9517

飯野山(讃岐富士)

剣山、次郎笈、一ノ森

三嶺

石鎚山、二ノ森、瓶ヶ森

寒風山、笹ヶ峰、伊予富士

東赤石山

富士写ヶ岳

1995年4月29日〜5月5日 7泊8日 単独行 雨/曇時々雨/雨/雨のち曇/曇時々雨/晴

飯野山(讃岐富士) いいのやま(さぬきふじ)(422m) 三等三角点 讃岐平野(香川)5万 丸亀 2.5万 丸亀
ガイド:分県登山ガイド「香川県の山」(山と渓谷社)
剣山 つるぎさん(1955m) 一等三角点本点
次郎笈 じろうぎゅう(1929m)
一ノ森 いちのもり(1879m) 剣山山地(徳島) 5万 剣山 2.5万 剣山
ガイド:アルペンガイド「中国・四国」(山と渓谷社)、分県登山ガイド「徳島県の山」(山と渓谷社)、日本百名山登山ガイ ド下巻(山と渓谷社)、日本300名山ガイド西日本篇(新ハイキング社)、一等三角点百名山

三嶺 みうね(1893m) 二等三角点 剣山山地(徳島、高知) 5万 剣山、川口、大栃、北川  2.5万 京上、剣山、久保沼井、北川
 ガイド:アルペンガイド「中国・四国」(山と渓谷社)、分県登山ガイド「徳島県の山」(山と渓谷社)、高知県の山(山と渓 谷社)、日本300名山ガイド西日本篇(新ハイキング社)

石鎚山・天狗岳 いしづちさん・てんぐだけ(1982m)
二ノ森 にのもり(1929m) 一等三角点本点 石鎚山脈(愛媛) 5万 石鎚山  2.5万 石鎚山
瓶ヶ森 かめがもり(1896m) 二等三角点 石鎚山脈(愛媛、高知) 5万 石鎚山  2.5万 瓶ヶ森
ガイド:アルペンガイド「中国・四国」(山と渓谷社)、分県登山ガイド「高知県の山」(山と渓谷社)、日本300名山ガイ ド西日本篇(新ハイキング社)、一等三角点百名山

寒風山 かんぷうざん(1763m)
笹ヶ峰 ささがみね(1859m) 一等三角点補点
伊予富士 いよふじ(1756m) 三等三角点 石鎚山脈(愛媛、高知) 5万 日比浦 2.5万 日ノ浦
ガイド:アルペンガイド「中国・四国」(山と渓谷社)、分県登山ガイド「高知県の山」(山と渓谷社)、日本300名山ガイ ド西日本篇(新ハイキング社)、一等三角点百名山

東赤石山 ひがしあかいしやま(1707m) 三等三角点 法皇山地(愛媛) 5万 新居浜 2.5万 弟地、別子銅山
ガイド:アルペンガイド「中国・四国」(山と渓谷社)、日本300名山ガイド西日本篇(新ハイキング社)

富士写ヶ岳 ふじしゃがだけ(942m) 一等三角点補点 白山前衛(石川) 5万 大聖寺 2.5万 越前中川、山中
ガイド:とやま山歩き(シーエービー)

