9926

国土山、要害山(横田)

高土山

大博多山、明神岳

1999年5月13日、5月15日、5月16日 各日帰り 単独行 晴/雨/雨

国土山 こくどやま(858.2m) 三等三角点 会越国境(新潟県、福島県) 5万 宮下、野沢 2.5万 沼沢沼、安座
ガイド:会津百名山ガイダンス(歴史春秋社)、山を訪ねて(歴史春秋社)、新潟の低山薮山(白山書房)、LATERNE6巻

要害山(横田) ようがいさん(546.7m) 三等三角点 会津(福島県) 5万 只見 2.5万 会津横田
ガイド:ふくしまの低山50(歴史春秋社)、山を訪ねて(歴史春秋社)

高土山 たかつちやま(729m) 中通り(福島県) 5万 江別 2.5万 長沼 ガイド:ふくしまの低山50(歴史春秋社)

大博多山 だいはたやま(1314.8m) 会津(福島県) 5万 針生、小林 2.5万 会津山口、城郭朝日山
ガイド:南会津・鬼怒の山50(随想社)、会津百名山ガイダンス(歴史春秋社)、山を訪ねて(歴史春秋社)

明神岳 みょうじんだけ(766m) 四等三角点 会津(福島県) 5万 針生 2.5万 和泉田
ガイド:南会津・鬼怒の山50(随想社)、ふくしまの低山50(歴史春秋社)、会津百名山ガイダンス(歴史春秋社)

5月13日(木) 6:00 新潟発=(磐越自動車道、会津坂下IC、R.252 経由)=8:00 上田ダム〜8:20 発―8:54 鉄塔No.23―9:30 東北電力避難小屋―9:45 沼越峠〜9:50 発―10:10 国土山〜10:15 発―10:33 沼越峠―10:38 鞍部―10:58 831mピーク―11:11 鞍部―11:18 沼越峠〜11:25 発―11:30 東北電力避難小屋―12:03 鉄塔No.23―12:34 上田ダム=(R.252 経由)=13:13 横田・中丸城跡入口―13:23 一の平(三の丸跡)―13:28 二の平(二の丸跡)―13:42 要害山山頂(本丸跡)〜13:52 発―12:01 二の平(二の丸跡)―12:08 一の平(三の丸跡)―12:15 横田・中丸城跡入口=(R.252、宮下温泉保養センターひまわり入浴(400円)、会津坂下、R.49、佐野目、高塚、R.49 経由)=18:00 郡山  (郡山泊)
5月15日(土) 14:30 郡山発=(R.4、須賀川、R.118、長沼 経由)=15:20 藤沼公園・登山口〜15:35 発―15:40 林道横断点―15:45 尾根上―15:48 第一展望台―15:58 第二展望台―16:08 高土山山頂〜16:22 発―16:28 第二展望台―16:32 分岐―16:36 林道終点―16:47 林道横断点―16:55 藤沼公園・登山口=(藤沼温泉やまゆり荘(350円)=(R.118、湯野上、R.121、会津田島、R.289、南郷、R.401、青柳 経由)=21:22 青柳林道ゲート  (車中伯)
5月16日(日) 6:31 青柳林道ゲート発―6:51 横向沢分岐―7:20 青柳林道終点―7:23 尾根取り付き〜7:28 発―7:58 稜線分岐―8:32 1280mピーク―8:43 大博多山山頂〜8:53 発―9:03 1280mピーク―9:38 稜線分岐―9:53 尾根取り付き〜9:55 青柳林道終点―10:16 横向沢分岐―10:37 青柳林道ゲート=(青柳、R.401、南郷、R.289、界 経由)=11:00 明神岳登山口発―11:30 明神岳〜11:37 発―11:55 明神岳登山口=(R.401、佐倉、R.400、会津川口、R.252、会津坂下IC、磐越自動車道 経由)=15:40 新潟着

