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会津駒ヶ岳、三岩岳

1998年5月30日〜31日 前夜発1伯2日 7名(MMLオフミ) 小雨/晴

会津駒ヶ岳 あいづこまがたけ(2133m) 一等三角点本点 南会津(福島)
三岩岳 みついわだけ(2065.0m) 三等三角点 南会津(福島県) 5万 檜枝岐 2.5万 檜枝岐、会津駒ヶ岳
山行名:会津オフミ「会津駒ヶ岳〜三岩岳縦走」

ガイド:遊歩百山9巻 p.70〜72

5月29日(金) 9:50 新潟発=(磐越自動車道、会津坂下IC、R.49、会津坂下、会津本郷、大戸町、R.118、湯野上、R.121、会津田島、R.289、南郷、R.401、伊南、R.352 経由)
5月30日(土) =1:00 小豆温泉入口駐車場  (車中泊)
7:44 会津駒ヶ岳登山口〜8:15 発―8:56 ヘリポート跡―9:45 水場〜10:08 発―11:10 池ノ平〜11:23 発―11:40 駒ノ小屋〜12:24 発―12:36 中門岳分岐―12:41 会津駒ヶ岳〜12:59 発―13:45 2098手前のコル―15:33 大戸沢岳北東斜面  (テント泊)
5月31日(日) 6:30 大戸沢岳北東斜面発―7:25 最低コル―9:00 2057ピーク―11:30 三岩岳〜11:32 発―11:44 木道T字路―12:05 避難小屋〜13:10 発―14:43 旧道分岐―15:03 黒桧沢出会―15:22 小豆温泉入口駐車場=(駒ノ湯入浴(500円)、往路を戻る)=20:50 新潟着

