天拝山、観音平山から高城山、観音平、藤塚山、社地山、万年山、城山(猿ヶ城址)、城山(岩手城址)、六角山、茶臼山、雁金山

天拝山
観音平山から高城山、観音平、藤塚山、社地山、万年山
城山(猿ヶ城址)、城山(岩手城址)、六角山、茶臼山、雁金山


【日時】 2016年3月25日(金)〜3月27日 2泊3日
【メンバー】 単独行
【天候】 25日:晴 26日:晴 27日:晴

【山域】 東頸城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 天拝山・てんぱいさん・120m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 長岡/柏崎/宮川、西山
【コース】 椎名観音参道入口より
【ガイド】 なし

【山域】 南葉山塊
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 観音平山・かんのんだいらやま・325.7m・三等三角点・新潟県
 高城山・たかしろやま・474m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/高田西部/重倉山
【コース】 観音平南の林道入口より
【ガイド】 なし

【山域】 南葉山塊
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 観音平・かんのんだいら・100m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/高田西部/重倉山
【コース】 観音平古墳群遊歩道入口より
【ガイド】 なし

【山域】 東頸城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 藤塚山・ふじつかやま・46m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/高田東部/高田東部
【コース】 南の林道入口より
【ガイド】 なし

【山域】 東頸城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 社地山・しゃちやま・200.9m・三等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/高田東部/安塚
【コース】 風巻神社入口より
【ガイド】 なし

【山域】 東頸城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 万年山・まんねんやま・199m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/高田東部/安塚
【コース】 西谷より
【ガイド】 なし

【山域】 米山周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 城山(猿毛城跡)・じょうやま(さるけじょうせき)・478.9m・三等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/柿崎/柿崎
【コース】 猿毛より
【ガイド】 なし

【山域】 東頸城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 城山(岩手城跡)・じょうやま(いわてじょうせき)・109m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/柿崎/原之町
【コース】 北側T字路より
【ガイド】 なし

【山域】 東頸城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 六角山・ろっかくやま・108m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/柿崎/原之町
【コース】 上割池西堰堤より
【ガイド】 なし

【山域】 東頸城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 茶臼山・ちゃうすやま・43m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/柿崎/原之町
【コース】 新溜より
【ガイド】 なし

【山域】 東頸城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 雁金山・かりがねさん・143m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/柿崎/潟町、原之町
【コース】 雁金城跡への林道入口より
【ガイド】 なし

【時間記録】 
3月25日(金) 13:30 新潟=(R.8、R.116、R.402、R.352 経由)=15:25 椎谷観音参道入口―15:54 天拝山―16:23 椎谷観音参道入口=(R.352、柏崎、R.8、上越、R.18 経由)=18:30 斐太神社  (車中泊)
3月26日(土) 6:45 林道入口―7:06 ゲート―7:45 観音平山―8:12 T字路―8:19 取り付き―9:19 高城山〜9:40 発―10:10 取り付き―10:25 T字路―10:47 観音平山―11:34 ゲート―11:55 林道入口=12:04 観音平古墳群遊歩道入口―12:13 最奥―12:27 観音平古墳群遊歩道入口=(R.18、今地、下稲塚、野村、錦 経由)=13:05 林道入口―13:18 藤塚山―13:31 林道入口=13:50 風巻神社入口―14:00 林道横断点―14:11 社地山―14:35 林道横断点―14:50 風巻神社入口=15:05 西谷―15:28 万年山―15:46 西谷=(錦、青野十字路、下小野 経由)=17:00 柿崎川ダム  (車中泊)
3月27日(日) 6:35 猿毛―7:30 城山(猿毛城跡)―8:26 猿毛=8:40 岩手城跡登り口―8:58 城山(岩手城跡)―9:12 岩手城跡登り口=9:34 上割池西堰堤―10:03 六角山―10:17 上割池西堰堤=10:40 新溜―10:48 茶臼山―10:55 新溜=11:15 雁金城跡への林道入口―11:28 雁金城跡駐車場―11:38 雁金城跡〜11:44 発―11:51 のろし山―12:03 のろし山登山口―12:16 雁金城跡への林道入口=(柿崎、R.8、柏崎、R.116、R.8 経由)=16:00 新潟
 天拝山は、柏崎市観音岬の上に聳え、山腹には椎名観音が置かれている。この山に設けられた「天拝山城」は長尾為景時代の山城で「椎谷の合戦」に於ける古戦場と言われている。

