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妙高山

1997年6月29日 前夜発日帰り 単独行 雨

妙高山 みょうこうさん(2454m) 測定点 一等三角点本点(2446m)  妙高連峰(新潟)  5万 妙高山  2.5万 赤倉、妙高山

ガイド:アルペンガイド「上信越の山」(山と渓谷社)、妙高・戸隠を歩く(山と渓谷社)、新潟ファミリー登山(新潟日報事業社)、新潟の山旅(新潟日報事業社)、越後の山旅下巻(富士波出版社)、新潟50山(新潟日報事業社)、日本百名山・登山ガイド上巻(山と渓谷社)、日本300名山ガイド西日本編(新ハイキング社)、一等三角点百名山(山と渓谷社)、山と高原地図「妙高・戸隠」(昭文社)

6月28日(金) 20:50 新潟発=(北陸自動車道、R.18、関山、関温泉 経由) 6月29日(土) =0:30 燕温泉  (車中泊) 4:30 燕温泉発―4:48 妙仙橋(河原の湯入口)―4:53 惣滝分岐―5:09 麻平―6:05 北地獄谷河原―6:46 天狗堂〜6:50 発―7:42 鎖場―8:07 妙高山山頂〜8:25 発―8:31 一等三角点―9:32 大倉乗越分岐(行き過ぎて10分程ロス)―9:48 長助池〜10:00 発―10:19 芝草―10:34 三ッ峰・黒沢池分岐―10:44 黄金清水―11:23 大倉沢渡渉点―11:45 麻平―12:02 惣滝分岐―12:05 妙仙橋〜12:10 発―12:20 燕温泉=(河原の湯と黄金の湯入浴、関山神社参拝後、往路を戻る)=18:50 新潟着

