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飯士山(中退)

城山(見附)

1999年1月30日〜31日 1伯2日 3名グループ/単独行 晴/雪のち曇り

飯士山 いいじさん(1112m) 三等三角点 谷川連峰周辺(新潟) 5万 越後湯沢 2.5万 越後湯沢
ガイド:新潟ファミリー登山(新潟日報社)、新潟の山旅(新潟日報社)、越後の山旅下巻(藤波出版社)、山スキールート図集1(白山書房)

城山(見附) しろやま(119.2m) 三等三角点 見附丘陵(新潟県) 5万 三条 2.5万 見附
ガイド:無し

1月30日(土) 7:00 新潟発=(関越自動車道、塩沢石打IC 経由)=9:30 舞子後楽園スキー場〜13:00 奥添地クワッドリフト終点―13:37 岩原山頂ペアリフト終点―13:50 岩原山頂クワッドリフト終点〜14:02 発―14:10 岩原山頂ペアリフト終点―14:30 奥添地クワッドリフト終点  (車中泊)
1月31日(日) 6:00 舞子後楽園スキー場発=(R.17、長岡、R.8、見附、元町)=10:30 見附多目的グランド脇〜10:45 発―10:50 総持寺入口〜10:55 発―11:17 城山〜11:50 発―12:05 総持寺入口―12:11 見附多目的グランド脇=(R.8 経由)=13:45 新潟着