 新潟と会津の県境線には、幾つかの例外を除いて、現在の登山ブームの中でも一般登山者が足を踏み入れることの少ない峰々が連なっている。しかし、かつては、この県境稜線部を越す峠道が幾つも刻まれ、物資の運搬や人の往来が盛んに行われていた。これは、旧会津藩の版図が現在の津川まで広がっており、藩内での交流としての意味があったためもあるようである。その峠のひとつに、鉾峠あるいは大山越えとも呼ばれる標高747mの沼越峠がある。この峠は、寛文年間(1661〜1673年)に開かれたといい、天明の大飢饉の際には、越後の米や塩が運ばれたという。国土山は、この沼越峠の東隣りに位置する山である。現在では、この峠道に沿って送電線が走り、この保守道を辿って沼越峠に至れば、あとは110mの標高差の軽い薮こぎで国土山に登ることができる。
 只見川沿いには、横田と只見の二つの要害山がある。横田要害山は中丸城、只見要害山には水窪城という、山内家の山城が置かれていた。山内氏勝の時、伊達政宗の侵攻によって中丸城は天正17年(1589年)に落城し、その後水窪城に落ち延び、越後上杉氏に助けられて伊達に抵抗したが、豊臣秀吉の全国統一によって山内家は所領を没収されて、蒲生家の会津入りによって山内家は滅亡した。横田要害山の登山道は、中丸城への通用道を再現したものであるという。
 郡山の西には、高旗山や額取山を代表とする1000m級の低山が連なり、中通りと猪苗代湖を分けている。高土山は、この山塊の南部の長沼町近くに位置する山である。山麓には、貯水池の藤沼があり、藤沼公園として整備されている。
 只見川と伊南川に挟まれた三角形の一帯には、会津の山の核心部ともいえる会津朝日岳から丸山岳、窓明山、三岩岳、会津駒ヶ岳に至る南会津アルプスの山稜が南北に連なっている。これを長辺とするならば、伊南川が西に流れを大きく変えるあたりが頂角となる。この頂角近くに大博多山がある。登山者の関心の薄いこの一帯で、大博多山が比較的話題にのぼることが多いのは、この山に一等三角点が置かれているためである。登山道として整備されている山では無いが、現在では踏み跡は明瞭で、一般登山の延長で登ることができる。
 明神岳は、南郷スキー場の向かいの伊南川のほとりにそびえる鋭鋒である。明神岳の由来として、常陸の国の鹿島神社から御神霊が虻に乗って来臨されたことから、この地を虻ノ宮と呼ぶという。