 妙高連峰は、妙高山、火打山、焼山、金山、雨飾山と続くが、越後富士とも呼ばれる妙高山が盟主となっている。妙高山は、二重式火山で、外輪山の神奈山、三田原山、赤倉山に囲まれて中央火口丘の真山がそびえたっている。妙高山の広大な裾野には、古くからスキー場が開かれているが、しだいにゲレンデは上に延び、夏に山麓から見上げるとき、これ以上は増えないで欲しいものだと痛感する。
 台風が中国方面に接近し、梅雨前線も活発化しているが、雨の隙間をついて妙高山に出かけた。夜中に、妙高山の里宮である関山神社の位置などを確認した後、燕温泉に向かった。以前と比べて、関温泉から燕温泉への道路は良くなっていた。数台の車しか停まっていない燕温泉の駐車場で、いつものように車の中で寝た。家を早朝出発しても登ることは可能であったが、寝起きのドライブは苦手である。翌朝、あたりの騒々しさに目が覚めた。4時の早朝にもかかわらず、車が続々と上がってきて、ヘッドランプで歩き始める者がいた。ようやく明るくなって、車の外に出てみると、駐車場は八分程埋まっていた。山に向かう人の姿を見ると、ヘルメットに、中身はあまり入っていない中型ザックであった。隣の車の人に尋ねてみたら、皆、タケノコ採りとのことであった。登山組は、それでも他に10名グループがいて、朝食をとりながら見ていると、目の前で準備体操を始めた。後で車のナンバーを見ると、東京付近から来ているようであった。  幸い雨はやんでおり、なんとか妙高山にも登れそうであった。燕の温泉街の坂道を登ると、さっそく汗が吹き出てきた。薬師堂の下で、黄金の湯から温泉の導管沿いに登る湯道とわかれ、河原の湯に向かう遊歩道に入った。雪解けの季節のせいか、対岸の滝も何段にも分かれて落下しており、見応えがあった。妙仙橋という名前の吊り橋を渡り、左に河原の湯を分けると、登りが始まった。少し先で惣滝への道を分けると、岩まじりで歩きにくいジグザグの登りになった。周囲はブナ林で、大きな木も多かった。帰りに歩く予定の燕新道の分岐のある麻平を過ぎても、ブナ林の中の登りは続いた。途中で、かなり前に出発していったもう一組のうちの4名が休んでいる所に出合った。どうやら燕新道経由の健脚組と、二手に分かれたようであった。一旦下って沢を横断すると、妙高山の山頂が鋭く天に突き上げているのが見えた。北地獄谷左岸の尾根に上がると、湯道の登山道が山腹をトラバースしながら登ってくるのが見えた。今回の本道と湯道を比べると、湯道の方が歩き易かったような気がした。ササ原の中を登っていくと、見晴らし良い場所に出て、上下二段に分かれた光明滝と称明滝を見下ろすことができた。周囲の山を見ると、残雪も豊富に残っていた。タケノコ採りも、ササ原に入り込んでいるのか、乱暴にもバクチクの音が聞こえた。先頃、妙高山の池ノ平登山道沿いの大谷ヒュッテ近くで、三人のタケノコ採りがクマに襲われて怪我をしたというが、クマだって脅かされて錯乱状態になっていたのではないだろうか。そういえば、タケノコ採りは、だれ一人クマ避けスズを付けていなかった。山菜採りにも、その土地のスタイルがあるのだろうか。北地獄谷を横断して右岸に渡り、少し登った所に、河原の標識が立っていた。北地獄谷は、硫黄がたまったのか所々岩が黄色に変色し、大きな岩が転がって荒涼とした風景が広がっていた。以前には登山道沿いにあってコースのペンキマークを付けられたと思われる巨岩が、矢印があらぬ方を向いて沢の真ん中に転がっていた。新しく付けられたペンキマークをたどりながら遡っていくと、残雪も短い距離だが現れた。沢から離れると、再び急な登りになった。硫黄の臭いが強く、息がよけいに苦しいような気がした。胸付き八町とも呼ばれるつづら折りの急坂を終えると、池の平からの登山道の合流する、天狗平の小広場に出た。広場のかたわらには、天狗堂の小さな石の祠が置かれていた。池の平から登ってきたというタケノコ採りが、準備を整えていた。その少し先の光善寺池まで登った所で、雨が降り始め、またもや雨具を着ての登山になった。ゆるやかに登っていくと、鎖場に出た。新しいロープも掛けられて、7月1日の山開きのために、整備が行われたようであった。岩場は、階段状にステップが切られた所もあって、足がかりは充分であったが、雨の中のことでもあり、慎重に登った。赤みを帯びた岩場を、ペンキマークをたどりながら登っていくと、山頂の南峰に飛び出した。上面の平な岩の上には、勝軍地蔵の石彫りと妙高大神の石柱が、関山神社の奥社としてまつられていた。この岩の上は、天気の良い日には、絶好の休み場となるところだが、誰もいなかった。ガスが流れ、山頂の巨岩が現れては消えていった。
 ガスの間から一瞬見えた谷間には残雪が多く残っており、不安はあったが、予定通りに燕新道に下ることにした。巨岩の間を通り抜けていくと、一等三角点の置かれた広場に出て、その先から黒沢池方面に向かってのダケカンバの林の中の、急な下りが始まった。登山道には石が浮き出て、しかもざれた赤土で滑りやすいところもあり、足元を確かめながらの下りは、根気がいった。かなり下った所で、朝がた先に出発していったグループの片割れに出合った。燕新道には不安の残る点があったのだが、とにかく登って来た者がいたということでひと安心した。コースが方向を北に変えるようになると、残雪に埋められた沢の下りになった。コースに沿っては、赤布が付けられていた。傾斜はそれほど強くなかったので、六爪アイゼンは持ってきてはいたが、ストックだけで下り続けた。池と湿原の原が近づいて来て、そろそろ大倉乗越との分岐かと思ったが、歩いているうちに、登りになってしまった。行き過ぎてしまったことに気づき、分岐を捜しながら引き返した。分岐は、残雪の沢を下った所の潅木の中にあった。黒沢池方面という看板が雪の中から半分姿を現していたが、燕温泉を現す看板は見あたらず、古びた赤布が潅木の入口に残されているだけであった。足元を良く見ると、先ほどの一団の靴跡も見つかった。潅木の中を下っていくと、燕温泉と書かれたブリキ板が、はずれて木の枝に引っかけられていた。新しい赤布の列も再び現れ、沢沿いに残雪歩きを続けた。木道の敷かれた長助池にでると、素晴らしい眺めが広がった。残雪に彩られた外輪山をバックに、湿原は、ハクサンコザクラによってピンクに染められていた。木道に腰をおろして、しばしばこのお花畑を楽しんだ。所々、イワイチョウも白い花を開いていた。これで天気が良かったらいうことは無かったのだが。その先も残雪はしばらく続いたが、雪の消えたばかりの所では、ミズバショウが今を盛りと咲き、シラネオアイ、サンカヨウ、キヌガサソウも現れて、花に慰められての歩きになった。黄金清水でひと息入れたものの、歩くのにも疲れてきた頃、大倉谷の渡渉点におり立った。沢の水量は多めであったものの、ロープが張ってあり、ストックも支えにして、登山靴を少し濡らしただけで渡ることができた。最後の気がかりも無事に通過して、ブナ林を眺めながらトラバース気味に歩いていくと、麻平に戻ることができた。途中で、河原の湯を覗くと、誰も入っていなかったが、全身ズブ濡れのために荷物を置いてから入りにくることにした。
 車に戻って着替えをし、食事をとってから、傘をさして露天風呂に向かった。河原の湯にはタケノコ採りの先客が二人入っていた。乳白色の湯で、入ると体は見えなくなるほど不透明性が強かったが、温度は若干ぬるかった。ついでに黄金の湯にも回ったが、誰も入っていなかった。こちらの湯は、透明性が少し増し、そのために湯の中の沈殿物が目立った。一人占めの露天風呂で、今日歩き終えた山を振り返った。車に戻ってラジオを聞くと、台風が中国地方に上陸したとのことで大騒ぎになっていた。

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