高柳城跡、笠峰

高柳城跡、笠峰


【日時】 2013年11月30日(土) 日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 みぞれ

【山域】 白山・粟ヶ岳山塊周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 高柳城跡・たかやなぎじょうせき・227m・なし・新潟県
【コース】 上高柳より
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/加茂/越後白山
【ガイド】 なし

【山域】 白山・粟ヶ岳山塊
【山名・よみ・高・三角点・県名】 笠峰・かさみね・483.8m・三等三角点・新潟県
【コース】 小乙林道より
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/加茂/越後白山
【ガイド】 なし

【時間記録】 8:00 新潟=(R.49、亀田、R.403、加茂 経由)=9:10 上高柳バス停〜9:20 発―9:26 御殿清水分岐―9:40 高柳城跡〜9:45 発―9:52 御殿清水分岐―9:56 御殿清水―9:59 御殿清水分岐―10:09 上高柳バス停=10:31 小乙―10:46 橋―11:26 作業道終点―12:12 笠峰―12:36 作業道終点〜12:50 発―13:20 橋―13:32 小乙=(往路を戻る)=14:40 新潟
 高柳城は、高柳川と大谷川に挟まれた丘陵地に築かれた山城である。築城時期や築城主は不明であるが、加治荘の地頭であった佐々木盛綱の家臣が建仁年間(1201〜1204年)に築いたとも言われている。南北朝時代に宗良親王が一時高柳に滞在したことから御殿山とも呼ばれる。戦国時代には、長尾俊景の家臣北川大学が城主であったが、長尾景虎(後の上杉謙信)に攻められ、その後は森五郎左衛門、子の高柳監物が城主となった。

 新潟平野の縁に沿ってひろがる白山・粟ヶ岳山塊は、白山から宝蔵山、さらに鞍部の橋立を経て、権ノ神岳から粟ヶ岳に続いている。橋立への麓からの登山道としては、上高柳と小乙からの道が利用されているが、橋立から西に延びる稜線が二つの集落を隔てている。この稜線上にある483.8mの三角点ピークは、地図には山名は記載されていないが、笠峰と呼ばれている。

 冬の訪れによって低山歩きの季節になった。手頃な低山として新潟周辺の山城跡を調べていくと、度々訪れている宝蔵山や笠峰の登り口である上高柳に、高柳城跡があって登山道も整備されているらしいことを知った。天気も雨の予報が出ていたので、手頃な山として高柳城跡に出かけることにした。
 上高柳バス停脇の路肩スペースに車を停めた。スノーシュー歩きで笠峰に登る時に、いつも車を停めている場所である。高柳城跡の登り口の目印は、山裾に置かれた二本の白い標柱とのことであった。バス停から高柳城跡の置かれている227mピークを見ると、畑の向こうにそれらしい物があるのが目に留まった。
 バス停のあるY字路から山裾に向かう車道に進むと、すぐに山に向かう路地が分かれる。民家の脇を抜けて畑に向かうと、山裾に「高柳城跡昇り口 徒歩20分」、「歴史の道・中大谷に至る」と書かれた二本の白い標柱が置かれていた。山道に進むと、丸太の段々で整備された急坂の登りになった。ひと登りで台地に出ると、城跡と御殿清水との分岐に出た。右の城跡への道に進んだ。
 ひと登りすると左にトラバースするようになって山頂から西に落ち込む尾根上に出た。この先は、土塁と帯曲輪が重なって、複雑な地形になった。横堀や竪堀もめぐらされて、小降りながら堅固な要塞であったことが伺われた。新潟周辺ではトップクラスの遺構の見られる山城であった。
 最高点の本丸跡は小広場になっており、中大谷方面を見下ろすことができた。雲に隠されていたが宝蔵山も望めるようであった。
 下りは、雪の上の足跡があるので迷わなかったが、うっかりすると城内からの出口が判らなくなりそうであった。分岐に戻って、御殿清水を見ていくことにした。巻き道を進むと、すぐに湧水に出た。道は御殿清水で行き止まりになっていた。中大谷への道は、見落としてしまったが、城跡の中から分かれているようであった。
 車に戻り、時間も早かったので、小乙から橋立までの登山道を確認することにした。橋立までは、高柳方面からしか歩いていない。
 小乙集落の民家が途切れた先は未舗装の林道になる。直進するのは地図には記載されていない林道で、橋立方面には右に分かれる林道に進むことになる。林道先の状況が判らないので、少し戻った所の路肩スペースに車を停めて歩き出すことにした。雪山歩きには、小乙の入り口から歩き出すしかないようである。
 橋立への林道は、小乙林道と呼ばれるようで、入口は狭いが進んだ先には駐車スペースは結構あった。少し進むと「安中康栄記念公園弘楽園」と書かれた石塔や石像が置かれた広場が現れた。中越幹線の送電線の下を過ぎると、小乙川に架かる橋があり、左岸から右岸に移った。
 橋のたもとから植林の作業道らしき道が分かれていた。高柳川沿いの登山口から笠峰への山道は、最初に登った2000年11月26日の際には、初回でも迷うことなく歩くことができる状態であった。しかし、現在では藪に帰ってしまったことは、2012年5月13日に歩いて確かめている。この山道が消えたのは、地図に記載されていない林道の工事によって歩けない時期があったこともあるのかもしれない。もう一つの可能性は、雪山登山の際に南斜面には伐採地が広がっているのを見ることができることから、小乙方面から登れるようになったのではと考えていた。また、この橋からは笠峰の山頂に続く幅広尾根が続いており、スノーシュー歩きのルートとして使えないかと考えていた。
 この作業道を確かめることにした。すぐ先で作業道は二手に分かれた。下山時に確かめると、左の道はすぐ先で砂防ダムの脇を通って、谷奥に続いていた。333m小ピークの南面の植林地へ続くように思われた。
 こちらが笠峰へのルートであろうということで、右の道に進んだ。しばらくは急坂であったが、やがて台地状の緩やかな道になった。作業道は幅広で、積雪期にも辿ることに問題はなさそうであった。笠峰から西に延びる稜線が近づいてきた所で、作業道は沢に突き当たって終点になった。標高360m地点なので、笠峰の山頂まではあと120mほどの標高差である。
 山道は見当たらないかと探したが見つからなかった。ただ、少し戻った所に保安林保全事業と書かれた標柱があり、そこから連続的にテープが取り付けられていた。朝方の雨も止んでおり、積雪20センチほどでヤブコギ山行を行い易い状態であった。
 急坂をひと登りすると若い杉が並んだ植林地に出た。見通しの利かない植林地の中を登っていくと、450m標高で杉林も終わった。この後は雑木林の中のヤブコギになった。あと僅かな距離であったが、藪は濃くペースは遅くなった。
 最後は、笠峰の山頂広場に飛び出した。膝ほどの積雪であったが、以前あった山頂の標柱は見当たらなかった。山頂付近に続いていたはっきりした山道も、薄いながら藪になっていた。笠峰は、積雪期以外はヤブコギの山になってしまったことが確かめることができた。
 下山は、杉林に戻ってから作業道終点に戻る部分は、雪の上の足跡頼りになった。このルートから笠峰に登るには、GPSでまず作業道の走り具合を記録することが必要である。
 気になっていた小乙からの笠峰へのルートを確かめることができ、この日の山歩きは収穫の大きなものになった。


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