―12:31 送電線〜12:38 発―13:25 袴腰山下〜14:05 発―14:22 赤安清水〜14:33 発―15:31 赤安山―17:00 黒岩山下  (テント泊)
6月12日(日) 5:50 黒岩山下発―6:10 トラバース分岐―6:50 黒岩山〜7:10 発―7:21 黒岩山中央峰〜7:25 発―7:35 黒岩山北峰〜7:49 発―9:58 孫兵衛山南峰〜10:13 発―10:36 孫兵衛山中央峰〜10:52 発―11:40 沢源頭〜13:00 火打石沢の西の枝沢〜13:17 発―13:38 林道―14:13 越ノ沢林道分岐〜14:35 発―15:52 舟岐橋―15:54 トヤス沢出合近くの林道口=(燧の湯入浴、往路を戻る)=21:30 新潟着

 福島・栃木県境には、帝釈山脈と呼ばれる2000m級の峰々が連なっている。その中で田代山と帝釈山は登山者に人気の山になっているが、南に連なる台倉高山、孫兵衛山、黒岩山は、かつて開かれていた縦走路、さらに、それらの山の鞍部を越していた峠道も消えて、残雪を利用しあるいは薮コギによってしか登れない山になっている。
 黒岩山は、帝釈山脈の最高峰であり、福島、群馬、栃木の三県境に位置し、帝釈山脈と尾瀬と日光の分岐になっている。黒岩山の山頂部は、三つのピークに分かれているが、三県境は中央峰に位置し、三角点の置かれている南峰は、群馬・栃木県境上にある。かつて、福島県の檜枝岐から日光に抜けるには、沼田街道と並んで、尾瀬と奥鬼怒を結ぶ鬼怒沼林道が利用されていたが、この道は、尾瀬沼から赤安山の山頂直下を通過して、黒岩山の中腹を巻いて鬼怒沼に続いている。尾瀬を世に紹介した武田久吉も、この鬼怒沼林道を歩き、その様子は「尾瀬と鬼怒沼」に著わされている。黒岩山は、地理上の要ともいえる位置を占めているが、その山頂からは、尾瀬や日光の山の360度の展望が広がっている。
 孫兵衛山は、帝釈山脈の黒岩山の北隣りにある山で、縦走路は南峰を越しており、三角点は北に外れた中央峰に置かれている。孫兵衛山から北に分かれる稜線は、長須ヶ玉山に続き、船岐川に終わっている。
 宇都宮の室井さんから、黒岩山の誘いの声がかかった。台倉高山に一緒に登った時に、黒岩山にも登ってみたいとの希望を言ったのを覚えていてくれたようである。山中1泊で、尾瀬から黒岩山を通り、孫兵衛山から長須ヶ玉山を通過して舟岐林道に下山するという計画であった。難しい薮コギ山行になりそうであった。
 金曜日の晩は、家を出るのが少し遅れて、檜枝岐に到着したのは、0時を回っていた。尾瀬もミズバショウのシーズンとなり、夜中にかかわらず御池方面に向かう車は多かった。中土合駐車場をのぞくと、何台もの車が停まったいたので、アルザ尾瀬の駐車場に戻った。こちらの駐車場には、車は無かった。朝、人の声で目を覚ますと、周囲には釣り客の車が並んでいた。待ち合わせ場所の燧の湯に移動して、室井さん一行の到着を待った。予定よりも早く到着し、さっそく長須ヶ玉山からの下山予定地点の舟岐川林道に向かった。台倉高山の時にも、同じ組合せで車の配置を行った思い出の道である。先回の舟岐橋から少し戻ったトヤス沢出合近くに荒れた林道が山に向かって分かれており、この入口に私の車を置いて、室井さんの車で御池に向かった。中土合駐車場の先には、新しく、ミニ尾瀬という観光施設が作られていた。檜枝岐もいまでは、福島県内でも有数の観光地になってしまったようである。
 七入には大駐車場が作られて、大型観光バスはすべてここで止められるようであったが、御池の駐車場はすでに満車ということで、この駐車場に導き入れられた。歩き出す支度をしてバスに乗り込むと、7分程の乗車で出発した。一応は20分間隔の出発であるが、客がたまれば出発するとのことであった。沼山峠へは、御池からバスに乗り換える必要があったので、車の回収のことを考えれば、七入の方がむしろ都合が良かった。七入は500円の駐車料金であったが、御池は新しく料金ゲートが設けられて1000円の駐車料金になっていた。車窓からは、新緑のブナ林の眺めを楽しむことができた。
