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御前ヶ岳、愛宕山(大芦)、美女峠・俎倉山

台倉高山

1998年9月12日〜9月13日 1泊2日
 9月12日 単独行 晴
 9月13日 8名グループ 晴

御前ヶ岳 ごぜんがたけ(1233.1m) 二等三角点 南会津(福島県) 5万 針生 2.5万 大芦
ガイド:南会津・鬼怒の山50(随想社)、会津百名山(歴史春秋社)

愛宕山(大芦) あたごやま(745m) 四等三角点 南会津(福島県) 5万 針生 2.5万 大芦
ガイド:ふくしまの低山50(歴史春秋社)、会津百名山(歴史春秋社)

美女峠 びんじょうげ(800m)
俎倉山 まないたぐらやま(1056.5m) 三等三角点 南会津(福島県) 5万 宮下 2.5万 野尻
ガイド:会津百名山(歴史春秋社)

台倉高山 だいくらたかやま(2066.7m) 三等三角点 帝釈山脈(福島県・新潟県) 5万 燧ヶ岳 2.5万 帝釈山
ガイド:静かな山60(白山書房)、山を訪ねて(歴史春秋社)、会津百名山(歴史春秋社)、静かなる山(茗渓堂)、岳人1997年10月号p.26〜29

9月12日(土) 6:20 新潟発=(磐越自動車道、会津坂下IC、R.252、金山、R.400、昭和村、R.401、大芦 経由)=9:10 畑小屋登山口〜9:15 発―9:25 山の神・御前コース分岐―9:29 桜木姫宴の跡―9:46 御前清水―10:56 山の神―10:23 御前ヶ岳〜10:37 発―10:47 紅梅御前・桜木姫お住まいの跡―11:14 山の神・御前コース分岐―11:23 畑小屋登山口=11:30 愛宕山神社〜11:35 発―11:48 愛宕山〜12:00 発―12:10 愛宕山神社=(R.401、昭和村、R.400 経由)=12:50 野尻口〜13:00 発―(入口を通り過ぎ15分ロス)―13;26 旧道美女峠遊歩道(野尻口)―13:50 広場―13:56 林道分岐―14:17 林道終点広場―14:21 高姫清水〜14:25 発―14:28 林道終点広場―14:56 俎倉山―15:24 林道終点広場―15:44 林道分岐―15:48 広場―16:08 旧道美女峠遊歩道(野尻口)―16:20 野尻口=(昭和温泉しらかば荘入浴(500円)、R.400、昭和村、R.401、会津田島、R.289、南郷、R.352 檜枝岐 経由)=19:40 中土合公園入口駐車場  (テント泊)
9月13日(日) 6:55 檜枝岐発=(舟岐林道、舟岐橋 経由)=7:45 馬坂峠〜8:05 発―8:55 1898m点―10:20 2033m手前の湿原―10:55 2028mピーク〜11:13 発―12:05 台倉高山〜13:00 発―13:45 越ノ沢左岸尾根下降点〜14:00 発―14:25 二つ岩―14:35 越ノ沢〜14:48 発―15:50 朽ちた木橋〜15:58 発―16:22 黒沢林道分岐―17:28 舟岐橋=(檜枝岐、R.352 南郷、R.289、会津田島、R.121、湯野上、R.118、大戸、会津本郷、会津坂下、R.49、会津坂下IC、磐越自動車道 経由)=22:40 新潟着

