万治峠

万治峠


【日時】 2014年5月5日(月) 日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 曇り

【山域】 飯豊連峰周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 万治峠 まんじとうげ・670m・なし・新潟県
【コース】 実川より
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/大日岳/日出谷
【ガイド】 なし

【時間記録】 7:20 新潟=(R.49、津川、R.459、小荒 経由)=9:15 実川〜9:45 発―10:58 東屋―11:18 万治峠〜11:25 発―11:37 東屋―12:35 実川=(往路を戻る)=14:30 新潟
 万治峠は、現在では新潟県に含まれているが、かつては会津藩の支配下にあり、会津から実川流域に米を運ぶ陸路の要所として栄えていたという。その名前は、万治元年(1658年)に開かれたことに由来するという。

 月曜日に海外旅行に出かけるため、土曜日だけ近場の山に出かけることにした。まだ歩いていないコースとして、実川から万治峠へ登ることにした。万治峠へは、1996年7月6日に荒沢側から登っているだけであった。
 阿賀野川沿いのR.459は、道幅の細い所もあるが、かなり改良が進んでいて、当麻からは当麻トンネルで一気に進むことができるようになっていた。このトンネルを出たところが実川へ続く道の入り口になる。除雪の都合なのか、ガードレールは無く、車のすれ違いに注意が必要な道である。ひと走りした所で、小荒の集落が現れるが、こんな山奥でと思ってしまう。
 小荒の集落を過ぎた所で、パイプ柵が置かれており、この先は雪崩の危険のため一般者は通行禁止と書かれていた。脇の空き地に車を停めて、GPSで登山口までの距離を測ると、直線距離で3km以上あるようであった。覚悟を決めて歩くしかないかと思っていると、奥の方から車が出てきた。大日岳の登山口を目指すなら別だが、実川までなら雪崩の危険性は無いはずなので、車を先に進めることにした。道幅の細い道に注意しながらのドライブを続けた。途中のダムの周辺をはじめ、結構多くの車が入り込んでいた。
 実川に到着すると、五十嵐邸への案内板が、谷方向に下りていく道の入り口に何か所も置かれていた。道の左上に訪問者用の駐車場があったので、ここから歩き出すことにした。実川の観光客がどれほどいるのか知らないが、有名観光地並みの広い駐車場にトイレも設けられていた。
 歩き出そうとすると小雨が降り出して、雨具を着こみ、しばらく様子見になった。
 雨も止んだので歩き出した。五十嵐邸の案内に従って谷に向かって下ると、遊歩道に出た。実川は廃村になっており、残された民家も屋根に穴が開いているものもあって、傷みが進んでいた。山の神にお参りをしてから先に進むと、五十嵐邸の下に出た。その先に実川に架かる吊り橋があったので、五十嵐邸の見学は下山後として、まずは万治峠を目指すことにした。実川に架かる吊り橋は、しっかりした造りであった。深い谷を見下ろしながら渡った。昔はどのような吊り橋が架かっていたのだろうか。
 橋を渡った先に案内板があり、東屋まで1.8km 60分、東屋から万治峠まで0.5km 30分と書かれていた。その先でT字路に出た。高みに向かう左に進んだが、これは誤りで引き返すことになった。分岐の標柱の下に落ちていた板を裏返すと、万治峠は右と示されていた。標識がしっかりしていれば間違うことは無かったのだが、登山道の春になっての整備はまだ行われていなかった。
 下流方向に川と平行に進んだ後に、山に向かう道が始まった。しばらくは、整地の様子からすると、放棄された畑に杉が植林されたようであった。杉林を抜けると沢沿いのへつり道が続くようになった。路肩が崩壊しており、足元に注意しなければならない場所も出てきた。ロープも固定されていたが緩んでおり、頼るのはかえって危険な状態であった。シーズンがくればステップを切りなおしたりして整備しなおされるのであろう。途中、枝沢を何回も越すことになったが、水量も少なく跨ぎ越すことができた。
 かなり山奥に進んだなと思う頃、東屋が現れた。周囲は広場になっており、雪を被った飯豊連峰を望むことができた。
 東屋からは急な登りになったが、昔の生活道のことだけあって、尾根の直登ではなく、九十九折状態になっていて歩きやすくなっていた。東屋まではコースタイムなみの時間がかかっていたが、東屋から峠までは意外に早く到着した。
 万治峠は小広場になっており、小川芋銭の「わするなよ、万治峠のほととぎす」という歌碑が置かれている。一段高い所に飯豊山と彫りこまれた石碑も置かれていた。残雪をまとった飯豊連峰も見えており、昔の旅人はこの峠から飯豊を参拝したのであろう。西に向かう稜線にははっきりした山道が続いていた。この道は高井峠に向かっているはずだが、刈り払いがどこまで続いているかを確かめてみる必要がある。また一つ課題ができた。
 下りは崩壊地のトラバースをのぞけば歩きやすく、足早に下ることができた。
 下山後、五十嵐邸を見学した。立派な母屋であったが、まだ雪囲いが施されていた。

山行目次に戻る
表紙に戻る