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須刈岳、富士山、大仏山、高寺山

1997年12月6日 日帰り 単独行 晴

須刈岳 すがれがたけ (440m) 標高点 会津(福島県) 5万 野沢 2.5万 徳沢、野沢
ガイド:ふくしまの低山50(歴史春秋社)

富士山 ふじさん(508.8m) 三等三角点 会津(福島県) 5万 野沢 2.5万 野沢
ガイド;山を訪ねて 会津の日向山・日翳山(歴史春秋社)

大仏山 だいぶつやま(708.2m) 二等三角点 会津(福島県) 5万 熱塩 2.5万 熱塩
ガイド:なし

高寺山 たかてらさん(406.1m) 三等三角点 会津(福島県) 5万 喜多方 2.5万 喜多方西部、坂下
ガイド:なし

ガイド:新潟ファミリー登山(新潟日報社)、新潟の山旅(新潟日報社)、越後の山旅上巻(富士波出版社)、山と渓谷93年2号

12月6日(土) 5:00 新潟発=(磐越自動車道、津川IC、R.49 経由)=6:10 須刈岳登山口〜6:35 発―6:42 登山道入口―6:50 水場―7:12 須刈岳頂上〜7:25 発―7:52 水場―7:57 登山道入口―8:01 須刈岳登山口=(上野尻駅、樟山、小清水 経由)=8:36 陣ヶ峯峠〜8:45 発―9:05 伐採地下部―9:18 富士山頂上〜9:25 発―9:36 伐採地下部―9:48  陣ヶ峯峠=(山都、R.459、喜多方、米沢街道、二軒在家 経由)=11:08 大仏山登山口〜11:12 発―11:49 大仏山山頂〜11:53 発―11:57 北峰〜12:02 発―12:05 大仏山山頂〜12:20 発―12:57 大仏山登山口=(喜多方、蔵の湯入浴、R.459、山都、西海枝 経由)=15:10 北の峠〜12:12 発―12:29 高寺山三角点―15:31 高寺山古墳―15:36 高寺山三角点―15:51 北の峠=(塔寺、R.49、会津坂下IC、磐越自動車道 経由)=17:35 新潟着

