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愛宕山(津川)、出角山

1999年4月17日 日帰り 単独行 晴れ

愛宕山 あたごやま(213.7m) 四等三角点 津川周辺(新潟県) 5万 御神楽岳 2.5万 越後豊川
ガイド:無し

出角山 でっかくやま(485.0m) 三等三角点 川内山塊周辺(新潟県) 5万 御神楽岳 2.5万 越後豊川
ガイド:片雲往来 阿賀南の山々 p.269-304、LATERNE1巻p.182-187、LATERNE2巻p.282-285、西山日光寺物語(学生書房)

4月17日(土) 6:30 新潟発=(磐越自動車道、津川IC、R.49、栃堀、R.49、野村 経由)=9:10 林道終点〜9:15 発―9:18 登り口―9;26 愛宕山〜9:40 発―9:44 登り口―9:47 林道終点=(野村、R.49、津川、払川 経由)=10:13 日光寺旧参道登り口―10:30 車道終点―11:01 日光寺―11:40 お墓の石塔―12:08 出角山〜12:15 発―12:31 お墓の石塔―12:49 日光寺〜13:10 発―13:34 車道終点―13:50 日光寺旧参道登り口=(払川、津川、R.49 経由)=16:05 新潟着

 愛宕山は、山頂に愛宕神社を奉った山として、全国にも多く見られる名前である。今回の愛宕山は、津川からR.49を福島県境方面に進み、常浪川を渡った所の野村の集落の背後にある山である。
 津川の町の南西の山中に日光寺がある。このお寺と周辺の伝説は、藤島玄著、上村幹雄編纂の「西山日光寺物語」(学生書房)に詳しく著されている。日光寺は、伝教大師・最澄による開山と伝えられ、奈良時代後半には七つのお堂に十二の僧坊が立ち並び、荘厳な山寺であったという。しかしながら、朝廷の権力の及ばなくなった戦国時代の頃から寺は衰退し、三度の火災にもあって、現在は、山門と庫裡と薬師堂が山中に寂しくたたづむままになっている。出角山は、日光寺の西に位置する山であり、周辺は伝説の舞台になっている。出角山の麓には奥の院があったという桂谷と呼ばれる窪地があり、龍神の石笛の伝説が残されている。さらに、この山の南に派生した尾根の末端には御筆岩(ごひついわ)と呼ばれる岩壁があり、天狗の伝説の舞台となっている。日光寺は、ハイキングとして良く歩かれているようであるが、出角山まで足を延ばす者は少ないようである。
 昨年の98年4月12日に人ヶ谷山を経由して鍋倉山に登った。その山行では、箕輪林道が開通しており、人ヶ谷山の登山口付近まで入ることができた。人ヶ谷山の北側には大鱒谷山や朝日山があり、箕輪林道を車で進める所まで入って、峠に上がってから残雪を利用して登ろうというなら、今が丁度良い時期に思われた。快晴に恵まれて、鍋倉山付近の稜線は白く輝いていた。御番沢川沿いの箕輪林道に入ると、いくらも行かないうちに工事中で通行止めになっていた。残念ながら、今回は断念することにした。
 しかたがないので、別の山といっても、あいにくと越後豊川の地図しか持ってこなかった。この地形図には、出角山があり、以前から訪れなくてはと思っていた日光寺伝説の地を訪れることにした。さらに地図を眺めていくと、R.49沿いの野村の集落の背後に愛宕山があり、登山道の破線が山頂まで引かれているので、この山にも登ることにした。
 野村の集落に入ってから諏訪神社の右脇と通り過ぎて、山に向かう林道に入った。地図では、神社マークは道路の右側に書いてあるが、これは誤りである。段丘の上に広がる田圃を抜けると、林道が分かれた。偵察をすると、左に上っていくコンクリート舗装の林道が正解であった。緩やかな台地上に出ると、右手の尾根上で二つの送電線がクロスしているのが見えて、現在地を確認することができた。送電線の鉄塔のわずか先に、愛宕神社の標識があり、車はその先の広場までになった。春の陽射しをあびながら荒れた林道を進んでいくと、また愛宕神社の標識が現れ、ここから林道と分かれて、右手の尾根への登りが始まった。道は笹原の中に開かれていたが、幅の広い刈り払いがしてあった。左に曲がって稜線を辿ると、あっけなく愛宕山の山頂に到着した。一対の石灯篭に、木の祠の中にお地蔵様らしい、石像が置かれていた。背後にも、祠がもう一つあったが、この中にはなにも無かった。愛宕神社というには、小さな祠であった。地図を見ると、三角点もあるはずであった。そう広く無い山頂を、三角点を捜して、隅から隅まで探った。後ろの祠の周囲にはカワラが埋まっており、この山頂には、神社に相応しい建物があったようである。火事で焼けてしまったのだろうか。しかし、愛宕神社は火防ぎの神様であったはず。原点に戻って、地図上での三角点の位置を確認した。三角点マークは、山頂の丸い等高線の西側にずれていた。東小出川寄りの笹原との境界部を見ていくと、泥を被った三角点を見つけることができた。小ぶりの四等三角点であった。登るよりも三角点捜しに時間のかかってしまった山であった。
