9860

市房山、桜島岳

ヤクスギランド

宮之浦岳、永田岳

モッチョム岳

背振山

1998年12月25日〜1991年1月1日 5伯6日 単独行 晴

市房山 いちふさやま(1720.8m) 一等三角点補点 九州山地(熊本県、宮崎県) 5万 村所 2.5万 市房山
ガイド:アルペンガイド「九州の山」(山と渓谷社)、分県登山ガイド「熊本県の山」(山と渓谷社)、分県登山ガイド「宮崎県の山」(山と渓谷社)、日本300名山ガイド 西日本編(新ハイキング社)

桜島岳 さくらじまだけ(1117m) 桜島(鹿児島県) 5万 鹿児島 2.5万 桜島北部
ガイド:日本300名山ガイド 西日本編(新ハイキング社)

宮之浦岳 みやのうらだけ(1935.3m) 一等三角点本点
永田岳 ながただけ(1886m)
モッチョム岳 もっちょむだけ(940m)
 屋久島(鹿児島県) 5万 屋久島東南部、東北部、西南部、西北部 2.5万 屋久宮之浦、宮之浦岳、栗生、永田岳、尾之間
ガイド:屋久島を歩く(山と渓谷社)、分県登山ガイド「鹿児島県の山」(山と渓谷社)、山と高原地図「屋久島・種子島」(昭文社)

背振山 せぶりやま(1054.8m) 二等三角点 背振山地(福岡県、佐賀県) 5万 背振山 2.5万 背振山
ガイド:アルペンガイド「九州の山」(山と渓谷社)、分県登山ガイド「福岡県の山」(山と渓谷社)、分県登山ガイド「佐賀県の山」(山と渓谷社)、日本300名山ガイド 西日本編(新ハイキング社)

12月25日(金) 10:00 新潟発=(北陸自動車道)
12月26日(土) 1:00 有磯海SA着  (車中泊)
5:00 有磯海SA発=(北陸自動車道、名神高速道路、中国自動車道、九州自動車道)=22:40 宮原SA着  (車中泊)
12月27日(日) 5:20 宮原SA発=(九州自動車道、人吉IC、湯前、湯山温泉、市房キャンプ場 経由)=7:14 市房林道登山口〜7:30 発―7:44 市房神社(四合目)―7:58 五合目―8:07 ベンチ―8:30 六合目(馬ノ背)―8:40 七合目〜8:45 発―9:02 八合目―9:17 九合目―9:28 市房山〜9:55 発―10:00 九合目―10:11 八合目―10:26 七合目―10:41 六合目―10:53 ベンチ―10:59 五合目―11:10 市房神社(四合目)―11:25 市房林道登山口=(市房キャンプ場、湯山温泉・市房観光ホテル(200円)、湯前、人吉IC、九州自動車道、鹿児島北IC、桜島フェリー、R.244 経由)=16:09 湯ノ平展望台〜16:30 発=(林芙美子文学碑、桜島フェリー 経由)=15:30 北埠頭  (車中泊)
12月28日(月) 8:45 鹿児島港発=(折田汽船)=12:30 宮之浦着=(安房 経由)=14:30 ヤクスギランド入口〜14:35 発―15:13 太忠別れ・蛇紋杉〜15:16 発―15:26 天柱橋〜15:37 発―16:02 仏陀杉―16:22 ヤクスギランド入口=16:53 淀川登山口  (車中泊)
12月29日(火) 4:55 淀川登山口発―5:44 淀川小屋―6:44 小花之江河―6:54 花之江河―7:09 黒味岳分岐―7:37 投石岩屋―8:23 宮之浦岳への最終水場―8:42 栗生岳―8:55 宮之浦岳〜9:05 発―9:21 焼野三叉路―9:47 最低鞍部―10:08 鹿之沢小屋分岐―10:15 永田岳〜10:29 発―10:31 鹿之沢小屋分岐―10:58 最低鞍部―11:24 焼野三叉路〜11:28 発―11:50 宮之浦岳〜12:08 発―12:19 栗生岳―12:34 最終水場〜12:38 発―13:22 投石岩屋―13:45 黒味岳分岐―13:48 花之江河〜14:13 発―14:20 小花之江河〜14:23 発―15:18 淀川小屋〜15:21 発―15:55 淀川登山口着=18:40 千尋滝展望台駐車場  (車中泊)
12月30日(水) 7:30 千尋滝展望台駐車場発―8:16 水場―8:35 万代杉―9:02 モッチョム太郎―9:36 神山展望台―10:03 モッチョム岳〜10:16 発―10:46 神山展望台―11:17 モッチョム太郎―11:39 万代杉〜11:50 発―12:05 水場―12:38 千尋滝展望台駐車場着=(平内海中温泉(100円)、大川の滝、永田 経由)=16:30 宮之浦〜23:20 発=(折田汽船)
12月31日(木) =3:30 鹿児島着=(鹿児島北IC、九州自動車道、鳥栖JCT、長崎自動車道、東背振IC、R.385、田中 経由)=8:36 背振山駐車場〜8:40 発―8:45 背振山〜8:50 発―8:55 背振山駐車場=(田中、R.385、吉野ヶ里遺跡、東背振IC、長崎自動車道、鳥栖JCT、九州自動車道、筑紫野IC、太宰府天満宮、太宰府IC、九州自動車道、中国自動車道、名神高速道路、北陸自動車道 経由)=23:30 賤ヶ岳SA  (車中泊)
1月1日(金) 6:00 賤ヶ岳SA発=(北陸自動車道、加賀IC、大聖寺、加賀IC、北陸自動車道 経由)=14:30 新潟着

走向距離 3448km