4月28日(金) 19:45 新潟発=(北陸自動車道)=23:55 尼御前SA  (車中泊)
4月29日(土) 4:32 尼御前SA発=(北陸自動車道、敦賀IC、R.27、舞鶴西IC、舞鶴自動車道、吉川JCT、中国自動車道、福崎IC、播但連結道路、山陽姫路東IC、山陽自動車道、倉敷JCT、瀬戸中央自動車道、坂出IC 経由)=12:35 飯山町飯の山登山口〜12:48 発―13:16 丸亀登山道分岐―13:23 飯野山山頂〜13:32 発―13:38 丸亀登山道分岐―14:08 研修センター―14:12 飯神社―14:29 飯山町飯の山登山口=(R.438、岡田、R.32、井川町森、R.192、貞光町、一宇 経由)=18:17 見ノ越  (民宿平家の宿泊)
4月30日(日) 7:15 見ノ越発―7:52 リフト西島駅―8:07 大剣神社―8:19 刀掛の松分岐―8:27 剣山山頂〜8:33 発―8:44 トラバース道分岐―8:54 次郎笈峠―9:12 次郎笈〜9:21 発―9:32 次郎笈峠―9:43 トラバース道分岐―9:59 剣山山頂〜10:19 発―10:51 行場分岐―10:58 一ノ森〜11:04 発―11:11 行場分岐―11:26 追分分岐―11:33 行者場―11:59―リフト西島駅―12:24 見ノ越着=(R.439、名頃、三嶺林道 経由)=15:25 三嶺登山口着  (車中泊)
5月1日(月) 5:05 三嶺登山口発―5:24 水の休み場―5:43 林道終点コース分岐―6:26 池のT字路―6:37 三嶺山頂〜6:40 発―6:48 池のT字路―7:24 林道終点コース分岐―7:36 水の休み場―7:49 三嶺登山口=(R.439、東祖谷山村、県道32、西祖谷山村、祖谷渓道路、R.32、大歩危、池田町、R.192、三島川之江IC、松山自動車道、川内IC、R.11、R.494、面河村、石鎚スカイライン 経由)=16:00 土小屋着  (岩黒山荘泊)
5月2日(火) 6:30 土小屋発―7:49 二ノ鎖小屋―8:04 三ノ鎖分岐―8:12 弥山〜8:23 発―8:32 天狗岳山頂〜9:06 発―9:16 弥山―9:21 三ノ鎖分岐―9:40 面河山登山道水場―9:51 二ノ森分岐―10:30 高瀑道分岐―11:21 二ノ森山頂〜11:34 発―12:32 高瀑道分岐―13:24 二ノ森分岐―13:30 三ノ鎖分岐―13:41 二ノ鎖小屋―14:41 土小屋=(瓶ヶ森林道経由)=15:23 瓶ヶ森登山口―15:49 瓶ヶ森・男山―16:02 瓶ヶ森・女山〜16:15 発―16:25 瓶ヶ森・男山―16:44 瓶ヶ森登山口=(瓶ヶ森林道経由)=18:20 寒風山トンネル  (テント泊)
5月3日(水) 5:50 寒風山トンネル発―6:33 桑瀬峠―7:25 寒風山―8:35 笹ヶ峰〜8:44 発―9:56 寒風山〜10:05 発―10:46 桑瀬峠〜10:49 発―11:19 巻道分岐―11:53 伊予富士山頂〜12:06 発―12:35 巻道分岐―13:00 桑瀬峠―13:33 寒風山トンネル=(R.194、西条、R.11、新居浜、別子ライン、別子山村 経由)=19:30 鍋床着  (テント泊)
5月4日(木) 6:00 鍋床・瀬場中間点路肩駐車発―6:07 瀬場登山口―6:22 筏津登山道合流点―6:44 八間滝分岐?―6:55 直登コース分岐―7:32 沢の左岸から右岸への横断点―8:03 沢の右岸から左岸への横断点―8:23 赤石小屋分岐―8:26 赤石小屋〜8:31 発―8:32 赤石小屋分岐―8:45 赤石越分岐―8:54 赤石越―9:01 東赤石山山頂〜9:19 発―10:00 トラバース道合流点―10:13 権現越〜10:17 発―10:37 権現越下の空き地で登山道を見失う―11:14 電力会社鉄塔保安道分岐―11:54 床鍋―12:04 駐車場=(別子山村、金砂湖、R.319、川之江、三島川之江IC、松山自動車道、坂出IC、瀬戸中央自動車道、倉敷JCT、山陽自動車道、山陽姫路西IC、R.29、山崎IC、中国自動車道、吉川JCT、舞鶴自動車道、舞鶴西IC、R.27 経由)=23:15 小浜  (車中泊)
5月 5日(金) 4:00 小浜発=(R.27、敦賀IC、北陸自動車道、加賀IC、R.8、R.364、山中温泉、我谷ダム 経由)=7:34 枯淵登山口〜7:46 発―9:14 展望台地―9:18 我谷分岐―9:21 富士写ヶ岳山頂〜9:37 発―9:39 我谷分岐―9:43 展望台地―10:45 枯淵登山口=(我谷ダム、R.364、山中温泉、R.8、加賀IC、北陸自動車道経由)=19:12 新潟着
全走行距離  2217km

