槍ヶ岳、北穂高岳、涸沢岳、奥穂高岳、前穂高岳

槍ヶ岳、北穂高岳、涸沢岳、奥穂高岳、前穂高岳

1992年8月25日〜27日 3泊4日 単独行 小雨:曇のち晴:快晴

槍ヶ岳 やりがたけ(3180m) 標高点
北穂高岳 きたほたかだけ(3106m) 標高点
涸沢岳 からさわだけ(3110m) 測定点  (3103m) 三等三角点
奥穂高岳 おくほたかだけ(3190m) 標高点
前穂高岳 まえほたかだけ(3090m) 一等三角点本点
  槍・穂高岳(長野、岐阜) 5万 上高地、槍ヶ岳  2.5万 上高地、穂高岳、槍ヶ岳、笠ヶ岳

ガイド:アルペンガイド「上高地・槍・穂高」(山と渓谷社)、岳人カラーガイド「槍・穂高・上高地」(東京新聞出版局)、槍・燕岳を歩く(山と渓谷社)、日本百名山・登山ガイド下巻(山と渓谷社)、日本300名山ガイド西日本編(新ハイキング社)、一等三角点百名山(山と渓谷社)、山と高原地図「上高地・槍・穂高」(昭文社)

8月24日(月) (崖ノ湯、松本、R158 経由)=12:25 沢渡駐車場=13:15 発(バス)=13:50 上高地〜14:20 発―16:20 横尾  (横尾ヒュッテ泊)
8月25日(火) 5:00 起床〜5:50 朝食―6:10 発―7:15 槍沢ロッジ―10:20 肩ノ小屋―10:50 槍ヶ岳―11:20 肩ノ小屋―11:50 発―14:17 槍沢ロッジ―14:30 発―15:38 横尾  (横尾ヒュッテ泊)
8月26日(水) 6:10 発―8:20 涸沢〜8:40 発―10:50 北穂高分岐―北穂高往復―11:20 北穂高分岐発―13:15 奥穂高山荘  (奥穂高山荘泊)
8月27日(木) 3:30 起床〜4:15 日の出〜5:10 朝食〜5:20 発―5:50 奥穂高〜7:05 発―8:10 紀美子平―8:35 前穂高―9:15 発―9:50 紀美子平〜10:10 発―11:30 岳沢ヒュッテ―13:30 河童橋―15:30 上高地発(バス)=16:10 沢渡=(R158、R.19、長野、R.18、上越IC、北陸道 経由)=23:00 新潟着

