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高坪山

笈ヶ岳

1997年5月3日〜4日 前夜発2泊3日 単独行/6人グループ 曇り/雨のち晴

高坪山 たかつぼやま(1013m) 三等三角点 面白山地(富山県) 5万 下梨 2.5万 上梨、下梨
ガイド:新版とやま山歩き(シー・エー・ビ)

笈ヶ岳 おいずるがだけ(1841m) 三等三角点 面白山地(石川、富山、岐阜県)5万 白川村 2.5万 中宮温泉、鳩谷
ガイド:日本300名山登山ガイド西日本編(新ハイキング社)、遊歩百山3巻(森林書房社)、新ハイキング93年5月号

5月2日(金) 20:00 新潟発=(北陸自動車道、砺波IC、R.156 経由) 5月3日(土) 0:40 道の駅たいら着  (車中泊)
5:05 発=(R.156、菅沼合掌集落、小瀬ゲートで引き返し、R.156、下梨、R.304、相倉、獅子越林道高坪線 経由)=6:55 林道分岐―7:35 高坪山登山口―7:52 高坪山山頂〜8:00 発―8:13 高坪山登山口―8:53 林道分岐=(R.304、下梨、R.156、萩町、白山スーパー林道 経由)=10:30 馬狩ゲート〜12:10 発―13:25 白川展望台―13:53 発―15:00 三岩トンネル  (テント泊)
5月4日(日) 4:45 三岩トンネル発―5:00 稜線―5:43 国見山〜5:53 発―9:18 岩峰―9:35 冬瓜山分岐―9:53 ニセピーク―10:13 笈ヶ岳山頂―10:22 発―10:44 冬瓜山分岐―11:12 岩峰―14:24 国見山―15:28 三岩トンネル着  (テント泊)
5月5日(月) 4:00 三岩トンネル発―4:48 白川展望台―5:50 馬狩ゲート=(白山スーパー林道、萩町、R.156、下梨、R.304、福光IC、東海北陸自動車道、北陸自動車道 経由)=13:00 新潟着