 観音平山は、地形図には名前が記載されていないが、観音平古墳群のある尾根の延長上にある三角点ピークである。山頂に至る破線が記されているがいずれも廃道になっており、近くを通過する林道を利用することによって容易に登ることができる。高城山は、観音平山の奥のピークで、南葉山と向かい合う山である。青田城と呼ばれる山城があったようであるが、由来は不明なようである。

 藤塚山は、頚城平野の三和区にある低山である。

 社地山は、頚城平野の三和区にあり、麓には風巻神社が置かれ、山頂部は南北二つのピークに分かれ、南ピークには三角点、北ピークには風巻神社の本宮が置かれている。

 万年山は、社地山の北、頚城平野の三和区の西谷にある山である。

 頚城平野の北東の外れの米山の南に位置する城山は、猿毛城址とも呼ばれ、柿崎城を居城としていた柿崎氏の「詰めの城」であったといわれている。

 岩手城跡と呼ばれる城山は、頚城平野の北東の外れの柿崎川の南に広がる丘陵地にある山城跡である。永正の乱で、長尾為景の下剋上に対し兵を挙げた小野城主の宇佐見房忠がここに立て籠もり、敗れて自刃したと言われている。

 六角山は、頚城平野の原之町にあり、山城が置かれていたことから六角城跡とも呼ばれる。六角氏が城を構えており、春日城の出城として重要な地位を占めていた。

 茶臼山は、頚城平野の頚城駅近くにある標高43mの低山であるが、春日城の属城が置かれていた。御館の乱の際には、城主の手島氏は、景虎についたことから城を捨てて阿賀北に逃れて出家した。

 雁金山は、大池いこいの森として整備されている大池の東に位置する山である。この山に置かれた雁金城は、上杉謙信が本城である春日山城を守るために置いた大小約120の支城群の一つで、越後府中から直峰城に通じる花ヶ崎街道を監視する要所にあり、重要な城であった。上杉謙信逝去後の御館の乱の際には、上杉景勝方の武士が守っていた。