 九州の中央部には、九州山脈あるいは脊梁山脈と呼ばれる1500m級の山が連なっている。市房山は、九州山脈南部の熊本と宮崎の県境部にあり、1700mを越す標高を持ち、すっきりとした山容が目立つ山である。ふるくからの信仰の山であり、麓には市房神社がおかれ、参道には樹齢800年といわれる杉やアスナロの巨木が茂っている。
 桜島は、現在も活発な活動中の火山である。大正三年の噴火によって、大隅半島と陸続きになってしまっている。桜島は、北岳(御岳)、中岳、南岳の三つのピークを連ねているが、最高峰は北岳である。現在でも活発な活動中のために登山禁止になっており、自動車道の通じている三合目の湯ノ平展望台で、山頂を眺めて引き返すことになる。
 屋久島は、鹿児島港より160km南の洋上に浮かぶ、東西約27km、南北約25kmのほぼ円形をした島である。屋久島には、1500m以上の高峰が11座、1000m以上の山は30座もあることから、洋上アルプスと呼ばれることがある。屋久島の最高峰は、宮之浦岳であるが、九州本土を含めての最高峰ともなっている。宮之浦岳を始めとする高峰は海岸線から見えないことから奥岳、それに対して海岸線にのぞむ前線の山を前岳という。永田岳は、宮之浦岳の西約2kmに位置し、第二の標高を有している。宮之浦岳が優美な女性的な姿をしているのに対し、永田岳は、山頂部に岩峰を連ね、男性的な荒々しい姿をしている。本富山(モッチョム岳)は、屋久島の南の尾之間の集落の背後に、花崗岩の大岩壁をまとってそびえている。最高点は、奥の神山展望台と呼ばれる地点にあるが、一般的には、つり尾根でつながった岩峰の頂上を呼んでいる。屋久島は、「一ヶ月三十五日雨が降る」と呼ばれるように雨が多く、樹齢数千年の屋久杉が育つ特有な自然が残され、現在では世界遺産に登録されている。
 福岡県と佐賀県の県境に背振山は位置し、東には蛤岳、九千部山、西には金山、井原山、雷岳の峰を連ねている。古来より信仰の山とされ、僧栄西が宋から茶の種を持ち帰り、山中に植えたのが、日本での茶の栽培の起源とされている。現在では、道路が山頂まで通じ、山頂部に航空自衛隊の基地やレーダードームが置かれて、登山の趣は損なわれている。
 年末・年始に休みがつながり、日本百名山最後の旅に出かけることにした。めざすは南の端の宮之浦岳。昨年末にも出かける準備を進めていたが、体調を崩して中止になり、今年の夏に北海道の利尻山と幌尻岳を登ったために、最後に残された山になっていた。まず第一の問題は、屋久島までのアクセスの方法であった。飛行機を乗り継いで屋久島に入り、タクシーで登山口までというのが一番早い方法のようである。問題点は、燃料のガスを島内で捜す必要があることと、荷物の量が限られることであった。宮之浦岳は、冬には雪が降るというので、雪に対する装備を用意する必要があった。一般的には山中二泊での縦走が普通のようであるが、季節がら安全を考えると、日帰りピストンで登りたかった。あれこれ考えて、結局、新潟から鹿児島まで車を走らせ、そのままフェリーで屋久島に渡ることにした。これが一番慣れている方法であるし、これなら、ワカンにピッケルであろうと、装備や衣類など、考えられるものは全て持っていくことができる。開聞岳のために、鹿児島の先まで、以前にも走ったことがあった。フェリー代や高速代にガスリン代など、少なからぬ出費になるが、その他の山も合わせていくつか登れば、元はとれるとということにしよう。百名山の締めくくりに相応しい、もっとも親しんだ方法をとることにした。
 金曜日の晩の忘年会を終えて、屋久島めざしての旅に出発した。時間は遅くなっていたが、その晩に富山まで走りこんでおけば、翌日の行程に余裕が生まれる勘定であった。北陸方面の山に出かける際の定宿といえる有磯海SAで第一日目の野宿になった。翌朝、再び車を走らせ始めた。幸い、暖かい陽気が続いており、道路上にも周辺の山にも雪は見られず、路面の凍結の心配をしないで車を走らせることができた。もっとも帰りはどうなるかは判らないため、スタッドレスタイヤで屋久島まで走ることになったのだが。これといった渋滞も無く、9:40に名神高速道路、11:00に中国自動車道に走り込むことができた。ここからの中国自動車道路は、長く感じられる道のりであった。クラッシック音楽のテープを何度も交換し、昼寝も行ったすえに、19:40に関門海峡を渡って九州に上陸することができた。後は、できるだけねばって行けるところまで。熊本を過ぎた宮原SAまで南下することができて、翌日に市房山に登る時間を作り出すことができた。前夜の忘年会から運転のために酒を控えていたが、ようやくビールにありつくことができた。ビールを飲みながら、翌日の山の計画を検討した。今回の屋久島遠征の前哨戦となる市房山については、日本百名山の後書きに、惜しくも選に漏れた山として触れられており、日本200名山に選ばれていること以外には、全く知らなかった。どんな山なのかは、登ってみてのお楽しみということに。
