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茅ヶ岳、金ヶ岳

毛無山、身延山

独鈷山、太郎山

1998年11月20日〜23日 前夜発2泊3日 単独行 21日 晴 22日 曇り後雨 23日 晴

茅ヶ岳 かやがだけ(1703.5m) 二等三角点
金ヶ岳 かねがたけ (1764m)
 奥秩父前衛(山梨県) 5万 韮崎、御岳昇仙峡 2.5万 茅ヶ岳、若神子
ガイド:アルペンガイド「奥多摩・奥秩父・大菩薩」(山と渓谷社)、分県登山ガイド「山梨県の山」(山と渓谷社)、日本300名山ガイド東日本編(新ハイキング社)、山梨百名山(山梨日日新聞社)、中央本線各駅登山(山と渓谷社)、一日の山・中央本線私の山旅(実業之日本社)、甲斐の山旅・甲州百山(実業之日本社)

毛無山 けなしやま(1964m) 一等三角点本点(1945.5m) 天子山塊(山梨県、静岡県) 5万 身延、富士山 2.5万 人穴、身延
ガイド:アルペンガイド「富士山周辺、駿遠の山」(山と渓谷社)、分県登山ガイド「山梨県の山」(山と渓谷社)、分県登山ガイド「静岡県の山」(山と渓谷社)、一等三角点の山々(新ハイキング社)、日本300名山ガイド東日本編(新ハイキング社)、山梨百名山(山梨日日新聞社)

身延山 みのぶさん(1153m) 南アルオウス周辺(山梨県) 5万 身延 2.5万 身延
ガイド:山梨百名山(山梨日日新聞社)

独鈷山 どっこざん(1266m) 二等三角点 佐久山塊(長野県) 5万 和田 2.5万 武石
ガイド:分県登山ガイド「長野県の山」(山と渓谷社)、信州百名山(桐原書店)、信州の里山を歩く 東北信編(信濃毎日新聞社)、信州山岳日帰り紀行(龍鳳書房)

太郎山 たろうやま(1164m) 三等三角点 佐久山塊(長野県) 5万 上田、坂城 2.5万 真田、上田、坂城
ガイド:分県登山ガイド「長野県の山」(山と渓谷社)、信州百名山(桐原書店)、信州の里山を歩く 東北信編(信濃毎日新聞社)

11月20日(金) 20:10 新潟発=(北陸自動車道、上越IC、R.18、中郷IC、上信越自動車道、長野自動車道 経由)=23:45 梓川SA  (車中泊)
11月21日(土) 6:20 梓川SA発=(長野自動車道、中央自動車道、韮崎IC、穂坂 経由)=7:38 大明神登山口〜8:02 発―9:01 女岩〜9:04 発―9:29 コル―9:33 深田久弥終焉の地―9:52 茅ヶ岳〜9:55 発―10:08 石門―10:25 観音峠分岐―10:29 南峰―10:35 金ヶ岳〜10:54 発―11:00 南峰―11:04 観音峠分岐―11:17 石門―11:35  茅ヶ岳〜11:43 発―11:57 深田久弥終焉の地―11:59 コル―12:16 女岩〜12:25 発―13:10 大明神登山口=(穂坂、茅ヶ岳広域農道、双葉町百楽泉温泉入浴(600円)、雪印ベルフォーレワイナリー、R.20、韮崎、R.52、下部温泉、湯之奥、湯之奥林道 経由)=18:35 毛無山登山口  (車中泊)
11月22日(日) 6:55 毛無山登山口発―7:45 山の神―8:01 中山金山女郎屋敷跡―8:06 中山金山大名屋敷跡―8:09 水飲み場―8:16 地蔵峠―9:08 朝霧高原分岐―9:18 毛無山―9:35 最高点―10:00 毛無山―10:05 朝霧分岐―10:42 地蔵峠―10:46 水飲み場―10:49 中山金山大名屋敷跡―10:52 中山金山女郎屋敷跡―11:01 山の神―11:32 毛無山登山口=(湯之奥林道、湯之奥、下部温泉、R.52、身延)=12:43 身延山ロープウェイ駐車場〜12:50 発―13:11 丈六堂―13:31 三光堂―14:07 法明坊〜14:11 発―14:30 思親閣〜14:41 発―14:55 法明坊―15:10 三光堂―15:33 丈六堂―15:38 身延山ロープウェイ駐車場=(身延温泉ホテル温泉入浴(500円)、R.52、韮崎、R.20、茅野、R.152、白樺湖、R.152 経由)=21:10 長門道の駅マルメロの里  (車中泊)
