道行山、明神峠、御岳山、城山、大力山

道行山・明神峠、御岳山
城山・大力山


【日時】 9月8日(金)〜10日(日) 2泊2日 各日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 9月9日:晴 10日:晴

【山域】 越後三山
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 道行山・みちゆきやま・1298m・なし・新潟県
 明神峠・みょうじんとうげ・1236.0m・三等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 日光/八海山/八海山
【コース】 登り:学習院大学ルート 下り:銀の道
【ガイド】 山と高原地図「越後三山・卷機山・守門岳」(昭文社)

【山域】 越後三山周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 御岳山・おんたけさん・240.4m・三等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/小千谷/小出
【コース】 中家新田から中家へ
【ガイド】 なし
【温泉】 ゆーパーク薬師 湯之谷薬師温泉センター 650円

【山域】 越後三山周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 湯谷城址・ゆたにじょうし・371m・新潟県
 城山・しろやま(板木城跡・いたきじょうせき)・357m・なし・新潟県
 大力山・だいりきさん・504m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/小千谷/小出
【コース】 葎沢口から水道山口へ
【ガイド】 なし

【時間記録】
9月8日(金) 13:20 新潟発=(R.49、R.403、加茂、R.290、森町、R.290、栃尾、R.290、渋川、R.252、小出、R.352、奥只見シルバーライン 経由)=19:10 銀山平  (車中泊)
9月9日(土) 4:50 林道入口―4:56 オリソ―5:25 学習院大学ルート入口―6:57 道行山〜7:10 発―8:10 明神峠ピーク―8:20 銀の道入口―9:40 オシロ―9:51 林道入口=(奥只見シルバーライン、小出 経由)=11:55 中家新田登山口―12:21 御岳山―12:30 下降点―12:46 中家登山口―13:00 中家新田  (車中泊)
9月10日(日) 5:48 干溝入口―5:59 葎沢口―6:08 板木分岐―6:29 分岐―6:40 湯谷城址―6:58 板木城跡〜7:10 発―7:22 湯谷城址―7:25 分岐―8:10 黒禿の頭分岐―8:24 大力山―8:03 水道山口―9:12 干溝入口=(R.252、渋川、R.290、栃尾、R.290、森町、R.290、加茂、R.403、R.49 経由)=12:30 新潟
 越後三山は、八海山、中ノ岳、越後駒ヶ岳の三つの山をまとめての総称である。これらの三山は馬蹄型に山稜を連ね、中央の水無渓谷に一気に落ち込んでいる。三山の内では、中ノ岳が最高峰であるが、二番目の標高を持つ越後駒ヶ岳が、日本百名山にも取り上げられて知名度も高い。枝折峠からの明神尾根がもっとも利用されているが、駒ノ湯からの小倉尾根コース、水無渓谷からのグシガハナコース、さらに銀山平から小倉尾根途中の道行山へ登る登山道も開かれている。

 御岳山は、小出市街地の北部に東西に延びる尾根の西端にあり、山頂にマイクロウェーブ施設が置かれていることから周囲からも目につく山である。

 小出町の南で魚沼川にそそぎ入る大池川の源頭部には、城山から大力山、黒禿の頭、駒の頭、トヤの頭を経て鳴倉山に至る稜線が環状に続いている。この山域の山は、地元の人気が高く、環状縦走路が最近開かれたのに加えて、各ピークへの登山道も設けられている。

