束松峠

束松峠


【日時】 2014年8月15日(金) 日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 晴

【山域】 飯豊連峰周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 束松峠・たばねまつとうげ・465m・なし・福島県
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/喜多方、野沢/坂下、柳津
【コース】 本名より
【ガイド】 なし

【時間記録】 6:00 新潟=(R.49 経由)=7:45 本名〜8:00 発―8:12 越後街道入口―8:40 一里塚―8:47 洞門分岐―9:02 束松峠茶屋跡―9:18 軽沢側入口〜9:28 発―7:43 束松峠茶屋跡〜9:55 発―10:02 洞門分岐―10:15 洞門入口〜10:20 発―10:28 洞門分岐―10:56 街道入口―11:08 本名=(往路を戻る)=13:15 新潟
束松峠は、陸奥国の会津若松と越後国の新発田を結んだ越後街道 (あるいは会津街道)の峠である。束松峠の険を控えた麓の本名集落は間の宿として荷物の運搬や宿泊で栄えたが、明治に整備された三方道路は藤峠経由となり、束松峠も忘れられた存在になってしまった。越後街道沿いは、現在の国道49号線として整備されてかつての街道の面影は無くなっているが、この束松峠は、現在でも昔の街道の様子が守られている。

 お盆休みで少し遠くの山とは思っていたが、晴天は一日だけで、後二日は雨になるようなので、軽い歩きで済ますことにした。
 旧街道にも興味があるが、現在では車道に置き換わって、昔ながらの道が残っている所は少ない。会津若松と新潟を結ぶ越後街道 (あるいは会津街道)でも、昔ながらの道を歩いたのは諏訪峠だけであった。調べると、福島県側の束松峠では旧道がハイキングコースとして整備されているようなので出かけることにした。
 まずは、会津若松側の本名に向かった。本名集落内の駐車スペースの様子が判らないので、集落入口の県道脇に車を停めて歩き出した。
 本名集落は、昔ながらの街道宿といった雰囲気の土壁の家が並んでいた。歩く価値のある道であった。集落内で左に車道が分かれるT字路に本名集落の案内板が置かれていた。 案内板には以下の通りに書かれていた。

旧越後街道間の宿天屋・本名
 天屋本名の集落は、街道を挟んで北が天屋、南が本名となりそれぞれ別の行政区になっている。『新編会津風土記』によれば、「天屋村は昔、満田といったが永正のころ(1506〜20年)天屋と改めた。もとは村北五町にあったがいつ頃かここに移した。北条時頼がこの村を通った時(陸奥の満田の山の束松千代の齢を家つとせん)と詠んだと村人は伝えている」と記されている。村中の街道は明治初年までの越後街道で、白河街道の一部 さらには幕府の佐渡道であり、新発田藩・村上藩の参勤交代路で交代(交易?)路でもあった。江戸時代、会津藩は宿駅制度を定めると、束松峠の峻嶮を控えた天屋本名は、片門・野尻沢両駅舎の「間の宿(あいのしゅく)」として荷物の輸送や旅宿で賑わった所でもある。名物は生蕎麦で、片門の宿に止まった人たちも、わざわざ天屋蕎麦を食いに登ってきたという。
 明治十五年、会津三方道路は、束松峠の険を避け、藤峠経由となってしまった。さしも殷賑を極めた越後街道も人影まばらに、天屋本名は生活の道を失うに至った。地元民は再び昔の賑やかさを取り戻そうとして、独力で束松峠に長さ百四十間余(約250メートル)の洞門を堀り車馬の通行を可能にした。しかし、ときは車・鉄道の時代となり、夢は潰れたが、村人の努力と団結心は今に受け継がれ豊かな集落となっている。
 束松峠を護る会
 会津坂下町教育委員会

 車で集落内に入ってきたのなら、この案内板付近の路肩に車を停めることができる。
 T字路から少し進むと、束松峠へは、歩行者は直進、車は左へという標識が置かれていた。その先は急坂になり、それを登りきった先の車道終点部に再び案内板が置かれていた。高みに向かって越後路、車道の延長方向には新道と書かれていた。
 下山した時に、この新道で示された道に進んでみたが、少し先で畑やお墓の脇への下りになってしまった。地形図ではカーブを交えて高みに向かうようなのだが、それらしい道は消えていた。この取り付き部に関しては、新道は消えた状態になっていた。
 刈り払いは行われているが、表面が草で覆われた旧街道に進んだ。ひと登りすると、スキー場の初心者コースのような幅広の道になった。右脇に六地蔵があり、この前に平行に走る道が旧街道の跡のようであった。その先の左手には山王神社の鳥居が置かれていた。これらの由来は、以下のように解説されていた。

