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小河内岳、前岳(荒川岳)、中岳(荒川岳)

悪沢岳(荒川岳)、赤石岳

兎岳、聖岳

上河内岳、茶臼岳

光岳

1997年8月3日〜8月8日 前夜発6泊7日 二名グループ 晴/晴/雨/雨/雨

烏帽子岳 えぼしだけ(2726m) 南アルプス南部 (長野県・静岡県)
小河内岳 こごうちだけ(2802m) 二等三角点 (長野県・静岡県)
板屋岳 いたやだけ(2646m) (長野県・静岡県)
前岳(荒川岳)まえだけ(あらかわだけ)(3068m) (長野県・静岡県)
中岳(荒川岳) なかだけ(あらかわだけ)(3083m) (静岡県)
悪沢岳(東岳) わるさわだけ(ひがしだけ)(3141m) (静岡県)
赤石岳 あかいしだけ(3120m) 一等三角点本点 (長野県・静岡県)
中盛丸山 なかもりやま(2807m) (長野県・静岡県)
兎岳 うさぎだけ(2808m) (長野県・静岡県)
聖岳(前聖岳) ひじりだけ(まえひじりだけ)(3013m) (長野県・静岡県)
奥聖岳 おくひじりだけ(2982m) 三等三角点 (静岡県)
上河内岳 かみこうちだけ(2803m) 二等三角点 (長野県・静岡県)
茶臼岳 ちゃうすだけ(2604m) (長野県・静岡県)
仁田岳 にっただけ(2524m) 三等三角点 (静岡県)
光岳 てかりだけ(2591m) 三等三角点 (長野県・静岡県)
イザルヶ岳 いざるがだけ(2540m) (静岡県)
5万 赤石岳、身延、大河原 井川 時又 2.5万 鹿塩、信濃大河原、塩見岳、赤石岳、大沢岳、上河内岳、畑薙湖、池口岳、上町

ガイド:アルペンガイド「南アルプス」(山と渓谷社)、山と高原地図「塩見・赤石・聖岳」(昭文社)

8月1日(金) 16:25 新潟発=(北陸自動車道、上越IC、R.18、信州中野IC、上信越自動車道、長野自動車道、中央自動車道)=22:40 駒ヶ岳SA着  (車中泊)
8月2日(土) 5:35 駒ヶ岳SA発=(中央自動車道、飯田IC、矢筈トンネル、R.152、上村、上島トンネル、林道赤石線、下栗 経由)=8:10 易老渡=(下栗、上島トンネル、上村、R.152、地蔵峠、R.152、大鹿、鳥倉林道 経由)=10:40 鳥倉林道ゲート〜11:03 発―11:42 鳥倉コース登山口〜11:46 発―12:47 尾根標柱〜12:55 発―13:29 水場〜13:46 発―14:16 塩川分岐〜14:20 発―14:43 三伏峠  (三伏峠小屋)
8月3日(日) 4:00 三伏峠発―4:47 烏帽子岳〜5:15 発―5:55 前小河内岳〜6:00 発―6:30 小河内岳〜6:50 発―8:15 大日影山下―8:51 板屋岳〜9:10 発―10:53 高山裏小屋〜10:40 発―11:00 水場〜11:15 発 ―11:37 鎖場―13:30 前岳の肩〜14:30 発―14:41 荒川岳・前岳〜14:45 発―14:51 赤岳分岐―14:57 荒川岳・中岳〜15:05 発―15:08 荒川中岳避難小屋  (荒川中岳避難小屋泊)
8月4日(月) 4:45 荒川中岳避難小屋発―5:36 悪沢岳〜5:52 発―6:43 荒川中岳避難小屋〜7:10 発―7:13 中岳―7:28 赤岳分岐―8:08 水場〜8:17 発―8:33 荒川小屋〜8:40 発―9:15 大聖寺平〜9:25 発―10:35 小赤石岳〜11:13 発―11:24 椹島分岐―11:43 赤石岳〜12:20 発―13:05 急斜面下―13:44 百間平〜13:50 発―15:26 百間洞  (百間洞山の家泊)
8月5日(火) 停滞  (百間洞山の家泊)
8月6日(水) 4:55 百間洞発―5:13 旧百間洞山の家跡―6:12 稜線分岐〜6:15 発―6:34 中盛丸山―7:30 小兎岳―8:07 兎岳〜8:17 発―10:35 聖岳〜10:45 発―11:01 奥聖岳〜11:10 発―11:25 聖岳―12:58 便ヶ島分岐―13:12 上河内岳分岐―13:20 聖平小屋  (聖平小屋泊)
8月7日(木) 5:20 聖平小屋発―5:26  上河内岳分岐―7:26  上河内岳下―7:34  上河内岳―7:40  上河内岳下―8:37 茶臼小屋分岐―8:52 巻道分岐―8:58 茶臼岳―9:14 仁田池小屋跡―9:40 希望峰―9:50 仁田岳―9:58 希望峰〜10:05 発―11:20 易老岳〜11:25 発―12:18 三吉平〜12:25 発―13:18 セイジヶ原水場―13:35 光小屋  (光小屋泊)