 飯野山は、讃岐平野の中に盛り上がった独立峰である。どこからみても円錐形の形から、讃岐富士とも呼ばれている。頂上には、薬師堂や石碑などがあり、麓の人々の信仰の山として守られてきた山である。
 四国は、主に東の剣山地と西の石鎚山地に分けられる。剣山は、石鎚山に次いで、西日本第二位の高峰であり、共に信仰登山の山である。シコクザサにおおわれた穏やかな山頂を持ち、山の名前は、史実に反して生きて落ちのびた安徳天皇の剣を奉納した故事に由来するといわれている。次郎笈は、剣山と対峙するピラミッド型の山であり、名前の由来は、主峰剣山を「タロウギュウ」と呼んだのに対し、こちらを弟に見立てて「ジロウギュウ」と呼んだことによる。一ノ森は、剣山の東に位置し、東の展望が大きく開けていることで人気がある。また、三嶺は、剣山の西にあり、二つの山を結ぶ縦走路は人気の高いコースになっている。三嶺は、シコクザサでおおわれたのびやかな山頂を持ち、四国で最も美しい山といわれている。
 石鎚山は、石鎚山地の盟主であり、その天狗岳が西日本の最高峰である。石鎚山は、現在も続く修験道の山で、山中の岩場には、信者の肝を冷やすための鎖が掛けられている。二ノ森は、石鎚山から西に延びて堂ヶ森にいたる尾根上にある愛媛県第二位の高峰である。この地域の一等三角点は、この山に置かれている。瓶ヶ森は、石鎚山の東北に位置し、愛媛県第三位の高峰である。従来は、石鎚山からの縦走として歩かれてきたが、この縦走路沿いに林道が通じ、林道の駐車場から簡単に登ることができる山になっている。この縦走路は、伊予富士、寒風山を経て一等三角点の山の笹ヶ峰に至っている。
 東赤石山は、別子銅山の背後にそびえる法皇山脈の最高峰である。山頂付近には岩稜帯を持ち、アルペン的な姿の山である。
 富士写ヶ岳は、石川県の山中温泉の奥、大聖寺川を遡った所にある富士山型の山である。深田久弥は、近くの大聖寺町(現・加賀市)で生まれ、小学校六年生の時、学生会の登山旅行としてはじめて登ったのが、この富士写ヶ岳である。この山行が、深田久弥の山好きのきっかけになったという。(深田久弥 山の文庫6 山頂の憩い 深田久弥・その山と文学 近藤信行参照)
 今年の5月の連休には、まとまった休みをとることができ、懸案であった四国の百名山を目指すことにした。登山の計画で一番頭を悩ましたのは、四国までのアプローチであった。四国は遠いため列車の利用をまず考え、四月の始めには、行きの夜行寝台列車の指定席を手に入れておいた。しかし、登山計画を練っていくうちに、あまりに時間的な無駄と、宿を決めなければならないという制限が多いので、車で出かけるよう気が変わった。震災の影響で、神戸の通過が困難であるが、舞鶴を経由すれば山陽道に入ることができるはずであった。高速道で売っている道路時刻表の計算によれば、剣山の登山口の見ノ越まで、約783km、15時間の距離という結果になった。連休ではあるが、始めの週末は道路もそれほどは混まず、夕刻出発して、翌日の夕刻には到着できるであろうというのが、当初の予想であった。食料を買い込み、車中泊あるいはテント泊の用意をした。車で四国まで出かけるいじょうは、剣山と石鎚山の最高点だけではなく、その周囲の山も登り、さらにその付近にある300名山を登ることを目標にした。
 金曜日の夕刻、急いで出発した。待望の百名山ということで緊張しているためか、快調に車をとばすことができ、石川県の尼御前SAで一泊目となった。翌日の早朝、一般国道を敦賀から舞鶴に向かったが、道は空いているものの、曲りくねった道で距離も結構あった。舞鶴に近付くにつれ、ピラミッド型の青葉山が迫ってきた。登りたかったが、今回はパスということになった。再び高速道に入ったが、中国自動車道の滝野社付近で事故車のために流れが悪くなったものの、順調な走りは続いた。昼前には、瀬戸大橋に到着し、余島SAに降りて、観光客に混じって、橋の見物を行う時間的余裕もできた。瀬戸大橋は、以前に、列車で渡ったことはあったものの、やはり橋の上を走る車からの方が眺めも良く、特に余島SAからの眺めは迫力があった。往復1万円を高いと思うかどうかが問題ではあるが。瀬戸大橋は、大型船や小島を点在させた瀬戸内海を貫いて四国に向かって延びており、その行き着く所には、飯野山がおにぎり型に盛り上がっていた。時間調整も必要であることから、この讃岐富士とも呼ばれる飯野山に登ることにした。飯野山が目の前にある坂出ICで高速道を降りて、飯山町の登山口に向かった。登山口には、トイレと10台程の駐車場が整備されていた。到着と同時に雨が降り始めたが、とりあえず、傘をさして登り始めた。果樹園の中を通りぬけると、石丸太の階段で良く整備された登山道となった。美しい富士山型をしているだけのことはあって、中々の急斜面で、ドライブ疲れのせいもあるのか、結構辛い登りであった。丸亀からの登山道に合流すると、登山道は山頂に向かって螺旋状に緩く登るようになった。山頂には、薬師堂と、多くの石碑が建ち並んでいた。