峠の六地蔵
 明治の初めころまでここに茶屋があり、「地蔵の茶屋」といいました。大きな地蔵の後ろには六地蔵が控え、聖徳太子の石碑・庚申塔などがあります。前には石の大きな船があって、かつてはウマノ水飲場でした。
 街道は人馬だけのみちでなく神々も往来しました。悪い神が村に入らないように村境を守ってくださるのが地蔵さまでした。聖徳太子は職人の神様、庚申塚の申(猿)は馬の護り神というところから、祀られたものと考えられます。
 道向かいの鳥居は、山王神社の鳥居です。社殿はありませんが石の祠があります。山王神社のお使いは猿です。ここにも馬の護り神として猿があります。当時の人々が馬を大切にした心情が切々と伝わってきます。
 高寺地区地域づくり協議会

 その先で左手から舗装道路が上がってきていた。集落内の坂道の下の分岐で左手に分かれた車用のコースはここに出てくるようであった。この舗装道路は左手の高みに向かって延びていたが、どのように続いているのかは不明であった。
 ここの広場には、束松峠付近の案内図が置かれていた。旧街道は直進するように延びているが、新道は右手に分かれていった。車の進入防止の杭が入口に置かれた旧街道に進むと、すぐ先で右手から延びてきた新道の横断になった。この後の旧街道は、尾根通しの緩やかな登りが続くようになった。人馬が往来した昔を思い浮かべるような幅広の立派な道が続いた。
 途中、石畳という看板が現れたが、泥に埋もれて、石が所々に現れているだけであった。その先で、大正十四年二月に起きた「地辷り点」に出た。幅広の道が一旦途切れて、一般登山道並みの道に変わった。窪地を進むと、少し先で再び幅広の道に戻った。
 坂道をひと登りすると送電線の鉄塔下に出て、ここには一理塚が置かれていた。男壇と女壇の一対が残されているのは珍しい。
 401の小ピークを越して緩やかに下っていくと、再び新道に飛び出した。ここには洞門の案内板が置かれていた。洞門は帰りに寄ることにして、まずは峠を目指した。左に曲がると、すぐ先で峠への道が始まっていた。再び緩やかな登りが続くようになった。子束松跡という看板があったが、松は平成十年に枯れてしまったという。
 登り坂をもうひと頑張りすると、道は左に曲がり、束松峠に到着した。峠には東屋が設けられ、会津盆地や会津磐梯山を望むことができた。かつて峠を通り過ぎた旅人の心情が思い浮かぶ眺めであった。峠には以下のような説明板が置かれていた。

峠の茶屋跡
 標高四六五メートルのこの束松峠頂上には昭和三十年代まで二軒の茶屋があった。「寛政四年(1792)片門・本名の両村よりこの頂きに茶屋二軒」(『新編会津風土記』)を構え、お助け小屋を設けて、険阻なこの峠を通る人の便宜を図った。
 十遍舎一九の『奥州道中金草鞋』に記されているように、焼き鳥・あんこ餅が名物であった。茶屋からは高寺山塊を隔てて、会津盆地が一望され、彼方に秀峰磐梯山を望むことのできるこの峠は、会津に向かう人にとっては、はじめてみる若松城下であり、去る者は、別離の涙を流す峠であった。「戊辰戦争敗軍の将」秋月悌次郎が越後に西軍参謀奥平謙輔を尋ね、会津の行く末を託しての帰途、雪の束松峠から遥かに若松の城下を望み「行くに輿無く帰るに家なし」と、会津の行く末を想い、「いづれの地に君を置き、また親を置かん」と慟哭の詩『北越潜行の詩』を詠じたのもこの峠であった。
 会津坂下町教育委員会