8月8日(金) 5:15 光小屋発―5:22 寸又峡分岐―5:32 光岳―5:44 光石―5:46 発―5:56 光岳―6:04 寸又峡分岐―6:08 光小屋〜6:15 発―6:23 イザルヶ岳入口―6:29 イザルヶ岳―6:35 イザルヶ岳入口―6:40 セイジヶ原水場―7:06 三吉平〜7:10 発―8:05 易老岳〜8:10 発―9:19 便ヶ島近道分岐〜9:24 発―9:30 面平―10:13 易老渡=((下栗、上島トンネル、上村、R.152、地蔵峠、R.152、大鹿、鳥倉林道、大鹿、R.152、鹿塩温泉入浴、松川IC、中央自動車道、長野自動車道、上信越自動車道、信州中野IC、R.18、上越IC、北陸自動車道 経由)=21:20 新潟着

 南アルプスは、三伏峠を境として、北部と南部に分けられる。三伏峠から烏帽子岳、小河内岳といった2800m前後のピークを連ねて南下する主稜は、荒川岳で3000mを越す。荒川岳は、前岳、中岳、東岳の3つの峰からなるが、前二者が峰続きであるのに対し、東岳は三山の内で最も高く、離れて独立した位置にある。そのため、東岳は、特に悪沢岳と呼ばれており、日本百名山でも、この名前が使われている。荒川岳の南に、覇を競うように3000mを越してそびえるのが赤石岳である。南アルプスを赤石山脈と呼ぶように、赤石岳は盟主として重厚な姿を見せている。その南には大沢岳、中盛丸山、兎岳といった小粒だが、尖った山頂をもつ峰が連なり、最南部の3000m峰である聖岳に続く。上河内岳、茶臼岳とさらに南下するにつれて、徐々に高度は下がって深い樹林で覆われるようになり、2500m級の光岳をもって南アルプス南部は終わる。それ以南も稜線は続くが、深南部として限られた者の訪れる領域になる。この領域で日本百名山に選ばれているのは、悪沢岳、赤石岳、聖岳、光岳の四座。さらに二百名山として上河内岳、三百名山として茶臼岳が選ばれている。
 日本百名山に挑戦しようと思った時に、まず不安に思ったのは岩場登りの剣岳と、長い登りで体力を要する南アルプスであった。登山の開始から7年目、百名山も終了近くになり、体力も少しは自信が付いてきた。残り少ない百名山は、美しく決めたいものと思ったが、南アルプス南部の計画は、これまでになく難しかった。一般的な静岡ルートは、新潟からだと遠すぎるという難点がある。リムジンバスの復活や便ヶ島登山小屋の廃止などが、人の流れにどのように影響するかといった不確定要素もあった。ひとつのひらめきとなったのは、昨年の鳥倉林道を利用した塩見岳への登山であった。道路地図を見ると、鳥倉林道の入口の大鹿と光岳登山口の易老渡入口の上村は、同じ長野側の伊那谷沿いで、車なら数時間の距離であった。車の回送と三伏峠までの登りは、1日で済ませることができそうであった。あとは、車を持った相棒を見つければ、三伏峠から光岳までの南アルプス南部の全縦走が可能なものになるはずであった。結局、山の大先輩の飯塚先生の定年退職祝いを兼ねて、この計画を実行することにした。最低でも山中5泊を要し、全てを自炊するだけの食料をかつぎ上げることは無理であったため、できるだけ食事付きで小屋に泊まることにしたが、小屋が満員であったり、次の小屋まで行き着けないことも考えて、テントは持っていくことにした。後半に晴の日が訪れたら、テント泊も行いたかった。始めての長期縦走で荷物は多くなり、20kg強を背負い続けることができるか不安は残った。
 いつもより気合いも入っているためか、順調に車をとばすことができ、順調に、先行の飯塚先生と長野自動車道の梓川PAで落ち合うことができた。もうひと走りして中央道の駒ヶ岳SAで仮眠に入った。ビールを飲みながら見上げる中央アルプスには星が輝き、明日の晴天を約束してくれた。翌朝、良く眠って起きた後、予定よりも寝過ごしているのに、内心焦った。飯田で高速を下りた後も、R.153に出る所が判り難く、市街地をうろうろして時間をロス。しかし、その後は順調に矢筈トンネルを越して、上村に入ることができた。ガソリンスタンドで給油をして易老渡への入り方を聞くと、新しくできた上島トンネルの入口からトンネルの上に向かう林道を真っ直ぐいけば良いと教えてくれた。R.152沿いには、周辺の観光スポットを示す絵看板もいくつかあり、これも役にたった。無事に林道赤石線に入り込むと、道は一気に高度を上げ、山腹に点在する下栗などの集落を過ぎると、再び谷に向かって降下していった。遠山川の左岸に渡ると、下流から荒れた林道が上ってきており、これが以前の軌道敷を利用した林道のようであったが、歩くのはともかく、車は通っていないようであった。その先の遠山川沿いの道も長かった。所々車のすれ違いが困難で、沢が道路を横切っている所もあるものの、そう走り難い道では無かった。光岳への登山口の鉄橋を見て、易老渡に到着したことを知ると、その先に車10台以上の駐車が可能な広場があった。片側は全てうまっていたため、崖側に通行に支障ののないように注意して、飯塚先生の車をデポした。下山後の着替えを移し変え、飯塚先生には登山の装備を持ってこちらの車に乗ってもらい、次の目的地の鳥倉林道に向かった。8時を越して、心づもりよりも遅れていた。