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志津倉山、土埋山

1996年6月29日 日帰り 単独行 曇り

志津倉山 しずくらやま(1234m) 二等三角点 北会津(福島) 5万 宮下 2.5万 野尻、博士山
ガイド:アルペンガイド「東北の山」(山と渓谷社)、分県登山ガイド「福島県の山」(山と渓谷社)、ふくしまの山50(歴史春秋社)、南会津・鬼怒の山50(随想社)、東北百名山(山と渓谷社)、東京周辺の山(山と渓谷社)

土埋山 つちうめやま(607m) 一等三角点補点 会越国境(新潟、福島) 5万  徳沢 2.5万 野沢
ガイド:越後の山旅上巻(富士波出版社)、ラテルネ3(峡彩ランタン会)

6月29日(土) 5:10 新潟発=(R.49、会津坂下、R.252、会津宮下、大谷 経由)=8:50 大沢登山口〜9:15 発―9:20 細ヒドコース分岐―9:32 雨乞岩分岐〜9:41 発―9:56 合流点―9:58 最後の水場―10:09 屏風岩―10:15 三本松―10:30 ブナ平分岐―10:40 志津倉山山頂〜10:45 発―10:58 大辺峠分岐―11:40 細ヒドコース分岐―11:44 大沢登山口=(大谷、会津宮下、R.252、会津坂下、R.49、福取トンネル、津川カントリークラブ入口、田沢)=13:35 登山口(電柱No.31)〜13:40 発―14:22 土埋山山頂〜14:25 発―15:00 車道(電柱No.36)―15:04 登山口(電柱No.31)=(津川カントリークラブ入口、R.49 経由)=17:40 新潟着