 この週末は天気も安定しているようなので遠出することにした。メインは高田の高城山として、後は未踏の頚城平野の低山巡りを行うことにした。
 金曜日の昼に出発し、高田への途中に天拝山に寄っていくことにした。出雲崎に入ったところで海沿いの402号線に入り南下を続けた。山への途中であるが、このドライブでは日本海の眺めを楽しめた。
 大崎を過ぎると、日本海に突き出る観音岬が目に飛び込んできたが、この岬全体が天拝山になっている。椎谷岬トンネルの出口で、椎谷観音の案内標識によって右に向かう道に進んだが、これは現在通り抜けできない旧道で、途中から分かれる道は椎谷観音下まで通じている。下から歩くつもりだったので引き返した。トンネル出口の分岐に戻って周囲を見ると、国道の反対側に山門への道が始まっていた。行き止まりの道なら通る車も少なく邪魔にならないはずなので、路肩に車を停めて歩き出した。
 国道脇には、華蔵院(椎名観音堂)文化財の案内板が置かれていた。石段をひと登りしたところには、「草臥て宿かるころや藤の花」という芭蕉の句碑が置かれていた。この句は、芭蕉が奥の細道の旅に出る前年(1688年)の大和行脚で詠んだもので、後に江戸の俳人巣也が文政四年(1820年)に俳句行脚でこの地にやってきて滞在中、この椎谷観音堂で咲く藤の花を見て、土地の俳人とともに選んで句碑を建立したものとのこと。出雲崎で詠んだ芭蕉代表作の「荒海や佐渡によこたふ天河」の句碑をまだ見ていなかったが、一度見ておく必要がある。
 仁王門を過ぎると、石段が続くようになった。石段は結構急で、苔むしており、足元に注意が必要であった。300段とのことで、途中で汗ばんできた。左手から登ってきた車道に出ると、その上に御堂が見えてきた。向かって右手には広い駐車場が向けられており、観光客はここまで車で入ってくるようであった。
 石段の周囲には、幾つかのお堂が設けられていたが、正面が椎谷観音堂になる。お堂の中をのぞくと、土産のお札なども置かれており、訪問者も多いようであった。右手には、白壁のお城のような建物があったが、宝物殿のようであった。
 椎谷観音堂の右奥から奥に向かう山道があったのでこれに進んだ。竹林を抜けると杉林になり、台地上の広場に出た。ベンチやブランコが置かれていたが、かなり時を経ており、朽ちかけていた。直進して杉林に入ると、左手に高みが見えてきて、最高点が近づいたところでその方向に道が曲がった。曲輪が数段重なったような地形の中を登っていくと天拝山の山頂に出た。小広場には、コンクリートの枠が転がっているだけで、周囲は薄い藪になっていた。日本海川は切り落ちた崖になっており、転落に要注意であった。中越沖地震で山頂部は崩れて、かつてあった三角点は他所へ移動になり、石の祠も土台のコンクリートブロックだけになっている。
 周囲の地形は山城跡の特徴が良く観察できるが、上杉謙信の父である長尾為景時代の山城で、関東管領の上杉顕定を破った「椎谷の合戦」に於ける古戦場であったという。
 天拝山は、小さな山であるが、歴史的見どころも多く、遊歩道や城跡を整備することが望ましい。
 山登りを一応楽しんだ後に上越に向かい、斐太神社脇の駐車場で夜を明かした。
 翌朝、まずは観音平山への登山道を探る必要があった。325.7m三角点ピークが観音平山であることは判っていたが、地形図では何本かの破線が通じているように書かれている。ただ、南葉山塊では、古い山道が現在では無くなっていることが多く、この道が辿れるかは判らない。まず、青田側の破線を確かめるために車を走らせると、観音平・天神堂古墳群の案内が現れた。地図を見ると、遊歩道は尾根の途中までのようであった。道があるとすれば青田からの破線道に合流するはずである。青田で破線道の入口を探すが良く判らなかった。ここで時間をかけるのもいやなので、林道を辿って観音平山を目指し、そこから下る道があるならそれを歩いてみることにした。
 林道入口の広場に車を停めて朝食をとっていると、奥に何台もの車が入っていった。上信越自動車道の四車線化の工事が行われているようであった。雪も締まってつぼ足で歩けるはずとワカンを背負って歩きだしたが、高城山ではたっぷりの雪があったので、スノーシューを持っていった方が雪山を楽しめたと後悔することになった。
 高速道がトンネルから出てきて谷間を高架橋で通過しているところで工事が行われていた。工事現場ということで、人目を気にして足早に通過したが、その後は気楽な歩きになった。
 標高135m付近で林道に鎖が掛けられていた。ここまでは舗装道路で車で入ってこられる状態であったが、工事現場付近ではダンプカーの往来も多かったので、最初から歩いた方が良いであろう。  この先の九十九折状態部分からは一気に雪が増えて、尾根沿いの登りになると、完全な雪道になった。つぼ足でも歩けるものの、足が取られるので、スノーシューならばもっと気楽に歩けたものにと思った。といってワカンでは履く気にはなれない。