 途中で二泊のすえに人吉ICで高速をおりて、市房山の登山口となる市房キャンプ場をめざした。市房キャンプ場から登山道が始まるが、林道を使って三合目まで上がって時間を短縮することにした。キャンプ場の脇を通り抜け、祓川を渡るとすぐに林道が左に分かれた。標識に従ってこの林道に入ると、高度をかなりかせいで、林道終点広場に到着した。周辺には落ち葉のつもった雑木林が広がり、やはり九州の山ともなると、それ程寒さは感じない陽気であった。枝沢を越しながらトラバース気味に歩いていくと、キャンプ場からの道に合わさり、右手に方向を変えると、三合目の八丁坂に到着した。大きな段差の石段が続いて、早くも汗が吹き出てきた。参道の両脇には、樹齢数百年という見事な杉の大木が並んでいた。四合目の市房神社は、コンクリート造りで、風情に欠けていたが、脇には水が引かれていて喉をうるおすことができた。ここから本格的な登りが始まった。なかなかの急斜面が続いた。木の階段や、木の根っ子を足がかりにするところも多かった。途中で斜面が崩壊しており、登山道が迂回している所もあった。急登を頑張って登り続けたものの、いつになく、足の筋肉がひくつく感じが出てきた。長距離ドライブの疲れがダメージとなって現れているのか。この思わぬ苦戦が、後に尾をひくとは予想もしなかった。八合目を越してようやく稜線上の道になると、傾斜も少し緩やかになった。冷たい風が吹き抜けて、登山道周囲の木々には霧氷が付いていた。霧氷を見物しながら登っていくと、広場になった市房山の山頂に到着した。山頂には、一等三角点の他にも、登頂の記念碑が多く置かれていた。ガスが流れて遠くの風景は閉ざされていたが、山頂脇の露岩の上からは、真っ白に彩られた山の斜面を見下ろすことができた。九州まできて霧氷見物とは思ってもいなかった。
 宮之浦岳の前哨戦である市房山で無理はできず、二ッ岩への縦走路を回るつもりは無かったが、心見ノ橋を見てくることにした。潅木の中を下っていき、二個所の小岩場を、薄氷で滑らないように慎重に通過すると、心見ノ橋に出た。チョックストーンとも呼ばれるようであるが、岩壁の隙間の間に大岩が挟まっていた。信心の厚い人は通ることができるとされているが、脇の迂回路からみると、岩は宙に浮いており、乗った拍子に岩が崩れ落ちなくとも、氷に足を滑らして転落しないとも限らなかった。日頃の不信心は心得ており、敢えて己の信心を試すことはしないことにした。山頂に引き返すと、先ほどまで広がっていた下界の眺めもガスで閉ざされていた。下山の途中にすれ違ったのは、他には単独行と夫婦連れのみであった。九州といえども一般的な登山の季節は終わっているのか、それとも、年の暮れで皆忙しいのか。
 車に戻って、ひと休みしながら、計画の再検討をした。まずは、麓の温泉でドライブと山の汗を流すことにした。湯山温泉の市房観光ホテルは、名前負けしそうな鄙びた温泉であった。高速に乗りなおして、さらにもうひと走りして、鹿児島までの長いドライブを終えた。
 宮之浦行きのフェリーの出発する北埠頭の脇からは、桜島行きのフェリーが出ていた。桜島は、登山禁止の状態なので、とりあえずドライブをしてこの山を終えることにした。桜島フェリーは、昼間は10分間隔で出ており、切符も買う必要は無く、桜島側のゲートで支払うシステムになっていた。片道の料金は1480円で、車で鹿児島まで来たのなら、観光の為に乗ってみるのもお勧めであろう。フェリーの上からは、次第に近づいてくる桜島の眺めを楽しむことができ、13分程の航海は短く感じられた。溶岩の中に付けられた道路を大隅半島方向に向かい、赤水で左折すると、一気に高度を上げていく道になった。前方には、観光客も喜びそうな、荒涼とした溶岩台地が広がっていた。到達できる最高点の湯ノ平展望台で車を下りた。展望台の上からは、目の前に北岳がそびえて、南岳からは噴煙が上がっているのを眺めることができた。山頂まで通じる稜線を目で追ってみたが、火山灰で覆われた斜面は今にも崩れ落ちそうであった。この山の山頂に立つことのできる日は、私の一生の間に訪れるのだろうか。桜島の登山は、これにて終了。観光モードに入って、山を下りてから、島の南部の古里にある林芙美子の「花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき」の詩碑を見物した。確かに有名な一節であるが、林芙美子の小説も今はどれ程読まれているのだろうか。「放浪記」を読んだはずだが、感想は残っていない。数日後、家へ戻る途中の車の中で紅白歌合戦を聞いていたら、「ゴンドラの歌」を歌っていた。良く似ているが、逆の内容である。しょせん短い命なら、「いのち短し恋せよ乙女」と歌いたいものである。
 鹿児島に戻り、コンビニを捜して、屋久島での食料のパンやジュースを買い込んだ。夕食を終えて北埠頭に戻ったが、フェリー・ターミナルの駐車場は、有料でゲートが設けられていた。はるばる遠くからやってきたのに、それはないだろう。フェリー・ターミナルは閉まって人の出入りも無くなっていたので、路肩に車をとめて、夜をあかすことにした。埠頭の北側の桟橋は、遊歩道になっており、港を出入りする桜島フェリーの夜景を楽しむことができる夜の観光スポットになっていた。そのおかげで、夜遅くまで、カップルやら男女のグループが出入りして、寝るには良い場所とはいえなかった。
