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塔ノ岳、丹沢山、蛭ヶ岳

桧洞丸

1994年3月19日〜3月20日 前夜発1泊 単独行 曇り/曇り

塔ノ岳 とうのたけ (1491m)   三等三角点
丹沢山 たんざわさん (1567m )  一等三角点本点
蛭ヶ岳  ひるがたけ (1673m)   標高点
桧洞丸 ひのきぼらまる (1601m)
  丹沢(神奈川) 5万 秦野 2.5万 秦野 大山、中川

ガイド:アルペンガイド「丹沢」(山と渓谷社)、山小屋の主人がガイドする 丹沢を歩く(山と渓谷社)、山と高原地図「丹沢」(昭文社)、分県登山ガイド「神奈川県の山」(山と渓谷社)

3月18日(金) 23:20 新潟発=(快速ムーンライト)
3月19日(土) =5:10  新宿=5:31 発=(小田急)=6:45 渋沢=7:17 発=(神奈川中央交通バス)=7:28 大倉―8:10 雑事場―8:42 駒止茶屋―9:04 堀山ノ家―9:23 小草平―9:46 花立山荘〜10:04 発―10:14 花立―10:20 金冷し―10:36 塔ノ岳〜10:50 発―11:31 竜ヶ馬場―11:56 丹沢山〜12:05 発―12:41 あずま屋―12:50  不動ノ峰―13:01 棚沢の頭―13:26 鬼ケ岩―13:57  蛭ヶ岳 (蛭ヶ岳山荘泊)
3月20日(日) 7:00 発―7:31 本ダルミ―8:03 臼ヶ岳―8:21 神ノ川乗越―9:23 青ヶ岳山荘―9:29 桧洞丸〜9:45 発―10:35 展望台―11:11 ゴーラ沢出合〜11:18 発―11:49 車道―11:54 西丹沢バス停=12:09 発=(出発時間は12:02 富士急行バス)=13:06 新松田=東京の実家へ