 郡山への出張で、その行きと帰りに山に登る計画を立てた。郡山以遠の山にも心引かれたが、結局、中間の会津の山に登ることにした。国土山は、会津の薮山を取りあげた森澤氏の「山を訪ねて 会津の日向山・日翳山」でその名前を知り、新潟県の山とあっては登りたいものだと思ったものの、この本でのグレードでは、道の無い山で中級。その後に出版された会津百名山ガイダンスでも上級(登山道無)と記載されて、なかなか手が出せないでいた。しかし、峡彩ランタン会の報告によれば、道はあるようであった。最悪の場合でも、沼越峠まで歩いたという言い訳も立つので気も楽であった。
 会津坂下ICで高速を下りて、只見川沿いにのR.252を只見に向かった。上田ダムの堰堤の上を車で通り抜け、左岸に渡って川岸に少し下ると空き地があり、ここに車を停めた。夏を思わせる陽気が続いていたが、この日も暑くなりそうであった。川の流れを覗き込みながら下流方向に進むと、左手より沢が入って、ここには立派な吊り橋がかかっていた。吊り橋を渡って枝尾根にのると、道は二つに分かれた。右手は、川沿いに続いていく山道のようで、左の高見に向かう道に進んだ。この道は、送電線の巡視路で良く見かける、黒の硬質ゴムらしき材質の板と杭で、階段状に整備されていた。右手から尾根が合わさってくると、台地の上に出て、ひと息入れることができた。木立の間には湿地が広がり、ここには、木道も設けられていた。前方の尾根に沿って送電線が延びているのが見えたが、その上まで登るには、かなりのアルバイトが必要そうであった。覚悟を決めて、急登に挑んだ。足元が砂岩の滑りやすい急登が続いたが、昔からの峠道なのか、良く踏まれており、狭い尾根を細かい間隔でジグザグを繰り返し、辛いものの足を運び続けることができた。下から見えていた鉄塔のNo.23に登り着くと、その先の傾斜は緩やかになった。広尾根を辿ると、その先でもう一本の送電線が合わさってきた。この先は、周囲の展望を楽しみながらの、のんびりした尾根歩きになった。途中で鉄塔への枝道が分かれたものの、迷う心配は無かった。途中で、尾根がやせるところもあったが、ほとんどは、広い尾根が続いた。左手にはブナ林が広がっていたが、右手よりの送電線沿いは皆伐状態で、潅木の薮もすっかりかられていた。道がブナ林の中に入ると、緑のトンネルになった。そろそろ日向よりも日陰の方が心地良い季節になってきた。朝の光に透けるブナの葉は、新緑を鮮やかにしていた。前方に横たわる稜線や右手の谷越しに見える国土山も近づき、登山道が伐採で荒らされた尾根の中を辿るようになると、東北電力の避難小屋が現れた。中を覗こうとしたが、扉には横板がはめ込まれて封鎖されていた。一般には開放されてはいないようであった。もっとも地階部分の屋根の張り出し部分で雨を避けることはできるので、雨宿りには使えるかもしれない。ここからは、ひと登りで沼越峠に到着した。送電線の鉄塔が立っていたが、草地で覆われて、かたわらには石の祠が置かれた峠は、まさに一服と行きたい雰囲気であった。峠を越した新潟県側に向かって谷は落ち込み、その先にも山が続いていた。ここから眺める国土山は、標高差もあまり無く、しかも木がしげっているため、あまり目を引くピークには見えなかった。むしろ西側の沼ノ峠山の壮絶なスラブをだいた姿に目を奪われた。
 でも今日の目標は国土山の方。ここまでははっきり過ぎる程の道であったが、この先が問題であった。良く見ると、潅木の中に踏み跡が続いていた。少し下って尾根にのると、天然杉が生えた中に、踏み跡は明瞭に続いていた。左手は崖のためにそちらには迷い込む心配は無し。尾根上に木が茂って通過困難な所には、右手に一段下がったところに踏み跡をたどることができた。緩い登りを続け、頂上に出ると、潅木帯の中に刈り払いがされた小広場があり、その中に三角点が頭をのぞかせていた。山頂プレートなどというものは勿論無し。この先は、黒男山までは三角点は無いはずなので、ここが国土山の山頂ということになる。国土山の山頂は潅木に覆われて、展望は全く得られ無かった。