 目を覚まして朝の準備をしているうちに、鹿児島では夜明けが遅いことに気が付いた。新潟では、6時半には明るくなっていたのが、鹿児島では7時頃であろうか。この30分の遅れの影響は、日帰り山行にとっては大きい。宮之浦岳までなら、日帰りはそう難しくは無い。しかし、永田岳まで足を延ばすには、10時間30分の行程であり、5時に出発しても下山は3時半以降。休憩を考えれば、4時30分を予定するのが妥当なところであろうか。日の出が遅い分、日の入りも遅いわけではあるが、早朝の懐中電灯たよりの歩きがそれだけ長くなってしまう。これまでの経験でも、懐中電灯頼りの歩きでは、コースタイムの短縮は、まず期待できないことも判っていた。さらなる懸念材料として、昨日の歩きのダメージが大きく、足にも疲労が出ているのに気がついた。一日の休養でどれ程体調が回復するのか。不安と期待に満たされながら、フェリーに乗り込んだ。
 少しは贅沢をと思って一等船室の予約をとっていたが、観光シーズンも終わりなのか、一等船室には二組のみであった。甲板に出ると、桜島が朝の光に照らされていた。船が錦江湾を進むにつれて、桜島も姿を微妙に変えたが、その大きな姿はなかなか遠ざからなかった。うっすらと立ち上がる噴煙は、ある高さまで上がると、横にたなびいていた。見続けていると、ひときわ大きな噴煙が立ち上ったが、普通のことなのか、誰も気にしている者はいなかった。続けて、東には、大隈山が屏風のように横に広がっていた。険しい山容で登頂意欲をそそられたが、今回はこの山まで登る余裕は無いのが残念である。続けて右手前方からは、開聞岳が端正な三角形の姿を現してきた。二年前に開聞岳に登った時は土砂降りの雨で、ついに山の姿を眺めることができなかったので、ひとつの課題が果たされた。船が外洋に出ても、開聞岳の山頂はいつまでも見え続けていた。この山が海上航海の良い指標になったということが良く判った。深田久弥は、中国での俘虜生活を終えて内地に戻った時に、出迎えてくれたのがこの開聞岳であり、また、後年ヒマラヤに向かって出発した時に見送ってくれたのが開聞岳であったと日本百名山に記している。太平洋戦争の終わりに知覧から飛び立った特攻飛行隊を見送ったのも開聞岳であったという。平和な世界に生まれて、山登りに熱中できることに感謝しよう。
 ひとまず船室に戻ってひと休みした後で外をのぞくと、右前方に、平らな島と台形に盛り上がった島が近づいてきた。これがめざす屋久島かと思って見続けていると、船は横をすり抜けて行き、島もそれ程大きくはないようであった。ガイドブックをめくってみると、海上から一気に盛り上がった山は、硫黄島のようであった。硫黄島とは、有名な鬼界ヶ島で、俊寛が流された所。平家物語の時代に、はるばる都から離れた孤島に流されては、帰りたくて泣いてしまうのも無理はない。これまで、鬼界ヶ島がどこにあるのか、確認したことも無かったのは不思議である。左手に平らで横に長く続く島が近づき、これが種子島のようであった。最高点も300m以下のようで、登山のために出かけてくる機会は無さそうであった。ようやく屋久島がもやの中から姿を現した時には、その海岸線は左右に大きく広がっていた。中心部の峰々の山頂部は雲に覆われていたが、海岸線に並ぶ前岳の峰々からその険しさは想像できた。
 フェリーからの自動車での下船は、信号が赤から青に変わって車を進ませるのと同じで、感傷ににひたる余裕も無い。車の列に巻き込まれたままに、安房に向かって走り出した。途中で食堂を見つけ、トンカツのちょっと贅沢な昼食をとった。安房の町で、弁当屋を見つけて夕食を買い込み、いよいよ淀川への林道に走り込んだ。舗装道路で道幅も広いものの、山の奥へ奥へと続く長い道が続いた。タクシー代よりもレンタカーの方が安いという話も納得がいった。林道の途中で、サルが道の真ん中を歩いていた。どかないので、ゆっくりと車を進めたが、これは失敗であった。車のフロントに飛び乗って、こちらをにらんでガンを付けてきた。警笛を鳴らしても、ワイパーを動かしても動じる気配は無く、車を走らせてみても運転席の前にしがみつかれていては、視界の邪魔になってスピードを出すわけにもいかなかった。諦めて車をとめて様子をみていると、そのうち退散してくれた。この喧嘩は、こちらの負けであった。観光客から餌をもらうのに慣れたサルのようであった。正しいあしらい方は、警笛を鳴らして注意を喚起しておいて、ひく程の勢いで車を進めることのようであった。相手は野生のサルである。万が一にも車にひかれるはずも無いであろう。
 このまま淀川登山口に入るのももったいなく、途中のヤクスギランドに寄っていくことにした。明日の懐中電灯歩きに備えて、屋久島の樹林帯の雰囲気を知っておく必要もあった。デイパックにハイキングの荷物を詰め込んで歩き出した。観光バスが到着し、普通の格好をした観光客が園内に入っていった。ヤクスギランドの入口にはゲートが設けられ、環境協力費ということで300円の入場料を徴収していた。手すり付きの木道の続く、立派な遊歩道が設けられていた。コースは30分、50分、80分、150分と細かく分かれているようであったが、途中の苔の橋が工事中のために、80分コースは歩けないようであった。もちろん、こちらは150分コースをめざした。夕方も近づいていたが、少し急げば、そんなにはかからないはずであった。遊歩道の回りには、原生林が広がっていた。この雰囲気は、サンフランシスコ近郊のミュアウッズ公園と似ていた。ヤクスギとレッドウッドという違いはあるのだが。最初に現れたのは千年スギであったが、これはまだ前座といったところ。