 沼山峠は、軽装のハイカーで大賑わいであった。共同荷物の分配を行って大型ザックを背負えば、周囲とは場違いな感じのする大荷物であった。歩き出しは、荷物の重さというよりは、前をいくハイカーの歩きに合わせてのゆっくりペースになった。驚いたことに沼山峠までは木道が敷き詰められて、靴を汚す心配の無い道に変わっていた。戻ってくるハイカーも多かったが、白い運動靴が汚れてもいなかった。以前よりも道の整備が進んでいるようであった。沼山峠は、尾瀬沼を見下ろすハイカーで大賑わいであった。大江湿原に出れば、湿原の風景が広がった。草が刈り揃えた芝生程にしか伸びていない中に、タテヤマリンドウの花が一面に広がっていた。良く見れば、ヒメシャクナゲが小さな花を咲かせていた。
 小淵沢田代への道に一歩入ると、そこまでの混雑がうそのように、静かな道になった。それ程進んでいない所で、女の子の二人連れに出会い、長蔵小屋へはこの道で良いのかと尋ねてきたので、引き返すようにアドヴァイスした。小淵沢田代の手前から、長蔵小屋への道が分かれるはずではあったが、この運動靴の二人連れが、そのような周遊コースを歩くようには思えなかった。緩やかに登っていく道が続いた。左から大江川が近づいてきて、右に長蔵小屋への道を分けると、その先で小淵沢田代に出た。ここまでの道が深い森の中の道であっただけ、湿原は明るい開放感に満たされていた。尾瀬には子供の頃から何度も訪れていて、この小淵沢田代も気に掛かっていた。尾瀬沼から大清水への下山時に、この湿原を経由してみようかとも思ってもいたのだが、なぜか実行していなかった。想像以上に大きな湿原であった。中央に木道が敷かれていたが、朽ちかかっており、湿原を荒らさないように注意しながら歩く必要があった。振り返ると、燧ヶ岳が頭をのぞかせていた。湿原の周辺部にはミズバショウの花が盛りであった。湿原の上では適当な休憩場所が無く、湿原を通り抜けて林に入った所で昼の休憩にした。二人連れのハイカーが休んでおり、尾瀬沼に向かって引き返していった。ここまでは、登山者もそこそこには入り込む領域のようであった。
 小淵沢田代から先も、緩やかな登りが続いた。大清水への道を右に分けると、送電線の巡視路が交わる十字路に出た。笹原の中にはっきりした道が続いていた。登山道にも笹が張り出していたが、刈り払いの手が入っていた。登山道脇にはヒメタケノコが頭をのぞかせており、夕飯のおかずに採りながらの歩きになった。
 次の目標は袴腰山であった。踏み跡を捜しながら歩いていくと、東の稜線下まで進んでしまった。登山道脇にザックを置いて、空身で薮に入ったものの、濃い笹薮が広がり、山頂をうかがえば、さらに1時間程はかかりそうということで、時間に余裕が無く引き返すことになった。ガイドには、袴腰山に寄ってみようという感じで軽く書かれているが、これは残雪期でのことか。赤安山手前の鞍部には、赤安清水があった。ロープも固定されているガレ場を少し下ると、パイプから水が湧き出ていた。生き返るような冷たい水であった。ここらあたりから池田さんの体調が優れないことが判り、休み休みの歩きになった。赤安山は、山頂下を登山道が通過しているため、見当をつけて薮に突入する必要があった。稜線上を捜していくと、薮の中に三角点が見つかった。5分程の登りであるが、通り過ぎる者が多いのか、踏み跡らしき物は見つからなかった。鬼怒沼までの長い道のりを考えると、赤安山の山頂を踏んでいる余裕も無いということだろうか。
 赤安山の下りから、ようやく黒岩山の山頂が姿を現した。黒岩山は、まだ遠かった。見晴らしの効かない道が続いたが、多くの花を見ることができた。オオバキスミレ、ミツバオウレン、セリバオウレン、エンレイソウ、キヌガサソウ、サンカヨウそして、今回の白眉ともいえるオサバグサ。山の花には詳しい室井さんも感激していた。小さなツリガネ型の白い花をまばらに下向きにつけた姿は、控えめな美しさがあった。武田久吉の「尾瀬と鬼怒沼」には、「赤安山を過ぎてから、また爪先上がりとなると、路傍に可憐なオサバグサが目に入る。黒岩山が近いことは、それでうなずける。」とあり、また同書に収められている館脇操氏の「尾瀬をめぐりて」には、「黒岩山山下にちかづけば、コガネイチゴ花咲き、コヨウラクツツジやゴザンタチバナのほかに、セリバオウレンが実を結び、森林の優雅な心をうたうオサバグサもようやくにしてあらわれそめる。」と記されている。大正十三年夏の山行の記録であるが、そのまま今回の記録としても使えるものである。「尾瀬を訪ねる人が毎年数百人にのぼるという盛況」の時代から、この登山道の周辺には変わらぬ風景が広がっているのだろうか。
