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陣馬平山、井上山、須坂基線東端、須坂基線西端、髻山

1997年11月22日 前夜発日帰り 単独行 曇り時々雨

陣馬平山 じんばだいらやま(1257.5m) 一等三角点補点 長野周辺(長野県) 5万 長野、2.5万 信濃中条
ガイド:信州の里山を歩く 東北信編(信濃毎日新聞社)

井上山 いのうえやま(771.3m) 一等三角点基線 長野周辺(長野県) 5万 須坂、2.5万 須坂
ガイド:一等三角点の山々(新ハイキング社)

須坂基線東端 すざかきせんとうたん (447.7m) 一等三角点基線 長野周辺(長野県) 5万 須坂、2.5万 須坂 ガイド:一等三角点の山々(新ハイキング社)

須坂基線西端 すざかきせんせいたん(353.3m) 一等三角点基線 長野周辺(長野県) 5万 中野、2.5万 中野西部
ガイド:無し

髻山 もとどりやま(744.5m) 一等三角点本点 長野周辺(長野県) 5万 中野、戸隠、2.5万 中野西部、若槻
ガイド:一等三角点の山々(新ハイキング社)

11月21日(金) 21:00 新潟発=(北陸自動車道、上越IC、R.18、中郷IC、上信越自動車道 経由)=23:50 小布施PA) (車中泊)
11月22日(土) 6:00 小布施PA発(上信越自動車道、長野IC、稲里町、R.117、長野、R.19、瀬脇、七二会 戸隠篠ノ井線 経由)=7:03 地蔵峠〜7:06 発―7:23 陣馬平山〜7:27 発―7:42 地蔵峠=(戸隠篠ノ井線、七二会 瀬脇、R.19、長野、県道長野須坂インター線、井上 経由)=9:07 井上城跡登山口(金口)〜9:17 発―9:36 小城跡〜9:43 発―9:47 大城跡〜9:52 発―9:54 浄運寺分岐―10:24 井上山〜10:32 発―10:48 847ピーク―11:01 井上山―(鉄塔巡視路No.16より引き返し)―11:46 井上山〜11:50 発―12:10 浄運寺分岐―12:20 浄運寺―12:36 井上城跡登山口(金口)=(R.403、須坂、県道54号線、須坂温泉入口、千本松入口 経由)=13:16 須坂基線東端=(須坂温泉入口、須坂、県道352、小河内 経由)=13:48 須坂基線西端=(小布施橋、R.18、赤沼、吉、北国街道、平出神社 経由)=14:50 髻山登山口―14:59 髻山〜15:22 発―15:28 髻山登山口=(平出神社、北国街道、牟礼、R.18、野尻IC、上信越自動車道、中郷IC、R.18、上越IC、北陸自動車道 経由)=19:10 新潟着