 峠には、『北越潜行の詩』の石碑と、詳しい解説文も置かれていた。

 また、この束松峠は、「日本奥地紀行」を著したイザベラ・バードも歩いた峠である。坂下で宿泊してから舟渡、片門、野沢、野尻を通って、車峠で宿泊したことが記されているが、束松峠の名前が記載されていないのは残念である。
 時間も余裕があったので、峠から軽沢に下ってみた。軽沢側も良い道が続いており、地元の軽トラックの轍も続いていた。ただ、途中で路肩が崩壊しているところもあり、一般の車が入るのは無理であった。送電線の巡視路が峠直下から分かれているので、この管理のために上がってきたのかもしれない。巡視路は、送電線が通過している436m点までは延びているはずなので、そのまま地形図の破線を辿って藤峠の旧道まで続いているのかもしれない。藤峠にも興味が湧いてくる。
 少し下ると、戊辰戦争時の塹壕跡が現れた。土盛りは残されているが、全体像は把握できない状態であった。
 緩やかに下っていくと、軽沢から登ってきた車道に飛び出した。県道341号線ということで、舗装はこの合流点で終わっていた。車道は南に向かって延びていたが、道路標識には舟渡まで7kmとも書かれていた。地形図では、この道は途中で終わっているのだがという疑問が湧いてくる。ネットで調べると、この県道はやはり続いてはいないことが判った。何のために計画され、そして中断されたのだろう。束松峠に関する道の歴史が一つ重ねられていたことになる。
 車道を少し下った所から旧街道のつながりを探してみた。入り口に刈り払いが行われていたので進んでみたが、すぐに藪にぶちあたった。車道の開設によって、旧街道は消えてしまったことが判ったので引き返すことにした。
 束松峠までの登り返しも、そう難しくはなかった。峠の東屋のベンチに腰を下ろしてひと休みした。
 帰りは、洞門を見学していくことにした。分岐には、以下の案内板が置かれていた。

束松洞門
 束松洞門は、ここ天屋側入り口から軽井沢入り口まで、全長約240メートルのトンネルで、明治二十年(1887)地元民の努力によって貫通しました。
 世は明治と改まると、世の中の進歩に従って人や物の交流が盛んになってきました。それまで人や馬の背によって運ばれていた物資や人は、馬車や荷車等によって大量に運ばれることとなります。会津五街道のひとつ越後街道は、新発田藩・村上藩の参勤交代路でもあり、幕府の佐渡路でもありましたが険しい束松峠は馬車の通行を阻むものでした。このため明治十年には鐘撞堂峠から西羽賀・野沢芝草に通ずる裏街道が計画され、明治十五年には時の県令三島通庸による会津三方道路越後街道が藤峠経由となってしまいました。
 かつて宿駅として繁栄していた舟渡・片門・天屋本名・軽沢などの住民は、たちまち生活に困ってしまいました。『夢よもう一度』住民は洞門を掘ることを思いつき、明治十三年のころから測量を開始し、幾多の紆余曲折を重ねて、明治二十七根新道も完成し八月七日落成祝賀会が挙行されました。(以上『長谷川利義松言行録』による)
 洞門入り口には茶屋も設けられ、馬車も人力車も通る道となり、賑わいを取り戻したのも束の間、鉄道の開通、自動車の普及はこの洞門道を不要としてしまいました。それでも昭和二十年ころまでは修繕を重ねながら通行できましたが今では崩落著しく通行不能となってしまいました。しかしながらこの洞門に注いで沿道住民の熱意と団結の力は脈々として今に引き継がれています。
 高寺地区地域づくり協議会

 洞門に向かう新道は、分岐から先は路肩が崩壊して車は通行できない状態になっていた。ただ、路肩を石積みや杭で補強して、遊歩道としての整備は充分行われていた。
 新道を辿ると広場に出て、その奥の岩壁に穴が開いていた。洞門は、上から崩れてきた岩屑によって半分ほどが埋まっており、元の入り口の形は判らなくなっていた。足元の不安定な岩屑の小山を登ると、天井に手が届く状態になった。天上の岩を触ると、破片がはがれる状態であった。小山を乗り越えた先にトンネルが続き、木の支柱が倒れているのが見えた。蝙蝠が数匹飛び回っており、そのフンなのか、いやな臭いが漂っていた。奥に進む勇気は起きず、すぐに引き返すことになった。洞門の内部調査の開設図も置かれており、全長は236mで、最初の崩落箇所までは70mのようであるが、中に入っていくのは危険を覚えてしまう。
 帰りは、新道を下ることにした。旧街道の一段下を沿うように新道は続いていた。未舗装ではあるが、一般車でも走行可能な状態であった。
 束松峠は、歴史的背景も豊富で、ハイキングコースとしても充分楽しめることが確かめられ、良い収穫となった。
 
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