林道を下る間も、登山客を乗せたタクシーが、4台ほど、山に向かっていった。1万6000円程のタクシー代がかかるようだが、私には、気が小さいのか、払えそうもない金額であった。次の問題点は、R.152が矢筈トンネルの先でとぎれており、林道を経由して地蔵峠を越さなければならない点であった。幸い地蔵峠への林道は、一部未舗装部はあるものの、走り易い道であった。大鹿の町に出ると、後は昨年の塩見岳の際に利用した鳥倉林道を上れば良かった。昨年と比べて、林道は、路肩の整備が進んでいた。鎖のかかったゲートに近づいた所で、崖っぷちの路肩駐車が現れた。駐車スペースがあるか心配になったが、幸い終点広場の中に、一台あいていた。どうやら下山者がいて、空いたようであった。思ったよりも遅くなったが、両登山口への車のセットを終えて、ホットした。
 今日の仕事としては、三伏峠までの登りが残っていた。気温が高く、冷房を効かせた車の中で昼食をとった。いよいよ、歩きの開始となったが、いつにない荷物は、肩に食い込み、これで山に登れるのか、不安になった。重量を量ったわけではないが、テント泊の用意のために20kg強はいっていたようである。林道終点までは、予定通りに40分であったが、気温が高く、日向の歩きで早くも大汗をかいた。三伏峠の登山口から先に、林道はさらに延びていた。いったい、この林道はどこまで延びるのだろうか。まさか南アルプスの稜線を横断するわけではないだろうが。鳥倉林道からの登りは、豊口山との鞍部の稜線上にでるまで、急坂が続く。荷物も重いが、前回の登りと違う点は、昼になって気温が高くなっていることであった。首に巻いたタオルは搾れるくらいに汗を吸い、ズボンまで濡れた状態になった。下山してくる人、これから登ろうとする人、諦めて途中から引き返す人で、登山道は賑わっていた。第2区間のトラバース道を、昨年利用した水場を期待しながら歩いていくと、記憶通りに、沢の湧き水を利用した水場が現れた。さっそく汲んで飲んだ水は、どんな飲み物よりも美味しかった。その先は、ガレ場の横断などもあるものの、僅かな歩きで塩川からの登山道に合流した。両登山道を比べると、同じ位に踏まれた道のように見え、近い将来には、鳥倉林道コースの方が、多く歩かれている道になりそうな気配があった。分岐からは、つづら折りの急登になった。塩川コースは歩いたことはないが、この調子の急登が下から続くなら、登ってくるのは大変だろうな。昨年と同じように、自家発電装置の音が、三伏峠に到着したことを教えてくれた。昨年の塩見岳の時は、三伏峠小屋に泊まろうかと思ったが、日帰りにチャレンジすることにして、そのまま下山してしまった。三伏峠小屋に受け付けすると、今日は満員の状態で、後3人空いているだけといわれた。この小屋は、食事付き泊まりは一人一布団で、定員オーバー後は、自炊棟への収容になるようであった。まずは、南アルプスの稜線に辿り着いたことをビールで乾杯した。夕食は、4時半から2部に分かれてとることになったが、後の回の方が夕飯といえる時間で、ゆっくりと食べることができてよかった。食事内容は、カレーライスの盛りきりで、少しもの足りなかった。食後の散歩に、三伏山まで足を延ばした。山頂には、夕暮れの塩見岳をねらってカメラをかまえた登山者がいたが、ガスが流れて、塩見岳の山頂部はなかなか姿を現さなかった。谷を越して、明日越えていく烏帽子岳が大きく広がっていた。三伏峠のテント場は、大学あたりのクラブも含めて、ほぼ満員の盛況であった。夕暮れを待ちながら、登山者仲間の話しが盛り上がった。多くは塩見岳をめざして、南下する者は少ないようであった。
 二日目、いよいよ本格的な縦走の開始とあって、暗いうちから出発した。三伏峠の大きな看板の後ろに隠されている縦走路に入っていくと、崩壊地の縁に出て、ハイマツ帯の登りになった。じきに懐中電灯もいらなくなり、展望の開けた烏帽子岳の山頂に到着した。薄ら明かりの中に、塩見岳や富士山がシルエットになって浮かび上がっていた。朝食のために湯を湧かしながら、明るくなるのを待っていると、ガスが上がってきてせっかくの写真のチャンスは失われてしまった。烏帽子岳までは、塩見岳の展望のために三伏峠から登ってきているものも何人かはいたが、ここから先は縦走者の領域になった。一旦下って、潅木帯を行き、登り返したピークが前小河内岳であった。幸いガスはあがって、周囲の展望が広がった。烏帽子岳の向こうには少し遠くなった塩見岳が頭をのぞかせ、富士山も、南アルプスならではの、大きな姿を見せていた。次のピークの小河内岳を眺めると、きれいな尾根道が続き、その山頂には三角屋根の避難小屋が見えた。小河内岳へは、緩やかな尾根を登っていき、左に避難小屋への道を分け、右手に登ると砂礫の広場になった山頂に出た。この山頂からは、いよいよ荒川岳が谷越しに大きく見えるようになった。その先の縦走路は木に覆われたピークが続き、谷を巻いて荒川岳まではかなりの距離がありそうであった。