 久しぶりに越後駒ヶ岳を登ることにして、あまり知られていない銀山平からのルートから登ることにした。銀山平から道行山に登る学習院大学ルートを歩いたのは2007年9月なので、かなり時間が経っている。このマイナールートの現状を確かめる必要がある。
 学習院大学ルートと銀の道は、石抱橋から始まるが、時間の短縮のため、車道を枝折峠方面に進んだ先のヘアピンカーブ地点から始まる林道入口から歩きだすことにした。林道入口にはゲートが設けられて、入口前には駐車禁止と書かれていたが、脇に一台分の駐車スペースがあった。
 ヘッドランプを付けて歩き出したが、すぐに必要なくなった。緩やかに下っていくと、すぐに石抱橋からの銀の道が合わさった。すぐ先が明神峠への銀の道の入口のオリソであるが、林道をそのまま進む。草が延びて車の轍も見当たらなかった、その割には林道には砂利が敷かれていた。
 登山口の確認は、前回のGPSのログで確認してあるので、しばらくは林道歩きに専念することになった。北ノ又川がカーブする地点で林道が大きく削られて、車の通行はできない状態になっていた。崩壊地脇を注意深く通過した。新しいコンクリート護岸壁が設けられていたが、亀裂が入っていた。林道入口付近の砂利は、この護岸工事のために敷かれたもののようである。この崩壊地が車が通れるように再整備されるようには思えず、今後の林道の維持に懸念が生ずる。
 この先は、草は茂っているものの、良い状態の林道が続いた。登山口の目印は柳沢であるが、林道の下を暗渠で通過しているために判り難い。登山口には、テープが取り付けられているのが目印になる。草が延びているが、道型ははっきりしていた。地形図には道行山への破線が記されているが、実際の登山口は30mほど林道を先に進んだところにある。トラバース気味に進んでいくと、枝沢沿いの道になる。足元に注意が必要なへつり道をいくと、水の少ない沢に下り立ち、対岸の尾根に取り付くことになる。この先は、急な登りが続き、汗が噴き出てきた。ここのところ涼しくなってきたものの、この日は暑さがぶり返していた。
 南から延びてきた尾根に乗ると、しばらくは緩やかな道に変わった。道行山の山頂が近づくと、再び傾斜が増した。雨水によって削られて溝状になったところも現れて、ペースが遅くなった。登山道が荒れた所では脇に新しい切り開きが設けられていて、この登山道に整備の手が入っていることも知ることができた。
 もうひと息で山頂かと思ったところで、下ってきた単独行に出会った。このコースを歩く者もいるのだと思ったら、「越後駒ヶ岳へはこの道でいいですか」と聞かれて驚かされた。銀山平への道だと答えると、引き返していった。この先、山頂までは予想以上に距離があり、迷いこんだ登山者がどうしてこんなに下ったのか疑問が涌いてきた。
 道行山の山頂では、先ほどの単独行が休んでいたが、入れ違いに下っていった。道行山からは、越後駒ヶ岳から中ノ岳に至る稜線が一望でき、荒沢岳や未丈ヶ岳も登むことができた。道行山は、越後駒ヶ岳へと急ぐあまりに脇を通過してしまうにはもったいないピークである。青空が広がっていたが、日差しがきつく、暑さが堪える状態になっていた。この先の予定を再検討する必要が出てきた。道行山までの登りで体力をかなり消耗していた。手術後の体力の回復もまだ十分ではないようである。無理はしないで、銀の道経由で銀山平に戻ることにした。
 道行山から少し下った所が、縦走路との分岐になる。案内板もしっかりしており、なぜ道行山の山頂を越して下っていったのかの理由は判らない。次の目標は明神峠だが、その間には小さなアップダウンがあり、意外に体力を消耗する。駒の小屋泊まりなのか、遅い時間にもかかわらず、大勢の登山者とすれ違った。明神峠と書かれたピークから下ると、大明神のお堂があり、銀の道が駒の湯から上がってきている。今回は、銀山平側を歩くが、小出側も近いうちに歩くことにしよう。
 お堂の前から縦走路を少し辿ったところで、銀山平への下りが始まる。気になっていた道の状態だが、歩いた者の気配は無かったが、道は良く整備されていた。下り始めるとすぐに台地が現れ、ここは問屋場のはずだが、案内標識は見当たらなかった。尾根の下りを始めると八合目水場の標識が現れたが、水場は見当たらない。七合目焼山、六合目ブナ坂を過ぎると、車道が眼下に沿うようになるが、法面の高さがあるので、転落に注意が必要である。五合目松尾根の標識を過ぎると、中ノ岳の展望が開けて、写真撮影のために足が停まった。最後の九十九折を下ると三合目オリソとなって、林道に飛び出す。ここから一合目石抱橋までの区間は省略して、車の置いた林道入口に戻った。
 予定通りにはいかなかったが、学習院大学ルートと銀の道の半分を確認できたことで良しとしよう。越後駒ヶ岳は、いずれ枝折峠から歩くこう。
 ひと休みして小出に戻ったが、時間も早かったことから、御岳山を登ることにした。以前は御岳山から唐松山への登山道の途中まで川東地区遊歩道が整備されていたが、機会を逸しているうちにこの遊歩道は廃道になってしまった。今回は、登山道が、御岳山から先どこまで維持されているかを確認するのも目的であった。
 中家新田の御岳山の登山口前の空き地は、脇の車の修理工場の車が停めてあったので、県道から農道に入る所の路肩に駐車して歩き出した。登山口からは階段状の急な登りで始まった。藪蚊が寄ってきて、追い払いながらの歩きになった。ひと登りで尾根上に出て緩やかに登っていくと広場に出て、忠魂碑と書かれた大きな石碑が置かれていた。山頂までは、もうひと登りする必要がある。
 マイクロウェーブの下に出ると、周囲の展望が広がった。越後駒ヶ岳や八海山の山頂部は雲に隠されていた。魚沼平野の稲田も黄色く色づいて、実りの時を迎えていた。マイクロウェーブの背後の木立の中に石の祠が置かれていた。
 御岳山の先もしっかりした登山道が続いていたが、緩やかに下っていって僅かに登り返した所で右手の中家方面に道は下っていった。尾根通しに登山道の跡は見られるものの、草が茂っていて進む気にはなれない状態であった。登山道を下っていくと、最後は墓地に下り立った。ここには登山口の標識はなかった。最後は車道歩きで車に戻った。
 翌日は、城山トンネルを抜ける際に標識が置かれていることから気になっていた葎沢口から大力山へ登ることにした。大力山からは干澪に下ってくるので、集落入口に車を停めて歩き出した。城山トンネル方面に歩いていくと、「大力山遊歩道 葎沢口」と書かれた標柱が置かれている。
 登山道は、幅広の切り開き道であるが、丈の短い草が生えて歩く者は少ないようであった。急な登りもそう長くはなく尾根上に出ると、右手からも登山道が上がってきていた。標識には、「板木集落 田之入口・遍照寺」と書かれていた。こちらの道も確認する必要があるが、知らない道も多く歩ききれない。
 尾根沿いに登っていくと、送電線の鉄塔が現れた。これは「八色線No.30」で、送電線はしばらくは尾根沿いに走っていて、「八色線No.31」が現れる。黒禿の頭から城山に続く主尾根もそう遠くはないはずだが、霧がかかって先が見えなかった。ロープも固定されている急坂を上り切ると、主尾根の分岐に到着した。ようやく霧も上がってきて、魚沼平野の眺めが広がり始めた。
 大力山は左に曲がるのだが、城山に寄っていくため右手の道に進んだ。すぐ先のピークに出ると、湯谷城址の標識が現れた。一部錆が出て読みにくくなっていたが、以下のように書かれていた。
「湯谷城址
湯谷城址は南魚沼市湯谷道見山湯谷集落の北を遮るように東西に走る尾根に築かれている。雷土城址より約四百五十メートル東方で、同じ稜線上標高三百七十一メートルの地点に位置し、南北朝時代に築かれ両党の死闘が繰返された頃両氏の支配下の元出城として使われたと推測される。」
 湯谷城址を過ぎると、緩やかな下りになった。その先の杉木立が鶏冠のように見えるピークが城山であることは、すぐに判った。短い距離であるが、堀切が幾重にも巡らされており、ロープの助けをかりて上り下りするのに汗を流すことになった。
 城山の山頂に到着し、杉木立を巻いて西側に出ると、広場になっていた。
板木城跡の説明として、以下のように書かれていた。