 丹沢は、東京から最も近い山域のひとつである。かつては沢登りやワンゲルの訓練地といったイメージが強かったが、最近の中高年の登山ブームによって、尾根歩きが登山の主流になってきている。深田百名山では、「丹沢山(丹沢山というのは山塊中の一峰である)を取りあげたのは個々の峰ではなく、全体としての立派さからである。」と述べており、大山を別格とし、登山の対象として塔ヶ岳、丹沢山、蛭ヶ岳、さらに桧洞丸が挙げられている。この文章に従えば、丹沢を登るには、これらの峰を連ねて縦走することが望ましいということになる。
 丹沢の「たん」は古代朝鮮語のタン(谷)に由来し、東丹沢付近の地名であったのが、明治の三角測量の結果山名になったという。塔ヶ岳は、昔、山頂に尊仏岩という9メートルほどの大岩があり、「お塔」と呼ばれて信仰の対象になっていたことに由来している。この岩は関東大震災の際、崩れ落ちてしまったが、現在でも塔ヶ岳山頂の尊仏山荘という名前に残されている。蛭ヶ岳は丹沢山塊の最高峰であり、名前の由来は、ヤマヒルが多かったためという説や、猟師の被るヒルという山頭巾に形が似ていたためという説、あるいは昆盧遮那仏(びるしゃなぶつ)を祭ったので「ヒル」の名がついたという説がある。桧洞丸は、南側の玄倉川の支流の沢の名前で、桧洞の源頭にある山のために付けられたといわれている。
 昨年は時間切れとなって登ることのできなかった丹沢にようやく出かけることができ、百名山の記録を一つ延ばすことができた。連休前日の夜行は、卒業式や送別会帰りの酔客も混って、いつもより満員の状態であった。新宿発の小田急は、住宅地帯を走り続け、降り立った渋沢も大都市周辺の通勤駅といった風情であった。バス停に出ると同時に大倉行きが出てしまい、次のバスを少し待つことになった。大倉バス停から山に向かうも、舗装された車道歩きがしばらく続き、登山の始まりとしては趣の無い道であった。しだいに道も細くなり、尾根上に出て見晴らし茶屋を過ぎると、話に聞いた階段登りが始まった。道の両側に植えられたモミジは、街路樹風で良くない趣味に思え、深い森の中を歩む楽しみといったものはまったく無かった。きつい登りを続け、花立山荘から下を見降ろすと、登ってきた尾根が長々と続いていた。曇で展望は効かず、三ノ塔方面の尾根がうかがえるのみであった。花立山荘でコーヒーを注文し(400円、チョコレート付き)、パンを食べて一服した。大倉尾根に関しては、各所に茶屋があり、軽食や飲み物には不自由しないようであった。再び登りを続けて塔ノ岳に到着したが、山頂近くになるまで雪は現われなかった。大きな標柱が中央に立てられた山頂は、休憩用の広場の工事で掘り返されていたが、誰もおらず静まりかえっていた。連休初日で山頂は人で混みあっているものと思っていたが、予想外であった。丹沢山への道に進むと、残雪は急に多くなって雪道となった。小さな登り下りを続けて辿りついた丹沢山の山頂は一面の雪原で、三角点は木の標注の先が見えるのみで、雪を掘ってみたが標石は出てこなかった。さらに蛭ヶ岳と進むと、残雪に残されたトレースを頼りにコースを見定める必要が出てきた。時折、夏用の立派な案内板が現われるものの、冬道用の赤テープや木へのペンキマークなどといったものがまったく無いため、不安になることもあった。あずまや付近の笹原では鹿の群に出会い、雪の融けかかった部分の登山道上は、鹿のフンだらけであった。丹沢における鹿の害といったものが報じられていたが、確かに鹿は増え過ぎのようであった。ピークの登り降りにかなりくたびれてきたころ、ガスの間から蛭ヶ岳がようやく姿を現したが、鬼ヶ岩の岩場を下ってから真っ直ぐ登っていく道はきつく見えた。蛭ヶ岳までの道は長くてペース配分も難しく感じられたが、丹沢山から蛭ヶ岳までの間のコースタイムもオーバーしていた。やれやれ着いたと思いながら、蛭ヶ岳山荘の開けづらい戸から中に入ると、愛想の良い山小屋の主人が現われ、まずはと、お茶が出された。ひといき付いてから宿泊手続きをしたが、一番のチェックインであった。2食付き5000円で、主人はこのような所なので御馳走はでずに、カレーであると言い訳をしていたが、カレーは大好きだと答えた。ちなみに翌日の朝食はおでんであった。ぽつりぽつり他の客も到着し、最終的には20名の宿泊者となったが、3名のみが食事付きで他は自炊客であった。かなり遅くなって暗くなり始めた時間まで到着する者が続いた。ストーブの回りでは、山の話と雪を溶かしての水作りが続いた。7時過ぎに蒲団に入るなり寝てしまったが、ひと部屋に3名で、毛布2枚に掛け蒲団1枚は寒かった。
 翌日も曇で展望は得られなかった。小屋の壁には、蛭ヶ岳の下りは急なため、8本爪以上のアイゼンが必要ですと掲示してあった。今回は軽アイゼン(カジタミニ5)しか持って行かなかったので、少し不安にかられながら縦走路に踏み出した。蛭ヶ岳の下りは、かなり急で難しい箇所はあったものの、アイゼンが十分に働いてくれた。幾つかのピークを越したが、目標の桧洞丸の姿を望むことが出来ないため、余計に疲れた。桧洞丸は、展望は得られないものの、美しいブナ林で蔽われていた。丹沢の代表的なピークを4つ踏んだことに満足して、つつじ新道を下ることにした。西丹沢方面の雪は多く、下山路を半ば降りた所でようやくアイゼンを外した。登りの登山客にも5、6組出会ったが、かなり下から10本爪アイゼンを付けて登ってくるのには呆れた。尾根を下り切るとゴーラ沢出合に出て、後は西丹沢までのほぼ水平の道が残されているのみであった。バス停に到着するとバスが出発するところであった。バスのなかで上半身の着替えをし、下半身の着替えは新松田の駅の便所の中ということになった。


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