 帰り際に、この先の県境線はどうなっているのかと様子をみたが、薮は濃く、踏み跡は国土山までのようであった。山頂手前で尾根が合わさったため、念のためにテープを付けたものの、沼越峠から国土山まではたどるのに、そう問題にはならないレベルであった。
 沼越峠に戻って地図を眺めると、地図上では一旦下った所の鞍部に峠名が記載されていた。もうひとうの興味は、県境線を左に辿った先の沼ノ峠山へのコースはどのようなものであろうかという点であった。時間も早いことだし、もう少し先まで歩いてみることにした。
 峠から鞍部に下ると、鉄骨の飛び出したコンクリート土台が4つ現れた。昔の送電線の支柱の跡なのだろうか。それ以外には、昔ながらの峠を思わせるような祠といったような物は無かった。前後のピークに挟まれて展望も無く、来し方を振り返るような、峠というイメージとも遠かった。地図に示されている位置はどうあれ、祠の置かれていた所が沼越峠のようであった。
 次の興味は、沼ノ峠山へ続く尾根への入り方であった。一旦前方のピークに上がってから南西に下降する必要があった。前方のピークに向かっては急坂となり、足元も砂が浮いた砂岩となって滑りやすかった。踏み跡を捜しながら進んだが、それらしいものは無かった。杉林の中から尾根に向かって降下するようで、入口付近の薮はそれ程気にはならなかった。一旦大きく下るように見えたが、鞍部からの横方向の眺めでは、標高差も鞍部より少し下ったくらいのものであった。沼ノ峠山へ続く痩せ尾根はどれ程の薮こぎになるのだろうか。
 ここまで来たついでということで送電線の立つ831mピークまで歩いてみたが、沼ノ峠山の東面はスラブで磨かれ、その中に巨大怪獣の爪跡のように岩場が抉られているのが目を引いた。標高も1020mで、単独で取りあげられることも無い山であるが、すごい山があった。尾根を目で辿り、いつか登りたい山として心に留めた。
 周辺の偵察に時間をとってしまったが、下りにかかれば、道が整備されているだけに足どりも軽く、上田ダムに戻ることができた。
 時間も早く、もう一山ということで、横田要害山を訪れることにした。道路地図を確認しながら会津横田に向かうと、左手の道路脇に登山口の目印である中丸城の説明板が立っていた。実際には、少し手前の沢沿いの林道入口にも中丸城の看板があり、少々まごついたが、右手の民家の庭先に立っている看板が入口の目印であった。駐車スペースは無かったので、看板の前の路上駐車になった。民家の前庭を通り抜けて畑に出て、線路を渡ると中丸城の標柱が現れた。矢印は左を向いていたので、線路沿いに進んだが、登山道のようなものは無かった。標柱まで戻って、正面に向かって杉林の中を登っていくと、踏み跡が現れた。低山ハイクのガイドに取りあげられている山なので、登山道が不明瞭であるのは予想外であった。ひと登りすると杉の植林地に出て、そこには三の平という標柱が立てられていた。ここで道は再び不明瞭になった。トラバース気味に植林地を横切り、雑木林との境を上方に向かって登ると、登山道が現れた。この植林地では、落ち葉で踏み跡が隠されているのと、斜めにショートカットして歩く者が多いので踏み跡が広がっているようであった。帰りには、この杉林で道を見失いそうになった。登山道無しのはずの国土山では、減点無しでコースを辿ることができたのだが。その先は急な登りが続いた。落ち葉の下に石が隠されており、歩き難かった。二の平で再び標柱が現れた。山頂近くなると、土塁跡のような段差も見られるようになった。山頂は腰を下ろすのに良い広場になっていたが、気温が高いせいなのか、羽虫がよってくるのがわずらわしかった。山頂からの展望は木立で妨げられていたが、北側に只見川を見下ろすことができた。山頂へ登ってくるだけでも息が切れるのに、昔の人は、鎧や武器に身を固めて戦をするとは、さぞ大変であったろう。しばし、古に心を馳せた。
 山を下りると、郡山に向かうのに丁度良い時間になっていた。天気も良く、ひさしぶりに一般道で、郡山へのドライブを楽しんだ。