 高坪山は、世界遺産に指定されて注目されている五箇山合掌集落の相倉の村の背後にそびえる山である。R.156そいに走ると、五箇山周辺で、すっきりした三角形のこの山を眺めることができる。
 笈ヶ岳は、白山の北方稜線において、石川、富山、岐阜の三県の接点に位置する山である。深田久弥の日本百名山の後書において、「北陸では白山山脈の笈岳か大笠山を是非入れるつもりであった。これは私のふるさとの山としての身贔屓ばかりではなく、こんな隠れた立派な山があることを世に吹聴したかった。しかしまだ登頂の機会を得ないので遺憾にも割愛した。」と書かれている。日本200名山には当然のことながら選ばれている。この山には一般登山道は無く、残雪を利用して登る山として残され、深田ファンのあこがれの山となっている。
 笈ヶ岳を始めて見たのは、95年6月11日の人形山登山の時。大門山から大笠山を経て笈ヶ岳至る山稜は、山頂部に残雪をまとった姿で、目の前に横たわっていた。二度目は、96年6月8日の大笠山の際。残雪の登山道からは、谷向こうに大きい笈ヶ岳。大笠山の山頂では、流れる霧の隙間から目の前に、しかし薮にへだたれて遠く眺めた笈ヶ岳であった。かなわぬ恋のように、憧れの気持ちは高まった。大笠山の時に、次は笈ヶ岳に登ろうと山の友達の山口氏と約束を交わした。五月の連休の後半の三連休を笈ヶ岳にあてることにしたが、野伏ヶ岳での敗退、直前の電子メールによる笈ヶ岳の登山情報の入手によって、今年の雪解けは例年になく早いことを知った。さらに、登山の当日は雨という天気予報まで出てしまった。直前の電話連絡によっても結論は出ず、とにかく現地に集合することになった。
 集合は12時と遅かったため、雨が降る前に、とりあえず短時間で登れる山を登っておくことにした。笈ヶ岳から大笠山、大門山を経た山稜の末端にある袴腰山に登ろうとしたが、菅沼合掌集落から林道を上っていった小瀬の集落のゲートが閉まっており、登山を諦めざるを得なかった。第二候補の、五箇山周辺から眺めることのできる高坪山に向かうことにした。獅子越林道高坪線の入口はすぐに分かったものの、登山口がわからず、一旦は相倉の合掌集落の駐車場まで戻った。世界遺産の指定に夢中のようで、駐車場やトイレは良く整備されていたが、高坪山のことなど忘れられたかのように、山の案内についてはなにも見あたらなかった。再び林道を登っていくと、沢沿いに上っていく枝道が分かれるあたりから路面の状態は悪くなり、分岐に車をとめて歩き出すことにした。林道を登っていくと、谷向こうに三角形のすっきりした山が現れ、山頂部に電波の反射板が設置されていることから、この山が高坪山であることを確かめることができた。林道は、つづら折りに山頂近くまで登っていき、最後は鞍部めざして延びていった。昔の登山道があるはずであったが、どこにも見あたらず、不安を覚えながら林道歩きを続けた。林道の上には残雪も現れ、歩く人も少ないのか、フキノトウが数多く芽を出していた。鞍部を乗り越す手前で、ようやく高坪山登山口の標柱が雪に埋もれながらも現れた。ひと登りで尾根にとりつくと、急な所には段々も設けられ、良く整備された登山道になった。登山道の脇には赤い椿がなまめかしく咲き、目をとられていると、大きなガマガエルが這い出してきて、なにやらあやかしめいた風情がただよってきた。高坪山の山頂は、反射板の少し先であった。相倉の集落を見下ろすことのできる、里山といった感じの山頂であった。  車に戻って、白山スーパー林道の馬狩ゲートに向かった。国道から分かれると、スーパー林道は、予想していた以上に高い所まで上がって、馬狩ゲートに到着した。ゲート前の駐車場には、10台以上の車がとまっていたが、登山者の姿は見あたらなかった。車の中で休んでいると、京都からのメンバーが到着した。笈ヶ岳に登るかについての相談は、結局、三方岩トンネルまで登って様子を見るということになった。テント泊の道具を詰め込んだ重いザックを背に、立派な舗装道路を歩き出した。道路は大きくカーブして、歩く距離の割には、高度はなかなか上がっていかなかった。頭上に見えるつづら折りを登り切ると、中間の目的地の白川展望台に到着した。広い駐車場と休憩施設らしい建物があったが、閉鎖されていた。道路脇を流れる雪解け水で、喉の乾きをいやした。休憩していると、おじさん二人連れが下りてきた。明日登山の予定で、今日はトンネルまでの荷揚げをしているとのことだった。情報を仕入れようと話を聞くと、笈ヶ岳には10回、猿ヶ馬場山には17回登っているとのことで、笈ヶ岳に登るのは難しく無いと軽く言われてしまった。白川展望台を過ぎると、谷を巻いて山腹をトラバースする道になった。山の斜面は豊富な残雪でおおわれていたが、道路は良く乾いて、道路工事のためのシャベルカーが各所でとめられていた。頑張って歩いたせいか、予定よりもかなり早く三岩トンネルに到着した。トンネル入口の駐車場には、ひと張りのテントがすでにあった。荷物をトンネル内において、テントで仲間の下山を待つおじさんに話を聞くと、15名と30名の団体が国見山のテント場に上がっているとのことだった。山は大賑わいで、少々の無理も利きそうであったが、団体をまず追い抜く必要がありそうであった。トンネル内にテントを張り、トンネルの割れ目からしたたる水を使って湯を沸かし夕食にした。早朝の出発を予定して、早めに眠りについたが、遅れて到着した、若い女の子を含んだ7名程のグループの話し声がトンネル内に反響して、眠りになかなか入れなかった。夜中にトイレに起きると雨が降り出していた。少し戻った道路の上に、ひとかかえ程の雪のブロックと思ったら落石が、2個落ちていた。昼間には無かった物だった。