 中部北陸自然歩道
小出町指定文化財 板木城跡
 板木城跡は、標高357mの城山山頂にある主郭から東西、南北に連なる十字状の尾根筋に三段の廓を配し、帯廓・空壕・土塁・崖壁などの構えを持ち、東に湯谷城を備え、西端に夢ヶ崎城(桑原城)を配置する壮大な要害となっています。北側山麓にある板木集落は、袋状に包囲する支援によって一大要塞を形づくっています。
 板木城の北西、魚野川の左岸の福山トンネルの上には鍬形城があり、浦佐と藪神をつなぐ狭い通路を守る重要な地点の両端の城跡です。
 板木城跡からの展望は良く、南は八色原から南魚沼方面一帯、北は小出町から広神村にかけての破間谷、下倉城跡などが良く見え、上だ。藪神両荘を俯瞰する重要な要衝でした。
 板木の地名及び板木城の名称は、上田の長尾政景と長尾景虎(後の上杉謙信)の間でたびたび争いが起こった天文二十年(西暦1551年)の「発智文書」、御館の乱が起こった天正六年(西暦1578年)の「小野寺文書」に出ており、戦国時代のロマンを今に伝えています。
小出町教育委員会 環境省・新潟県

 台地の南側の縁に移ると、そこには雷土城址が書かれた標柱が置かれていた。一つの山頂に、二つの名前が書かれた標識が置かれているのは歴史的経緯があるといっても判り難い。八海山と越後駒ヶ岳の眺めを楽しんだ後に、来た道を戻った。
 湯谷城址を越した先の分岐から東に向かったが、この先の大力山と黒禿の頭との分岐までは意外に遠く感じた。分岐から先は最近も度々歩いている区間になる。緩やかに登っていき、最高点を越すと大力山の東屋に到着した。越後駒ヶ岳方面は、逆光になって良くみえず、小出方面の田園風景の方が見どころになっていた。
 大力山からの下りでは、途中の分岐から最近歩いていない水道山口に進んだ。以前あった「大力山遊歩道水道山口」の標識は見当たらず、ここからの登りは判り難くなっていた。

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