三角点は、登り口の左手の薮の中にあった。薬師堂で雨やどりをしながら、備え付けのパンフレットを読み、登山ノートに記入した。ノートを読んでみると、地元のハイキング客が多く、大変だったという感想が多かった。下りは、珍しい螺旋状の登山道を通って、研修センターに下ることにした。傾斜は緩やかで、一般的には、こちらを登りにした方が無難であるようであった。眼下には、讃岐平野とそれを貫く高速道の眺めが広がっていた。しかし、雨雲のせいで、瀬戸内海の展望は閉ざされていた。山腹を巻きながら下っていくと、始めの登山口とは逆の位置に出てしまい、戻るのが大変だと心配になり始めた。幸い、道は、飯山登山口に向かう方向に折り返してくれた。研修センターから先は、車道が入りくんでいたため、左方向に向かって山を下って行くことにした。カラオケの騒音が近付いてくると、飯神社に出て、後は登山口までの車道歩きになった。再び、車を走らせ始めたが、雨は本降りになった。剣山の登山口である貞光町に到着して一安心したものの、ここからは、カーブが多く、すれ違いの困難な道が長く続いた。狭い山道を走ったその先に、さらに集落が点在していた。新潟付近であったら、当然、冬季閉鎖になってしまうような山間部の狭い道であった。この道は、剣山スキー場への道でもあるはずであるが、関東付近のスキー場へのアクセス道路であったならば、広い道が山奥まで整備されているものだが。緊張感の伴う車の運転に疲れた頃、一宇村の岩戸温泉温泉センターに到着した。入浴可能(300円)ということなので、風呂に入れる時に入っておくことにした。一宇村からは、もうひと走りする必要があったが、標高が上がるに連れて道幅も広くなり、ここからは意外に近い感じで、見ノ越に到着した。見ノ越付近には、かなり離れた所にも駐車場が設けてあり、夏のシーズンには大混雑になるようであった。しかし、本降りの雨の中、リフト脇の二階建て駐車場は、閑散としていた。道の両側に並んだ、土産物屋と食堂を兼ねた民宿を覗いてみると、夕食中であるようであるが、客は少ないようであった。車中泊も二日連続となると辛いため、泊まることができるか聞いてみることにした。一軒目は大広間しかあいていないということであったが、二軒目に泊まることができた。2食付きで6000円であった。夕食は、手打ちソバもついてかなりボリュームのあるものであった。トイレが家の外にあるのが面倒であったが、蒲団の上に眠ることが出来て、疲れを取ることができた。
 雨音が気になる夜になった。夜明けから雨は小降りになり、予定を変更して、勧められるままに朝食を食べてから出発することにした。駐車場に登山の道具を取りに行くと、雨を避けて、立体駐車場の一階にテントを張っている登山者がいた。ガスの中へ、雨具を着ての出発になった。剣神社の石段を登ると、神社の右手から登山道が始まった。つづら折の道は、良く踏まれていた。汗をかき、リフトをくぐる山道を登りながら思った。身ノ越までだって、車でずいぶん楽をしてしまった。山に敬意を現すために、最後のこの部分くらい自分の足で登ろうと。笹原に出ると、テント場の設けられた西島で、リフト駅はその上にあった。リフト駅から大剣神社へは、比較的緩やかな登りであった。大剣神社の上には、伝説の大剣を思わす岩がそそり立っていた。当初の予定では、剣山をトラバースして、次郎笈に向かう予定であったが、名水の表示のある道しかなかったため、まず剣山に向かうことにした。最後の登りは短く、雲海荘の屋根がまず見え始めた。山頂の一角に到着して、まず目に入ったのは、金網フェンスに囲まれた気象観測所であった。ガスの中に、なだらかな山頂が広がり、どこが頂上か見極めがつかなかった。笹原の中に敷かれた木道を辿っていくと、前方の少し高い丘の上に、山頂らしい標柱と石積みが見えてきた。山頂は、笹が踏め荒されて土が露出した広場になっていた。一等三角点の周囲には石が積まれ、その周囲には、注連縄が回されていた。一等三角点の脇には、何の意味なのか判らないが、メロン大の金属製の玉が置かれていた。二人連れの登山者がおり、玉を持って三角点の脇に立ち、記念写真をとりあった。ガスが一瞬ではあるが切れて、三嶺であったのであろうか、雲海の上に山の頂上が浮んで見えた。剣山の山行を充実させるために、次郎笈に向かった。笹原の中の急坂を下り、再び登り返すと、それほど時間はかからず次郎笈に到着した。交代するかのように5人グループが下山すると、小さな山頂に一人になった。ガスも薄くなってきたが、剣山は姿を現さず、再び来た道を戻った。ガスのあがった谷に向かって笹原が広がり、剣山と次郎笈の間は、晴れていたならば、さぞ美しい稜線であるのだろうと思った。剣山に登り返すと、山頂は多くの登山者で賑わっていた。 剣山から一ノ森の登山道に足を踏込むと、再び静かな山道になった。一ノ森の山頂は、周囲の樹木が切り開かれ、展望はよさそうであったが、やはりガスは晴れなかった。山頂直下の一ノ森ヒュッテは営業中で、中から人声がしていた。遭難碑まで引き返して行者場へのコースに踏み入ると、神域といった感じの苔むした樹林帯になった。