 鬼怒沼林道は、尾瀬沼から県境線上を辿ってくるが、黒岩山の西で県境線を離れて、南の中腹にトラバースしていく。黒岩山への登り方としては、西から県境線を辿って中央峰に至るものと、現在は廃道になっている南の引馬峠分岐から縦走路を辿る二通りが考えられる。黒岩山のトラバース開始部には、古いゴミが残されていたが、山頂に向かっての踏み跡やテープのようなものは無かった。その少し先でテントを張るスペースがあったので、時間も遅くなり、池田さんの体調も優れないために、ここで幕営になった。周囲には、オオシラビソの原生林が広がり、人里は遥か遠くになっていた。
 登山道に座り込んで焼き肉の夕食を食べた後に、テントに入り込み、そのまま朝までぐっすりと寝てしまった。目を覚ましたのは、鳥の声のおかげのようであった。室井さんによれば、テントの周りをカモシカがうろついてうるさかったそうだが、全く知らなかった。知っていたら、尾瀬でハイカーがクマに襲われたという騒動があったばかりなので、恐くなったところであったろうが。
 一日の長い行動に備えて、しっかりと朝食を取ってから出発した。南に回り込んで、引馬峠分岐を目指した。だらだらした登りが続き、道は下り気味になったが、踏み跡のようなものはみつからなかった。南に延びる尾根と登山道が合わさるのは、もう少し下ってからのようなので、早めに尾根に向かって登り始めることになった。いよいよ薮コギの開始となった。手強い薮であったが、尾根にのると何本かの残置テープも現れた。しかし、かつてはあったはずの縦走路は、痕跡すら見つからなかった。シャクナゲ等の潅木をかき分けての登りが続いた。実際の時間以上に長く感じられる登りであった。地図を見て、黒岩山へは登山道からひと登りで楽勝と思っていたのだが。
 黒岩山の山頂は刈り払われた小広場になり、周囲には360度の展望が広がっていた。燧ヶ岳はすでに遠く、赤安山を振り返れば、昨日の長い歩きを思い出すことができた。至仏山に笠ヶ岳、その左に遠いのは武尊山か。山頂が一方によった三角形が面白い四郎岳。白根山や男体山といった日光の山々もすぐ近くに見えた。これから辿る縦走路をうかがえば、孫兵衛山はそれ程遠くはないよう。左に延びた稜線の先のピークが長須ヶ玉山のようであった。会津駒ヶ岳は白い残雪に彩られていたが、孫兵衛山への縦走路では残雪は使えそうもなかった。見飽きない山々の姿であったが、なによりも素晴らしいのは、目の届く限りに広がるオオシラビソの原生林であった。
 かたわらの木に明大ワンゲルのプレートが掛けられていた。この山域では良く見かけるプレートであるが、古いプレートが散乱しているのが気に入らない。毎年のように登っているようなので、古い物は交換で持ち帰って、部室の飾りにでもしたらよさそうなものだが。プレートの交換が、後輩の伝統的義務ともなれば、その方が面白いと思う。
 思ってもいなかったことではあるが、山頂からは、明瞭な踏み跡が北に向かって続いていた。ワンゲルの残したテープも短い間隔でつけられており、楽に歩くことができた。はっきりとした道のある所にテープをつけても無駄だろうに。真ん中の峰は、小岩峰になり、中央峰という標識がかかっていた。ここからも良い眺めが広がっていた。踏み跡はこの先で西にそれていき、稜線伝いに北峰に向かうことになった。西の県境線沿いに踏み跡は続いているのだろうか。北峰には、三つ程の巨岩が並んでいた。岩の間を越すと、北側に抜けることができた。ザックを置いて、一番北側の岩峰の上に登った。山々の眺めはそれ程変わらないものの、眼下に花沼湿原を見下ろすことができた。かなり水の多そうな湿原であった。距離もあるのに、カエルの声が聞こえ、湿原はカエルの天国になっているようであった。
 黒岩山から孫兵衛山への下降点は、目印に乏しく、慎重に磁石でコースを合わせる必要があった。オオシラビソの林の下には残雪も残り、少しは楽をすることができた。急斜面の下りを続けると、あっという間に黒岩山の山頂は、頭上に遠ざかってしまった。黒岩山から孫兵衛山にかけては、緩やかに上下する稜線が連なっているが、この間は、密な笹薮と倒木が連続する、厳しい薮コギになった。少しでも歩き易い所を捜しては、細かくコースを変えるものの、歩きやすい所はそうそう無かった。木の枝にぶつけて、手足は打ち身だらけ。山シャツには、そでがとれそうな程のかぎ裂きができてしまった。登山開始以来9年に渡って着てきたシャツともお別れになった。薮をもがきながら進んでいくと、いつしか、孫兵衛山への登りに転じた。道さえあれば、一気に登れるような高さであっても、薮コギの歩みは遅々として進まなかった。