 御前ヶ岳は、南会津のほぼ中央の昭和村にある伝説に彩られた山である。治承の乱の折、平家討伐の挙に破れた高倉宮以仁王の妃紅梅御前と桜木姫が追手を逃れて隠れ住んだという伝説が残されている。登山道は急な登りがあるが、鎖も掛けられて良く整備されている。ナラやブナの林におおわれ、会津の雰囲気のただよう山である。
 御前ヶ岳登山口の 畑小屋への分岐である大芦の集落の背後に、こんもりとした姿を見せているのが愛宕山である。麓及び山頂にお堂が建ち、古くからの信仰の対象であったようである。
 美女峠は、かつて南会津藩から大沼郡を経て会津若松を結ぶ主要な交通路になっていたという。この峠には、鎌倉時代の恋の物語が伝えられている。平家の落人、目指左ェ門知親の娘高姫と、同じく落人の中野丹下という若侍が恋仲になった。ある日丹下が高姫のもとに行けなくなった時、高姫は淋しさのあまり峠に登り、丹下の訪れるのを待った。丹下はついに来ず、「侘びぬれて しばし庵にいなば山 まつとし聞けば 今帰りこん」と道のわきの石にしたためて帰ったという。その時より、ここを美女帰り峠と呼ぶようになったという。現地の案内図には、びんじょうげと仮名が振ってある。俎倉山は、この美女峠の上にそびえる山である。山頂は台地状になっており、テレビアンテナやマイクロウェーブの反射板が置かれている。
 台倉高山は、福島・栃木県境の帝釈山脈中の鋭峰である。かつて黒岩山から帝釈山にかけて黒岩新道という登山道が開かれたが、現在では廃道になっている。最近、林道が檜枝岐村から栃木県に抜け、県境部の馬坂峠には車で入ることができるようになった。帝釈山は、すでに登山道が整備されて、かつては田代山を経由して登った奥深い山も、40分程で登ることができるようになった。今後、台倉高山も、脚光をあびるようになるだろうか。
 宇都宮の室井さんから、台倉高山への誘いの声がかかった。登ってみたい山であったが、会津百名山ガイダンスでは、超上級にランキングされており、一人ではとても手が出ない山であった。もちろん喜んで、参加させてもらうことにした。台倉高山は日曜日の日帰り山行であったため、土曜日は会津の山をいくつか登ることにした。
 朝出発で、御前ヶ岳に向かった。会津の昭和村周辺では、博士山と志津倉山に登っていたが、伝説に彩られた御前ヶ岳も登りたい山であった。昭和村に入って、登山口の畑小屋への入口の大芦に近づいていくと、集落の裏山といった感じの愛宕山が目に入ってきた。帰りに寄ることにして、先に進んだ。谷沿いに開けた田圃の中を進んでいくと、集落の手前の左手に駐車スペースと案内板が設けられていた。案内板には、伝説の詳しい解説と登山道の説明が書かれていた。ここからは、集落の畑を前景として、台形をした御前ヶ岳を良く眺めることができた。山頂に近づくにつれ、傾斜はかなりきつくなるように見えた。歩き出すとすぐに左手の沢に向かって下りる標識が立っていた。沢を渡って人家の庭先を通り過ぎると、山道が始まった。ブナやナラの雑木林の中のほぼ平な道を行くと、右御前コース、左山の神コースの分岐に出た。急坂の続く山の神コースを登りに使うことにして、分岐を左に進んだ。周囲には、明るい感じの雑木林が広がっていた。桜木姫宴の跡で道が二つに分かれた。迷ったが、直進の道を進んでみると、少し先で沢に出て、先は草に覆われていた。右手に上がっていく道に進むと、すぐにトラバース気味の道になった。沢を渡って、対岸の泥の斜面を登ると、伐採地の縁に出た。博士山と同じ様に、沢向こうの斜面には伐採地が広がっていたが、これ以上は進まないことを祈ろう。再び雑木林の中に入って、前方に横たわる尾根に向かって進んだ。御前清水に出てひと休み。木立を通して、御前ヶ岳が頭上高くそびえていた。緩やかに登って尾根の上に出ると、二つに分かれた栗の大木があり、その下に字の消えた石碑が置かれており、これが山の神のようであった。右手に折れて、いよいよ山頂めざしての登りが始まった。登山道上に岩がゴロゴロし始めると、踏み跡は不明瞭になった。傾斜が次第にきつくなってくると、クサリ場になった。見上げると、新しい金属製のクサリがはるか先まで続いていた。岩場で転落するのが心配というような斜面ではなかったが、泥の斜面は濡れでもしたら、滑って危なそうであった。登りはともかく、下りはクサリが必要な斜面であった。クサリがあることを良いことにして、腕力の力も借りて、ごぼう登りを続けた。高度は一気に上がるものの、息が切れた。クサリ場をようやく登り切ると、そこは山頂の一画であった。右手に回り込んでいくと、山頂の広場に出た。雑木林に囲まれていたが、北面は展望が開けていた。博士山と志津倉山が目の前であった。御前ヶ岳とこれらの山は、位置的にも近く、雰囲気も似ており、なんとか三山とまとめてもよさそうなものだが、さてなんと呼んだものやら。その向こうには、御神楽山や会越国境の山々が広がっていた。ひさしぶりの青空のもと、静かな山頂を楽しんだ。