 高城山への林道は観音平山の脇を通過しているので、手前から山頂に向かった。雪原が広がって山頂を通過する林道があるのか判らなかったが、放置された自動車が藪の中にあった。観音平山山頂と書かれた標識が木に取り付けられていて、山頂であることは判ったが、台地状の山頂部の周辺を探してみたが、道らしきものは無かった。ここから青田方面に下ることは諦めて、下山は林道を素直に戻ることにした。
 林道に向かってさらに進むと、緩やかな下りの始まり部で、高城山の展望が広がった。山裾を重倉林道が横切っており、北側に辿った先からは登りやすそうな尾根が続いていた。登山コースを目で確認することができてひと安心となった。高城山の背後には、南葉山山稜が広がっており、良い眺めであった。
 緩やかに下っていく林道を辿って、重倉林道との合流点のT字路に到着した。左に回りこんでからT字路に落ち込んできている尾根に乗ることも考えられたが、当初の計画通りに右に進んでから北東尾根に向かうことにした。林道は緩やかな下りになっており、帰りのことを考えると、左に回り込んだ方が良かったかなとも思った。林道脇は切通しの崖になっていたが、小さな沢を過ぎたところで、杉の植林道らしき道型が分かれたのでこれに進んだ。200mほど進んだところで、雑木林の斜面の登りに方向を変えた。地形図で読み取れるよりも急な所もあったが、幅広の尾根に乗ると、登りやすくなった。青田川の右岸尾根に一旦乗ったが、やせ尾根で木が密生しているところがあり、尾根の一段下の雪原を歩くことになった。
 山頂と思われる高みの下に出て、急な段差を乗り越えると、その先は窪地になっており、その先が山頂であった。山頂部は、木の生えた尾根状になっていた。どうも曲輪が重なっており、土塁を乗り越えてきたようである。最高点部は腰を下ろすのにはあまり良い場所ではなかったため、少し下った平地で大休止にした。青空の元、残雪がまぶしく輝いていた。高田の平野部を見下ろすことができ、田んぼの中に北陸新幹線の上越妙高駅が見えていた。せっかくの新駅であるが、周りに店舗がなかなかできないでいる。
 下りは足が潜る状態のため、ペースがはかどらなかった。林道に戻り、フキノトウを探しながら下山を続けた。観音平山の脇を過ぎると、後は下り一方になり、九十九折を過ぎると、あっという間に雪は消えた。高速道の工事現場は、車がせわしく行きかっていた。
 車に戻り、すぐ近くの観音平にも寄っていくことにした。入口には、車数台の駐車スペースがあり、観音平古墳群の説明板が置かれていた。53の古墳が確認されており、約1700年前にこの地を収めた権力者の墓であったと考えられているようであった。
 階段状に整備された遊歩道に進むと、周囲の下生えが刈り払われ、一面のカタクリのお花畑が広がっていた。残念ながら咲き始めの花が僅かに見られるだけであったが、最盛期には美しい眺めになりそうであった。ただ、道路脇なので、花の時期には大混雑になるかもしれない。
 尾根沿いに登っていくと、小山が連なるようになって、これが古墳のようであった。最奥の古墳で遊歩道は終わっており、その先を探したが山道のようなものはなかった。積雪期ルートとしては、ここから尾根沿いに登っていけば観音平山に達することができるが、今の時期は、林道を使うのが正解であった。
 時間もまだ早いので、予定してきた低山をできるだけ登っておくことにした。まずは、藤塚山に向かった。車のGPSを三和中学から北で分かれる林道の入口にセットして車を走らせた。林道入口に到着すると、坂の上に牧畜小屋が見えたので、下から歩きだすことにした。
 坂を登っていくと現れた牧畜小屋は、使われなくなって荒廃が進んでおり、新しい建物は砂利の保管場所になっていた。林道終点の広場から山道に進んだ。杉林の中のほぼ平坦な道を進んでいくと、山頂を通り過ぎようとしたので、藪に進んだ。下草も少なく、すぐに地図に記された山頂部に到着したが、山頂を示すようなものは見当たらなかった。ともかく登頂成功ということで車に戻った。
 続いて、社地山に向かった。県道から山裾を走る道に進んだが、現在地が判らなくなり、車を停めて登山口を探すことになった。大きな石の鳥居や石灯篭の立つ風巻神社の参道入口に到着すると、右に沿うように山道が続ているのが目に入った。薄暗くじめじめした山道を登っていくと、左手に神社の社殿が見え、その先で舗装された林道に飛び出した。右手に曲がると、すぐ先で駐車スペースがあり、登山道が始まっていた。一般的には、ここまで車で上がってきてから歩きだすようであった。