樹林帯の中で展望のきかない道になったが、ダケカンバに囲まれ、マルバダケブキの黄色い花に埋め尽くされた草原が所々現れて目を楽しませてくれた。大日影山は山頂を巻き、板屋岳への登りにかかって振り返ると、大日影山から小日影山にかけての稜線の南斜面は大きく崩れ落ちた険悪な岩壁になっていた。足場の悪い岩場を巻いたりしながら登っていくと、樹林で覆われた板屋岳に出て、踏み跡を右手に登ると小さな手製の標識のかけられた山頂にでた。普通なら、2646mの標高を持つピークといったら、貴重品扱いを受けて、登頂の記念写真などで大賑わいであるのだろうが、南アルプスの3000m峰に囲まれては、縦走路を歩く者からもほとんど注意を払われていないようであった。さらに小さなピークを越していき、一旦大きく下ると高山裏小屋に出た。小屋の上の斜面には、マルバダケブキ、ミヤマオダマキ、トリカブト等のお花畑が広がっていた。小屋の向こうには、主稜線上にいるとは思えない程、荒川岳が高くそびえていた。眺めの良いヘリポート用の空き地で昼食にした。板屋岳で出合った登山者に、登山道脇の水場のことを聞いていたので、往復に時間のかかるという高山裏小屋の水場は、そのまま通過することにした。テント場を過ぎてトラバース気味に登っていくと、登山道脇に水場が現れた。冷たい水を腹一杯飲んで、水場の無い山頂の避難小屋泊まりに備えて3Lの水を補給した。その先で、一個所鎖場も現れたが、通過には特に問題になるような個所ではなかった。トラバース道から、谷の下部に出ると、一直線の急登が始まった。潅木帯を抜けると、稜線から下ってくる幅のあるガレ場に出た。ペンキマークを追いながら、登り続けたが、25分毎に休みをいれなくては足が前に出なくなった。登山道は、そのうち左右のどちらかに逃げて、もう少し傾斜の緩い道になるのかという期待もむなしく、道はただひたすらに天との境の稜線めがけて延びていった。ようやく前岳から西に延びる稜線に出て、崩壊の進ん崖の縁をひと登りしてトラバース気味に進むと、前岳手前の肩に出た。疲れを吹き飛ばしてくれるように、大きな中岳が目の前に姿を現した。山頂や、赤石岳への降下点と思われる地点に登山者が休んでいるのを目にとらえることができた。あまりの急登に遅れてしまった飯塚先生を待ちながら、この荒川岳の眺めを充分に楽しんだ。前岳の山頂は、縦走路のかたわらの標識がなければそれと判らないような地点であった。それでも、待望の荒川岳の一隅に達することのできた満足感は大きかった。そこから中岳はひと登り。午後になってガスが出始めて周囲の展望は利かなくなっていた。今夜の宿の中岳避難小屋は、山頂から僅かに下った所にあった。中岳避難小屋は、管理人も入っており、予想以上に立派なものであった。一階はザック置き場と自炊コーナーで、二階が寝る場所になっていた。ここは食事無しのため、ひと休みしてから、夕食の準備に取りかかった。最近のアルファ米やフリーズドライのおかずは、結構美味しかった。食事は出ないものの、ビールが置いてあることはありがたかった。シェラフも用意してあり、結構多くの登山者が借りていた。その晩の中岳避難小屋の寝るスパースは、シェラフとマットでほぼ埋まった状態になったが、混雑の千枚小屋を通り越して、ここまで足を延ばした者が多いようであった。
 夜になって風が強まり、その音で不安がつのり、寝苦しい夜になった。夜中に戸外のトイレにでるとガスで数メートルしか見えず、ロープが張ってなかったらトイレから小屋に戻れず遭難しかねないところであった。さすがに、標高第三位の小屋だけのことはある。ちなみに第一位は、赤石岳避難小屋、第二位は北穂高岳。荒沢岳の山頂で日の出をみようと未明から起き出したが、ガスと風が強いために、まずは朝食を食べて明るくなるのを待った。懐中電灯も必要としない明るさになっても、風は弱まらなかった。小屋の管理人に天候を尋ねると、今日は天気は悪くはならないはずなのだがと言って、それ程心配した様子ではなかった。意を決して、雨具に身をかためて、悪沢岳に向かうことにした。ガスが流れて先の見えない中、次の登り返しがいやになるほど、砂礫の斜面をどんどん下った。鞍部付近で岩場のやせ尾根を通過すると、転じてガレ場の登りになった。足元に注意しながら、ジグザグの道を頭上のピークめざして登り、登り着くと山頂はまだ先であった。稜線上に出て、傾斜が緩やかになると、ようやく山頂に出た。山頂は、大きな岩が転がった広場となり、かたわらの一段高くなった所に山頂標識が立っていた。歩き出して、三日目にたどり着いた、遥かなる山頂であった。ひと休みする間もガスが流れて展望は開けず、とりあえず登頂の記念写真を撮った。千枚岳方面に下山する登山者も登ってくるようになったが、山頂に長く腰を据える者はおらず、寂しい山頂であった。我々も、残りの行程を考えて、中岳に戻ることにした。中岳への避難小屋まで戻るには、ちょっとした一日山行程の体力がいったが、最小限の荷物での往復であったのが助かった。小屋に戻って再び重い荷物を背負って、次は赤石岳を目指して出発した。