 踏み跡は、登ってきた山の神コースを直進した雑木林の中にも続いているが、これは林の中で消えていた。御前コースは、直角に曲がって、潅木の中に切り開かれた道であった。林の中を緩やかに下っていくと、紅梅御前・桜木姫お住まいの跡という標識が現れた。そういわれると周囲の林も華やいで見えた。ドングリが落ちて葉を打つ音が、あたりの静けさを破った。傾斜は次第にきつくなり、こちらの斜面にはトラロープが張られていた。こちらの斜面も登るのも楽そうではなかった。急斜面の分、下るのも早かった。傾斜が緩んで林の中をトラバースしていくと、分岐に戻ることができた。この日に出合ったのは、栃木県からの二組四人だけであった。会津の山としては、まずまずの人気といったところか。
 休みもそこそこに、車を大芦の集落に走らせた。国道脇の神社の入口の石段脇の路肩に車を停めた。石段を登ると、広場とお堂があり、その右後から山頂に向かう道が始まっていた。すぐに急な登りが始まった。息を整えながら登る必要があったが、幸い長くは続かず、お堂のある山頂に到着した。周囲は木立で囲まれていたが、北側は切り開かれていて、大芦の集落を見下ろすことができた。稲穂は黄色く色づき、季節は夏から秋に移り変わっていた。山里風景を楽しみながら昼食とした。山を大きく回って下山するコースもあったが、もう一山という気になってので、そのまま来た道を戻ることにした。
 続いて会津百名山に取り上げられている美女峠に向かった。来た道を、岩本橋のたもとの小島商店脇の野尻口に戻った。さらに金山町の方に進むと、袴越林道口の標識があり、こちらからも登ることができるようであった。美女峠の案内板を見て、地元では「びんじょうげ」と呼ぶことが判った。びじょとうげが素直な呼び方ではあるが、「びじょ」というたびに、古女房の機嫌が悪くなって、「そんなに美女が好きなら峠にお行き」と言われて、自然になまるようになったのだろうか。さらに、峠の脇の俎倉山には、テレビ中継所があり、遊歩道が続いていると記されていた。それなら、どんな山かは知らないが、もうひとつ山をかせごうかという気持ちになった。橋のたもとの路肩に車を停めて歩き出した。田圃の中の車道を歩いていくと、山際になって右に方向が変わった。ガイドブックにある旧道美女峠遊歩道の標柱を捜しながら歩いていくと、中向の集落に出て、国道に戻ってしまった。途中に舗装された林道が分かれていたが、それではなさそうだったので、さらに戻って行くと、最初のカーブ近くに畑の中に斜めに登っていく未舗装の林道があった。畑の中を少し登ると、捜していた旧道美女峠遊歩道の標柱があった。この未舗装の道が美女峠道で、ここから進む道が旧道美女峠遊歩道と解釈するべきようであった。会津百名山のガイド本の美女峠の概略図は全くあてにならないものであった。杉林の中の道に進んだ。道は杉の落ち葉でうまり草も茂って、通るものは少ないようであった。左に曲がって尾根に取り付き、標高を上げていった。道は所々草がかぶり気味であった。痩せた尾根の上に出ると、台形をした俎倉山が目に飛び込んできた。山頂には、テレビアンテナが白く光っていた。美女峠は、俎倉山の左肩にあるようであった。そこまでは標高差も距離も、まだまだあり、このままの道だとすると登れるかどうか不安になった。尾根を進んでいくと、大きな広場に出た。丸太の残骸も残っており、どうやら材木の集積場所であったようである。ここから林道歩きになり、スピードも上がった。その先で、分岐に出た。左からは袴沢コースの林道が上がってきていた。右手の中向からの道は草がかぶり気味であった。つづら折りの林道を登っていくと、俎倉山は、きれいな三角形のピークに姿を変えていった。左手に小屋が現れると、その先で車回しの小広場になり、林道も終わった。草がかぶり気味の踏み跡をたどっていくと、高姫清水に出た。苔むした岩の間から、豊富な水が流れ出ていた。冷たい水を飲んで一息ついた。高姫清水のまわりには、美女の面影を偲ぶかのようにピンクのツリフネが咲いていた。高姫清水の先の峠道は、さらに草がかぶり気味になっていた。