 尾根沿いに登っていくと、畑も設けられた台地に出た。道が分かれ、左は風巻神代桜と呼ばれるヒガンザクラの大木への道であった。帰りによってみたが、巨木であった。花の時期ではないのは残念であった。
 直進して登っていくと鞍部に出た。左手の北ピークへの道の入口には鳥居も置かれていた。まずは、南ピークに向かった。滑りやすい急斜面を登りきると社地山の山頂に到着した。このピークに登る者は少ないのか、山頂部は藪っぽくなっていた。鞍部に戻り、今度は南ピークに進んだ。木の鳥居をくぐるとひと登りで、お堂の立つ南ピークに到着した。鞍部にある説明板によれば、このピークはカブロ山と呼ばれ、風巻神社は永禄年中、上杉家の祈願所として設けられたとのこと。社地城見平は、直峰城の防衛線の前衛の役割を果たしていたとのこと。また、海抜200m未満のところにブナの原生林があることは珍しいと書かれているが、ブナ林というよりは杉林の方が目立っていた。
 林道に戻り、これを下ることにした。途中で、風巻神社への道が分かれると思って歩いたのだが、そのまま下まで行ってしまい、風巻神社は参拝しないままに終わった。
 社地山に続いて万年山に向かった。西谷の民家脇から万年山の東山麓に通じる農道に進んだ。山頂から南東に延びる尾根沿いに登ろうとして取り付きを探しながら歩いていくと、伐採のための作業道があり、これを使って尾根上に出た。尾根上に出ると道は無かったが藪は薄かったので山頂に向かった。高みに到着したが、山頂は次の高みであった。山頂近くではっきりした道が現れ、これを進んだ先の送電線の鉄塔が立つ広場が万年山の山頂であった。
 下山は、送電線巡視路を下ったが、東に向かっていくと、歩き始めの農道に出ることができた。この巡視路入口には、「上越火力線No.30」と書かれていた。地図にもこの送電線は書かれていないのが、コース取りに手間取る原因になった。なお、この送電線と鉄塔はグーグルアースには現されているので、登山にも国土地理院の地形図の他にグーグルアースやストリートビューも参考にする必要がある。
 さすがにこの日の山は充分ということになった。翌日の猿毛城跡のために、近くの柿崎川ダムサイトの公園で夜を過ごした。
 柿崎川ダムから猿毛集落に向かうと、お椀を伏せたような独立峰の城山が目に入ってくる。車を停めて、山の写真を撮影した。低いながら登頂意欲がそそられる山である。
 猿毛の集落に入ると、猿毛城跡と書かれた標柱が立てられている。幅広の道に進むが、すぐに右へ入る道があり、曲がると城山神社への石段が続いている。石段登りは、急で、息が切れた。
 社殿の奥から杉林を抜けると、城山の急斜面に突き当たった。ドーム状で特に尾根が発達しているわけでもないので、登山道頼りに登ることになる。登山道はあるのだが、歩く者も少なく、落ち葉で覆われており、辿るのに細心の注意が必要になった。特に九十九折の折り返し部付近は、流水の流れた窪地なのか判りにくくなっていた。
 尾根状の地形に乗ってひと安心したものの、山頂が近づくと、残雪が現れるようになった。山頂近くでは上下に曲輪が重なるようになった。曲輪は雪原になっており、藪が出ている縁の崖で登山道の続きを探すのに苦労した。
 ようやく登りついた山頂は、雪原の台地で、奥に塚のような高まりがあり、その上には石の祠が置かれていた。これは、猿毛城の戦いで戦死した柿崎氏家臣を弔ったもののようである。雪原の向こうには、米山の山頂が大きく広がり、標高以上の眺めになっていた。この山は、急斜面に取り囲まれているため積雪期に登ることはできないので、残雪をまとった眺めを楽しめるのは極短い期間であり、今回は偶然にも良い時に登ることができた。
 下りも、登山道を外さないように細心の注意が必要になった。実際に、登山道を外れて登り返すことも出てきた。GPSを使っているといっても数メートルの間違いは、少し歩いた後でないと判らない。この時期は、初心者は入山しないのが無難と思われる。
 城山の後も城山に向かった。頚城平野一帯には、山城跡が多数残されているが、これは岩手城跡と呼ばれる城山である。柿崎ダム方面から県道を走ってきて、岩手集落を過ぎて柿崎川を渡った所で左折して南に広がる丘陵地の山裾に向かう。ネットから得られた情報によると、三叉路部が取り付きになるようである。
 畑の中をぬけて丘陵に向かうと、左手から農道が延びてきて、杉林の広がる山裾から山道が始まっていた。窪地を右手に見下ろしながら尾根の一段下のへつり道を登っていくと、右に沿っていた尾根の合流点に出て、ここは左折。すぐ上の山頂に向かう急斜面にジグザグの道が設けられていた。ひと登りで、城山の頂上に到着した。山頂にはテレビアンテナが置かれており、この保守のために山道が整備されているようである。米山や先ほど登ったばかりの猿毛城山を眺めることができた。山頂の周囲には、複雑な地形を利用した大規模な山城が設けられていたようである。
