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雷山、福連寺山

1997年3月2日 日帰り 単独行 晴

雷山 いかづちやま(377.9m) 三等三角点 川内山群(新潟県) 5万 新津、加茂 2.5万 村松、越後白山
福連寺山 ふくれんじやま(180m) 菅名山塊(新潟県) 5万 新津 2.5万 村松

ガイド:片雲往来 PartIII(第一部)―阿賀南の山々(上村幹雄著 私家本)

3月2日(日) 6:30 新潟発(R.49、R.403、新津、五泉、村松)=7:30 川内集落入口〜7:52 発―7:59 永谷寺(ようこくじ)―8:09 林道分岐―8:35 林道終点〜8:42 発―9:24 尾根分岐―9:42 雷山〜10:00 発―10:12 尾根分岐―10:59 林道終点―11:13 林道分岐―11:27 永谷寺〜11:40 発―11:53 川内集落入口=(土淵 経由)=12:05 福連寺山林道入口―12:10 林道終点―12:22 福連寺山〜12:35 発―12:35 送電線鉄塔―12:46 林道終点―12:52 福連寺山林道入口=(R.290、馬下、R.49、安田、R.290、宝珠温泉、出湯、水原、R.49 経由)=15:00 新潟着

 雷山は、早出川と仙見川に挟まれ、菅名山塊の不動堂山と白山に向かいあう、川内山群の入口にある山である。この山頂には雷城と呼ばれる山城が築かれ、早出川の対岸の福連寺山の福連寺城との間の争いにまつわる、「東光院物語」という、若君と姫君の悲恋の伝説が残されている。この伝説は、麓の永谷寺に残されたものであり、この古刹には、「おぼと石」という伝説のまつわる史跡も残されている。
 福連寺山は、菅名山塊が早出川に落ち込む最後の高まりである。不動堂沢によって不動堂山と切り放されて、小さいながらも独立した山の形をなしているが、登山道も無いこの山が登山の対象になるのは、「東光院物語」の伝説故のことであろう。
 おとといの快晴、昨日の雨、そして今日は快晴。めまぐるしく変わる天気も、春の訪れを告げているのであろう。新津に向かうと、菅名岳を正面に、左に五頭山塊、右に白山の山岳展望が広がった。1月に不動堂山に登ったが、今回の雷山は、その向かいの山である。川内集落の入口に車を停めて歩き出した。集落内に永谷寺の標識があり、沢沿いの道を歩いていくと、永谷寺の石段下に出て、ここには永谷寺駐車場と書かれた3台程の駐車場があった。この先からは、雪の残る林道になった。杉林の中の林道の脇には、瀬音を立てて沢が流れていた。始めは雪が解けて現れた土の部分を辿りながら歩いていたが、左に林道が分かれると、全面の残雪になり、スノーシューを付けての歩きになった。先行者の足跡があり、林道の入口に停めてあった車の持ち主のもののようであった。林道は、谷を巻きながら、沢を渡って、向かいの斜面に登っていった。登山道を探しながら歩いていくと、山の西斜面に出てしまい、そこで林道は終わった。その先の小ピークを越した先に送電線の鉄塔が立ち、そこに向かって道が付けられていた。持ってきた山行記録のコピーを見ると、やはり林道を来すぎたようであった。地図を見ると、林道の切り通しを折り返すように上っていく尾根は、沢の源頭部を巻いて山頂直下まで続いているようであった。仙見川側の斜面は伐採されて杉も伸びきっておらず、見通しも良さそうで迷う心配もなさそうなので、この尾根を登ることにした。伐採地は急斜面のため、坪足になって登り始めた。先行者の足跡も見つかり、コースはこれで良さそうであった。ひと登りして、右手の枝尾根の先の地図で232mとあるピークを見るようになると、雷山の山頂も確かめることができるようになった。かなり先であった。右手の仙見川側には雑木林、左手の川内谷は杉の植林地になり、境界部の残雪をたどる道になった。暖かい陽気のため、数歩ごとに足が雪の中に埋もれてしまい、体力を消耗した。右手の木立の間からは、雪に染まった白山、左手には不動堂山、振り返ると新津丘陵や新潟平野が広がり、なかなかの展望であった。雪の上には、たくさんの動物の足跡が残り、カモシカもいるなと思ったら、目の前の薮の中に本人が立っていた。警戒心は無く、こちらがカメラを取り出してシャッターを切る間もじっとしていた。北からの尾根が合わさる頂上直下からは、杉林の歩きになった。最後の急斜面を登ると、杉林の中の台地といった感じの雷山の山頂に到着した。