 中岳を越した先の分岐から、ガレ場の急斜面の下りになった。足元に注意しながら下っていくと、次第にガスが晴れていった。荒川三山や赤石岳の山頂部も青空に浮かび上がった。もっと、荒沢岳の山頂にいたならばと思わずにはいられなかったが、山行予定を考えれば、諦めるしかなかった。荒川小屋の赤い屋根を下方前方に見るようになると、正面には大きな赤石岳、周辺の斜面はミヤマキンポゲの黄色で染まったお花畑となり、これぞ南アルプスの縦走の醍醐味といったような風景が広がった。お花畑の中を良く見ると、クロユリやミヤマオダマキも隠れていた。途中で横切る前岳から下ってきている沢で水を補給し、元気を取り戻した。荒川小屋は、山の斜面上にあるにもかかわらず、荒川岳と赤石岳という巨大な二山に挟まれているため、谷間のような感じがした。すでに登山者は出発した後で、小屋の周辺はひっそりとしていた。新築の荒川小屋は食事付き泊まり用で、自炊泊まりは一段下がった所の古い小屋を使うようであった。ひと息いれて、赤石岳への登りにとりかかった。樹林帯の中を一段登ると、トラバース道になった。振り返ると、荒川三山がそろって姿を現していた。下から見ると、前岳の崩壊壁が荒々しく印象的であった。広い砂礫帯の中の鞍部が大聖寺平であった。見上げる赤岳の山頂は、高く、しかも真の山頂はその奥のようであった。覚悟を決めて登りだした。2時間も登ればいいことで、良くやるように午前に一山、午後に一山登るように頑張れば良いだけのこと。しかし、今回は、荷物が重かった。ジグザグの急坂をスローギアーで登り続けた。いつもならセカンドで登れるのだが。下から見えていたピークに登り着くと、やはり当初の目標の小赤石岳は先で、赤石岳はさらにその先であったが、傾斜は緩やかになってくれた。やせ尾根をたどっていき小赤石岳に到着すると、目の前に赤石岳の山頂が現れた。山頂には、標識らしきものと避難小屋も見分けることができた。ようやく、赤石岳にも手が届く所までやってきたことにひと安心し、遅れた飯塚先生を待つことにした。静岡県側に落ちていく尾根の途中には、赤石小屋と思われる屋根も望むことができた。その先を下っていけば椹島を経て静岡にでるとは、遠くまで来たものだと思った。食べ物を口にして待つ間に気温が下がってきたのか、寒くなってきた。最後の赤石岳への登りは、見た目よりも短かった。待望の赤石岳の山頂。そして最高所の一等三角点。しかし良くみると三角点の上に、小さなお地蔵様が置かれていた。三角点は、ラーメンを煮るためのガスコンロの台でも、お地蔵様の台座では決して無いのだが。しかし相手が相手であるだけに邪魔だといってのぞく訳にはいかなかった。後は、嵐で吹き飛ばされるのを期待するしか無いようであった。ガスが出てきて、赤石岳でも、串刺し団子の形の山頂標識との記念写真になった。本当は、背後に連なる山々がどこそこの山頂であることを証明してくれるような記念写真を撮るべきなのだろうに。赤石岳の山頂の窪地には避難小屋が建っていた。改築されて管理人も入った小屋になっているようであったが、縦走路は、手前で右手にそれていた。赤石岳からの下りは、急なガレ場で、疲れた足にとっては、慎重に歩く必要があった。ほぼ下ってからは、尾根に向かってのトラバースになったが、歩きづらいガレ場の道がしばらく続いた。谷を越して聖岳が一瞬姿を現したが、そこまではかなりの距離があり、明日の行程が少し心配になってきた。気持ちの良い尾根道をたどっていくと百間平に到着した。正面に小高く盛り上がったピークがあり、そちらに向かいそうになる所であったが、百間洞への道は、右にそれるように付けられていた。広々として気持ちの良い所であったが、荒天時には道を見失いそうであった。谷に向かっての一気の下りになった。正面には大沢岳が高くそびえ、明日の登り返しが思いやられた。谷間にテントが見えだして、ようやく今日のゴールも近いことを知った。テント場から沢沿いに少し下った所に百間洞山ノ家があった。この小屋も、荒川岳と同様に最近建てられたようで、きれいであった。天気もあまりぱっとしないので、またまた二食付きで泊まることにした。到着が遅かったため、小屋はかなり埋まっていた。三伏峠小屋あるいは中岳避難小屋で見知った顔も多く見かけた。夕食は、ビーフシチューライスにサラダ。おかわり一回自由がうれしかった。小屋の前には、沢が流れており、水の心配はいらない小屋のようであった。夜は、空いたブロックに人をまびいたが、それでもシェラフの頭と足元を互い違いにしなければならない混雑度であった。明日の歩行距離もかなりあり、飯塚先生もかなり疲れているようで、明後日には予備日を使って茶臼小屋あたりに泊まる必要があるかなと、計画の変更をあれこれ考えた。