 翌朝は小雨であった。懐中電灯をたよりに、アイゼン、スパッツ、雨具を身につけた。テントはそのままで、いつもの重さのザックで歩けるのが助かった。トップで歩かせてもらうことになった。トンネル右手の雪の急斜面を慎重に登って、稜線上に出た。稜線を少し歩いた所に、木製の展望台が設けられていた。夏には、この一帯はどのようになっているか、興味のあるところであった。右手の尾根めざして雑木林の中を登ると瓢箪(ふくべ)山、といっても、あっけなく到着して、しらないうちに通過してしまった。雪原の上を快適に歩いていくと、国見山の手前のピークに到着した。国見山のオオシラビソの点在する雪原には、テント村が出現していた。明るくなって、山が姿を現した。めざす笈ヶ岳はどのピークか問題になった。右奥に見える鋭峰まではちょっと遠すぎるので、これは大笠山ではないのだろうか。登ってくる途中で見えていた同じ様な鋭い山頂は、ここからはどっしりとした仙人窟岳らしいピークに隠されて見えないようだ、という結論になった。夜明けの山々を眺めている間にも、雲がわいてきて、遠くは見えなくなってしまった。朝の挨拶をしながらテント村を通過して、これで団体を追い抜いたと安心したのもつかの間、稜線の先の小ピークに登ったら、崖の縁に出てしまった。後で地図を確かめたら、国見山の西のピーク(1690m)に誤って登っていた。トレースを探すと、正解は、国見山の北の雪原をトラバースしながら下るものであった。国見山を下るに連れ、尾根はやせてきて、西斜面の絶壁を覗き込む所も出てきた。トレースは、おおむね東斜面の残雪の縁を歩くように付いていたが、残雪が崩れ落ちて踏み跡が宙に消えていたり、融けて崩れんばかりの所もあって、その都度稜線上の薮に突入する必要があった。1646ピークに登りつくと、その先は、薮漕ぎが主になって、うまくすると稜線直下の残雪歩きができて時間が稼げるといった状況になった。薮は潅木が主であったが、多くの人間が通って梳かれているためか、見た目よりは前に進むことができた。仙人窟岳に近づいたところで、京都の女性メンバーが遅れはじめ、山頂までは無理ということで、ツェルトを張ってその場で待ってもらうことになった。遠くの視界が利かず、また細かいアップダウンがあるため、仙人窟岳は知らないうちに通過した。大きな荷物を持った8名程のグループを追い抜き、話を聞くと、大笠山への縦走とのことであった。一旦下った後に登りに転じた所で、岩峰の下部に出た。岩峰の右手の残雪は、崩れてシュルンドが大きく口を開けて、巻くことはできなかった。正面突破しかないのかということで、メンバーの一人が登りかけた。念のために左の崖を覗いてみると、固定ロープがあり、潅木の中を水平に数メートル進んだ先の崖にロープが下がっていた。木の枝とロープを支えに4メートル程の崖を登ると、岩峰の上の草付きに出ることができた。難関を突破して登りを続けていくと、安定した雪原に変わった。左手のただの薮に赤テープが二本吊るされており、ここが冬瓜山との分岐のようであった。雪原を登っていくと、6名程の大学生らしい男女グループが下ってきて、山頂まではあと僅か、と教えてくれた。冬瓜山コースからとのことであったが、皆軽装で、テント場からの往復のようであった。その先で、国見山からの単独行が下山してくるのに出合った。左上にトラバース気味に登っていき、尾根に出たところで右に曲がると、山頂手前のにせピークに出た。一旦下って、最後の登りにかかると、雪の上に泥のトレースが濃くなってきた。単独行が、山頂は土が出ていたと言っていたが、これは山頂が近い印と、最後の力を振り絞った。霧の中からこんもり盛り上がった山頂が現れ、薮漕ぎで這いあがると、待望の笈ヶ岳の山頂であった。山頂は、薮は刈ってあったが、三角点と石の祠、山名標柱、記帳ノート入れのホーロー容器が並んで、10名程でいっぱいになりそうであった。ホーロー容器内のタッパーに数枚の名刺が納めてあったので、ホームページ「新潟からの山旅」のアドレスを書いた山の名刺を納めた。笈ヶ岳の山頂の名刺を見たという人からメールをもらうことがあったら楽しいのだが。
 雨も少し強くなり、山頂の記念写真と食料の補給だけで、いそいで下山することにした。登頂できたことで、再び歩く元気を取り戻した。岩峰に戻ると、15人グループが岩場を通過する所であった。続く30名グループには、登るのを待ってもらって、岩場を先に下ろさせてもらったが、10分以上の待ちになった。しかし、岐阜のハイキンググループというこの団体は、岩峰の地点ですでに2時間も我々のグループから遅れており、同じ早さで下山したとしても、国見山のテント場到着は4時半。さらに差が開いたなら、日没になってしまい、笈ヶ岳には登頂できたのか疑問が残った。残した女性メンバーと合流して、帰りも長い薮漕ぎと残雪歩きを続けた。昼になって天候が回復してきて、展望も開け、それとともに雪もグズグズになって滑りやすくなった。登りの時にはガスで気が付かなかったが、トレースは谷まで一気に落ち込む残雪の縁をたどっていた。国見岳との鞍部への下山は、滑落しないように注意深く歩を進める必要があった。国見岳への登りは、これが最後と分かっていてもきつかった。国見山北面の雪原の下に出て、ようやくやせ尾根歩きも終わったことにほっとした。国見山のテント村に登りつくと、祝福するかのように、白く輝く白山が姿を現した。右手に白山、正面に三方岩岳を眺めながらの、足は重いが快適な尾根歩きを続け、最後にトンネル入口への急斜面を下り、ようやく朝の出発点に戻ることができた。トンネル入口付近には、数張りのテントが並び、行きに会った岐阜の山の主のようなおじさんが、出迎えてくれた。
 歩き疲れて、テントの撤収も面倒になって、もう一泊することにした。天気も良いので、テントをトンネルの外に移動したが、後で後悔することになった。とぼしい食料で夕食を済ませ、テントから夕暮れの山を眺めていた。7時過ぎだというのに、ヘッドランプで下山してくるグループがおり、そのまま林道を下っていった。夜中に、雷が鳴って激しい雨になった。ひと張りのテントは浸水したため、3名が夜中に先に下山することになった。雨はそのまま続き、3時になって、登山予定のグループが、出発か否かと騒ぎ始めたため、こちらもテントの撤収を始めた。ヘッドランプを頼りにスーパー林道を下っていくと、道路上は落石だらけで、雪崩が道路を完全に埋めている場所が4個所も出てきた。肝を冷やしながら、下山の足を早めた。どうやら、気温の上がった午後から、雨の降った夜半までに雪崩が起きたようであった。雪崩の危険地帯は、白川展望台まで続いた。雪崩の発生場所を良くみると、道路のすぐ上の斜面の雪はそのまま残っている所もあり、遥か上から落ちてきているようであった。白川展望台を過ぎると、新緑に囲まれて雪崩の心配は無くなったものの、長い歩きが残されていた。

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