 陣馬平山は、長野市と戸隠村との境界、犀川沿いにある山である。平坦な山頂を持ち、山頂付近には、青少年山の家やテレビ中継所が設けられて、散策路が設けられている。
 須坂周辺には、全国測量網の基点となる基線場が設けられている。この基線には、東西端と雁田山、井上山が含まれ、さらに髻山、猫岳、岩菅山、聖山の一等三角点本点に広げられている。
 井上山は、須坂・長野東ICの東の井上の集落の南に広がる稜線上のピークで、地形図上にはその名前は表示されていない。井上山への登山標識は無いが、尾根続きの井上氏の山城跡への登山道が整備されている。
 髻山は、長野市と牟礼市との境にあり、北国街道を見下ろす里山である。かつて上杉謙信の重要な砦が設けられていたという。
 この週末、天気が崩れるという予報が出た。遠出をする予定であったが、計画を変更して、雨でも登れる山として、長野周辺の一等三角点巡りを行うことにした。前日の昼休みに、二万五千分の一地図を買い込んだ。地図と県別マップル長野県三万分の一道路地図を比べて、アクセスの仕方と三角点の場所を確認して、準備を整えた。百名山では、ハイキング地図はともかく、二万五千分の一地図は必要としないが、里山や平地の一等三角点は、充分に下調べをしないと見つからない恐れがあった。
 今回が、延長された上信越自動車道の走り初めになった。あっという間に県境を越して長野盆地に走り込んだ。山に行き出すようになってからも、長野自動車道の長野―松本間の開通や磐越自動車道の開通によって、山への距離は格段に短くなってきた。一等三角点をまとめて訪れたかったため、前夜発とし、小布施SAの駐車場で仮眠した。夜半から小雨が降り出した。
 まず、陣馬平山へ向かった。信濃中条の地図を見て驚くのは、山地が広がっているにもかかわらず、集落や道路によって埋められて、空白部が少ないことであった。R.19から七二会を目指して、一気に高度を上げた。標高700〜800m付近に集落が広がっているが、冬の積雪はそれ程心配する必要はないのだろうか。青少年山の家の看板に従い、戸隠篠ノ井線の林道を上がっていくと、陣馬平山の山頂を左に巻いて、地蔵峠に出た。戸隠篠ノ井線は、左手に下っていき、右手に青少年山の家に向かう林道が分かれる三叉路になり、広場が設けられていた。案内板も立てられ、正面には、荒倉山が横たわり、晴の日には、戸隠連峰の眺めが良いとのことであった。この広場から歩き出すことにした。傘をさして、カメラだけを持った。直ぐに、右手に未舗装の林道が分岐した。カラマツ林の中を登っていくと、テレビの中継基地が現れ、林道は終点になった。その先は、緑のネットで囲まれた広場になっていた。立ち入り禁止なのかどうか判らずに中に入ってみると、腐りかけたテニスのネットがあり、テニスコートの跡であった。雑草の茂る広場に三角点を捜したが見あたらず、右手が最高点になりそうであった。広場の奥でネットをくぐり抜けると、右手の稜線に向かう道が現れた。稜線に上がると、T字路になった。どちらに進むべきか迷ったが、最高点は西側のようであった。コートの上に戻るように進むと、脇に踏み跡が分かれ、一等三角点が埋まっていた。林の中で見晴らしは効かなかったが、かたわらにはベンチが置かれいた。稜線をそのまま下っていくと、テニスコートの脇にでて、ネットの隙間から広場に戻った。ネットのおかげで、広場の中央部から尾根に取り付く所が分かりにくくなっていた。車に戻って、朝食にした。三叉路には、虫倉山という表示が出ていたので、鬼無里に向かって下ってみると、林道が分かれていたが、通行止めで抜けられないと表示されていた。地図にも無い道なので、現在工事中なのかもしれない。
 続いては、井上山に向かった。長野市内からオリンピックの競技施設らしいドームを見ながら、須坂・長野東ICに向かった。井上の集落に入ったとたんに、下水工事で通行禁止になっており、路地を回りこみながら山に向かった。集落を通り抜けて、インターチェンジの南でR.403から分かれて入ってくる道に出ると、山の西端で北に延びる枝尾根の終点部に井上城跡登山口の標識が立っていた。ここには、東に向かって金口という標識もあったが、この金口がどこをさすのかは判らなかった。登山口の脇に、天然記念物井上枕状溶岩の看板があり、路肩に車の置けるスペースがあった。今回は、登山装備を持って歩き出した。階段を登って尾根に取り付くと、はっきりした登山道が現れた。幸い雨は止んでくれたが、11月終わりとは思えないような暖かさであった。足元に高速道を見下ろしながらの尾根歩きを続けると、小城跡に到着した。説明板には、「小城跡 城の西方200mの尾根上にあり、主郭と副郭より成る。東西約7m、南北約5mの小削平地で、南は綿内、川田方面、西は千曲川をはさんで長野方面を見渡すことができる。この小城は大城を支える前進監視哨であった。(井上歴史の道)」と書かれている。緩い尾根をたどり、空堀を越しながら登ると、大城に到着した。ここには、「大城跡 井上氏館跡の西南方、東西に走る尾根上にあって、本郭と一段西方に下がって副郭があり、本郭を囲んで南側に帯郭が残っている。井上氏は入国と同時に綿内、保科方面と長池・高田から戸隠方面にまで所領開拓を進めているので、この大城の位置は「国見の丘」として理想的立地であった。