 下山時に、山道入口に延びてきていた農道を歩いてみると、少し迂回して歩き始めの三叉路に戻ることができた。岩手城跡は、登山口を見つけるのが一番の問題である。
 続いて六角山に向かった。登山道があるらしいことは判っており、北にある溜池の堰堤脇に登山口の標識があるということで、まずは溜池への入口を探したがよく判らなかった、西に回り込んでからアプローチすることになった。農道を通っていくと堰堤の下に出て、これを這い上がると六角山の北の山裾に登山案内の看板を発見できた。ただ、この看板は古びており、木の枝も被ってきていた。その脇から山に向かうと、すぐにT字路になった。周辺を探したが山道の続きは見つからず、登山道は藪に帰ってしまったかと思った。低山なので、藪漕ぎで登ってしまうことにした。杉林の中をひと登りすると、尾根沿いの登りになった。藪も薄く、藪漕ぎ山行としては歩くのに問題はなかった。
 山頂直前で、左から上がってきた登山道に飛び出した。登山道に飛び出すとすぐに六角山の山頂に到着した。山頂は、台地状の広場になっていたが、藪が広がり始めていた。
 下りは、登山道を辿ることにした。路肩の崩壊崩壊部もあったが、歩くのに問題の無い幅広の道が続いた。最後は、溜池の湖畔に沿って延びる遊歩道に飛び出した。看板があり、見ると「お願い 六角山遊歩道は廃止しました。ここから先へは危険ですので、立入らないでください」と書いてあった。少し整備しなおせば、初心者でも歩ける状態なのに登山道を放置しているのは残念なことである。
 もうひと頑張りして茶臼山に向かった。北側から新溜を目指すと、上に建物が置かれた小さな丘が見えてきて、これが茶臼山であった。溜池の堰堤に上がると、そこから茶臼山への遊歩道が設けられていた。岸辺から階段が設けられた遊歩道を上っていくと、ひと登りで茶臼山の頂上に到着した。下から見えていた建物は、山城を復元したものではなく、展望台であった。その上からは、新溜を見下ろすことができた。山頂に置かれた説明版によれば、御館の乱の際、城主の手島氏は、景虎についたことから城を捨てて阿賀北に逃れて出家したとあり、一段下の古井戸に城主の姫が身を投げたという伝説も残されている。ただ、古井戸の説明は、半分ほどが消えて読めなくなっていた。
 もうひと頑張りして、最後に雁金山を登ることにした。大池の東、雁金山の東を通過する林道の入口に到着すると、雁金城跡と荒澤不動尊の案内標識が置かれていた。山裾に鳥居が見えており、これが荒澤不動尊の入口のようであったが、そこから尾根沿いに登山道が通じているのかと思って、車を林道入口に停めて歩き出した。鳥居の奥をのぞくと、登山口はここではなく、林道を進んだ先のようであった。林道を歩くと結構急で、舗装されていて車の走行に問題は無い状態であった。少々後悔することになったが、結局のところ、これは正解であった。
 雁金山の南に出たところで、雁金城跡本丸登り口と書かれた駐車場が現れた。草が生え始めた駐車場からは、丸太階段状の登山道が始まっていた。登山道脇にロープが張られているものの、階段は崩れかかっているところもあり、歩く者は少ない感じであった。急斜面を登りきると、台地状の本丸跡に出た。
 山頂の先に登山道が続いていたので、これに進むと次の450mピークとの鞍部で、林道からの登山道が合わさった。ここから登ってくるのが一般的になっているようであった。登山道はさらに450mピークへと続いていたので、進んでみた。アルミ製の階段も設けられて、充分な整備が行われていた。登りきった450mは狼煙台であったようで、大池や妙高方面の眺めが広がっていた。
 登山道はさらに先に続いていたので、どこまで延びているのか確かめるために進んだ。奥の162mピークあたりまで延びているのかと思ったのだが、次の小ピークの手前で登山道は東に折れ曲がった、大池方面への急な下りになった。車は下に停めてあったので、戻るのに苦労はしないだろうということで、この道を下ることにした。アルミ製階段も途中に設けられている急な下りを続けると、大池の脇の車道に飛び出した。ここには「雁金城跡のろし上げ場入口登山口」と書かれた看板も置かれていた。脇には駐車場も設けられていた。
 車道歩きもそれほどのこともなく、車に戻ることができた。林道からではひと登りであるが、大池からでは結構な体力を使うことになる。雁金山は、どうせならば、下から歩きだして周回するのが楽しめる。
 低山歩きといっても、数を重ねると疲労も溜まり、これで充分という気持ちになって家路についた。

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