先行者の単独行が無線アンテナを立てて交信中であった。杉林の中を、山頂標識や、あるはずの三等三角点を探したが、見つからなかった。山頂の南の縁に出ると、川内の山々の眺めが広がった。日本平山から右手に続いていく数々のピークは、登頂意欲をそそらされるが、登る日はあるのであろうか。場所を少し移動しながら、白山や菅名岳方面の眺めを楽しんだ。下りは、頂上直下から北に伸びる尾根を探ってみたが、道の形はみつからず、かなり育った杉林の中で見通しも利かず、安全策をとって来た道を戻ることにした。下りは気分にも余裕が生まれ、快晴の青空の下の展望を楽しむことができた。雑木林の中には、黄色いマンサクの花が咲いており、新潟にも春がやってきたようであった。林道に降り立ち、登山道を探しながら山を下った。途中、杉林の中の急斜面を登っていく踏み跡があり、少し入った所にテープが付けられている個所があった。ここが登り口であったのか、それとも登ってきた時に見た左手の林道を進むべきであったのか。北に延びていく尾根の末端付近にある送電線の鉄塔へは、明らかな保守道が付けられていたので、そこから尾根をたどる道があるのであろうか。結局、整備された道があるのかは判らなかった。
 林道の入口に案内板があり、以下のような謂れが書かれていた。
雷城 永世年間(1504〜21)に、この登山口から登る雷山の山頂にある雷城と、対岸の福連寺城が戦いました。水不足に苦しむ雷城は山頂から白米を流して水があるように見せかけました。雷城が別名「白米城」とも言われているのもそのためです。しかし、敵方に見破られ水攻めにより落城しました。また、城主は再興をを期して宝物を城跡に埋め、その上に白南天を植えたといわれています。  伝説に出てくる、永谷寺にも寄っていくことにした。お地蔵様の前の石段を登っていくと、大きなお堂の前に出て、左手に供養塔の五輪線刻塔婆があった。左手奥に進むと、丸い自然石を載せた歴代住職の墓がコの字型に並ぶ、伝説の「おぼと石」(無縫塔石)に出た。説明板によれば、
おぼと石 雷城落城の際、城主のひとり娘菊姫が東光院淵に身を投じましたが、永谷寺の大潮浮船和尚の功徳によって成仏し、淵の龍神と化したのに感謝し、歴代の住職が亡くなる七日前になると淵から丸い石を届けるようになりました。村人はこの石をオボト石と呼んでいます。毎年、般若会には見知らぬ女性が座っており、これは菊姫の化身がお参りに来ると伝えられています。
 伝説では、菊姫の相手方の霧丸の居城の福連寺山にも登ることにした。対岸の土淵集落に移動し、山の南面の林道の入口に車を停めた。林道の入口は、ワイヤーで閉鎖されていた。林道を登っていくと、直ぐに終点になった。杉の植林地の中を、小さな沢に沿って登った。さらに、その上の雑木林の中を枝をかき分けながら一直線に登った。あたりの枯れ草の中で、ヤブツバキの葉が緑に光っていた。稜線にでると、不動堂沢側はかなり育った杉の植林地で、稜線上に明らかな道が付けられていた。左手に曲がって、雑木林の中を登ると、福連寺山の山頂に到着した。山頂は雑木林に囲まれ、眺めはあまり良くなかったが、雷山は目の前であった。杉の木に、金属円盤の山頂標識が打ちつけられていた。帰りは、稜線の残雪上には足跡があって最近登った者もいるようなので、どこかに登山道があるのかと思って、稜線上の道を先に進んでみた。送電線の鉄塔の下にでると、谷を越して、不動堂山が目の前に大きく広がったが、採石場の傷跡が気にかかった。これ以上の破壊が進まなければ良いのだが。足跡も消え、送電線の保守道も良く判らなかったので、来た道を戻ることにした。薮を漕ぎながら下っていくと、小沢の源頭部に出て、林道の終点広場にあっけなく下りることができた。
 登山口近くには、村松さくらんど温泉があるが、この前入ったばかりなので、ドライブがてら宝珠温泉に寄っていくことにした。菅名山塊の眺めを楽しみながら車を走らせていくと、脇の田圃で、白鳥の集団が餌をついばんでいた。カメラを持ってあぜ道を近づいていくと、一斉に飛び立ってしまった。宝珠山の麓にある、宝珠温泉あかまつ荘(500円)は、平成八年一月に増改築され、大きな日帰り温泉に生まれ変わっていた。今度は、五頭山塊の眺めを楽しみ、帰る途中で瓢湖をのぞくと、観光客は多いものの、カモばかりで白鳥はいないようであった。
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