 天気予報では、寒冷前線の通過に伴い荒れ模様になるとのことであったが、夜半から雨風が強くなった。朝になって、ともかくもということで出発の準備を始めると、飯塚先生から、今日は停滞して天候の回復を待ち、休養をしようという提案があった。寝起きのことで一瞬考えがまとまらなかったが、コースの半ばでもあり、ともかく停滞することにした。激しい雨の中を出ていく登山者を見送るのは、ぬくぬくした環境にありながら寂しいものがあった。皆が出かけた後で、停滞を告げて、連伯の手続きをした。部屋の掃除の間、食堂にいることになったが、サービスとしてコーヒーが出てきた。この日、小屋に停滞したのは、我々二人ともう一人の単独行の三名のみであった。ひと休みした後、食堂を出てみると、玄関脇のストーブの回りに大勢の登山者が集まっており、見たことのある顔ぶれも混じっていた。話しを聞くと、中盛丸山の鞍部から先が強風で歩けなかったとのことであった。いつのまにか、休養を兼ねての停滞が、荒天で歩けないための停滞になってしまっていた。退屈で長い一日になるものと思っていたが、ストーブを囲んでの山の話しで盛り上がることになった。最大の話題は明日の予定であったが、静岡ルート組は、赤石岳に戻って、椹島に下山するという者が多かった。赤石避難小屋や荒川小屋からは、風雨に苦労しながらも、それでも登山者が到着してきていた。聖岳への縦走組は、強風の稜線が歩けるかが問題であったが、なによりも時間切れで、下山を急ぐ必要のある者が多かった。北アルプスとは違って、さすがに南アルプス南部の小屋には電話は引かれておらず、奥深いこともあってか、携帯電話を持ち込んでいる者もいないようであった。テント泊をあきらめて小屋に逃げ込む者、半ば意地のようにテント伯にこだわる者がいた。雨の当たらない小屋の軒先でテントを組み立ててから、テント場に運ぶのを見て、ストービの回りから感心の声が挙がった。遅くなってから、茶臼小屋からやってきたという二人連れの若者が到着して、明日の歩きに希望がわいてきた。ストーブを囲んでの山の話しでは、南アルプス南部には何度か登っているという経験者が多いようであった。単独行が多いのは、日数のかかる山行のために仲間を集めることが困難であるためとのことであった。面白いことに、かなりの者が飯豊には登っており、好印象を持っているようであった。静かな山を楽しめるという点で似た所があるのかもしれない。夕食のメニューは、他の登山客は昨晩と同じビーフシチューライスであったが、我々二人には、大きなクリームコロッケに千切りキャベツ添えの特別メニューになった。連泊はメニューを変えるとは、なかなかのサービスであった。小屋は、ほぼ満員の盛況であったが、寝るスペ−スは、昨晩よりもゆったりとしたものになった。
 翌朝、雨は続いているものの、昨日よりは少し弱くなったようであった。聖岳方面にもポツリポツリと登山者が出発していった。百間洞から縦走路に上がるには、大沢岳を経由するコースと、中盛丸山との鞍部に出るコースの二通りがある。後者の道は、ガイドブックには、通る者も少なく廃道同然になっていると書かれていたが、小屋の管理人の話しでは、楽に歩けるというので、雨風の弱そうな後者の道を行くことにした。沢沿いのへつり道は、細く、崩れそうな道であり、一時期は崩れて通れなくなっていたのを補修したような感じであった。これから登りにかからなければならないのに、沢沿いの道は下り坂であった。沢から分かれてひと登りすると、旧百間洞山ノ家跡にでた。小さな小屋で、少し前まではこれくらいの規模だったのだと納得した。樹林帯の中のジグザグの登りが始まった。稜線に飛び出すと、強い風が吹き付けてきた。しかし、歩けない程ではなく、迷うことなく前進を続けた。縦走路の手前から眺めて、この付近のピークは小ぶりながらも尖った山頂を持ち、越していくのも結構大変だろうなと想像していたが、なかなか大変な登りになった。雨は止んで湿ったガスが流れる状態であったが、中盛丸山の下りから兎岳への岩稜を一瞬望むことができた。天気の回復とともに、緊張も和らいできて、兎岳の頂上では、小屋で顔見知りになった単独行のオバサンと高山植物の写真撮影をする余裕もでてきた。少し下った窪地に避難小屋があったが、かなり古そうで、泊まる気にはなれないものであった。その先は、崩壊地の縁と樹林帯が交互に訪れ、聖岳への登りにかかるのを待ちながら、ひたすら歩いた。ハイマツ帯の中の登りがしばらく続いたと思ったら、砂礫の広場に出て、そこが聖岳であった。もう少し頑張る必要があると思っていただけに、最後は少し拍子抜けであった。一日の停滞の後にたどり着いた聖岳の山頂は、うれしくて居合わせた皆で記念写真を撮った。ここまで来たのならということで、奥聖岳まで往復することにした。ザックを分岐にデポして、カメラのみで進んだ。痩せた岩稜を下っていくと、赤い岩に囲まれた庭園風のお花畑が現れた。ガスの流れる中にチングルマの白い花が浮かんで、幻想的な風景であった。