荒川橋を渡って50分コースを離れると、登山靴の必要な、登山道に変わった。左の川沿いの道は閉鎖中で、尾根へ取り付く道に進むことになった。木の根も飛び出し、汗の吹き出てくる本格的な歩きになった。尾根に上がってから、少し下ると、先に分かれた道が合わさってきた。この先からは、鬱蒼とした樹林帯の中の道になった。苔むした倒木の上には、新しい樹木が育ち、太陽は樹林帯の下までは届いてこなかった。遊歩道気分とは違って、登山道を外さないように注意が必要になった。屋久島の原生林は、道を外したら相当に危険な目になりそうであった。明日の未明の歩きが心配になってきた。尾根をたどって登っていくと、太忠岳への分岐に出た。この分岐には、蛇紋杉と呼ばれる倒木が横たわっていた。ひと休みして先に進むと、沢に向かっての下りになった。沢を岩を伝って渡ると、大きな倒木にステップが切った橋になっており、この天柱橋を上って登山道に戻った。天柱杉(樹齢1500年、胸高周囲8.2m)や母子杉(樹齢2600年、胸高周囲9.0mと6.3m)などの1000年を越える大木も現れて、しばし足をとめて見とれた。杉の大木も見事であったが、より興味深いのは、倒木更新あるいは切り株更新といって、倒木や切り株の上に種が落ちて、発芽して成長することによって世代交代するといったメカニズムであった。説明板を読んでから森を眺めると、随所にこの現象が起こっていた。世界遺産に相応しい生命力にあふれた森であった。吊り橋の沢津橋を渡ってひと登りすると、仏陀杉(樹齢1800年、胸高周囲8.0m)が現れた。この先で整備された遊歩道に戻り、のんびり歩いて清涼橋を渡ると、林道への出口になった。車を淀川登山口に向かって6km走らせたところにも、道路脇では最大・最長寿の紀元杉(樹齢3000年、胸高周囲13.5m)があった。
 屋久杉見物を終え、夕暮れ近くになって、淀川登山口に到着した。ここまでの林道は、安房の町からでは25km程になるのであろうか。タクシ−を使うといっても容易な距離ではなかった。最近では、レンタカーの利用の方が増えているともいう。登山口の広場には、他にレンタカーの単独行が一名、明日の登山をひかえて野宿していた。他にも車にバイクが数台とまっており、それ程広くない駐車場なので、五月の連休では、駐車場所の確保が難しそうであった。暗くなった頃、タクシーが到着して、単独行が淀川小屋めざして登り出していった。昼間は暑さを感じる陽気であったが、日が落ちるにつれ、気温が一気に下がって寒さを感じるようになった。やはり明日の登山は、日が落ちる前に下山する必要があり、早立ちの必要があった。屋久島に入ってから、眺めることのできた山の頂としては、太忠岳(1497m)だけであったが、雪の気配は無かった。宮之浦岳にも雪は無いとみて、ピッケルは持たないことにし、六爪アイゼンだけを用心のために持っていくことにした。出発の準備を整えて、明日の晴天を祈りながら眠りについた。
 夜中にトイレのために目を覚ますと、満天の星。厳しい冷え込みで、レンタカーの単独行は、寒いと見えて、エンジンをかけて暖をとっていた。こちらは、いつもの封筒型シェラフを敷き布団にし、布団に毛布を掛けての厳冬期態勢であったため、寝ていて寒さを感じることは無かった。目覚まし時計で、3時30分に起床。夏山なら良くある起床時間ではある。驚いたことに、厚い霜がおりて、あたりは銀世界に変わっていた。車の窓ガラスをさわってみると、凍結はしていないので、気温はそれ程低くはないようであった。星空もそのままで、明るくなれば晴天が期待できそうであった。湯を沸かしてテルモスにつめ、暖かいスープにパン、バナナで朝食をとった。食欲は無いが、食事休憩を惜しんでの歩きが一日続くはずであった。
 夢の実現へと自分を励まして、懐中電灯を頼りに暗い森の中に歩き出した。木のステップの上には厚く霜が積もり、試しに足を滑らせてみると、乗せかた次第では転倒の危険性があった。登山道は良く整備され、小さな標柱の列が続いているので、懐中電灯の明かりでも、登山道をたどることができた。ただ、足元しか見えないと、体のバランスをとるのが難しく、丸太のステップを伝う所では、霜のこともあって、おっかなびっくりの歩きになってしまった。倒木が登山道をふさいでいる所があり、こずえ付近に進むと、そこはやぶ。中間部で木をくぐると、やはりそこもやぶ。結局、根元付近で木を乗り越えれば登山道が続いていた。間違った者の足跡があるので余計に迷いやすかった。登山口の看板には淀川小屋まで30分とあったが、すでにその時間は越えようとしていた。回りの様子も見えづらいので、電池を替えると、遥かに歩きやすくなった。こんなことなら、始めから新品の電池で歩き出すべきであった。ペースも上がって、緩やかな登りを続けていくと、淀川小屋に到着した。まだ起き出している者はいないようで、あたりは静まりかえっていた。