 日本百名山として人気の高い会津駒ヶ岳の北に連なる三岩岳は、東北の山としては貴重な2000mを越す標高を持っているにもかかわらず、会津駒ヶ岳や燧ヶ岳の人気に隠されている。「会津駒ヶ岳と言えば現在は2132.4メートルの三角点のある山だが、昔は三ツ岩岳あたりまでを含めて、駒ヶ岳と言ったに違いない。というのは、この山は遠望した場合、三ツ岩のある辺まで、ちょうど馬の背のように、ゆったりと起伏して、一つの山に見えるからである。それが証拠には、三ツ岩にも古くから駒ヶ岳神社が祀られている、」と続・静かなる山において望月達夫氏によって紹介されているように、会津駒ヶ岳と三岩岳は稜線伝いの関係の深い山である。また、この両山の間には、幾つもの湿原が点在することが、現在では新たな出版が停止してしまった遊歩百山に、長岡利弘氏によって、「人の臭いのしない山稜に”山上の楽園”が隠されていた」と題して紹介されている。
 昨年の7月5日に、三岩岳から窓明山を日帰り登山し、登山メーリングリストの報告の前置きに、会津駒ヶ岳だけがなぜもてると書いたところ、宇都宮ハイキングクラブの白石さんより、会津駒ヶ岳から三岩岳への縦走をしたことがあり、機会があったら案内しましょうという誘いの返事をもらった。三岩岳の山頂から会津駒ヶ岳を望み、近いようで手の届かぬ稜線を憧れの目で追った者としては、願ってもないことであった。今年になって、残雪の時期をねらっての、山頂湿原の花を見ながらの縦走の計画が立てられ、登山メーリングリストにも、募集の通知が出された。最終的には、白石さんの宇都宮ハイキングクラブの友人の二人を加えての7名グループになった。この機会を逃したらおいそれとは味わえないバリエーションルートを、もっと多くの人に味わって欲しかったが、結果的には足の揃った良いパーティーになった。山行の当日が近づくにつれ、不安な天気予報が出たが、土曜日に雨が残るものの日曜日は晴れという予報が出て、山行にゴーサインが出た。
 金曜日の晩に送別会があったため、新潟からの出発は遅くなった。磐越道と、先月も同じ道を通っているおかげで、眠気が訪れる前に、待ち合わせの小豆温泉入口の駐車場に走り込むことができた。いつものように、車の中で野宿。翌朝は、雲は多いが、雨は降っていない空模様であった。白石車、小林車が到着したところで、二台の車を窓明山からの下山口の保太橋手前の広場に移動させた。高橋さんが到着して、一同が集合した。まずは互いに挨拶をするが、初対面の人どうしが多く、メールほどにも言葉は出てこない。白石車と高橋車に便乗し、会津駒ヶ岳の登山口に向かった。桧枝岐村の滝沢口には、駒ヶ岳登山者用の駐車場ができていたが、林道をそのまま上っていくと、木の階段の設けられた登山口まで入ることができ、他にも登山者のものと思われる車が数台停まっていた。共同装備の分配を行い、出発の準備を行った。
 階段を登って、縦走への第一歩に踏み出した。今回始めて背負う大型ザックは、一泊のテント泊用の装備と酒で、ずっしりと重かった。それぞれに、歩き始めの苦しさに耐えているのか、皆、言葉少な目であった。尾根の一定した登りになる頃には、次第に体も気持ちもほぐれて、話が出てくるようになった。ブナ林に囲まれた登山道は気持ちよく、道ばたで見かける花の名前があがった。雨つぶが時折落ちてきたが、雨具を付けるまではいかなかった。水場入口の広場に到着して、まずはひと休みになった。空のポリタンを持って、50メートル程下った沢にある水場へ、水汲みに出かけた。2リットルの水を補充したザックは、前以上に重く感じるようになった。先回の会津駒ヶ岳は、山を始めて2年目、通算回数も28回目の1992年5月30日で、くしくも同じ日になった。その時は、水場から上は、一面残雪に覆われており、木に付けられたペンキマークと、残雪の上のトレースを頼りに登った。経験不足にもかかわらず、一人で残雪の山に良く登ったものだと、反省も込めて思っている。今年は、異常な雪融けの早さのために、夏道の歩きが続いた。記憶にあるコースとは、全く違っているようであった。つらい登りを続け、コメツガからダケカンバを見るようになって植生が変わり、高度が上がってきたことを知ることができた。傾斜が緩やかになったと思うと、樹林帯から、池ノ平の湿原の木道に飛び出した。待望のハクサンコザクラともお目にかかり、木道の上でひと休みした。昼食は、駒ノ小屋の前のベンチでとることにして、先に進んだ。この先は、草原の中の木道歩きになったが、傾斜もあり、土の上よりも疲れも大きいような気がした。前回は、これらの草原は残雪の下で、このような風景が広がっているとは知らなかった。やはり山には季節を変えて登らないと、知らないで終わってしまうものがあるようである。駒ノ小屋の前に来てようやく、残雪が現れた。ガスが流れて寒く、先のヤブコギも考えて、一同、雨具とスパッツで衣類を整えてから昼食にした。皆、歩きに特に問題は無く、ここまで来られたことにひと安心した。山頂付近の雪田も広くは残っておらず、夏道をたどって、会津駒ヶ岳の山頂に登った。先回と同じように、山頂からの眺めは、ガスに覆われて無かった。相性の悪い山というものがあるようである。中門岳は、今回もおあずけであり、再訪の理由がまた残ってしまった。一等三角点に挨拶し、山頂標識の前で、記念撮影した。
 ここからが、いよいよ本番。目指す縦走路は、ガスで見ることはできなかった。磁石によるルートファイインディングが必要になった。白石さんから、コンパスの使い方の講習を受けた。方位を定めて、潅木帯に突入した。コメツガの林の中は、ヤブは密生しておらず、思ったよりも歩き易かった。人の歩いた気配があるような、無いような。しかし、赤布やナタメなどは見あたらなかった。2098ピークとの鞍部に下りると、待望の湿原が現れた。ガスの中から現れる湿原は、乳白色にけぶり、幻想的な眺めであった。日頃は、踏みしめることの無い湿原の感触も、ふわふわして、珍しいものであった。傷め付けないように、注意しながら歩いた。ヤブを越すと再び新しい湿原が現れた。ヤブの中の歩きが困難であるため、湿原に出ると、身も心もほっと一息つくことができた。足元を良くみると、ヒメシャクナゲの小さな花が咲いているのを見ることができた。尾瀬ヶ原で木道の上から遠く眺めたことはあったが、足元に見るのは始めてであった。天気が良く、困難な縦走路が控えているのでなかったなら、カメラ片手にはいずり回っていただろうに。2098ピークの北側の湿原群を通過し、次いで大戸沢岳の北斜面のトラバースになった。コースを稜線上から外したオオシラビソやシャクナゲの樹林帯の中の歩きに、コース取りは自分では判らなくなっていた。所々残雪が現れると、歩きもはかどったが、皆の疲労も濃くなってきた。目標は、中間鞍部であったが、夕暮れも近くなってきていた。下降点近くの大戸沢岳北東斜面で、樹林で囲まれた残雪の広場に出た所で、白石さんから、幕営の提案が出された。これから先、これだけの適地が見つかるかは判らなかったので、一同賛成した。翌日歩いて判ったことだが、この先には、幕営に適した平地は、見あたらなかった。