奥聖岳は、尾根上の肩部といった風情で、三角点が置かれ、岩にペンキで名前が書かれていなければ、山頂とは思わないようなところであった。聖岳からは、岩屑でザクザクの急斜面の下りになった。急斜面の基部に水場が現れたが、足場も悪そうであたため、味見はパスした。イワギキョウの咲く痩せた岩尾根を下っていくと、ダケカンバの林の中に入って、天候の心配は無くなった。その先で、マルバダケブキの黄色とトリカブトの紫で彩られたお花畑に出て、歩き疲れたこともあったが、思わず休憩になった。便ヶ島との分岐に出て、これでひとまず退路は確保できたことにひと安心した。タカネマツムシソウの咲く草原を下っていくと、聖平小屋に到着した。ここも、最近新築されたらしく、きれいな小屋であった。しかし、入口には、飲食禁止、物干し禁止、ビールの販売は4時まで等という細かい禁止事項の張り紙が張られていた。以前からの小屋が下にあるので、そこに雨具や濡れた衣類は干して、酒も飲むならそちらでということであった。きれいな小屋の中は、静かであったが、つまらなそうな雰囲気がただよっていた。登山者の一人が手を挙げて挨拶してきた。見ると、一昨日の晩に同室であった単独好であった。話しを聞くと、方向を変えられない程の強風に、聖岳の避難小屋に逃げ込んだが、避難小屋は雨漏りがひどく、居合わせたかなりベテランの単独行の小屋の中に張ったテントに入れてもらって一夜を過ごしたとのことであった。無事生還を祝い、また皆の聖岳越えを祝って、百間同から歩いてきた皆で、自炊小屋に移って酒盛りを行うことになった。自炊小屋は、酒盛り会場になり、隣のグループからは焼いた目刺しまで回ってきた。夕食は、前に合った登山客の話しではカレーの盛りきりという話しであったが、ハンバーグに果物のゼリーも付いた満足のいくものであった。しかし、食後お茶を飲みながら話しを続けようとすると、かたずけをするので、席を立つようにというチェックが入った。どうもこの小屋は、管理第一主義で、食事や酒は登山の楽しみの大きな部分であるという重大なことを忘れているようであった。
 聖平小屋に泊まった者のほとんどは、静岡側に下山するか、赤石岳に縦走を開始し、翌日光岳に向かったものは僅かであった。前日の聖岳周辺の岩稜帯とは変わって、樹林の中の道になった。上河内岳までは、長い登りが続いた。湿ったガスが流れて展望は閉ざされ黙々と歩みを進めた。ハイマツ帯にでて高度も上がったなと思う頃、広場の中に上河内岳の標識が現れた。ガスの中をうかがうと、左手に小高いピークが見えて、そこが山頂のようであった。空身でガレ場の急斜面を登ると、お馴染みの串刺し団子の山頂標識が現れた。トンガリピークの展望の良さそうな山頂であったが、ただ、今日の第一目標の山頂を踏んだことに満足するしかなかった。下っていくと、草原に出て、ここが地図にあるお花畑のようであったが、花は多くはなかった。茶臼小屋の分岐を見送り、山頂へと向かうと、ハイマツ帯の中で、雷鳥のつがいと、若鳥に出合った。天気が悪いために人前に姿を現したのだろうか。雷鳥には北アルプスでは何度か出合っているものの、南アルプスでは始めてであった。茶臼岳は、岩の積み重なった、狭い山頂であった。茶臼岳を下ると、左手からトラバース道が合わさり、その右手には仁田池小屋が屋根だけになった残骸をさらしていた。雨続きの後で、仁田池はきれいそうな水をたたえていたが、通常は飲用にはならないのだろう。付近には、キャンプの跡が見られた。再び樹林帯の中に入って緩い上り下りを続けた。希望峰は、樹林で囲まれた、特徴のないピークであった。飯塚先生に休んでいてもらって、急いで仁田岳を往復することにした。僅かに下ってハイマツタイ帯を登ると小さな標識の立った仁田岳に出た。主稜線の脇にはみ出していることから展望は良さそうであったが、ガスが強風とともに流れ、直ぐに引き返すことになった。希望峰から先も樹林帯のなかの、小ピークを越す道がしばらく続き、易老岳に到着してひと息ついた。易老渡への分岐の手前に、主三角点の置かれた広場があり、そこが山頂ということになっていた。ようやく下山口にたどり着いたが、ここで下りるはずは無く、気合いを入れて、光岳への最後の行程に挑んだ。樹林帯の中の下りになった。あまり下って欲しくないという期待もむなしく、傾斜が緩くなるまでにはかなりの標高を失っていた。地図上の目標地点の三吉平は、樹林帯の中で、見通しも無く、標識が無ければ気づかないような樹林の中であった。ともかく、最後の登りに備えてひと息入れた。光岳への最後の登りは、涸れた沢状のガレ場の急登になった。最後の頑張りで、広々とした静高平の草原に出た。登山道脇に流れる沢の水を利用した水場に出て、喉をうるおした。この水場は、雨期しか使えないとのことであったが、雨続きのせいか、水量も豊富であった。イザルヶ岳の分岐を過ぎて草原の中を緩やかに登っていくと、こじんまりした光小屋に到着した。ここは、昔ながらの古いつくりであったが、中に入ると、まずお茶が出て、暖かいもてなしを受けた。