 淀川にかかる鉄製の橋を渡ると、本格的な登りが始まった。木の根にすがるような所もあるが、概ね木のステップが設けられて歩きやすくなっていた。もっとも、段々登りは足に負担もかかり、市房山のダメージが尾を引いている足には辛い登りになった。黙々と登り続けていき、下りに転じると小花之江河に到着した。夜明けの薄明かりの中に、湿原とその回りの杉の木立が白いベールをまとって浮き上がり、シンと静まりかえっていた。水面には薄氷が張っていた。写真が目的なら、日が昇るまでこの湿原に留まるべきだが、登頂の目的のためには先を急ぐ必要があった。写真になる明るさでもなく、南の島の雪景色を目に焼き付けることにした。庭園風の美しい湿原であった。回りの杉はオオシラビソに似てもいて、尾瀬や北海道の湿原といっても通じるような雰囲気であった。そこから僅かに歩いた所で、花之江河に出た。こちらの湿原の方が大規模であった。ようやく懐中電灯も必要の無い明るさになった。花之江河は、登山道の合わさる十字路になっており、宮ノ浦岳へのコースを確認して先に進んだ。
 黒味岳への分岐を過ぎると、水が伝い流れる沢状の地形になったが、うかつに足を乗せると、氷のために滑って思わず手をつくはめになった。登りの傾斜はそれ程きつくはないものの、山の奥へと入り込んでいく道であった。標高が上がっていくと、周囲の展望は、ガスで閉ざされるようになった。次の目標であった投石岩屋は、大岩のオーバーハングの下にしかすぎず、テントでも無いことには、夜を過ごすことはできそうになかった。そこからひと登りすると、傾斜は緩やかになって、木道が続くようになった。濡れた木道は、登りはともかく、ちょっとした下りでも滑りそうでおっかなびっくりになってしまった。この道を戻る時には、午後も回って乾いているはずなので良いものの、冬季登山で凍結していたら、かなり危険な目に会いそうであった。宮之浦岳への最後の水場という標識を見て、喉をうるおして最後の登りに備えた。ヤクザサの中の急斜面の登りが始まった。ようやく山頂かと思ったら、栗生岳という標識が現れて、さらにもうひと頑張りする必要があった。所々頭上を越えるヤクザサの中の道を登り続けると、宮ノ浦の山頂に到着した。
 他の登山者はおらず、三角点と山頂標識が出迎えてくれた。息を整えて、三脚にカメラをすえて一人での記念写真を撮った。後で他の人の記録を読み返してみると、百名山完登といったプレートを用意しているようであったが、そのような準備は考えてもいなかった。周囲の展望はガスに隠されていた。ようやく百名山の最後の頂きに立ったが、思っていた程の感動もわいてこなかった。ひとつの頂きに登れば、さらに気になるのはその先の山。コースタイムを確認すると、このペースで歩き続ければ、永田岳までの往復も可能なはずであった。ひと休みの後、縦走路を北に向かった。
 北斜面には風が吹き寄せて、岩や潅木には霧氷がついていた。道はヤクザサで覆われ気味で、雨具を付けなかったズボンはあっというまに濡れてしまった。登り返しが思いやられる急坂を下ると、焼野三叉路に出た。左折して、ヤクザサに覆われた尾根を緩やかに下っていくと、沢状地形を横切り、その少し先が最低鞍部であった。ここからが、一番苦しい登りになった。周囲には、大きな岩が転がり、独特の雰囲気がかもしだされていた。尾之沢小屋への分岐を過ぎると、山頂はすぐそこであったが、足はなかなか進まなかった。大きな岩の基部から、手足のフリクションを頼りに3m程の岩を登ると、山頂部に到着した。永田岳の頂上部は大きな岩で占められており、山頂標識を捜すと、西側の窪地に立てられていた。岩の隙間に落ちないように注意しながら、山頂標識の脇に下りたったものの、岩陰で潅木に囲まれて、休憩には適していなかった。登り口のテラスに戻って、ひと息入れた。粘った甲斐ががあってか、ようやくガスが切れ始め、永田岳の斜面から鞍部付近を見下ろすことができるようになった。ヤクザサに覆われた斜面は、緑の絨毯を敷き詰めたようで、その中に巨岩が点在していた。永田岳に登ることができて、ようやく登頂の喜びもわいてきた。しかし、まだ宮之浦岳への登り返しがあり、気を抜くことはできなかった。
 山頂直下の岩場を慎重に通過し、ササ原を下っていくと、青空が広がって宮之浦岳の山頂部も顔を見せるようになった。百名山達成に対するプレゼントか。宮之浦岳は、左右に大きな肩を広げた上にドーム型の山頂を乗せていた。登り返しは大変そうだが、越さないことには帰ることができない。晴天となって、写真を撮りながらの歩きになった。焼野三叉路からの登りで最後の力を振り絞れば、再び宮之浦岳の山頂に戻ることができた。他の登山者も、六名程休んでおり、賑やかになっていた。振り返る永田岳は、ガスに隠されたままであったが、これから戻る南方面は、山々が姿を現していた。栗生山や翁岳など、山頂部に大きな岩をのせているのが面白かった。
 下山のことを考えると、山頂に長く留まることはできなかった。写真を撮りながら、山を下っていくことにした。投石平で、宮之浦岳の山頂に最後の別れを告げた。再び訪れることのできる山頂であろうか。雨に降られずに、展望を楽しみながら下山できることに感謝した。湿原の縁のササ原の中でがさがさという音がしたと思うと、立派な角をはやした雄のヤクシカが姿を現した。こちらを監視しているのか、カメラを構えても逃げもしないで見つめていた。「人二万、猿二万、鹿二万」といわれているようだが、実際には3000頭程のヤクシカに会うことができて満足した。黒味岳との分岐で、どうしようか迷った。山頂まではひと登り。しかし、体力と時間は残っていなかった。いつかの日の再訪のために、心残りがあっても良いではないか。行きにそのまま通過してしまった花之江河に戻り、木道の上に腰をおろして、湿原の風景を楽しんだ。湿原は赤く色付き、日陰にはまだ薄氷も残っていた。本格的な冬の訪れも遠くなさそうであった。湿原の背後には、黒味岳がそびえて、風景にアクセントを付けていた。無理をしてでも登るべきだったかなあ。続いて、小花之江河でも写真撮影。美しい所であった。この風景を楽しむためにも、往復コースにした価値があったと思った。一気に下っていくと、周囲の大木に目がいくようになった。高度を下げて鬱蒼とした原生林の中に戻ると、見覚えのある鉄の橋が現れ、淀川小屋に到着した。明日の登山を控えてか、中には登山者もいるようであった。