11月23日(月) 6:00 長門道の駅マルメロの里発=(R.152、R.254 経由)=6:30 宮沢〜6:50 発―7:00 林道終点―7:27 山頂まで1kmの標識―8:01 梅の木峠(沢山湖市峠分岐)―8:03 鞍部―8:07 独鈷山〜8:28 発―8:31 鞍部―8:32 梅の木峠(沢山湖市峠分岐)―8:57 山頂まで1kmの標識―9:15 林道終点―9:27 宮沢=(R.254、丸子、R.152、R.18、上田、山口 経由)=10:21 太郎山表参道登山口〜10:24 発―10:33 鉄塔―10:51 石の鳥居―11:17 牛首分岐―11:24 太郎山神社―11:28 太郎山山頂〜11:47 発―11:51 太郎山神社―11:55 牛首分岐―12:10 石の鳥居―12:22 鉄塔―12:29 太郎山表参道登山口=(上田菅平IC、上信越自動車道、中郷IC、R.18、上越IC、北陸自動車道 経由)=16:40 新潟着

 茅ヶ岳は、中央線沿線の韮崎の北側に大きな裾野を広げる休火山である。大明神岳、茅ヶ岳、金ヶ岳南峰、金ヶ岳といったピークを連ね、八ヶ岳に似た姿をしていることから、「ニセ八ツ」と呼ばれることもある。この山が良く知られるようになったのは、深田久弥が山頂直下で急逝したことが大きく影響している。
 富士山の西山麓と富士川の間に広がる山塊を天子山塊と呼び、毛無山は、その最高峰である。毛無山への登山道は、山梨側と静岡側からの両者からつけられている。毛無山には、一等三角点が置かれているが、最高点はその500メートルほど東の地点である。
 南アルプス前衛の山として富士川の右岸に位置する身延山は、日蓮宗の総本山として知られている。日蓮上人は、佐渡に流された後に、この地にて修行と布教に努め、麓には久遠寺、山頂には奥の院の思親閣が設けられている。
 独鈷山は、霧ヶ峰の北側の、上田市と丸子町の境にある山である。低いながらも、戸隠山のように岩峰を連ねた男性的な姿をした山である。山麓には、鎌倉時代の神社仏閣が多いが、この山の名前の独鈷も、仏敵を滅ぼす仏具に由来している。
 太郎山は、上田市の北にそびえ、特徴のある山容をしているわけではないが、上田市民の山として親しまれている。山頂下には太郎山神社が置かれ、参道として道が整備されている。
 週の半ばに、新潟は強い冬型気象の下で、雪やアラレにみまわれた。せっかくの連休も、新潟周辺では山登りは無理と早々に諦めて、県外に脱出することにした。タイヤもスタッドレスに交換して、雪に備えた。暖かな日差しを求めて、甲信地方の200名山、茅ヶ岳と毛無山を目標にすることにした。さらに時間の余裕を見て、低山をもう少し。車にガイドブックをひとかかえ持ち込むことになった。
 金曜の夜に、新潟からの脱出を開始した。長岡付近では、前の見えない程のミゾレ。妙高高原付近では路面にもシャーベット状に雪が積もり始めていた。長野に近づくと、風は強いものの雨は上がり、松本では星空が広がった。白く覆われた北アルプスを眺めながら、梓川SAで、車の中にて眠りについた。
 暗いと思って油断したためか、目を覚ますのが遅くなってしまった。昼間の長さも短く、山登りには不利な季節である。中央道に入って諏訪を過ぎると、左手の八ヶ岳は雲に覆われていたが、右手に南アルプスの展望が広がった。無骨ともいえる厳めしい姿をした甲斐駒ヶ岳は、高く高くそびえていた。その左手には鳳凰三山。正面には富士山が大きなピラミッドを見せていた。中央道からこのような山岳展望を楽しめるとは知らなかった。いろいろなルートを通ってみるものだ。目標の茅ヶ岳は、韮崎が近づいてくるにつれて、小ぶりな八ヶ岳といった姿が目に入り、すぐにそれと判った。高速のインターチェンジを出て左折し、山に向かって車を走らせていくと、茅ヶ岳の登山口の大きな駐車場に到着した。すでに車も何台も停まっていた。