 須刈岳は、西会津町の盆地を取りまく山のうち、もっとも阿賀川近くに位置し、とがったピークを持つことから低いながら目立つ山である。登山口にある上野尻自治区による看板には、雨乞の山であった旨が書かれている。
 富士山という名の山は、「ふるさと富士百名山」掲載のふるさと富士一覧をみると、全国には数多くある。今回の富士山は、飯豊連峰の南山麓の、西会津町と高郷村の境に位置する山である。
 大仏山は、蔵とラーメンで観光地となった喜多方の北部、旧米沢街道沿いの山である。山頂には、小さな石の大仏像が置かれている。
 高寺山は、会津坂下町と高郷村の境界、只見川沿いにある山である。かつて寺院が立ち並び、「高寺三千坊」と呼ばれるほど隆盛を極めたというが、現在、その遺構は見つかっていないという。
 会津百名山の資料をまとめたことから、これらの山を登りたくなった。今週始めの冷え込みで、積雪も本格化したことから、リストの内の標高の低い山を登ることにした。25000分の1地図を買って、道路地図と照らし合わせて山へのアプローチと回る順番を考えた。肝心の登山口がどこにあるのか判らない山もあったが、現地で捜すことにした。
 R.49線を通る際に、いつも須刈岳登山口の標識が気になっていた。登山口のドライブイン「すがり」も数年前に廃業し、入口にチェーンが掛かって、建物もずいぶんと荒れた感じになってきた。会津よりに通り過ぎた所の、路肩スペースに車を止めた。霧もかかっているためか、明るくならず、車の中でしばらく待機になった。ドライブイン前には、須刈岳の看板が立ち、そこからは、車がなんとか乗り入れられる林道が始まっていた。林道を登っていくと、道標があり、右手の杉林の中への登山道に入った。ひと登りすると、左手に建物が現れ、耕作地の縁を進む道になった。帰りにこの建物を見にいくと、扉は木材でふさがれ、普通の民家ではなさそうであった。草に覆われた舗装された駐車場もあり、昔は観光農園かなにかであったのだろうか。荒れた林道の終点から左手の杉林に入り、少し登ると水場が設けられていた。杉林の中の道は、沢を越して向こうの尾根にとりついたりと、少々分かりにくかったが、要所には登山標識が整備されていた。10センチ程の雪が積もっていたが、歩くのに支障はなかった。傾斜がきつくなり、雑木林が周囲に広がるようになると、枝尾根の峠状の部分に出た。コースを右に変え、急な登りをもうひと頑張りすることになった。山頂は、木が切られて小広場になり、輪切り丸太のベンチも置かれていた。第一回須刈岳山開き登山大会という、新しい木の標柱も立てられていた。会津百名山に選ばれたことがきっかけで、地元の低山も注目されるようになったのだろうか。霧は晴れず、回りの展望は得られなかった。転げ落ちる雪玉と競争するかのように急坂を下ると、国道を行き交う車の騒音も聞こえるようになり、あっけなく車に戻ることができた。
 続いて、阿賀川の右岸に渡り、富士山を目指した。富士山への登山道は、漆窪からあるようであったが、ガイドブックにも紹介されている陣ヶ峯峠から登ってみることにした。陣ヶ峯峠と思われる県道の最高点は、道路の拡張工事が行われて、切り通しになっていた。西会津町と高郷村をそれぞれ示す標識があり、地図の上でも現在地を確認することができた。しかし、ガイドブックにあるように富士山から北西に延びる尾根にとりつくには、峠は南に行き過ぎているようにも思えた。しかし、切り通しの草付きの雪上に、足跡があったことから、登山者がいるのかと思って、歩き出すことにした。切り通しの上に出ると、足跡はそこで止まっていた。方向を見定め、ヤブコギをすることにした。潅木の密生度は高く、冬枯れの季節であったので、なんとか通ることのできる状態であった。真っ直ぐ進むことはできず、濃いヤブを迂回しての歩きになったが、幸い雪の上の足跡が良いマーキングになった。傾斜が緩くなると、伐採地に飛び出した。富士山の東斜面は、伐採後の植林地になっており、工事現場の真ん中に立ったような感じがした。霧がかかっていたが、右手の高みが山頂のようであった。北からは、地図において、漆窪から富士山の東山麓を巻いてつけられている波線の延長かと思われる道が登ってきていた。伐採地一帯には、作業道が枝分かれしており、どちらに進むべきか、しばし考え込んだ。まず、左方向へ進んだが、作業道はすぐに行き止まり。山頂を見上げながら北に回り込んでいくと、山腹を大きくカーブしながら登っていく作業道が見つかった。まだ延びきっていない若い杉の植林地を登っていくと、最後は南の方向から山頂部に登り着いた。山の東斜面は伐採地、西斜面はかなり延びた杉林になっていた。山頂の標識を捜しながら北に進と、杉木立の中に石の祠と二つの石灯篭が置かれた広場があった。北に向かっての尾根上には、漆窪に続くと思われる明瞭な道が下っていた。石の祠は、権現堂とのことで、中には丸石信仰らしい、変哲もない丸石がいくつも納められていた。三角点は、祠の南側にあった。杉木立の中の広場には落ちついた雰囲気が残されていた。この山頂も、霧のために展望は得られなかった。作業道を下って、再びヤブに突入した。雪に残されたトレースを辿っていけばよかったが、それでも時折、次の足跡を捜すために立ち止まる場面があった。今回のルートは、ガイドブックとは取り付きが違っていたようであった。もう少し小清水よりからとりつくのが正解であったのかもしれない。一般的には、漆窪の集落からの参道を利用するべきであろう。