 緊張からも開放され、ようやく百名山登頂の喜びもわいてきた。百名山に熱中した八年であった。長い物語を読み終えた時のような、あるいはコンピューターゲームを終えた時のような、一抹の寂しさを覚えた。歩きながら、感傷に浸るよりも、明日の山の予定を考えることにした。ようやく登山口に戻ったのは、まだ明るい予定通りの時間であった。
 さすがに長い歩きであった。明日の山は、コースタイムもそう長くない、モッチョム岳に登ることにした。ひと休みした後に山を下って、登山口の千尋滝展望台に向かった。食堂を捜したが、結局みつからないまま千尋滝展望台い到着した。観光客用の広い駐車場の一画で、夕食の準備をした。前日とは変わって、海岸線に近い千尋滝展望台では、車の窓を少し開けて眠るほどの暖かさであった。
 翌朝、他の登山者の車の音で目を覚ました。朝から暖かいため、薄着で出発した。滝への展望台に進むと、直ぐに登山道が左に分かれた。山腹をトラバースしていくと、沢を横切り、本格的な登りが始まった。急斜面なうえに、登山道には木の根が飛び出して、歩きづらい道であった。足にも疲労がたまり、辛い登りになった。気温も高く、長袖シャツ一枚で歩くことができた。周囲には照葉樹林が広がり、屋久島の低地部での植生を経験することができた。驚いたことに12月だというのい、白い花が咲いていた。戻ってから図鑑をめくってみると、サツマイナモリのようであった。傾斜が緩やかになると、谷間に入っていき、周囲には美しい林が広がった。沢を渡って、急斜面をひと登りすると、尾根の上に出て、万代杉が現れた。樹齢3000年、胴回り17mの風格のある屋久杉であった。この先は、稜線を北側から巻いていく道になった。再び沢を渡ると、登山道の右下にモッチョム太郎と呼ばれる屋久杉が現れた。稜線上に出て、倒木を越しながら進んでいくと、岩の基部から下りになった。どうやら、この付近が最高点の神山展望台のようであった。前方には、モッチョム岳の岩峰を眺めることができたが、かなり下ってから登り返す必要がありそうであった。樹林帯の中を下っていくと、大きな岩を右下に巻き、次いで小ピークに登り返すと、その先は細い岩稜歩きになった。ロープを頼りにしながら岩場を下って進むと、岩峰の基部に到着した。木の根を手がかり足がかりにしながら急斜面を登ると、山頂部の岩の基部に出た。岩を左右に回り込もうとしたが、崖で行き止まりであった。山頂には、岩をよじ登る必要があった。荷物を置いて登ることにした。チムニーに入って2m程登ると、上から垂れ下がっているロープに手が届いた。あいにくと細いロープで、全体重をあずける気にはなれず、補助に使いながら、岩の上の小さな突起を頼りに4m程登った。岩の上に立つと、高度感のある眺めが広がっていた。眼下には東シナ海と尾之間の集落。背後には、耳岳から神山展望台南面にかけての花崗岩の岩場を眺めることができた。ヨセミテの岩壁を見下ろしているような感じがした。カメラを取りに、岩場をもう一度上り下りすることになった。神山展望台への登り返しは、足元にも注意する必要があり、息もあがってしまった。下りも、実際に歩いている時間よりも長く感じる道であった。途中で、何組もの登山者に出会い、人気のある山であることを知った。
 登山口に戻って、観光客にまじって千尋滝を見物した。滝もなかなか見応えがあったが、鯛ノ川の大スラブは見事であった。車に戻って、平内海中温泉に向かった。海岸線に出ると、モッチョム岳の岩壁が頭上にせまり、車をとめてしばしみとれることになった。標識に従って、畑の中の道を海に向かって下りていくと、平内海中温泉の看板が現れた。左に狭い急坂を下りると、小広場で行き止まりになった。バイクが置かれて車の方向転換もままならず、バックで入口に戻り、路肩に駐車した。海に向かって歩いて下りていくと、波打ち際に温泉があった。協力費ということで、100円をポストに入れた。浴槽と上がり湯しかない、野趣あふれる温泉であった。地元のおばあさんと他に三人の先客が入浴していた。ひとつの浴槽には波が入り込んでぬるくなっていたが、もうひとつの浴槽には、熱い温泉がたまっていた。山の後に、波しぶきを眺めながらの温泉はこたえられなかった。世界遺産の白神にも、不老不死温泉という海岸端の温泉があるのも、因縁めいている。すっかり暖まって、さっぱりすることができた。島の南部にやってきたので、このまま島を一周してみることにした。途中で大川の滝を見物した。これも大きな滝であったが、こころなしか、水量は少な目のような気がした。島の西部は、乗用車一台がやっとの、曲がりくねった道になった。ドライブを続け、永田に出ると、再び二車線の広い道になった。海岸部では晴天が広がっていたが、山の頂を望むと、雲に覆われていた。