 駐車場の背後には、開拓農家といった風情の人家があったが、人は住んでいないようであった。少し歩いたところで、右は茅ヶ岳登山口、左は深田公園と書かれた分岐に出た。まず、深田公園に向かい、文学碑を見ていくことにした。車道をひと登りしたカーブ地点に目指す石碑が置かれていた。深田公園という名前から想像していたのとはちょっと違って、ただの林道脇といった感じであった。「百の頂きに 百の喜びあり 深田久弥」という文字が大きな岩にはめこまれた黒い御影石に彫り込まれていた。このゲーテの詩に基ずくという一節には、清水栄一著決定版信州百名山(桐原書店)にも直筆が載っている、「百の頂きに 百の憩いあり 深田久弥」というバージョンもある。意味は似たようなものであるが、私には、心の底から感動が静かにわき上がってくるような「憩い」という表現の方が好きである。「喜び」というと、百名山の数がひとつ上がったことを喜ぶピークハントをつい思ってしまう。
 分岐に戻って、先を急いだ。山に向かっての林道歩きが続いた。直線のために傾斜がつかみづらいのか、見た目よりも足がつらく感じた。荒れた林道跡の道も終わり、谷間に入っていくと、大岩の間から水がしたたり落ちる女岩に出た。ここでひとまず、ひと息ついた。女岩を右から巻くように、雑木林の中の急斜面の登りが始まった。じぐざぐに登っていくと稜線上のコルに出た。
 このコルからひと登りしたところが、深田久弥終焉の地であった。昭和四十六年三月二十一日、深田久弥は、山村正光氏が案内役となって、藤島氏や近藤氏らとともに、茅ヶ岳をめざした。しんがりを山村氏と共に歩き、イワカガミを話題にして、山村氏「先生、このあたり五月には、イワカガミがたくさん咲いているんですよ」、「それはきれいだろうね」。これが最後の言葉になったという。(中央沿線各駅停車)崖際に小さな慰霊碑が置かれ、その周囲の木立は刈り払われて、白く雪を被った金峰山が三角形の山頂を覗かせていた。登ってきた道を振り返れば、富士山が正面に大きく広がっていた。深田久弥が最後に見た山としては、イワカガミの葉が照り輝く雑木林の向こうに頭を覗かせる金峰山が、相応しいように感じがした。
 山頂めざしての急な登りがしばらく続いた。山頂手前の露岩部では、富士山のさえぎるものの無い眺めが広がった。雪は少ないようで、山頂部だけが白くなっていた。その少し先が茅ヶ岳の山頂であった。山頂広場では、何組かの登山者が休んでいたが、静かな山頂であった。山頂からは、周囲の展望が広がっていた。甲斐駒ヶ岳と鳳凰三山がひときわ目を引き、風が強いのか、雲が激しく流れていた。北方面は少し木立に邪魔をされていたが、岩壁をめぐらせた金ヶ岳の南峰がそびえていた。登頂意欲もそそられたが、けっこう大変そうな登りが待ちかまえていそうであった。
 金ヶ岳をめざして先に進んだ。急斜面の一気の下りになった。最低鞍部を過ぎてひと登りしたところに、石門が現れた。登山道は、石門をくぐるようにつけられていた。岩まじりの急登を終えると、観音峠分岐に出て、その先でピークの上に出た。他の登山者も休んでおり、始めここが金ヶ岳の山頂かと思ったが、道は先に続いており、先のピークの方が高いようであった。斜面を下っていくと、背後で、ここはまだ山頂ではないようだといって、休憩を打ち切って歩き出す気配があった。再び下って、またひと登りで、ようやく金ヶ岳の山頂に到着した。ここには、金ヶ岳という標識も立っていた。振り返ると、茅ヶ岳は一段低く、しかし鋭い三角形のピークとなって、その先には大きな富士山が広がっていた。風景を楽しみながらひと休みした。
 金ヶ岳の山頂からは、東大宇宙研究所へ下りるコースもあるが、車の回収のためには、山麓を歩くよりは、たとえ登り下りがあろうとも、来た道を戻った方が早そうであった。結構体力を消耗して茅ヶ岳に戻ると、1時間30分前とは大違いの、大混雑の山頂になっていた。山頂の広場からあふれて、周辺の雑木林の中にも多くの登山者が休んでいた。手早く腹ごしらえをして、山頂を後にした。旅行業者募集の30〜40人程の団体を含めて、登ってくる者も多かった。それでも、コル付近まで下りると、人気も少なくなり、枯葉を踏んでの日溜まりの歩きになった。新潟の天候を思うと、お日様に当たっていられることに感謝したい気持ちになった。