 6人用テントを張り、ツェルトの下にザックを置いた。ビールと酒は、テントの入口近くの手の届くところの残雪に埋めて、夜の準備はOK。濡れた衣類を着替えて、テントの中でひと息ついた。今日の頑張りと、明日の健闘のために、乾杯!。池田さんと川田さんのコシアブラ入りの焼き肉も始まり、さらに小林夫妻のアイデア溢れる山の料理をふるまわれ、これがバリエーションルートのど真ん中の山中とは思えぬ大宴会になった。日本酒にワインと続き、山の話しも絶えることが無く、9時過ぎになってようやく就寝となった。寝る段になって驚いたことに、一同歯磨きを始めた。私の職業に合わせて、気を使わせてしまったかな。
 6人用テントに7人が寝たため、少し狭かったものの、直ぐに眠りに入って、目が覚めたのは3時であった。風が吹いており、時折雨粒がテントに音を立てた。トイレのために外に出ると、雨は降ってはいないものの、ガスが流れていた。4時起床の予定であったが、もう少し様子を見る必要があった。4時半になって、起き出すしかないかと、一同寝袋から起きあがった。外を覗くと、ガスが切れて、青空が見え始めていた。天気予報があたったかと、歩き出す元気が蘇った。外は風が冷たく、テントの中で朝食をとってから出発になった。
 ひと晩お世話になった空き地に別れを告げ、縦走路を先に進んだ。大戸沢岳のトラバースを少し続けると、鞍部に向かって下りていく稜線にぶつかり、ここで進路を北寄りに変えた。もっとも、ガスが上がって視界が開けており、三岩岳に至る稜線を目で追うことができるようになって、歩く方向については、私にも判るようになっていた。昨日のようなガスで視界が利かない状態だと、この下降点を見つけるのは至難の技のように思えた。白石さんは、東側に急激に落ち込む斜面まで歩いて、そこから方向を変えれば良いというのだが。残雪の斜面の下りにそなえて、アイゼンを付けた。中間鞍部の先には、三岩岳の山頂が高くそびえていた。残雪を拾いながら、中間鞍部に下った。鞍部付近は、湿性の草原に残雪が残り、その回りは、濃いササヤブになっていた。
 鞍部から三岩岳の頂上までは150mの標高差。越さなければならない小ピークが二つあるものの、登山道がある状態ならば、1時間程の行程であろうか。今回の縦走で、最も辛い区間になった。まずは、2057ピークへの登り。明瞭な尾根上はオオシラビソやシャクナゲの樹林の密生帯で、東斜面はササ原になっていた。稜線上のヤブが薄そうな時は、そのまま尾根上を進み、密生してくると、ササ原に逃げて、トラバースと直登を交互に繰り返した。ササに足を滑らして、尻餅をする回数も、疲れるとともに多くなっていった。ササの中には、シラネアオイがひっそりと咲いていたが、愛でる余裕もなかった。2057ピークから後ろ向きになってササの急斜面を下ると、湿原の上に降り立った。ササヤブの地獄から天国に降り立ったような気分になった。振り返れば、中間鞍部もはるか下になっていた。しばらくは湿原歩きを楽しむことができた。東側の斜面にはキヌガサソウとサンカヨウの大群落が広がっていた。湿原の中には、踏み跡があり、獣道であるのか、不思議であった。三岩岳に至る稜線を仰ぎ、二つ岩を見下ろしながら歩く道は、ひと時のやすらぎを与えてくれた。2060ピークへの登りになると、再びヤブとの格闘になった。次第に腕の力が入らなくなり、最後尾で歩いていて、少し距離が開くと、追いつくのに時間がかかるようになってきた。2060ピークでも、再び美しい湿原に出合った。このコースは、苦労とご褒美が交互に出てくるようだ。いいよ、三岩岳への登り。山頂手前で明るい湿原に飛び出すと、ここが三岩湿原であった。山頂までは、あとひと息。ようやく周囲の展望に目をやる余裕も生まれた。会津駒ヶ岳からの縦走路は、これまでの苦闘を思わせるように長く続いていた。遠く日光の山々、田代山に七ヶ岳、窓明山から坪入山、見飽きることの無い眺めであった。足元にはハクサンコザクラが、草原の緑にピンクの彩りを添えていた。再び樹林帯に突入すると、ようやく赤テープも見られるようになり、俗界に戻ってきたことを知った。最後はあっけなく、空き地に飛び出したと思ったら、そこが三角点の置かれた山頂であった。休んでいた登山者から、半ば予期していたような質問、「どちらから」という声がかかった。会津駒ヶ岳からと答えたが、その意味する所は、判ってもらえただろうか。手狭な山頂を避けて、昼食は避難小屋まで下りてからとることになった。登山道は、やはり歩きやすく、窓明山を眺めながらの歩きは気持ちも明るくなった。
 避難小屋付近は、静まりかえっていた。三岩岳への登りに残雪が使えず、思わぬ時間がかかってしまったため、窓明山への縦走は中止して、ここから下ることになった。そうとなれば、昼食はのんびりと楽しむことに。今度は焼きうどんの御馳走に、ここまで運んできたビールで乾杯をした。コーヒーにバウンドケーキ。食事を終えれば、後は下るだけ。下山途中の登山道のまわりにもイワウチワの花が続き、花の山旅の締めくくりになった。ブナの新緑も、色が濃くなって、夏も近いことを教えていた。旧道と黒桧沢との分岐にでると、直進する旧道の方が、はっきりした道のように見えた。黒桧沢の鉄橋が、しばしばダメージを受けるために、尾根通しの旧道も整備されているのだろうか。ブナ林を眺めながら下っていくと、小豆温泉のスノーシェードの上に出て、今回の山行は終わった。檜枝岐村の駒ノ湯で汗を流し、解散を宣言して、それぞれの家路についた。

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