水音も高い滝も現れ、岩のそそり立つ絶壁の下をたどるトラバース道になった。行者場から先では細かい道が別れ、踏み込んだ道はあまり人が通っていないようであった。不安になったところ、再び良く踏まれた道に戻った。時間的には、このトラバース道を通るよりは、山頂まで一旦戻った方が早かったかもしれない。西島から最後の坂を下っているうちに、再び雨が降り始めた。濡れた衣類を着替え、食堂で昼食をとった後に、夜に備えて湯を沸して魔法瓶に積めてから、三嶺の登山口に向かった。祖谷川沿いのR.439は、舗装された比較的良い道であった。途中、奥祖谷かつら橋を見物したが、横木の隙間が大きく、スリルのあるものであった。名頃から三嶺林道に入り、猪牧場の脇を通り過ぎると、ぬかるんだ山道になった。かなり登った所で、復旧工事の看板があり、道が荒れていたため、歩いて偵察すると登山口はその先にあった。ぬかるみの道を慎重に車を走らせ、登山口の脇の空き地に車をとめた。雨は本降りになり、テントは諦めて車中泊になった。
 再び車の窓ガラスを叩く雨音を気にしながらの一夜になり、明け方から雨はますます激しくなってきた。車の中で登山の用意を行い、意を決して登りはじめた。林の中の登山道は、雨はそれほど強く当たらなかったが、つづらおりの登りを続けるうちに、雨具の中は汗でづぶ濡れになってしまった。登山道の脇の導管の中を水がいきおい良く流れている所に出て、ここが水の休み場のようであった。林道終点からの登山道が合わさるダケモミの丘からは、尾根とおしの道になった。頭上に大きな岩が現れると、樹林帯から笹原にでて、風雨が激しく当たるようになった。山頂の一角に登りつめると、笹原の中に池があった。道はこの池を廻って左右に延びていたが、ガスの中で、山頂がどちらか判らなくなった。ガイドブックを読むと、右手は避難小屋、左手が三嶺の山頂のようであった。しかし、かなりの水を湛えているこの池は、小さな池としか書かれておらず、なんという名前であったのだろう。激しい風雨に晒され、稜線上の道が長いようだと危険だと思ったが、山頂にはじきに到着した。当然誰もいない山頂であった。四国一の美しさと書かれている三嶺の姿は雨に隠されていたが、複雑に起伏する笹原にその美しさを想像することはできた。山頂の標識の証拠写真だけを撮るのがやっとであったが、ピークを踏んだことに満足した。山頂に別れをつげ、大岩付近の急坂を下っていると、一人の単独行が登ってくるのに出合った。話を聞くと、東京からやってきて、剣山、三嶺、東赤石岳、石鎚と廻る予定とのことであった。世の中には、同じような物好きがいるものである。衣類を着替えることが待ち遠しく、下りの足を速めた。
 車に戻って着替えをしていると、激しい雨の中を登山者を乗せたワゴン車が林道の先に登っていった。この日の仕事としては、石槌山への移動が残っていた。大歩危に抜けるまでの道は長く、かつら橋までは道幅が狭く、ダンプカーと鉢合せして2度ばかりバックすることになった。祖谷川をたどるよりは、貞光に引き返したほうが楽であったかもしれない。人里に出て、まずは、温泉入浴のために、観光ガイドで調べておいたサンリバー大歩危に向かった。ホテルには10時30分に到着したが、朝の清掃のために、入浴は11時30分からとのことであった。とりあえず近所のドライブインで昼食をとってから、温泉に入った(600円)。温泉に入るまでの待ち時間の間に、石鎚山までのルートを再検討した。内陸部を通ると、道が狭くて時間がかかり、石鎚スカイラインの通行時間(7ー18時)に間に合わない可能性があった。松山自動車道が川内ICまで延びていることを高速道で手に入れた地図ではじめて知り、R.494で山越えをすれば面河村に出ることができ、このコースが一番早そうであるため、このコースに決めた。午後の平野部では雨はやんだものの、ラジオには雷の発生を知らせる雑音が聞こえ続いた。海岸部では霧も発生し、徳島空港は閉鎖、さらに九州には大雨警報が出されて、どうやら西日本の天気は大荒れのようであった。R.494は、狭い上にガスで前がほとんど見えず、ライトを付けてのノロノロ運転になり、面河村手前では、時間制限の工事を行っていたが、幸いここは5分程の待ち時間で通過することができた。夕闇が気になる頃、ようやく石鎚スカイラインにたどりついた。有料道路であるだけはある広く快適な道を登っていくと、再び山頂部の雨雲の中に入り込んでしまった。土小屋には広大な駐車場が設けられていたが、豪雨の中に10台程の車があるのみであった。とりあえず駐車場の脇のロッジの食堂に入って食事をとっていると、宿の申込は食堂にてという張り紙があった。尋ねてみると、宿泊できるということであった。食事をとったところなので、素泊まりということで申込んだ(3800円)。部屋に案内されると、10畳程の広さの真ん中に、こたつが置かれ、テレビもある旅館並みの設備であった。一日で二度目の風呂に入り、ビール片手に外を眺めると、雨雲の切れ目から、鋭い円錐形をした石槌山が姿を現した。日が沈む前には、ピンク色に染った瀬戸内海も姿を現した。こたつに入り、テレビでオーム真理教の下界のニュースを見ながら、ビールを飲んですっかり幸せに酔って蒲団にもぐりこんだ。