 車に戻ると、もうひと山というには、少し余裕の無い時間になっていた。汗に濡れた体は肌寒く、温泉に向かうことにした。双葉町の百楽泉温泉は、スポーツ施設付属のまじめ指向の温泉のためか、立派な施設の割に空いていた。駐車場手前の畑からは、茅ヶ岳の全景、浴槽の窓からは、甲斐駒ヶ岳と鳳凰三山を良く眺めることができた。ひと風呂あびてさっぱりし、韮崎に向かう途中、雪印のワイナリーがあったので、よっていくことにした。受け付けをすると、小皿に持ったチーズとワインを二杯まで、無料で試飲することができた。美味しい話であったが、土産にワインとチーズを買い込み、結局は儲けられたのやら。ワイナリーの終了時間は4時。茅ヶ岳の後なら、温泉の前に寄っておくべきか。
 ひと休みの後に夕食を買い込み、下部温泉に向かった。夕暮れは早く、途中で暗くなってしまった。車のすれ違いも困難な下部温泉を通り抜け、下部川沿いに遡っていくと、湯之奥の集落に出た。林道は通行止めとの掲示が出されていたが、ゲートのようなものは無く、行けるところまで行ってみることにした。林道を進んでいくと、林道の工事現場に出た。週末以外は、ここの工事のために、先に進めないのかもしれない。先に進もうとしていると、林道の先から、三台の車が下りてきた。すれ違いの時に言葉を交わすと、静岡方面に抜けようとしたが、落石など多くて通行できなかったとのことであった。先に進もうとするとどこに行くのかと尋ねてきたので、毛無山に行くところだというと、この時間になんのようだと尋ねてきた。登山のためと答えたが、野宿ということが理解を超えていたようである。その先は、ほどほどに良い道が続いて、毛無山の登山口に到着した。登山口前に車三台程のスペースがあったので、ここで夜を過ごすことにした。
 朝起きると、前夜の快晴と、夜中の星空にもかかわらず、雲が厚くかかった天気になっていた。林道を見下ろしながら山の斜面を左にトラバース気味に登っていくと、右に登山道が分かれた。はっきりとした道が谷の奥に続いており、登山道を示す標識は立っていたものの、この道を下山だけに使おうものなら、間違いそうであった。下りの人のために、林道登山口を示す標識が欲しいところであった。桧の植林地の中のジグザグの登りが始まった。道は良く踏まれており、中腹にあったという金山へ登るための古い道のようであった。山の神でひと休憩。二本よりそって生えた木の根元に、石碑らしきものが置かれていたが、字は読みとれなかった。さらに登りは続いたが、あたりにカラ松が広がるようになると尾根道となり、左の谷越しに毛無山の山頂方面を望めるようになった。谷の源頭部に近づいた所で、中山金山女郎屋敷跡という標識が現れた。その先で大名屋敷跡。谷の源頭部を巻いていくと、沢の脇ににでて、水飲み場という標識も現れたが、水は涸れていた。涸れ沢状の登山道を登り、急登を頑張ると稜線上の地蔵峠に出た。ここで東方面の眺めが開けて富士山の眺めが広がるのかもしれないが、厚い雲で覆われて展望は無かった。その先も急な登りが続いた。谷越しに眺めていた山頂は前ピークの丸山で、毛無山の山頂はさらに奥のようであった。もう少し頑張り続ける必要があった。山頂近くまで高度を上げると、周囲の木々を霧氷が白く覆うようになった。霧氷を写真に撮るためにしばしば、足が止まるようになった。山頂の一画に到着したかのように傾斜は緩やかになったが、雲のために、山頂までどれ程近づいているのか判らなかった。朝霧高原分岐の標識を見ると、その先でようやく毛無山の山頂に到着した。