 仕事を終えて、翌日は、会津の大博多山に登ることにした。会津田島へのR.118の途中、ガイドブックを見ると、歩行時間もそれ程かからない高土山という山があるのに気がついた。時間が気になったが、ここのところ、日没もかなり遅くなっていた。長沼町に近づくに連れ、あいにくと雨が降り始めた。長沼町を通り過ぎたところで最初に現れた藤沼公園の標識に従うと、貯水池の東端に出てしまい、ガイドのアプローチと違っていて、少し混乱した。湖畔を時計回りに進んでいくと、きれいに整備されたあずま屋やトイレが現れた。藤沼神社への車道が分かれると、その先の広場に高土山登山口の標識が立っていた。高土山の山頂は、雨雲で隠されており、どれ位の高さなのかうかがい知ることはできなかった。
 小雨は降り続き、傘をさして歩き出した。ゲートボール場の左脇を進むと、右に工事中で進入禁止の林道が分かれたが、標識に従い直進した。古い林道跡のような道で、左下には、休耕田のような荒れ地が広がっていた。ひと登りすると、大型車も通行できる道幅の林道に飛び出した。登山道は、少し左手の切り通しの斜面に続いていた。雑木林の中を登っていくと、尾根の上に飛び出し、方向は左に変わった。第一展望台と書かれてベンチも置かれていたが、雨のために見晴らしは得られなかった。方向からすると藤沼あたりの眺めであろうか。その先でピークの上に出て、山頂かと思ったが、登山道は、下った先に続いていた。下った所で、左から道が合わさった。これがガイドにものっている、藤沼神社への林道の入口のようであった。ここから、急な登りが始まった。新緑の雑木林の中にうっすらとガスがただよう眺めは美しかったものの、急斜面に息を切らした。落ち葉に覆われた斜面をジグザグを切りながら登り続けた。
 頂上に登り着くと、右手に山頂の標識が立てられていた。ひと休みして気になったのが、三角点のことであった。2.5万分の1地図は、あいにくと持っていなかったが、20万分の1地図には三角点マークが記載されており、二等三角点があるはずであった。山頂標識周辺の広場には見あたらなかった。山頂に登り着いた所の左手に小高くなったところがあったので、そこを捜してみたが、見つからなかった。山頂標識広場の先には、踏み跡は無くなり、背の低い笹原が広がり、その先の方が高いようであった。笹をかき分けて進むと、雨具をつけていないズボンはずぶぬれになってしまった。緩やかに盛り上がった周辺を捜したが、木のつるが重なり、笹をかき分けてみたものの三角点を見つけることはできなかった。三角点を捜したが見つからなかったことで良しとし、山を下りることにした。山の斜面も濡れてきて、滑らないように注意が必要であった。分岐に戻って、少し迷ったが、右手の道を下ってみることにした。一気に高度を下げると、広い林道の終点に飛び出した。この林道を下っていくと、藤沼神社への林道の分岐を見ないままに、登りに通過した横断部分に戻った。どうやら、この新しい林道は、登り口で右に分かれた、進入禁止の林道が回り込んできたもののように思えた。里山は、新しい林道が出来ていたりして、ガイドブックの記述と違うことも多い。適当に感を働かせて歩くのも、面白さではあるのだが、藤沼神社への林道は、どこで見落としたのであろうか。
 車に戻り、雨の中であったが、夜のために湯を沸かし、濡れた衣類を着替えた。雨に濡れて体も冷えていたが、近くに藤沼温泉があり、暖まることができた。あとは、会津へ向かって車を走らせるだけ。
 夕暮れと共に、雨はやんだがガスが出て、峠付近では神経を使うノロノロ運転になった。会津田島で、食料とビールの買い物。ここのコンビニには、会津の山の補給基地として毎度お世話になっている。野宿の場所を考えたが、適当な所も思いつかなかったので、大博多山の登山口への青柳林道付近で捜すことにした。青柳の集落を抜け、久川沿いに田圃の中を進むと、青柳林道の入口に出たが、そこには鎖が掛けられていた。ゲート前の路肩にはスペースもあって車も停めらることができたので、ここで野宿態勢に入ることにした。
 翌朝、目を覚ますと、再び雨になっていた。林道の鎖は、山菜採りの防止のためのようであったが、鎖は簡単に外せるようであった。地元の人とのトラブルもいやだったので、林道は歩くことにした。雨具を着込んでの出発になった。雨がこれ以上激しくならないことと、山で薮コギ状態にならないことを祈った。林道の状態は良く、車の走行には問題には無い状態であった。沢沿いに歩いていくと二台の車に追い越された。横向沢沿いの林道を左に分けて、ここは直進。谷の奥に入り込んでいくと、林道は左に大きくカーブし、再び右に方向を変えて高度を上げた。その先で林道は終点になった。先に追い越していった車が止まっており、山菜採りグループが出発の支度をしていた。挨拶を交わし、大博多山に登ると告げると、山の名前を知らなかった。どうも地元の人間では無かったようであった。
