原の城跡

原の城跡


【日時】 2015年8月30日(土) 日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 雨

【山域】 見附丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 原の城跡(栄雲寺城)・はらのじょうせき(えいうんじじょう)・160.5m・四等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/加茂/森町
【コース】 栄雲寺より
【ガイド】 なし

【時間記録】 8:20 新潟=(R.49、R.403、加茂、R.290 経由)=9:30 栄雲寺〜9:36 発―10:05 三角点―10:34 栄雲寺=(R.290、栃尾、R.290、下田、R.290、加茂、R.403、R.49 経由)=12:30 新潟
 原の城跡は、五十嵐川の支流の大平川左岸の原集落にある山城である。麓の栄雲寺より遊歩道が整備されている。

 8月中というのに秋雨前線が停滞して雨が続いている。土曜日は雨のために山は休みにしたので、日曜日には山に行かなくてはならないがやはり雨。軽く歩ける所ということで、原の城跡を選んだ。
 ナビを頼りに登山口の栄雲寺城を目指した。R.290を栃尾に向かって進むと、大平川の手前に原の城跡への標識が置かれていた。この標識は通り過ぎようとする時にみつけたので、そのまま直進して町屋敷の集落を通り過ぎようとするところで右折した。細い車道を進んでいくと、前方に目的地の栄雲寺が見えてきた。お寺の駐車場に車を停めた。駐車場脇には、原の城跡の案内板が置かれ、以下のように書かれていた。
 「栄録十一年(1568)春、高城々主長尾遠江守藤景新四朗が府中(上越市)で上杉謙信の命で本庄繁長に打たれた報せは、早馬で城下に知らされた。家老長尾下記入道興里は急いで城をかため、又出城であるここの原の城と曲谷の城の堀を深くし、逆茂木を造って守った。
 高城攻めは栃尾の本庄実乃が総大将で、人面峠から雪崩を打って原の城に攻めかかった。原の将士は勇猛激斗懸命に闘ったが、多勢に無勢全員壮烈な玉砕を遂げた。
 城跡の下にある栄雲寺で戦死した勇士の菩提を弔い、家老の下記入道も同寺に祀られている。  昭和六十二年十月一日 下田村文化財調査研究会」
 栄雲寺は、曹洞宗の寺で、山門の向こうに本堂が設けられていた。本堂の左側に墓地があり、ここが登り口であった。
 林道の入口に、古びた案内図があり、かろうじて読み取ることはできたが、遊歩道の全体像を把握することは難しかった。
 林道をひと登りすると、左手に窯の施設があり、右手の池の脇から尾根に向かう遊歩道が始まっていた。丸太の段々をひと登りすると、東側からも遊歩道が合わさってきた。お寺の裏手方面から上がってきたようである。尾根沿いに登っていくと、東屋が置かれた広場にでた。92m標高点で、ここが原の城跡のようである。眼下に大平川沿いに広がる平野を見下ろすことができる展望地で、山城が置かれても不思議はない地形であった。
 北に向かう林道を進むと、すぐに林道が合わさる三叉路に出た。直進方向の斜面に遊歩道が続いていたので、これに進んだ。一旦林道を横断してさらに尾根沿いに進んでいくと、東屋の置かれた広場に出て、その背後の高みに三角点が置かれていた。
 山頂広場に林道跡が上がってきていたのでこれを下ると、木造の建物が置かれた広場にでた。建物の中は荷物置き場になっていたが、ここはキャンプ場ということのようである。
 林道を下っていくと、右に林道が分かれた。この林道を下れば、登り口に下りられるようであった。さらに進むと、遊歩道の横断点に出た。そのまま林道を下っていくと、山小屋が現れたが、道はここで行き止まりになっていた。戻って、遊歩道を下り、最初の三叉路に戻った後に林道を下った。そこからはすぐに登り口にもどることができた。
 原の城跡は、遊歩道が整備されているにも関わらず、歩く者が少ないのはもったいない気がする。地図には、今回歩いたコース以外にも林道や破線道が記されており、他のコースも設定できるかもしれない。

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