 まずは、一等三角点を確認。楽しみにしていた富士山の展望は、得られなかった。流れる霧の上に、これくらいか、もっと大きいかな、と富士山の外形線を引いてみた。一等三角点の周囲は広場になっており、山頂の標識や、山梨百名山の看板もあり、山頂はこことされているようだが、最高点はさらに先のようであった。稜線上に続いている道を先に進んでみることにした。少し下ると、カヤトの原になり、晴れた日なら富士山見物に良さそうな所であった。風の通り道なのか、霧氷はひと際見事になり、霧氷見物をしながら、白い霧に覆われた道を進んだ。今は廃道になっているらしい栃代への分岐を過ぎると、左手に高い所が現れたが、登山道は東面を巻きながら、北に抜けていた。雨ヶ岳へ続く道をしばらく進むと、その先は急な下りになっているようなので、戻ることにした。巻いてきた所の上が最高点のようであったので、戻って林の中に分け入ってみたが、踏み跡や標識らしきものは無かった。上に木が生えている大きな岩が最高点のようであった。
 三角点広場に戻ってひと休みしていると、他の登山者も到着し、いれかわりに下山にうつることにした。下山の途中では他の登山者にもぽつりぽつりと会うようになった。朝霧、下部各方面から、それぞれ4、5組ほどのようで、天気の悪いせいか登山者は多くなかった。地蔵峠への下りで、登山者とは思えない作業服の人に出会って立ち話をすると、町から頼まれて登山道の整備に来たということであった。丁度良いところに、ということで仕事をしているところの証拠写真のシャッター押しを頼まれた。回転のこを構えた後ろ姿に、シャッターひと押し。山頂での記念写真のシャッター押しを頼まれるのは、いつものことではあるが、こういうのは始めてであった。登山道が良く整備されていることにお礼を言って分かれた。高度を下げると、霧氷は消えて、落ち葉の上に日もさすようになった。
 最後は長く感じられた下りを終えて、車の中で食事をしながら、次の予定を見当した。時間は昼前ではあったが、日が短いため、次の山までの移動時間をそれ程費やすわけにはいかなかった。山梨百名山の中から、近い山をみていくと、富士川の対岸に身延山があった。日蓮宗の総本山ということで、登山の趣には欠けていそうではあったが、山頂にはロープウェイもかかっており、時間切れの時も安心であった。300名山に選ばれている七面山は、この山の奥の院のようで、登っておいた方がよさそうであった。信者や観光客で賑わう門前町を通り過ぎ、ロープウェイ山麓駅の下の有料駐車場に車をとめた。山の服装にザックをかついで、ちょっと場違いな格好で歩き出した。ロープウェイ山麓駅の脇の坂を上っていくと、久遠寺の裏手に出て、山頂への道はここから始まっていたが、まずは久遠寺を眺めていくことにした。本堂の前にでると、大伽藍が並んでいた。日蓮宗とは関係が無いので良くは知らないが、確かに信者は多そうであった。本堂の裏手に戻り、山頂への道に入った。一般車進入禁止ではあったが、舗装された車道歩きが続いた。周囲には杉の大木が並んでいた。道の脇にはお墓が多く、日蓮宗の総本山にお墓を作るとなると、一体いくらのお金がかかるのやらと、不信心なことを考えてしまった。尼僧の総本部の丈六堂を通り過ぎ、林道歩きにもうんざりしてきた頃、中間目標地点の三光堂に到着した。トイレに休憩所、ジュースの自動販売機もあり、休むのには都合が良さそうであった。目指す身延山の山頂はと見れば、標高差もまだあり、これからが本格的な登りになりそうであった。車道も三光堂の先で終わり、そうやく登山道歩きになった。道の脇には、丁目標識が置かれていたが、最終番号は四十九ということで、疲れてくるにつれ番号が気になり始めた。軽装で下ってくるハイカーや観光客もいたが、ロープウェイを使った、片道歩きの者が多いようであった。周囲の雰囲気も深山という感じに変わってきたところで、休憩所の設けられた法明坊に到着した。シーズンには、ハイカー相手に飲み物を売っているような感じであったが、すでに閉鎖されて人影は無かった。ここから、最後のひと頑張りを要する登りになった。丁目のカウントダウンを終えると、思親閣の境内の下部にでた。