 沢沿いに続く踏み跡を進み、僅か先で枯れ沢を越すと、目印の青柳普通共用林野という標柱が現れた。かたわらには山口営林署の青い看板も立っていた。テープも付けられていたが、はっきりした踏み跡が枝尾根沿いに続いていた。斜面にステップが刻まれていたが、滑りやすい急な登りが始まった。汗が吹き出てきたが、幸い雨がやんで、レインウェアーの上着は脱ぐことができた。左から延びてきた尾根にのり、右手に方向を変えた。ここにもテープがしっかりと付けられており、迷う心配は無かった。傾斜は一旦は緩やかになるものの、急な登りはなおも続いた。稜線上の小ピークに登り着いて、ようやく急登も終わった。
 木立の間からは、ピラミッド型をした大博多山が姿を現した。(実際には、これは、手前のピークであったのだが。)山頂の北斜面は急な角度で谷に向かって落ち込んでいた。山頂までは、まだかなりの高さが残されていた。谷には残雪が残り、潅木で高度感は薄れていたものの、足元は切れ落ちているようであった。ピークの上に登り着いてようやく山頂と思ったら、踏み跡はさらにその先に続き、下っていった。前方に見えるピークが本当の山頂のであった。一旦下った鞍部付近から山頂へは、笹がかぶり気味で、踏み跡も不明瞭になった。とはいえ、やせ尾根で、迷う心配は無かった。ここまでは明瞭な踏み跡であったのが、急に不明瞭になったのがどうしてか判らなかったが。雨雲の間から尾白山と丸山が姿を現した。連休にこの山に登ったという話を聞いたが、雪も少なくなっており、山頂への扉は来年の残雪期まで閉ざされてしまったようであった。
 大博多山の山頂は、小さな広場で、その中央には、一等三角点が顔をのぞかせていた。あいにくと雨雲が広がって展望は閉ざされていたが、周囲の展望は良さそうであった。一段低いところにはフナ林が広がり、会津の山らしい、静かな山頂であった。もっともこの雨空とあっては、他の登山者がいるとも思えなかった。風は冷たく、ひと休みした後は、再び体を動かす必要があった。
 急斜面の下りには注意したものの、一回大きく滑り落ち、尻はどろんこになってしまった。どうせ、他に見る者もいないので気にする必要も無かった。人が多く入っている山では、泥んこになって大変ですねと、お節介な声をかけてくる者が必ずいるもんだが。林道歩きの頃には、雨もすっかりやんで、頭の中に次の山が浮かんできた。
 新潟に向かう途中に、会津百名山にも取りあげられている明神岳という歩行時間も手頃な山があった。天気も回復してきたので、もう一山と欲も出てきた。国道289線と401号線の交差点の界に、ロッジ風の派手な造りの浦和市立南郷荘があり、その裏手に鳥居があり、明神岳への登山道が始まっていた。車を鹿水沢にかかる橋のたもとの空き地にとめて歩き出した。登山口には、案内板があり、距離1367m、標高差261m、階段671段とあった。距離や標高差はともかく、階段数とは、はて、と思ったら、急坂の階段登りが続いた。一旦尾根に登り着くと、左にトラバースして、再び急な登り。次は北に回り込んで、登山道は南にコースを変えた。ブルで切り開いたという幅の広い道が続いたが、草が茂っており、歩く者は多くはなさそうであった。
 頂上には、あずまやと木造りのお堂が置かれていた。スキー場や伊南川の流れを見下ろす、高度感のある眺めが広がっていた。残りのパンを食べて、これで家路につくことにした。
 雨と汗で濡れきり、温泉を楽しみに、対岸にある界温泉に移動した。フロントで尋ねると、掃除中で、入浴は1時からになるという返事が戻ってきた。諦めて、新潟に向かうことにした。この近くには、宮床湿原という会津百名山にも取りあげられている所があり、そのついでにこの温泉にも訪れる機会もあることであろう。



山行目次に戻る
ホームページに戻る