(井上歴史の道)」と書かれていた。大城を過ぎた先で、浄運寺への道を左に分け、尾根通しの道を進んだ。井上山の稜線は一段高く、本格的な登りが始まった。充分歩かれている道であったが、落ち葉で覆われ、濡れて滑りやすかった。右から尾根を合わせて左に方向を換え、急斜面を登り終えると、雑木林の中に三角点の置かれた井上山に到着した。三角点の写真を撮り、ひと休みの後、前方に続く道をたどってみることにした、わずか先で、送電線の巡視路が左に下っていき、No.15という標識が置かれていた。前方に、井上山よりも高い847ピークを見ながら進んでいくと、鞍部に送電線の鉄塔(No.14)が現れた。ひと頑張りすると、林の中の広場になった847ピークに到着した。山名板かなにかないかと捜したが、なにも無く、このピークの名前は判らなかった。地図を見ると、送電線は、北に向かって山を下り、林道に合わさるようであったので、井上山に戻ってから、巡視路を下りてみることにした。巡視路は、あまり歩かれていないようで、落ち葉に埋もれて、コースをはずれないように注意が必要であった。二本目の鉄塔に下った所で、下からガスがわいてきて、あたりの地形を把握しづらくなったため、登り返すことにした。井上山からの下りは注意したつもりだが、足元の落ち葉が雪崩をおこして、登山道を数メートル滑り落ちた。大城跡の手前から浄運寺に下った。丸太階段で一気に高度を落とすコースであった。あっけなく、寺の墓地の脇に降り立った。ここにも、井上城登山口の標識が立っていた。浄運寺からのコースは、急斜面の階段が続くので、下りに使った方が無難のようである。立派な小坂神社を横目に、山を西に回り込んで、車に戻った。
 続いて、須坂基線東端に向かった。平地の探索には、地形図よりも道路地図の方が役に立つ。須坂の町から、県道54号線を東に向かい、須坂温泉入口を通り過ぎ、千本松入口のバス停を過ぎると、三菱のガソリンスタンド。二つ目の道を左に入ると、福島正則火葬場の看板が現れた。二本目の道路を左折し、ここらあたりだろうと、脇見運転をしながら進むと、北側の路肩に白い板で囲まれた三角点を見つけることができた。周囲はリンゴ畑であるが、三角点は冷遇されて、かたわらには枯れ草が積み上がって、おきまりの三角点を大事にしましょうの看板や、白い柱も失われていた。三角点はかなり痛んでおり、泥に埋もれ加減で、測量用の板がなければ見つけることは難しそうであった。この三角点の目印としては、道路の反対側の米子製作所、前にある四ツ屋幹793の電柱を捜せば良い。山行記録というよりは、住所案内になってしまう。
 さらに、須坂基線西端へ。須坂の町に戻り、県道352を北に向かった。小河原に近づくが、道路の左右がリンゴ畑で、現在位置の確認ができないまま新田町交差点に到着した。県道499を東に入り、最初の道を南下した。リンゴ畑の中を走っていくと、東側の空き地に、測量のポールを中央に立てた一等三角点を見つけることができた。
 もうひと頑張りして、髻山へ。前夜野宿をした小布施ハイウェイオアシスの脇を通って、小布施橋で千曲川を渡った。赤沼の交差点から交通量の多い抜け道を通って、北国街道に出た。はじめ、髻山に東から向かう車道の入口を捜したが、リンゴ畑に通じる道と見分けることができなかった。北からの登山道を捜すことにした。平出神社の角で、バイパスから西に向かう道に入り、わずかに進んだ所で髻山登山口の標識が現れた。細い林道を進んでいくと、再び髻山登山口の標識が現れ、登山道が杉林の中についていた。路肩に車を止め、歩き出した。白い金属製の標識には、山頂まで440mという数字が書かれ、この後もカウントダウンの看板が何枚も現れた。杉林の中をジグザグに登っていくと、トイレの下に出て、その先が山頂であった。山頂は、広い広場になっており、石祠や一等三角点の他に、立派な天測点が置かれていた。「髻山城址は戦国時代数次の川中島合戦において、葛山・大峰山・旭山・飯山の諸城と共に、宿敵武田信玄の野望を粉砕するため越後の勇将上杉謙信の重要な砦であった。
 当髻山城は、本陣横山城と飯山城の中間に位置し、その眺望は大変すぐれ、東南には妻女山、犀川、千曲川、川中島平等敵味方の動静を見渡せ、西南には北信五岳から越後の空を見渡す事が出来る。
 眼下には、自軍の動脈である北国街道を見守った。」と説明板には書いてあった。昔を思って、山城の跡にたたずんだ。一気に道を下ると、明朗な登山道ではあるが、白い看板が無く、道が違うことに気が付いた。どうやら、登ってきた道は尾根の向こうのようであった。尾根を直進する道で、ちょっと判り難かったせいもあるが、朝から飛び回っており、注意力が散漫になってきたようである。この道が、地図に書かれている西に延びる道のようであった。登り返して、トイレの下から、北よりに分かれる登山道を下り、車に戻った。
 それ程の山歩きをしたわけでもないが、道路地図に首っ引きの5つの一等三角点めぐりで草臥れてしまい、雨も本降りになったことで、家路についた。

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