 槍ヶ岳は、その名の通り天を突く岩峰であり、北アルプス南部の登山道が集中する中心地にある。初めて登ったのは、江戸時代の播隆上人といわれ、近代登山の時代に入っても、多くの初登頂のドラマや遭難事故が歴史に刻まれている。「いやしくも登山に興味を持ち始めた人で、まず槍ヶ岳の頂上に立ってみたいと願わない者はないだろう。富士山が古い時代の登山の象徴であったとすれば、近代登山のそれは槍ヶ岳である。」このように深田百名山には書かれている。
 穂高岳は、雪と岩の殿堂として、多くの登攀ルートが開発され、同時に、多くの高名な登山家が命を落としている。奥穂高岳は、日本第3位の高峰である。山頂の大ケルンに登れば、北岳を抜いて第2位の高所に立つことができるが、これは山頂の定義から外れるので、反則技となる。前穂高岳は、吊尾根をへだてて奥穂高岳と連なっている。また、北穂高岳は、北側はキレットに向かって急激に落込み、南側は涸沢岳を経て奥涸沢岳に続いている。
 松本歯科大での学会の後に入山した。初めての本格的岩稜歩きに、技術・体力が充分であるのか、不安があった。沢渡の大駐車場に車をあずけ、バスを待った。釜トンネルの渋滞がひどく、バスの運行は乱れているとのことであった。1台目は乗れず、2台目になったが1時間は待たなかった。上高地のバスセンターで遅い昼食をとり、歩き始めと同時に雨となったが、小雨なので傘だけで歩くことができた。上高地は観光客だらけであった。道を進むにつれて、疲れて足どりの重い登山客に会うようになった。横尾で、暗く成り始め、泊りとした。1泊8000円、弁当1000円で高いが、個人ベッドなので助かった。
 2日目は朝食後直ちに出発した。横尾から先が、登山道となった。槍沢ロッジを過ぎるとしだいに傾斜もきつくなってきた。ガスがかかって、山頂はまったく見えず、高度計をたよりに登り続けた。最後のジグザグの登りにはアゴが上がりかけた。槍沢ロッジ前にザックをデポし、雨具と水とカメラだけを持って槍の頂上へ進んだ。登り始めると雨が激しくなり、岩場を3点保持と言い聞かせながら登った。中年夫婦が先行するが、最後に釘を掴んで頂上にはいあがる所が越せずに引き返し、ひとりきりの山頂になった。頂上に登るが、ガスでなにも見えなかった。風も強く、中腰になって恐る恐る中央に進み、証拠写真だけを撮って下山することにした。下りの第1歩は、釘をつかんで身を乗り出さないと足が届かずに怖かった。後で話を聞くと、ボルトが1本抜けてしまっていたようである。雨で滑る鎖を伝わり、ようやく槍沢ロッジにもどった時にはホットした。ロッジの中で昼食を取りながら、明日のコースを再検討した。大キレット越えはこの天気では自信が無いが、奥穂高には登りたい。そこで横尾まで降りて、翌日涸沢で天気の回復を待つことにした。槍沢の下りは、ガレ場の中に登山路が広がっているため、登りとコースが違って不安になるが、その内に見覚えのある道に出た。かなりくたびれて再び横尾に到着した。乾燥室で濡れた道具を乾かし、濡れて冷えた体に風呂が有難かった。風呂の中で知り合いになった人と、風呂上がりにビールを飲みながら話をするが、山の事をよく知っており、山小屋の人とも顔馴染みのようであった。名前を尋ねて、有名な写真家の青野恭典氏と知った。8月の末は、天気は変り易いが、展望の効く晴れ間に出会うことがあるので穂高にやってきたとのことであった。翌日の晴れを祈った。
 2日目の朝は雲が低く、涸沢あるいはザイテングラート経由で穂高山荘までを予定して出発した。一汗かいたころに涸沢に到着した。夏も終わりに近く、テントも少なかった。雲が上がり始め、常念岳が見えてきたため、北穂高に予定を変更した。北穂高への登りは急で、鎖場も現れて緊張感が高まるが、ガスの間からときおり前穂北尾根のゴジラの背の様な稜線が見え、気合いが入った。縦走路の分岐にザックをデポし、カメラだけを持って北穂に向った。北穂からは、大キレット越の槍ヶ岳が僅かな時間であったが眺めることができた。北穂山荘で昼食のカレーを頼むが、温まっていないため15分程待たされ、その間、空腹でビスケットとジュースを買った。この休憩で、さらに奥穂岳山荘まで進む元気を取り戻した。縦走路の岩稜は険しく、ペンキのマークを忠実にたどらないと登れず、立ち止まってはコースをみさだめる必要があった。ガスが流れ、ときおり涸沢のカールが足下に広がった。ガレ場をそのまま降りていけるように近くに見えた。途中のピークに挟まれた鞍部では、単独行ならではの不安からか、先に進めないような圧迫感に襲われた。涸沢岳へのオーバーハング気味の最後の鎖場は、鎖をたよりに攀じ登った。ガレ場を下ると奥穂高山荘が足下に見え、ヘリコプターによる荷揚の最中であった。この岩場の歩きには、やはり緊張させられたが、歩き終えた後の充足感があった。夕方よりガスがあがり、奥穂岳山荘前のテラスで展望を楽しみながら缶ビールを片手に、幸せな時を過ごした。小屋はきれいであったが、やはりかなりの混みようで、1畳に2人の状態であった。
 4日目は、夜明け前より起きて御来光を待った。カメラのストロボで闇の中の涸沢が光るのが印象的であった。朝食を食べて、急いで奥穂高に出発した。小屋の横のいきなりの急な岩場の登りに驚いた。奥穂岳山荘で引き返す者もいるというのも頷けた。奥穂高は、雲一つ無い快晴で、槍から立山、黒部源流の山々、笠ヶ岳、白山、焼岳、乗鞍、常念等、360度のパノラマが広がっていた。山頂も人で混みあうようになり、立ち去り難い気持ちでツリ尾根を前穂高に進んだ。根気よくマークに従って岩場を進まなければならない道を、小学生を連れた家族グループが何組もいたのには驚かされた。紀美子平に荷物をおいて前穂高に登った。降りることに不安を覚えるような急な登りであった。槍ヶ岳の眺めは、奥穂高よりも素晴らしいものがあった。紀美子平では休憩する者が多く、時間が早いと思ったが、弁当を食べた。岳沢ヒュッテまでは一気の下りで、小屋に着いてジュースを飲んだら緊張も弛んでしまったが、その後の樹林帯の緩い下りがやけに長く感じた。河童橋は観光客でごったがえしでおり、汗臭い登山客は、場違いの感じがした。穂高の頂上は早くも雲で覆われていた。満足感にひたり、新潟に戻った。

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