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霊山

1993年12月18日 日帰り 単独行 雪

霊山 りょうぜん(825m) 三等三角点(805m) 阿武隈山地(福島) 5万 保原、2.5万 霊山

ガイド:ふくしまの山 50(歴史春秋出版)、福島県の山(山と渓谷社)、奥日光・足尾・那須(山と渓谷社)

12月18日(土) 4:06 新潟発=(R.49、会津坂下IC、磐越道、東北道、福島西IC、R115、霊山町)=9:05 こどもの村駐車場〜9:10 発―霊山庵―宝寿岩―日暮岩入口―国司沢―天狗の相撲場―親知不子知不―護摩壇―国司館跡―10:30 東物見岩―学問岩―三角点―蟻の戸渡り―望洋台―五百羅漢岩―弘法の突貫岩―日暮岩―日暮岩入口―霊山庵―12:08 こどもの村駐車場=17:30 新潟着

 霊山は、貞観元年(859年)の昔、開山されて天台宗の東北の拠点として栄たといわれる。その後、南北朝時代に、南朝方の北畠顕家が霊山城を築いたが、激しい戦いの後に落城して霊山寺とともに礎石が残るのみとなった。なだらかな山の連なる阿武隈山地において、奇岩が散在する岩山として異色の存在となっている。県立自然公園および文部省指定の史跡として、ハイキングコースがよく整備されている。
 先週末は、忘年会の疲れと二日酔のため、一旦朝早く起きたものの再び寝てしまった。今週こそと起きをして外を見ると、雪が降り、路面は白く覆われていた。完全な冬型の天候下で、阿武隈地方の天気はどうなのかを知りたいと思い出かけることにした。路面は凍結しており、国道上で軽トラックが大型トラックに正面衝突をしていた。この朝、あと二件の交通事故を見ることになった。山の遭難よりも交通事故の方がよっぽど怖いと思いながら、いつもよりゆっくりと車を走らせた。会津盆地に入ると路面の積雪は無くなった。白くなった磐梯山を見送って東北自動車道に入ると、青空が広がった。しかし、安達良山や吾妻連峰を左に見ながら福島に向かうに連れ、紗がかかったように雪が降り始めた。どうやら北上は誤りであったようである。小雪の中、こどもの村駐車場に到着。車道はその先も続いたが、凍結が怖く、歩き始めることにした。雪の上に自分だけの足跡を付けながらの車道の登りわずかで、トイレも備った大きな駐車場に到着した。頭上には、岩壁が聳えていた。行楽時には、かなりの賑わいを見せるようであるが、だれもいなかった。霊山庵で車道は終わるが、遊歩道として整備された良い登山道が始まった。岩の間を縫うように付けられた道を登るにつれ、汗がでて暑くなった。宝寿岩で登りもひと段落となった。岩に掛けられた鉄梯子を登るが、雪で非常に滑りやすかった。岩のふちにも怖くて近寄れず、下を見ても雪のカーテンがかかってなにも見えなかった。断崖沿いの道となり、現われる岩にそれぞれ名前が付けられ、梯子が掛けられていたが、先を急ぐことにした。国司館跡へ続く広いメインルートから護摩壇への道に入ると、ようやく登山道らしくなった。親知不、子知不と名付けれれた所は、岩壁が抉られて道が付けられ、ミニ水平道となっていた。岩の間を潜って、テラスとなっている護摩壇にでると、風の通り道になっているのか、非常に寒くなった。鎖に手を触れると、濡れた手袋がこおりついて離れない。木の枝にも霧氷がのびはじめていた。雪の付いた岩場を登り、笹原を進むと公園の広場といった感じの国司館跡に出た。昔をしのぶには、整備のしすぎてあった。主稜線を緩やかに登っていくと、霊山最高点と書かれた東物見岩に到着した。さらに三角点はその先の登山道の脇にあり、木のやぐらが組んであったため気付くことができた。枝道が多く出て下山路が判らなくなったが、適当に下っていくと日暮岩に出て、往路に出ることができた。雪があがり、周囲の眺めが広がり始めた。見降ろし岩の上で、昼食をとった。高度感がある。眼下に、こどもの村と名付けられた遊園地が広がり、せっかくの風景を損っていた。かなたに見える吾妻連峰は、山頂部が雪雲に覆われ、吹雪のようであった。阿武隈山地が周囲に広がっていたが、残念ながらこれらの名前は判らなかった。二人連れの年配者が登ってきたが、これが出会った登山客のすべてであった。駐車場に戻ると再び雪が降り始め、もう一山は断念することにした。最高点めざしてひたすら登る山もあるが、霊山は岩を見物しながら山中を逍遥する山であった。

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