ロープウェイで登ってきた観光客に混じって、お手植え大杉を見物しながら石段を登っていくと、奥の院に到着した。山頂はお寺の境内に占められ、背後の最高点も私有地で立ち入り禁止であった。途中で、疑問に思ったのは、身延山にも、山梨百名山の山頂標識はあるかということであった。お寺の境内には、立てることはできないはずであった。本堂の裏手から展望台遊歩道が続いていた。杉の木立の中を進むと、斜面の縁に広場があり、展望台になっていた。ここに山梨百名山の標識が立っていた。この様子だと、すべての山にこの標識が立っていそうであった。日本百名山の標識を山頂で見かけるようになってきたが、あまり良い趣味とは思えない。展望磐を見ると、富士見山が大きく、その向こうに南アルプスが広がっているようであったが、ガスでなにも見えなかった。あげくの果ては雨が降り始め、下山を急ぐことにした。足を早めたが、駐車場に近づく頃には、本降りになっていた。汗と雨で濡れてしまい、山を下りていく途中にあった身延温泉で入浴した。
 雨の中で明日の山について迷った。始めの予定では、櫛形山に登るつもりであったが、雨が雪に変わりそうで、林道の奥まで入って野宿はしたくなかった。新潟に戻り始めて、途中の上田周辺の山に登ることにした。ルートはいくつか考えられたが、茅野から白樺湖経由が一番近そうであった。ただ、この峠越には、雪の心配があった。日が暮れるにつれて激しいみぞれまじりの雨になり、国道はのろのろ運転になった。富士見町に近づいた所で、とろい運転をしていた前の車がいきなり急ブレーキをかけた。こちらもあわててブレーキを踏み、間一髪のところで停止したと思ったら、後ろから軽い衝撃がきた。そのまま走りさろうとする前の車を停めて文句をいうと、犬が急に飛び出したとのこと。車のうしろがひっこんでトランクのパッキングに隙間が開いた状態になっていた。追突した車のドライバーと修理の打ち合わせを行い、現場をはなれた。追突されたことは腹立たしいが、怪我がなかったことを幸いと思うことにしよう。予想通りというべきか、白樺湖に上っていくにつれて、路面を雪が覆うようになった。これ以上の事故はごめんこうむりたく、慎重な運転に心がけた。白樺湖周辺のしゃれたペンションの回りに停まった車には雪が積もっていたが、タイヤを交換しているのかは疑問であった。大門峠から下っていく途中にも、路肩にスポーツカーが放置され、ドライバーが歩いているのを見かけた。標高を下げていくと、雨に変わり、明日登る予定に独鈷山近くの道の駅で野宿態勢に入った。
 朝になると、昨日とはうって変わって、青空が広がっていた。付近の山を眺めると、高いところは白く変わっていた。ただ、昨日の降水量はそれ程ではなかったので、雪の量も多くはないだろうと思った。独鈷山の登山道は、北面の別所温泉側と、南面の宮沢からつけられているが、分県登山ガイドに従って、宮沢から登ることにした。宮沢の集落の中の狭い道を抜けると、その先の林道は轍が深く掘りこまれており、路肩に車をおいて歩くことにした。桑畑の先には、独鈷山の岩峰がそびえていた。畑の中の林道は、荒れ気味であったものの、終点の広場まであがれないことはなさそうであった。広場の先から沢沿いの登山道が始まった。歩き始めは、寒くて帽子に手袋の完全装備であったが、じきに暑いくらいになった。沢を何回か渡り、最後に右岸に移った所で山頂まで1kmの標識を見ると、急斜面の登りが始まった。コースの標識には、「鹿教湯温泉里山歩き かけゆウォーキング」と書かれており、他にもこのような里山歩きのコースがあるのか興味がわいた。登山道は、山の急斜面を大きくジグザグを切りながら続いていた。木立の間隔があいていて掴まる枝も少なく、うっすらと積もった雪と濡れ落ち葉に足を滑らすと、大事故に結びつきそうで、慎重に足を運んだ。正面には多い被さるかのように岩山が立ちはだかっていた。傾斜が緩やかになって雑木林の中を登っていくと、梅の木峠という標識が現れた。ただ、この地点は、稜線から一段下がった斜面の途中で、沢山湖市峠への道が分かれるにせよ、ちょっとおかしい気がした。