 続いて、日光寺をめざした。払川の集落を過ぎると、日光寺旧参道登り口という標識が立てられていた。尾根沿いに道があるようであったが、草が被り気味で、新参道800m先と書かれていたので先に進むことにした。車道はこの先も続いていたが、工事のために通行止めになっていたため、ここから歩くことにした。地図では、払川の集落手前で、車道は終わって破線に変わっているのだが、幅の広い道路を整備中であった。姥堂川沿いに車道は続き、送電線の下を通過してさらに進んだところで、この先は進入禁止の看板が現れ、車道は、右に大きくカーブした。一般には、ここから歩き出すようであった。来た方向に向かって坂を上がりながら谷の奥を振り返ると、滝がかかり、これが男蛇と女蛇の伝説の旭滝のようであった。尾根上に出ると、右からは、地図にある破線の参道と思われる道が合わさった。再び、左に大きくカーブすると、尾根通しの道になった。林道は荒れ気味になったが、四駆なら走ることのできそうな広い道が続いた。この林道によって、以前からの参道は分断されてしまっているようであった。思ったよりも歩きでのある道で、日光寺まででも充分なハイキングコースであった。弱い下り坂になると、かやとの原が広がり、右手の山際にお寺が現れた。山門をのぞくと、仁王像があるようであったが、厳重な格子で邪魔され、中をうかがうことはできなかった。この状態は、見物客の期待を裏切るものである。山中で保管状況が心配というなら、里においておけば良いものを。山門の先には杉並木が続き、その上部には薬師堂があったが、見物は後にして、出角山に先を急ぐことにした。
 日光寺の境内を過ぎて先に進むと、分岐に出て、左は旭滝へのものであった。右手の道を進むと、杉林の中に入り、道もかなり判り難くなった。薄暗い杉林のなかで見通しが効かず、杉の倒木が道をふさいでいるところもあって、道を辿るのにもかなりの注意が必要になった。案の定というか、カーブ地点を直進してしまい、道を見失う場面もあった。右手に窪地が現れ、これが桂谷、見上げる山の岩壁は御筆岩で、まさに伝説の舞台であった。残雪の残る桂谷の西端をかすめて山の斜面を登っていくと、薮に囲まれた小広場に石塔が置かれていた。これは,昔のお坊さんのお墓のようであった。雑木林の下生えはツバキが目立つようになり、歩くのには支障は無いものの、踏み跡が隠され、所々赤布を付けながらの歩きになった。小さな沢が横切り、稜線部めざして山の斜面を登っていくと、炭焼きの跡も現れた。以前より歩く者も少なくなっているのか、この山道も、そのうち辿れなくなりそうな気配であった。稜線部に出ると、何本かの杉の大木が並んで生えており、一番大きいものが大黒杉というらしい。出角山へは、ここを左折する必要がある。登ってきた感覚ではそのまま直進しそうになるが、これは村界尾根を経て、雲和田から日光寺への参道の途中に至るようである。こちらの道の方が明瞭で良く踏まれており、現在ではこちらの方がメインなのであろうか。左の道に入り、水平な道を辿ると、若干下り気味になって、右上の薮の中が最高点のように思えた。薮をかき分けて進むと、三角点を見つけることができた。眺めの効かない山頂であった。踏み跡はさらに続くので、先に進んでみることにした。わずか先で崖の縁に出て、ここからは、朝日山から二倉山方面のさえぎるものの無い展望が広がっていた。背後の鍋倉山方面の稜線は、白く残雪に覆われていた。日当たりの良い斜面には、イワウチワの花も咲き始めていた。まずは、日光寺伝説の第一ページに目を通したというところか。次は、朝日山や二倉山にも登ってみなくては。
 村会尾根を下ってみたい気もしたが、来た道を日光寺に戻った。鬱蒼とした杉並木に囲まれた石段を登ると薬師堂があった。竜虎の彫刻もかかげられ、山中にあるのが不思議な立派なお堂であった。山門脇の枯れ草の上に腰をおろして、春の日差しを楽しんだ。


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