 林道終点の広場から、踏み跡が分かれており、これが俎倉山への道のようであった。ひと登りで尾根に上がると、頭上には送電線が続いていた。遊歩道、テレビアンテナの保守道ということで、良い道を予想していたのだが、足元が良く見えないほど草がかぶっていた。山頂へ続く急斜面に取り付いて周囲に雑木林が広がるようになると、道は明瞭になった。大きくジグザグを描きながら道は続いていた。山頂に到着するとまず福島とNHKの放送施設が現れた。高みをめざして雑木林の中をさらに進むと、マイクロウェーブの反射板があった。山頂一帯は台地状で、山頂標識や三角点の位置は判らなかった。翌日、大倉高山で室井さんと話していると、俎倉山にも登ったことがあるといい、三角点の位置を訪ねると、マイクロウェーブの近くにあったとのことであった。思わぬ寄り道をして時間も遅くなり、下山を急ぐことにした。
 登山口近くの昭和温泉で入浴し、夕食と翌日の食料の買い出しのために会津田島に向かった。途中で、舟鼻峠を通り、舟鼻山の登り口を確認した。まだまだ、登らなければならない山は残っている。会津田島を経由して檜枝岐の中土合公園入口駐車場に到着した時にはすっかり暗くなった。ここに野宿するのは、4月の燧ヶ岳オフミ以来ということになる。星空が広がり、ひさしぶりにテントを張っての野宿になった。
 早く寝るため、野宿の朝は早い。朝の支度をすませ、待ち合わせの燧の湯前の駐車場に移動した。驚いたことに、燧の湯一号館は6時頃から開いており、浴衣姿の泊まり客が温泉に入りにやってきた。これからヤブ漕ぎをするのに、温泉の朝風呂に入る訳にもいかなかった。待ち合わせの少し前に、室井さんの運転で宇都宮グループが到着した。さっそく車を連ねて、舟岐林道林道に向かった。途中から未舗装の道に変わったものの、車のすれ違いはできる走り易い道であった。今回の下山予定地のトヤス沢出合の舟岐橋(峠側に名前あり)に、私の車を置き、室井さんの車で馬坂峠に向かうことにした。舟岐橋のかかる黒沢の左岸に未舗装の林道があり、釣り客の車が奥に入っているが、下山予定の廃道は右岸についているはずであった。良く見れば草むらに踏み跡が続いていた。この廃道については、県別マップル福島県の道路地図には、分岐周辺だけは載っていた。舟岐橋からトヤス沢に沿ってさかのぼり、しばらくすると山腹を一気に登る道になった。砂利がまかれて整備されていたが、車の腹をこすらないように徐行が必要な場所もあった。この林道は、途中でゲートが閉じられているように会津百名山の本には書いてあるが、無事に県境の馬坂峠に車で上ることができた。峠周辺は、広い駐車スペースが設けられ、帝釈山への登山道が、立派な登山標識とともに目に入ってきた。見上げれば、帝釈山の山頂まではひと汗かけば到着しそうであった。峠には台倉高山周辺の治水関連の情報を記した立派な看板も立っていた。台倉高山方面に登山道でも切り開かれていないかと見たが、これはさすがにまだのようであった。最初からヤブ漕ぎになるため、夜露に濡れないように、雨具の下を身につけて出発の準備をした。
 峠の福島県よりから、シラビソの林をめがけて登り始めた。歩き始めてすぐに赤布と踏み跡を見つけて喜んだのもつかの間、倒木を乗り越えながらのヤブ漕ぎの連続になった。背後には帝釈山が大きく広がり、方向と登った高さは、見当をつけることができた。ひとまず1898mの稜線上に登り着いてひと息ついた。次の目標の2033mピークめざしてのシラビソ帯のヤブ漕ぎになった。スタート地点が高いために、急登は続かないのが救いであったが、ヤブの薄い所を捜したり、倒木をまたぐのに、時間がとられた。2033mピークの肩の台地のヤブを抜けると、目の前に、忽然と湿原が現れた。これまでのヤブ漕ぎとは対照的な、開放的な風景に心を奪われた。秋になって草は枯れていたが、春から夏にかけてはお花畑になりそうであった。二つ続く湿原で、しばしの休息をとった。湿原からは、踏み跡が現れた。2033mピークは北側を卷き、2028mピークに向かった。踏み跡は稜線をはずして付けられており、コースを維持するのに、リーダーの室井さんや白石さんの地図読みに全面的にたよることになった。2028mピークで、お昼も近くなって軽食休憩。前方には、台倉高山も見えるようになった。台倉高山手前の北側ピークの肩で、再び小湿原に出た。谷の縁にササをかき分けてでると、きれいなピラミッド型をした台倉高山を眺めることができた。絶好のビューポイントであった。山頂は、小台地となって見晴らしがよさそうであった。北側ピークは登らず、トラバースで鞍部に出た。いよいよ最後の登りになった。ヤブをかき分けて、待望の台倉高山の頂上に飛び出した。