ひと登りして、小ピークとの間の鞍部に到着した。ここなら、峠という名前も相応しいのだが。山頂まではあと少しであったが、この先の雪は、急に多くなり、20センチ程になった。急斜面を登ると、狭い広場の山頂に到着した。石の祠に三角点、小さな松の下には、登山ノート入れの箱も置かれていた。ザックをおろし、周囲の大展望を楽しむことにした。南にはすっかり白くなった霧ヶ峰から美ヶ原のなだらかな稜線が続いていた。双眼鏡で覗くと、大門峠周辺のホテルの建物や、王ヶ頭のアンテナ群もはっきり見ることができた。東には、特徴のある荒船山がまず目に入った。この山頂の雰囲気が西上州の岩山に似ているのも、地理的に近いことと関係があるかもしれない。逆光でピークの見分けは難しかったが、気球が浮いているのに気が付いた。浅間山は残念ながら雲の中。浅間連山の西の端の烏帽子岳は頭をのぞかせていた。その奥の白い峰は四阿山か。飯縄山が意外な近くに見えた。日本海側や高い所の山は、悪天候に見舞われているようで、雲に隠れているのが少し残念であったが、日溜まりの中で眺める雪山の眺めは、低山ならではの楽しみであった。下りの道は、登り以上に気を使う必要があった。この登山道は、雪が凍結していようものなら、歩けそうもない道であった。下山途中で、数組の登山者や車とすれ違い、独鈷山もそこそこに賑わう一日になりそうであった。
 続いて太郎山に向かった。この山は、平凡な名前がわざわいしてか、信州百名山に取り上げられているにもかかわらず、雑誌などで読んだ覚えがないように思う。上田の町で、交差点の信号機の地名に注意しながら、車を走らせた。こういった所では、ナビゲーションシステムが欲しくなる。山口の交差点から山に向かって坂道をあがった。太郎山は、上田の市街地からでも良く眺めることができた。山は結構高く見えたが、高い所まで市街地が続いていた。家並みが終わった所で、左下に車道が分かれた。車を停めて良く見ると、角度が悪くて見づらい太郎山登山口の標識があった。坂道を下りると、高速道の橋の下に出て、その周辺には登山者のものらしい車が路肩駐車していた。暖かい陽気になっていた。高速道を見下ろしながら表参道を登り始めた。登山道の周囲の雑木林は、美しく色づいていた。高速道の車の走行音がうるさく感じられたが、登るにつれて、次第に静かになっていった。下山してくる登山者も多かったが、皆軽装であった。登山道脇には、丁目の表示を兼ねた石灯篭が置かれていた。一旦傾斜が緩くなり、石の大鳥居も現れて山頂までもうすぐかと思ったが、まだまだ登りは続いた。林の間からは、太郎山よりも標高は高い東太郎山が谷越し良く見えたが、林道が山頂下まで上がっていた。この山は登山の対象になっているのかどうか。標高が上がると、カラマツも現れた。疲れた足をなだめながら登り続けると、今度は赤い鳥居が現れた。山頂までどうやって運び上げたのだろう。石段を登って、ようやく太郎神社に到着した。ガイドブックを確かめると、山頂はまだ先とのことであった。社殿の背後に回り込むと、尾根続きの先にピークがあった。稜線の周囲には、サクラの木が植えてあった。緩やかに下ってひと登りすると、ようやく太郎山の山頂に到着した。数組のハイカーと、女子中学生の一団がいた。中年のオバサングループのうるささには定評があるが、若くてもうるさいことには変わりはなかった。引率の先生は、登山のためだけかはしらないが、草臥れたと見えて、草の上に仰向けになっていた。眼下には、上田の町が広がり、先ほど登っていた独鈷山も見分けることができた。アルプス方面は、雪雲で覆われていた。腰を下ろすと、日ざしが心地よかった。
 この週末の山は、これで充分。早めに新潟に戻ることにした。道も良く整備されており、下りの足は速かった。高速に乗って、新潟に向かうと、予想通りというべきか、高田周辺からみぞれ混じりの悪天候になった。

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