 夜半から再び雨が激しくなった。出発は、雨が小降りになってからになった。土小屋からの道は、緩やかな登りであったが、北向きの沢には残雪が残り、雪上のトラバースも現れた。昨日の宿からは、裏石槌の岩場が目の前に見えていたのに、登山道は山の反対側まで迂回しており、二ノ鎖小屋まで意外に時間がかかった。二ノ鎖小屋からいよいよ名物の鎖場が現れた。鳥居をくぐって鎖場にとりかかると、なかなかの急斜面であった。途中で、夫婦連れが、鎖場の中間で登りあぐんでいるのに追いつき、先行することになった。岩場には足場が少なく、鎖に下げてある三角形の鉄のあぶみに足をかけたり、鎖を両手で握って足を岩に踏ん張って登らなければならない所があった。岩場の通過は、恐いとは思わなかったが、息が切れた。次は三ノ鎖と身構えていたが、鎖場の入口を見過ごして迂回路に入りこみ、予想外な事に、弥山の頂上に到着してしまった。山頂はガスで覆われ、天狗岳への降り口を探すため、山頂の岩場を覗き込むはめになった。神社を背にして岩場の左手に、細い鎖が掛かっており、ここが降り口であることを知った。天狗岳までは、細い岩場の稜線で、絶壁に身を乗り出すようにして通過する所もあり、なかなかスリルがあった。天狗岳は、人が二人立つのがやっとといった狭い山頂であった。若い3人グループがおり、記念写真をお互いにとりあった。続いて、所沢からと来たという単独行に、二ノ鎖で追い越した夫婦連れが登ってきたが、四国の最高峰にいる人間はそれだけであった。弥山に戻ると、多くの登山客で賑わっていた。
 続いて二ノ森に向かうことにして、三ノ鎖下の分岐から面河への登山道に踏み込んだ。二ノ森への分岐を探しながら歩いていくと、樹林帯から笹原に出て、緩やかに下る道になった。道を間違えたと思い始めたところ、水場に出て、面河の方向に行き過ぎていることを知った。登り返していくと、尾根から少しさがった樹林帯の中に、さびて字が読めなくなった標識と、頂上へ350mという新しい指導標があり、その山側に笹が被い被さった踏み跡が分かれていた。これしか道は無いため、笹をこぎながらこの踏み跡に進んだ。しばらく進むと、笹原の中のトラバース道が現れ、面河への登山道が平行して走るのを見下ろすようになった。笹は被っているものの、引き返すだけの決心は付かないまま、ちゅうぶらりんな気分で歩いていると、高瀑道という道標が現れ、現在地を確認することができた。視界は開けはじめたが、山頂部は雲で隠され、二ノ森がどこか判らなかったが、一応中間地点まできていることで、先に進む覚悟ができた。尾根を乗り越えて北斜面にでると、腰までの完全な薮漕ぎになった。所々残された赤テープが頼りになった。小さなピークをまくトラバース部分は薮が深いが、稜線上に出ると明確な道が現れるといった繰り返しであった。ようやくたどりついた二ノ森は、一等三角点があるだけの静かな山頂であった。石槌山に至る稜線には、一面の笹原が広がっていた。上越国境付近と似た風景であるが、シコクザサというらしい笹は、葉が小さくてどこか繊細な感じがした。上越国境付近のクマザサであったなら、とても歩けない道であったろう。再び薮漕ぎをしながら下っていくと、石槌山が姿を現した。この方向からは、岩場が台形に盛り上がり、その一角に山頂小屋がのっているのも眺めることができた。途中で、登ってくる単独行とすれ違い、気分が少し楽になった。三ノ鎖まで引き返した時には、予期せぬ薮漕ぎに、気力と体力をかなり消耗し、時間も予定よりも遅くなっていた。明日の予定を考えると、瓶ヶ森を今日中に登っておく必要があることから、土小屋までの緩い下り道を急いだ。土小屋に近づく頃から、ガスが出始めた。
 身支度する時間ももったいないので、登山靴のまま、車を運転して瓶ヶ森に向かった。ライトを点灯しながらのノロノロ運転で、瓶ヶ森までの林道は遠く感じた。林道は、未舗装ではあるが、車のすれ違いに充分な幅があり、観光用の道であった。林道を走行中、瓶ヶ森へ縦走中の登山客を何人も見かけた。瓶ヶ森の登山口の手前には大きな駐車場が二つも設けられていた。夕暮れも近づいていたため、急いで瓶ヶ森に登り始めた。笹原の中を登っていくと、岩場を持ったピークが近づいてきて、これを登ると男山であった。瓶ヶ森・女山へは、緩やかな笹原を登って、それ程遠くはなかった。山頂にはガスが残り、展望は開けなかった。縦走中の単独行と、瓶ヶ森のヒュッテに宿泊している夫婦が山頂に休んでいるだけであった。短時間のピストンで片づけてしまい、瓶ヶ森には失礼かなと思いながら、車に戻った。翌日の山行のため、瓶ヶ森林道を下って、寒風山トンネルに出ておく必要があった。長い林道であったが、眺めは良かった。途中、伊予富士という標識があり、沢の脇の草付きの急斜面をまっすぐに登っていく道があった。登山道は、あまり踏まれてはおらず、泥でぬかるんでいた。近くに駐車スペースもあり、迷ったが、当初の予定通り、寒風山トンネルに向かうことにした。寒風山トンネルには、トイレの儲けられた大きな駐車場があり、売店もあったが、すでに閉まって人気は無かった。R.194も車の通行量はほとんど無く、車の脇にテントを張るのに絶好の場所であった。天気も回復して、ようやくテントで眠る夜になった。