 傾斜がゆるんで、ようやく孫兵衛山の頂上に出たことを知った。樹木に覆われて、どこが最高点か判らないような山頂であった。南峰付近には、テープや山頂標識のような物は無かった。薮コギに体力を消耗し、まずはひと休み。この南峰から三角点ピークへは、それ程遠く無い距離ではあったが、濃い薮が続いた。幸い山頂部は小高くなっており、その北よりに進むと三角点を簡単に見つけることができた。
 この先の計画を再検討した。孫兵衛山周辺の薮の状態だと、長須ヶ玉山まで行こうとすれば時間切れになる可能性があることと、池田さんの体調が優れないことから、下山にうつることになった。赤安山、黒岩山、孫兵衛山の三つの山のピークを踏んでいれば、これでもう充分満足。長須ヶ玉山は、別の機会に誘ってもらおう。
 室井さんが考えていた孫兵衛山からの下山コースは、孫兵衛山の北峰から北東に延びる尾根を下降し、火打石沢の黒沢への合流付近におりたち、黒沢沿いの林道跡を歩いて舟岐橋に至るというものであった。最後の黒沢沿いの林道跡は、昨年の台倉高山からの下山時に歩いており、その際にしっかりした道が上流に向かって続いているのは確認してはいた。どこまで続いているのかは知らなかったが、室井さんは、地図に出ている連続した崖マークは林道を現したものだという。この付近なら沢も浅く、渡渉も問題ないということであった。
 孫兵衛山の北のピークは、台地状で現在位置の確認は難しかった。室井さんのコース取りで下降の開始。始めは山の斜面の下降。尾根に乗ってからも、枝尾根に入らないように、細かく方向を変える必要があった。とても私の能力では手に負えるコース取りではなかった。あいかわらず手強い薮が続き、この尾根を登ることはできそうもなかった。中間地点で一旦傾斜が緩んだ林の中でワイヤーが残されているのに出合った。昔の山仕事のもののようであるが、それ以外には、人の痕跡は無かった。沢の源頭となって水場もあり、かつては山仕事の泊まり場になっていたのだろうか。小さな沢を渡る所で、水を飲んで元気を取り戻した。この沢の左岸の尾根に乗って下降を続けた。もうすぐ尾根も終わりというところで、これまで以上に密な笹薮に突入した。左から沢音が近づいてきた。笹薮からのぞくと、すぐ下に沢が走っていたので、木の枝をたよりに沢に降り立った。崖にはシラネアオイの群落があり、その中に一輪、白花が咲いていた。沢水を飲んで生き返った。
 沢岸伝いの歩きになった。後で地図を見ると、火打石沢との合流点は、左岸の薮の中を歩いていたため、知らずに通過してしまったようである。水量もそれ程無く、沢の中を飛び石伝いに歩くことができた。左岸の薮を通過すると、河原が急に広がって大きな石が転がり、水量も増した。右岸の一段上には、林道が水平に続いているのを見つけることができた。ここが火打石沢の黒沢への合流点のようであった。林道に這いあがって、これで薮コギも終わりと、ようやく緊張感から開放された。
 林道を歩いていくと、少し下流で谷は急に深くなり、滝も現れるようになった。室井さんの予想は、沢の深さについても当たっていた。林道には草が生い茂っていたが、踏み跡が続いていた。ここまで釣り人が入り込んでいるのだろうか。越ノ沢の林道との合流点まで歩いた所で、後は知った道ということで、休憩に入った。皆はフキやウド採りに夢中になっていた。下山を祝って、ここまで残してきたビールを開けた。この先は、問題は無いとはいえ、長い歩きが続いた。舟岐橋手前では、崖崩れで河原に下りるようにコースが変わっていた。この林道は、入口が判り難く、次第に忘れられていく運命にあるようである。
 車に戻って、まずは燧の湯に向かった。皆には温泉に入っていてもらって、室井さんと、七入に車の回収に向かった。温泉に入ってさっぱりした後、一同と別れ、夕暮れがせまって静けさを取り戻した檜枝岐を後にした。



山行目次に戻る
ホームページに戻る