 屋久島の予定もほぼ終えた気分になっていた。翌日のフェリーの出発までの半日でもうひと山登るには、時間と体力に余裕が無かった。臨時便が出ると書いてあったのを思い出して、宮之浦のフェリーターミナルに寄った。窓口は閉まっていたが、30日の23時20分に臨時便が出ると張り紙がしてあった。この船に乗って、早めに戻り始めることにした。明日の昼の便だと、帰路の途中で、Uターンラッシュに引っかかる恐れがあった。港を眺めることのできる、なごりの松公園に移動して、時間までひと眠りすることにした。日が暮れると、あたりは静まり返ってしまった。港の様子も静かで、フェリーの出航を控えているようには見えなかった。朝の11時と間違えたのかと疑問がわいた頃、フェリーが入港してきた。港に移動して、乗船手続きをした。屋久島への帰省客は結構下りてきたものの、乗船客はほとんどおらず、車も6台のみであった。静まり返った屋久島を後にフェリーは出発した。
 僅かな時間であったが、航海の時間は睡眠にあてた。夜明けの鹿児島に戻り、高速を北上した。このまま帰るのももったいないので、背振山によっていくことにした。夜明け時の気温は低くなっていた。鳥栖JCTで長崎道に入り、東背振ICで高速をおりた。県道に出るとき、逆に曲がると吉野ヶ里遺跡が近いことを知った。山に近づいていくと、路面をうっすらと雪が覆うようになった。九州まで来て雪道ドライブとは予想もしていなかったが、スタッドレスタイヤを履いているので、運転に支障は無かった。背振神社の脇を過ぎると、広い道が山頂に向かって高度を上げていった。夜間通行禁止という看板があったが、どうも暴走族対策によるもののようであった。道路の途中で、道が大きく波打つようになっていたのも、スピードを出せなくするためなのか。英彦山の駐車場で寝ていて、暴走族と間違えられて、夜中に不審尋問を受けたことを思い出した。山頂部では、数センチの雪になった。山頂の自衛隊基地の入口ゲートの右手に、一般用の広い駐車場が設けられていた。山頂はすぐそこであったが、道が雪で覆われているので、登山靴に履き変えた。基地の金網沿いに登っていくと、金網越しの基地内に役の行者増が置かれていた。雪を踏みながら登っていくと、五分程で山頂に到着した。山頂部には、石の鳥居や灯篭が置かれて、古くからの信仰の対象であったことがわかるが、山頂の向こう側はレーダードームで占められていた。周囲には、なだらかな稜線が続き、白く雪に覆われていた。
 山を下りてから、高速に入る前に、近くにある吉野ヶ里遺跡に寄っていくことにした。駐車場のおじさんには、新潟とは遠くから来たものだと関心されたが、熱心な考古学ファンと間違えられたのだろうか。遺跡自体は、工事のために整地中の原っぱにしか見えず、想像を働かせても、古代のロマンは感じられなかった。むしろ、道路の反対側に作られた、高楼や家を復元した公園や出土品の展示場の方が面白かった。
 年末・年始に放浪の旅を続けていてちょっぴり良心もとがめていた。受験生の父親として、太宰府天満宮で受験のお守りを買って、ポイントをかせいでおくことにした。大晦日の昼前ということで、それほどの混雑も無く、神社近くの駐車場に車を置くことができた。神社は初詣の準備中であったが、すでに多くの参拝客が詣でていた。正月には、大勢の参拝客で賑わうのであろう。一年の無事に感謝して、手を合わせた。お守りも手に入れて、九州での用は全て終了した。
 大晦日ということで、高速道路は空いていた。特に、中国道は雪によるタイヤ・チェーン規制も出て、走る車は少なかった。紅白歌合戦を聞きながら、閑散とした神戸・大阪を一気に通過した。夜中が近くなるにつれて、初詣やスキー客の車も走り出し、道路も混み始めてきた。紅白歌合戦の終了と同時に滋賀の賤ヶ岳SAに到着した。ここまで戻れば、明日の元旦には家に戻ることができる。
 今回の、いや日本百名山巡りの締めくくりに、もう一個所寄っていく所があった。加賀の大聖寺町。深田久弥は、明治三十六年三月十一日にこの町で生まれた。深田久弥の終焉の地である、茅ヶ岳には、「百の頂きに 百の喜びあり」という文学碑が立てられているが、生誕の地にも、もうひとつの文学碑がある。加賀ICで高速を下りて、まず北陸線の大聖寺駅をめざした。分県登山ガイド「石川県の山」の錦城山のガイドを頼りに、駅から道順を追って車を走らせ、古い家並みの立ち並ぶ大聖寺中町に向かった。交差点近くに生家があり、前には石の記念碑が置かれていた。次いで、錦城小学校の脇にでると江波神社があり、その境内が目的地である。神社の本殿に向かって右手に、目指す文学碑があった。本を開いたような形の台座の右手に、「山の茜を顧みて 一つの山を終わりけり 何の俘のわが心 早くも急がるる次の山」と書かれたパネルが埋め込まれていた。記念碑の前には、お正月らしく、花が生けられていた。早起きの参拝客の視線を浴びながら記念撮影をした。
 昼過ぎには、新潟に戻ることができた。長い旅であった。ようやく、一つの山を終わらせることができた。

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