 駐車場の前に立つ寒風山へという標識の脇から登山道に入った。しばらく登ると、つづら折りの歩き易い道になった。おそらく古い峠道であったのであろう。砂防堤防に近づくと迂回路と思われる急な登りも現れたが、再び歩き易い道にかわって、笹原の中の桑瀬峠に到着した。寒風山は、岩場を従えたどうどうとした姿をしていた。それほど遠くはないと思って登り始めたが、山頂は岩場に隠されており、固定ロープも掛かる急坂も現れ、連日の山登りの疲れも足にきて、辛い登りになった。寒風山の頂上は、笹原に被われていた。、笹ヶ峰への道は、一旦下り、笹原の稜線を、再びかなり登っていく必要があった。笹ヶ峰への登りで、単独行の縦走者に二人出合い、人気のある山のようであった。朝から良い天気で、Tシャツで登ってきたが、山頂が近づくに連れ、瀬戸内海方向から冷たい風が吹き付けるようになってきた。山頂直下で出会った6人グループは、雨具を着て防寒対策をとっていた。山頂に立つと、風が強く、みぞれ混じりの雨がたたきつけてきた。なんとか記念写真をとったものの、早々に山頂を退散することになった。稜線でこの風雨にさらされ続けると、疲労凍死も夢では無いと思ったが、幸い、山頂をわずかに下って稜線の南に回り込むと、穏やかな陽気になった。笹ヶ峰から眺める寒風山は、ピラミッド型にすっくと盛り上がっていたが、その分登り返すのは大変であった。寒風山の頂上に戻って、今度は伊予富士の姿をじっくりと眺めた。その名前にもかかわらす、伊予富士の頂上は、四つほどの小さなピークを連ね、富士山には全く似ていなかった。しかし、笹原の稜線から頭をもたげ、なかなか個性的で好ましい姿をしていた。桑瀬峠に戻ってから、再び気持ちを引き締めて登りに取りかかった。尾根を越すと、笹原の上に伊予富士が美しく広がっているのが見えた。笹原の中の分岐に出たが、縦走路には笹が被り気味で、現在では、ほとんどの登山者は伊予富士を越していくようであった。伊予富士の山頂直下は、笹が被った滑りやすい急坂になった。山頂に登ると、家族連れなどで賑わっていた。山の反対側には、なだらかな笹原が広がり、林道が近くを通っていた。単独行と話をすると、林道にある伊予富士の標識から登ってきたとのことであった。踏み跡も不明瞭な、真っ直ぐな登りであり、下りは稜線上の道から縦走路にまわって、林道に下ってみようといって出発していった。頂上から僅かに下った所の笹に赤テープがあり、下を見下ろすと、8人程の集団が薮をかきわけながら登ってきた。林道しから頂上まで、30ー40分といったところのようで、近い将来、このコースがメインになりそうであった。その時には、石鎚山、瓶ヶ森、伊予富士の三名山を一日で登る者が多くなりそうであるが、これはあまりにも安直のように思われる。伊予富士の良さを知るには、桑瀬峠側の笹原から眺めることが欠かせないと思われる。トンネルまで下るまで、伊予富士や寒風山を目指す多くの登山者が登ってきた。
 寒風山トンネルまで戻って、その混みように驚いた。駐車場は満ぱいで、特にオートバイが目立った。瀬戸大橋から四国に入って、石鎚山の土小屋を目指すのは、瓶ヶ森林道を通過するのが最短距離のようである。休憩しながら、今後の予定を考えた。連休の混みようを考え、東赤石岳を登った後に、四国を脱出することにした。新居浜に出てから、再び山に入り混む前に、マイントピア別子・温泉遊湯ランドで入浴していくことにした。1100円で少し高いと思ったら、タオル、バスタオル、浴衣が貸しだされ、泳げるほど広い浴槽や泡風呂、露天風呂などを備えた温泉レジャー施設であった。別子ラインと呼ばれる渓谷沿いの曲りくねった狭い道は、通常は通行の時間制限のある工事が行われているらしかった。別子山村に入ると、各登山口には大きな看板が出て判り易かったが、道が狭くて、テントを張れるような駐車スペースが見つからなかった。翌日の偵察のために鍋床登山口への林道に入り込み、登山口にある人家の前を通り過ぎて、車の方向転換のために林道を登っていくと、空き地が見つかって、ここにテントを張ることにした。