この小屋の食事付きの泊まりには、50歳以上、3人以下のグループ、あるいは三伏峠以北から来た者という条件がついていた。まだ若いので尋ねてみると、三伏峠から縦走してきたということで、食事付きで泊まれるようであった。これで、食事付きの小屋は全て食事付きで泊まり、テントの出番も無いことになった。小屋には3人の先客がおり、聖平からの我々と富山県の単独行と、4人グループの大学生、合わせて10人が泊まり客の全てであった。なぜか、聖平組は、全て三伏峠から縦走してきた者であった。湯をわかしてコーヒーを飲んでひと息いれていると、易老渡からの単独行が、大きな驚きの声を上げた。ヤマヒルが一匹足に吸い付いていたとのことであった。ヒルは、ストーブの中で火葬となったが、どこで取り付かれたかが問題になった。面平の上で、スパッツを外して靴紐を締めなおしたので、その時に潜り込まれたのだろうということになった。ヒルは大嫌いなので、明日は、足を止めないで一気に下る決心をした。楽しみの夕食の時間が近づくと、奥から美味しそうなにおいが漂ってきた。夕食のメニューは、揚げたての野菜テンプラであった。テーブルの脇にはおばあさんが控えて、ご飯を一人一人よそってくれた。南アルプス深部の山小屋にいるのではなく、田舎の民宿にいるような落ちついた気分になった。光小屋では、今回の山小屋の内でもっとも暖かいもてなしを受けたが、小屋の壁には、狭い間隔で番号が付けられており、時には、ものすごい混みようになる気配を見せていた。話しを聞くと、来年にはこの小屋も立て替えになるとのことであった。小屋も大きくなって便利になるのかも知れないが、古い山小屋の雰囲気は失われてしまうのが残念に思われた。外は、風がふきすさんでいたが、小屋の中は、ランプがつるされ、ストーブが暖かく燃えていた。
 いよいよ最終日、目玉焼きも付いた朝食をとってから、光岳に向かった。草地のテント場には、荒天にもかかわらず、四張り程のテントが並んでいた。樹林帯の中を登っていくと、光岳の山頂に到着した。木に覆われて、あまりパットしない山頂であった。この山は、展望を楽しむ山というより、高い樹林限界と山頂直下に広がる草原を特徴とする山のようであった。背後の木には、百名山完登という個人的なプレートがかかっており、同じ百名山愛好家として嫌な感じがした。記念写真を撮って、光石に向かった。樹林帯の中を下っていくと、ガスの中から岩峰が現れた。岩の上に立って、ようやく縦走路の最南端に到着したことを祝った。光岳は、それ相応の体力を付ける必要があり、確かに遠い山であった。百名山も、この山がゴールにはならなかったが、やはり終盤にはなってしまった。心地よく風を受けながら、ここまでの山歩きを振り返った。光小屋に戻って重い荷物を背負い、下山に取りかかった。まずは、歩き出してすぐのイザルヶ岳に寄っていくことにした。分岐から巨大な盆栽のように曲がりくねったダケカンバの林を過ぎると、砂礫で覆われた丘への登りになった。イザルヶ岳の山頂は、樹木が生えておらず、展望という点からは、光岳よりもこの山頂の方が優れていた。もっとも、ガスで展望はあいかわらず閉ざされていたが。昨日の苦労を思い出しながら、足元の悪いガレ場を下り、三吉平を過ぎると易老岳への上りになった。これが最後の登りということで頑張るものの、ペースは上がらなかった。易老渡への下りは、急斜面で、途中岩峰を巻くようなところも現れた。下るに連れて、気温も上がってきて汗がしたたり落ちるようになった。途中から、登ってくる登山者にもすれ違うようになったが、この急坂を登ることになる光岳は、やはり遠い山のようであった。途中は小休止だけで一気に下ると、ブナやナラなどの広葉樹も現れてきて、麓も遠くないことを知った。大木のならんだ林に出ると、そこが面平であった。さらにジグザグの道を下っていくと、谷を挟んだ向かいの山が近づいてきた。最後に易老渡の登山口の鉄橋を渡る所で、光岳の往復を昨日すませて先に下山した富山の単独行に追いついた。ゴールの橋の上で記念写真を撮ってもらった。
 着替えを済ませて、人心地を取り戻した。単独行を上村の役場前のバス停まで送り、車の回収のために再び鳥倉林道に向かった。7日かかった道のりも、車では2時間半。少し割り切れないものもあった。自分の車に戻ることができ、ここで解散ということにした。営業時間の関係で昨年の塩見岳の際には入浴できなかった鹿塩温泉に向かった。鹿塩温泉の山塩館は、日本の秘湯を守る会の、汚い登山姿ではちょっと入りづらい立派な観光旅館であったが、外来入浴を受け付けていた。誰もいない温泉につかって、登山中の汗と疲れを洗い流した。温泉は、透明であったが、塩の味がした。さっぱりして元気を取り戻し、ひさしぶりに家の布団で眠るために、新潟へ向かって車を走らせた。

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