 飯士山は、上田富士とも呼ばれる、大きく裾野を広げた独立峰である。この山の麓は、古くからレジャー開発が進められていたが、特にバブルの時代には東京都湯沢村とも揶揄された湯沢町の背後にあるため、四方からスキー場やゴルフ場に浸食されている。鋭く尖った山頂からの眺めは、鳥瞰という言葉に相応しいものであり、谷川連峰の展望台として、もっと登られても良い山である。岩原スキー場から舞子後楽園スキー場までのツアーは、飯士越えとして、かつては人気のツアーコースであったようであるが、現在、両スキー場からのゲレンデが近くまで延びてきてしまったために、ツアーコースとしての魅力は失われてしまっている。  越後平野の東の縁に沿って、丘陵地帯が連なり、背後の白山・粟ヶ岳山塊や守門山塊の前衛をなしている。この丘陵地帯は、大きく新津、加茂・三条、見附の三部に分けることができよう。見附丘陵は、北は五十嵐川で加茂・三条丘陵と、南は刈谷田川で長岡東山丘陵と、分けられる範囲ということにする。決して狭い範囲ではないにもかかわらず、20万分の1地図には、山名の記載されているピークは無い。それでも、2万分の1地図を見れば、城山、大龍山、熊堂山、上ノ山、薬師山といった山名を見ることができる。なお、この一帯の最高峰は、298.2mピークであり、一等三角点(点名は大山)が置かれ、一般の興味の対象になるのは、この一等三角点ピークくらいのものかもしれない。
 城山は、見附市のすぐ北側の越後平野の縁にのぞむ丘である。見附城がかつて置かれ、現地に立てられた看板の説明には、見附城跡三条長尾氏の有力な武将丸田の右京之助の居城。謙信死後の家督戦争「御館の乱」に丸田氏は中越の諸豪族らと上杉景勝に抗し勇戦虚しく落城したとある。栃尾と三条を結ぶ街道筋のおさえとして、重要な位置を占めていたようである。城山の東には、大平森林公園が設けられ、城山から森林公園に至る一帯には遊歩道が整備されている。
 山スキーの道具一式を買ったことと、インターネットの友人の高橋さんから、舞子後楽園スキー場に登山メーリングリストの友人が集まるという話を聞いたことから、久しぶりにスキー場に出かけた。スキーもすっかり御無沙汰しており、山スキーという前に、ゲレンデで滑ることができるか、練習をする必要があった。高橋さんからどこか登れる山はという質問があり、それではゲレンデの上にそびえている飯士山に登ってみようかという話がまとまり、石原さんもそれに加わって、3名での山行になった。
 飯士山への登山コースとしては、舞子後楽園ゲレンデの上部から岩原ゲレンデの最上部に出て、東尾根を登るというコースを考えた。集合時間の関係で昼からの出発になったが、距離も短く、雪の条件さえ整っていれば、なんとか登れる成算はあったのだが。
 夜の宴会の打ち合わせのメールを交換しているうちに、前日は本格的な雪になった。朝になって家を出るとき、庭には30センチほどの雪が積もっていた。高速道も50キロ規制が出てノロノロ運転になってしまった。それでも、後楽園スキー場に到着すると、雪は止んでいた。午前中は、緩斜面の滑りで、スキーの滑りの感を取り戻すことにした。昼の集合時間に合わせて、山の道具一式にワカンを詰め込んだザックを背負って、ゴンドラ乗り場のフォレストハウス舞子に移動した。連絡のためのリフトでは、ザックがリフトの背板にあたるため、前に抱いて乗ったが、係り員のおじさんが、いったい何が入っているのかね、と冗談まじりに聞いてきた。笑ってごまかしてリフトに乗り込んだ。昼になって、天気は回復し、青空が広がってきた。フォレストハウス舞子で無事に高橋さんと石原さんに落ち合ことができ、山とスキーの道具を持って、ゴンドラに乗り込んだ。ゴンドラ終点から奥添地ボウルの最上部へは、滑降コースを少し登る必要があるため、一旦スキーで滑り降り、奥添地クワッドリフトに乗りなおして、ゲレンデの最上部に上がった。
 ここからいよいよ登山の始まり。スキーはデポし、ワカンに履き変えた。圧雪されたゲレンデから一歩踏み出すと、ももまでもぐるラッセルになった。たちまち、これでは、飯士山までは行き着けぬと諦めモードに入った。前夜の吹雪が嘘のように、快晴の青空が広がっていた。谷を挟んで眺める飯士山は、白く輝いて、山頂を天に向かって突き上げていた。登る予定だった東尾根は、雪庇の張り出したやせた雪稜になっていた。美しくも、人を寄せ付けようとしない、厳しい顔を見せていた。ラッセルであがった息を整える間、飯士山を美しいと思いながら見つめた。このスキー場には、何度か滑りに来ているのだが、飯士山がどのような姿をしているのか、とんと眺めた覚えは無い。96年11月9日に岩原ゲレンデから登ったが、この時にゲレンデからどのように見えたかは、まだ記憶に残っている。山を見るには、登山者の目で見る必要があるということか。ラッセルを交代しながら、ひと汗かいて岩原ゲレンデに到着した。スキー場の中は、ラッセル状態と違って、歩き易かった。ゲレンデ最上部から雪庇の張り出した東尾根を改めて確認し、歩きはここまでとした。飯士山は、後楽園側とは微妙に姿を変えていた。
 帰り道は、踏み跡を辿れば良く、周囲の風景を楽しみながらの歩きになった。雲も消え始め、金城山から卷機山、柄沢山、大源太山といった峰々の連なりを眺めることができた。スノーハイキングと考えれば、充分楽しめる歩きであった。
 後楽園ゲレンデに戻ると、三人が待ちかまえており、手を振っていた。石原さんの旦那様とお嬢様、ゲレンデでスキーのインストラクターをやっている南雲さんであった。偶然に、一同が集まることができた。
 ここからは、スキーで滑って下りることにした。途中から、ももが体重を支えられなくなってきて、止まり止まりの滑走になってしまった。最近の山行では、ももがこのように悲鳴を上げるようなことは、とんと無いのだが。スキーとは使う筋肉が違うということか。あるいは、登山用の重荷を背負ったため。スキーの技術が悪いためというのが、本当のところか。無事に麓に戻って、飲み干したビールはうまかった。
 その夜は、石原さんファミリーのキャンピングカーに皆で集まり、鍋を囲んで、山の話をしながらの宴会になった。本格的なキャンピングカーを見たのは始めてであるが、普通の家にある道具は揃っているようである。こんな車に乗って、北海道から九州の山巡りをしてみたいものだが、いや、やめておこう。これでは、家に帰る気が起きない。狭い車の中で無理に寝て、野宿にも嫌気がさすのが、家に帰るきっかけになっているのだから。
 車の中で寝ていると、騒音で目を覚ました。雪がシンシンと降りしきり、除雪車が駐車場の除雪を行っていた。駐車場の窓口も開いて、新たな車が入り始めたので、駐車場から出ていくことにした。コンビニの駐車場でひと眠りしたものの、雪は激しく降り続けていた。近くの低山を考えていたが、登山は難しそうなため、新潟に向かって車を走らせた。
 長岡近くの越後平野に出ると、ようやく雪も止んでくれた。せっかくなので、見附の城山によっていくことにした。見附多目的グランドの手前の信号から集落内に入り、総持寺をめざした。道路の路肩には雪が積もり、総持寺付近には駐車スペースが見つからなかったため、一旦集落から出て、グランド脇に路上駐車した。集落の背後には、城山がこんもりと盛り上がっていた。総持寺の入口には、城山の由来や、遊歩道の案内が書かれた大きな看板が立てられていた。雪に覆われた参道から総持寺の境内に入ると、左手に城山への道が分かれた。杉林から出ると、雪が深くなり、ワカン歩きになった。道の脇には、木の庇が設けられた石仏が幾つも置かれ、元町六信講と書かれていた。信者が、お参りする参道のようであったが、雪の上には最近歩いた気配は無かった。緩やかな登りが続いたが、雪は重く汗が吹き出てきた。
 辛い登りが続いたと感じたものの、時間にすればそれ程のことはなく、山頂に到着した。山頂は30m四方程の広場になっており、いかにも昔は城の建物が並んでいたような雰囲気があった。南方面の展望が広がり、雪に白く覆われた見附の町並みから、長岡・東山の連なりを眺めることができた。道は、さらに大平森林公園に続いているようであったが、少し先に進んでみると、雪が深くて、それ以上進むのは諦めた。帰りに大平森林公園を除いていこうと思って車を回したが、道路が途中から雪で埋もれていた。展望を楽しみながらひと休み。丘といった方が相応しいかもしれないが、今日のところは、これが精いっぱいのピークであった。

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