 翌日、車を鍋床と瀬場の中間の路肩に車をとめて歩きだした。瀬場からは、急ではあるが、昔からの生活道であったのか、歩き易い道であった。筏津からの道を合せると、しだいに渓谷沿いの道になってきた。渓谷には滝がかかり、新緑もまぶしく、楽しい道であった。谷も狭まり、急坂を登り終えて山頂も間近かと思ったら、前方に、もう一段奥の隠れていた渓谷が現れてきた。登山道の脇には、ヤシオツツジの花が盛りで、長い登りの苦労を慰めてくれた。登山道に平行して流れる沢も美しく、沢の徒渉地点は絶好の休憩場所になっていた。二度目の徒渉地点を過ぎると沢もようやく痩せ細り、樹林帯から白骨林が立ち並ぶ笹原に出ると、頭上に赤見を帯びた岩峰がそそりたっていた。赤石小屋に立ち寄ってみると、立派な小屋で、泊まり客も中にいるようであった。赤石小屋は、頭上に岩山がそびえて、大洞心の岩峰がそそりたつ八ヶ岳の赤岳鉱泉に似た雰囲気があった。東赤石岳の山頂は、この岩山の向こうで、さらにもうひと頑張りする必要があった。稜線上には木が茂っていたが、山頂部は赤い岩が積み重なっていた。5人グループがいたが、入れ違いに下山していき、一人ぼっちの山頂になった。山頂からは、瀬戸内海の眺めが広がり、昨日登った笹ヶ峰の連なりが目の前であった。下りに経由する権現越へは、稜線越えの道とトラバース道に一旦戻る道があるとガイドブックに書いてあった。当然、稜線コースをたどることにして、樹林帯に入ると、道はかすかになった。山頂の東端は、赤い岩が累々と積み上がり、見晴し台になっていた。アルプスを思わせる岩稜が権現越に向かって落ち込んでいくのが見えた。岩場では、踏み跡は不明になり、おおむね南よりの岩場を下って、その先で、稜線上の樹木の中に踏み跡を見つけるということを何度か繰り返しながら標高を下げていった。振り返った東赤石岳は、岩場をまとってするどくそびえていた。ようやくたどりついた権現越は、笹原が広がって、岩場の緊張管から開放されて、ひと休みをするのに良い所であった。権現越から笹原を下ってテント場のような空き地に出ると、道が無くなってしまった。脇には水場がつくってあり、ここまでは人が入り込んでいることは確かであったので不思議であった。沢を下ってみたが、薮で進むことはできなかった。再び権現越めざして登りながら道を探ると、右手に登山道がそれていくのが見つかった。引き込まれた空き地は、おそらく、昔の飯場跡であったようである。この先は、はっきりした道で、林の中の長い単調な下りになった。東赤石山については、300名山であること以外は全く知らなかったが、辛い登りはあるものの、沢沿いの登りや岩稜歩きも混じった、変化のある山を楽しむことのできる面白い山であった。東赤石岳に登ったことにより、四国の山を充分に楽しんだという気持ちになり、四国から脱出する決心がついた。
 瀬戸大橋、山陽自動車道は交通量は多めであったが、順調に走り続けることができた。山陽自動車道終点の山陽姫路東IC付近で渋滞の案内があったため、山陽姫路西ICからR.29を通って山崎ICから中国自動車道にのった。中国自動車道は流れの悪い所があったものの、舞鶴自動車道はすいていた。夕方から激しい雨になり、小浜にたどり着いたところで、疲れて走れなくなったため、ドライブインの駐車場で仮眠をとった。
 翌日、このまま新潟に戻るのはもったいないので、もうひと山稼いでいくことにした。今回の山行の目的にかけて、深田久弥の故郷の山である、富士写ヶ岳に登ることにした。深田久弥は、小学校の時、はじめての山として富士写ヶ岳に登り、その時にほめられたことによって山好きになったと、彼の著書に書かれている。終焉の地である茅ヶ岳ばかりが話題にのぼるが、山の作家としての深田久弥の誕生の地として、富士写ヶ岳が取り上げられてもよさそうなものである。我谷ダムにも、立派な登山案内が出ていたが、こちらがメインであるという枯淵登山口から登ることにした。コンクリート橋をわたると登山道が始まったが、倒木が登山道をふさいでいるため、その脇の足場の悪い急斜面を登ることになった。直によく踏まれた登山道にでた。沢をまいて左手の尾根にとりかかると、傾斜も急になった。落ち葉のつもった雨あがりの斜面は滑りやすかった。ブナ林が広がり、新緑が美しかった。かなり標高をあげたところから、シャクナゲの花が現れた。花は満開であるが、咲きはじめで、いたんだ花弁も全く無く、見事であった。予期せぬお花見を楽しみながら、最後と思われる急斜面を登りつめると、ダマシのピークで、山頂はまだその先であった。ゆるやかに下って我谷ダムからの道を合わせると、山頂までは思ったほどの登りではなかった。山頂は、広場になっており、一等三角点と方位盤があった。周囲の展望は、木が少し邪魔であったが、白山が高くて白く、荒島岳も姿を現していた。下りは、滑りやすいために一歩毎にとまることができず、木の枝をつかみながら走りおりた。途中、多くの登山者とすれ違ったが、何人もがシャクナゲの花の事を尋ねてきて、この山のシャクナゲは有名であることを知った。
 山中温泉の日帰り温泉施設で入浴(500円)してから家路につくことにした。快晴になり、北陸自動車道の富山付近からは、毛勝三山から、剣岳、立山、薬師岳にかけてのパノラマが広がっていた。これまで何度も富山付近を走ったことはあったが、このような見事な眺めは始めてであった。車線が少なくなる朝日IC付近で、40分程の渋滞に巻き込まれたが、なんとか親不知地域を通過したあとは、順調な走りで新潟まで戻ることができた。

山行目次に戻る
ホームページに戻る