 期待通りに展望の山頂であった。山頂は草で覆われているものの、木立は斜面の縁で終わっていた。三等三角点も中央にあり、上には山名を書いた郡大ワンゲルの金属プレートが置かれていた。しばし、展望を楽しんだ。白根山から男体山に女峰山の日光連山。鶏頂山に那須連峰。北には燧ヶ岳が大きく、その左手には至仏山に三角形の笠ヶ岳。右手には平ヶ岳。その奥には荒沢岳、越後駒ヶ岳、中の岳が横に並んでいた。目の前の長須ヶ玉岳の向こうには、会津駒ヶ岳から三ツ岩岳。懐かしい山、登ってみたい山が、四方を取りまいていた。展望を楽しんだあとは、ランチタイム。皆の持ってきた御馳走を分けてもらい、すっかり満腹状態になってしまった。休憩中に、中年二人連れが到着した。こちらは他の登山者が登ってきたのを驚いたが、向こうも総勢8名のグループを見て驚いたことであろう。馬坂峠からのピストンとのことであった。
 休憩後、引馬峠方向に山を下った。越ノ沢の源頭付近は、美しいシラビソの林になっていたが、たどってきた踏み跡は消えていた。越ノ沢の右岸に出る道があったというが、それらしいものは見つからなかった。また、石井氏の「静かな山60」に出てくる引馬峠と越ノ沢の分岐の道標というのも見なかった。「下りきると広い笹原の平坦地に出て」道標があったとあるので、稜線から少し下ったシラビソの林の中に下りたったため、見落としたのかもしれない。室井さんは1895m点の北の湿原マークから北西に延びる尾根を伝って越ノ沢に下りるというので、一旦尾根に登り返した。尾根の始まり部分に荷物を置いて湿原を見物することになった。室井さんが木に登って湿原を捜し、ヤブをかき分けて湿原に出た。ここもシラビソの林に囲まれた静かな湿原であった。荷物を再び背負って、尾根の下降を始めた。下草の少ない歩き易い尾根であった。大きな岩が二つ転がる所で、その先の尾根は急に落ち込んでいた。尾根から外れて、二つの岩の間から沢に向かって下降をした。それ程の距離ではなく、沢に降り立った。水を飲んでひと休み。右岸の踏み跡を期待して、トラバース気味に右岸を登り返した。かなり登っても踏み跡はみつからず、ネマガリダケの密生地を沢に向かって再び下降した。沢歩きは、滑って危険ということで、岸のヤブをかき分けながらの歩きが続いた。ハリブキが多く、なんども手や足を刺して悲鳴をあげるはめになった。沢沿いに赤布を見るようになると、丸太を何本もまとめた、橋の残骸の上に出た。これが石井氏のガイドにある「朽ちた木橋」であった。時間も遅くなり、どれくらい続くか判らない沢沿いの歩きに心配になってきたところなのでホットした。沢を渡ると、右岸に林道跡が続いていた。草がかぶり気味であったが、これまでの道に比べると、舗装道路のように立派な道に見えた。林道跡に付けられた踏み跡をたどっていくと、T時路に出て、黒沢沿いの林道跡の歩きになった。踏み跡は上流に向かっても続いていたが、渓流釣りか、それとも引馬峠への道なのであろうか。曲がってすぐ左手には、小屋の残骸があったが、「静かなる山」にも出てくる飯場の跡のようであった。廃道には似合わない立派なコンクリート橋も現れた。鉄製のガードレールも健在であったが、通る車はもはや無かった。この先も沢を渡るところには、そう簡単には流されそうもない立派なコンクリート橋が掛かっていた。廃道歩きといっても、草が茂って、普通の登山道の幅しか無い道が続いた。山腹をつづら折りに下ったりで、長い歩きが続いた。黒沢の美しいナメを見ると、舟岐橋の脇に飛び出した。
 一同には舟岐橋で待っていてもらい、室井さんを乗せて、車の回収のために馬坂峠に向かった。高度を上げていくと、空と山が茜色に染まった。難しい山行であった。大きな充実感に満たされた山行であった。一同揃って燧の湯に向かった。一号館と二号館に半々づつ入浴してしまうという手違いはあったものの、ヤブ漕ぎの間に背中から入った木屑を洗い流すことができた。

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