 志津倉山は、会津の山奥にあり、ブナにおおわれ、山の北面には巨大なスラブがかかって、独特の姿を見せている。また、多くの伝説に富んだ山である。雨乞岩で祈れば、たちどころに雨になり、猫啼岩には齢1000年を経たカシャ猫が住んで死体をさらい、狗ひん様が住むので、「空木がえし」という不気味な音が聞こえるという。
 土埋山は、会越国境沿いにある一等三角点の山である。ピラミッド型の形をした山であるが、標高が低いためか、一般登山の対象にはなっておらず、一等三角点目当てに登られている山である。なお、この山の呼び方は、コンサイス日本山名辞典に基づいたが、同辞書にはかっことして(つちうずめ)という読みも載っており、さらに越後の山旅上巻において、新潟の山の権威とも言える藤島玄氏は、つちうずみとヨミをふっている。
 朝早く新潟を出発したが、途中で小雨が降ってきたのをきっかけに、1時間ばかり眠でしまった。R.252の会津宮下のバイパス道から大辺峠へ向かう分岐には、志津倉山という標識が立っていた。登山口までの道は、所々狭い所もあるものの、舗装され、車を走らせるのに問題は無かった。道が山に向かって標高を上げていくと、車が4台路肩にとまっており、その先の沢を渡ったところが登山口であった。雨上がりで、下草は濡れていたが、一応雨具は着ないでもすむ天気であった。登山口のブナの大木のかなり上に登山口の標識が打ち付けられていた。登山道を入った所に、志津倉の鐘と名付けられた鐘があったので、ひと鳴らししたが、なんとなく湿った音がした。新潟の山には、山頂にこのような鐘が設けてある所が多いが、このような登山口にあるのは初めてであった。登山道は、腐葉土でおおわれ、沢の水も流れ込んで、グシャグシャの状態であった。ゆるやかに登っていくと、この山の紹介の写真でかならず載っている雨乞岩の下に出た。たしかに山頂付近から一気に落ち込む岩肌は、一見の価値のあるものであった。雨乞岩の下部は、堆積した残雪がまだ残っていた。写真を撮って、フィルム交換の時、うっかりして撮影済みの方のフィルムを落としてしまった。フィルムは、3mほど転がって草むらの中に消えてしまった。急いで草むらをかき分けたが、手に草のとげがささるだけで見つからなかった。ストックを取り出し、はじからくまなく草むらを探っていくと、ようやく見つけることができてホットした。再び歩き出すと、最後の水場に出て、やせ尾根のシャクナゲ坂の急な登りが始まった。岩場の登りならぬ木の根っ子の登りであった。木の根は雨上がりで濡れており、落ち葉も積もり、さらに右手は絶壁で、油断のならない登りであった。三点確保と、自分に言い聞かせる必要があった。途中、足先が僅かにしかかからない岩場を鎖を頼りに登り、屏風岩の絶壁を巻いて登っていくと、三本松に出た。この先は、ようやく足だけでも登れるようになり、ブナ林の中の道になると稜線上の分岐に出た。志津倉山本峰へ少し進んでみたが、道は潅木でおおわれいた。それほど密集度は高くはなかったが、雨上がりの濡れた葉をかきわけて進むのは苦労が多く、諦めて戻ることにした。ブナ平分岐から緩やかに登っていくと、登山道上のわずかな高まりといった感じの山頂に出た。三角点の脇に山頂標識が立てられ、周囲は刈り払われていたが、雲が厚くて周囲の展望は得られなかった。山頂からは、細ヒドコースに向かった。ブナ林の中を緩やかに下っていくと、大辺峠への分岐に出た。標識が立っているので、それと分かったが、大辺峠への道は完全にヤブで消えていた。北に向かって下っていくと、しだいに急斜面の下りになった。登りにとったシャクナゲ坂よりは歩きやすく、ロープも整備されていた。U字型の鉄製足場が連続的に埋め込まれた一枚岩を下ると、急斜面も終わった。沢で汚れた手を洗って進むとその先で、前に歩いた道に戻ることができた。変化に富んだ歩きであったが、時間も早いので、帰りがてらもうひと山かせぐことにした。
 土埋山は、一等三角点の山として懸案の山であった。越後の山旅にはこの山の紀行文は載っているものの、かなり以前のもので周辺の状況も変わっており、参考にはならなかった。たまたま、新潟の山岳会の峡彩ランタン会の会報をもらい、目を通すとこの山の紀行文が載っていたので、これを参考にすることにした。福取トンネルの新潟県側から、津川カントリーへの道を進み、田沢の集落を過ぎて標高を上げていくと、左手に林道跡らしい道が現れた。かたわらにNo.31の電柱もあり、ここが会報に出ていた登山口であった。再び登山の支度をして、茅原道に進むと、植林地の中で、道は消えてしまった。尾根に取り付くはずであったが、その入り方が分からなかった。左手の山に向かって草むらをかきわけて進むと、潅木の斜面に出た。踏み跡は見つからなかったが、潅木の下生えはまばらであったので、強引に、真っ直ぐ登ってみることにした。少し登った所でテープが見つかり、その先で、右手から尾根上に付けられた明瞭な踏み跡が現れた。道を見つけて、ようやく登りに専念することができるようになった。急な尾根道を登っていき、ピークの上に出たと思ったら、山頂はまだかなり奧にあった。車道からすぐそこに見えていたのは、山頂ではなかったようである。その先でヤブはかなり深くなり、足元もほとんど見えないような状態になったが、尾根沿いの道で迷子になる心配はなかった。雨上がりののヤブ漕ぎで、今回の山でも全身ズブ濡れになってしまった。ようやくたどり着いた土埋山の狭い山頂は、刈り払われた中に土に埋もれかかった一等三角点があるだけで、山頂名を示す標識はなにもなかった。晴れていたなら、飯豊連峰の眺めが楽しめるらしいが、ただ、津川カントリークラブのゴルフ場を見下ろすことができるだけであった。しかし、このゴルフ場は、林道を延々と走った先のとんでもない山奥に造ったものだ。山頂の反対側にも、かすかな踏み跡らしきものはあったが、その先は不明であった。再びヤブに突入して下っていき、落ちついて見ていくと、かなりのテープが枝に付けられていた。急斜面の下りであったが、掴む枝には不自由しなかった。来た道を戻るならば、尾根の最後の部分で、右方向に離れる必要があったが、そのまま踏み跡をたどることにした。踏み跡は、尾根の左手に回り込み、杉の植林帯に入った。テープをたどりながら、踏み跡ををたどっていくと、急に車道に飛び出してしまった。かたわらには、No.36の電柱があった。車をおいたNo.31の電柱は、車道を緩やかに登っていくと、すぐそこであった。
 土埋山への登り方をまとめると、次のようになる。「No.36の電柱の前に、杉林の中に登っていく踏み跡があり、その入口には、赤布がぶる下がっている。杉の植林帯の中でコースやややわかり難くなるが、残されたビニールテープを頼りに登っていくと、左手から尾根がせまってくる。尾根上に出ると、この先は、ヤブがうるさい所も現れるが、明瞭な踏み跡が山頂まで続く。」
 今回も、すっかりズブ濡れになってしまった。帰りに、新潟近くまで車を走らせた後、馬下保養センター(400円)で温泉に入ってから帰宅した。

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