 続いて、大仏山を目指した。今年の夏、飯森山の帰りに喜多方によって、「蔵のまち散歩道」というパンフレットをもらった中に、大仏山ハイキングと書いてあったのを思い出した。駅前の観光案内所に寄って、登山コースについて教えてもらうことにした。オフシーズンの観光案内所では、ストーブにあたりながらオバサンが本を読んでいた。大仏山の登山口を尋ねると、旧米沢街道の二軒在家から、喜多方温泉「おさらぎの宿」の前の林道を進めば良いと、親切に教えてくれた。山には雪が積もっているはずなので、気を付けるようにと注意してくれた。山開きも4月29日のみどりの日に行われ、当日は温泉入浴券がプレゼントされるようであった。なんとか登れるめどもついて、ひと安心した。昼近くになって、喜多方ラーメンにも誘惑されたが、まずは登山をすますことにした。二軒在家には、大仏山登山口という標識も立っていた。細いながら舗装された林道を登っていくと、左手に建物が現れ、その少し先の伐採地の入口に、登山口の標識がかかっていた。建物の前の広場に車をとめた。林道沿いの小川を丸太橋で渡り、伐採地の中を左手に向かうと、水の涸れた沢の中の道になった。落ち葉も積もって、道は判りづらくなっていたが、ビニールテープが数多く付けられていた。急坂が続き、固定ロープも何カ所かに付けられていた。内陸部に入ったせいか、山の標高にもかかわらず、雪はかすかに残っているだけであった。登るにつれて青空が広がり、木立を通して、白い飯豊連峰が見え始めた。一旦傾斜は緩くなるが、再び急坂になり、最後は山頂に飛び出した。山頂の狭い広場には、新しそうな石の大仏像が置かれていた。その前の三角点は、半分程が欠けていた。会津盆地は霧に覆われて、その雲海の上に、青空をバックに飯豊連峰が浮かんでいた。また、東には、磐梯山の双耳峰が、雄国山の向こうに頭をのぞかせていた。西の雲海の向こうに頭を覗かせているのは、御神楽岳であろうか。さらに遠くの越後の山も見えるが、どの山かは判らなかった。明瞭な道が北に向かって続いていた。地図を見ると、北に最高点があるようであった。尾根道をたどると、雑木林で囲まれた最高点に出たが、山頂標識などはなにもなかった。道はさらに下っていき、斜面の縁に出ると、菅沼あたりの集落を見下ろすことができた。この集落から尾根づたいに道があるようであった。この北斜面からは、とがった鉢伏山と、横に肩を広げた飯森山の連なりも眺めることができた。三角点ピークに戻って、暖かい日差しの中でひと休みした。木の枝を掴みながら一気に山を下ると、再び頭上を雲が覆うようになった。
 喜多方に戻り、チャーシュメン(800円)を食べ、続いて道の駅喜多の郷の「蔵の湯」に500円で入浴した。体は冷え切っており、温泉の暖かさが心地よかった。
 すっかりさっぱりして、新潟に向かって帰るつもりになった。途中、登山口の判らない高寺山の脇を通ることから、登山口の確認をすることにした。地図を見ると、高寺山は、会津坂下町と高郷村の境界にあり、この境界線に沿って道がある可能性があった。まず、高寺山の西の高寺にあるため池の北端付近を偵察した。杉林の中に、山に向かって新しい切り開きがあり、境界見出標のための杭が埋め込まれ、作業の目印のためか、かたわらの木にはビニールテープが付けられていた。この荒い切り開きをたどれば、山頂に至ることが出来そうであったが、一般的な道とは思えなかった。地図を確認すると、西海枝から高寺山の北端を越す自動車道があり、ここからだと、標高差も少なく、道がありそうに思えた。大きくカーブする道を登っていくと、最高点近くに、右手に林道が分岐した。偵察のつもりで、手帳と地図だけを持って歩き出した。林道は、山に向かって、奥へ奥へと続いていた。途中で、赤く塗られた丸い板が枝に吊るされて、これが指導標であることに気がついた。歩いているうちに、引き返すタイミングを失って、山頂をめざすことになってしまった。林道から左手のやせ尾根に移ってひと登りで、「右 展望台 左 高寺山古墳」という標識の前に飛び出した。左手に向かうと、直ぐに分岐になって、右手に三等三角点という標識が現れた。三角点は、雑木林に囲まれ、山頂といった感じはなかった。さらに進むと、僅かに登った所に高寺山古墳という看板が現れた。前方後円墳ということであったが、人工物であるかどうかは、全く判らなかった。また、高寺山の一本杉として、「会津盆地の方からも、只見川の方からも良く見え、高寺山の一本杉として有名であったが、昭和34年9月26日の伊勢湾台風によって折れてしまい、代わりに苗木を植えた」という内容の説明板が立っていた。三角点の入口の分岐の先には、南に向かって、良く踏まれた道が続いていた。登山の標識は、少年自然の家という名前が書かれていた。あとで道路地図を参照してみると、南東部に、この少年自然の家はあり、高寺山の南一帯には、塔寺いこいの森として整備されているようであった。おそらく、この方面からの道がメインの道で整備されているようであった。偵察のつもりが、思わぬ、もうひと山になってしまった。
 6慈30分から峡彩ランタン会の忘年会があったが、高速道のおかげで、問題なく新潟に戻ることができ、山登りの後の酒にもありつくことができた。

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