朝日山

朝日山


【日時】 2009年12月6日(日) 日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 曇り

【山域】 山古志
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 朝日山・あさひやま・341m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/小千谷/小千谷
【コース】 浦柄より
【ガイド】 新潟ファミリー日帰り登山(新潟日報事業部)

【時間記録】 8:30 新潟=(北陸自動車道、R.17、ひ生、R.291 経由)=10:20 浦柄〜11:00 発―11:54 朝日山〜12:03 発―12:13 林道終点広場―13:14 新幹線トンネル脇林道口―13:25 浦柄=(往路を戻る)=15:10 新潟
 信濃川右岸にある小千谷市の朝日山は、戊申戦争の際、河井継之助の率いる長岡藩が陣を置いた山として知られている。山頂まで車道が通じていたが、新潟中越地震によってこの車道は崩壊し、歩いて登る山に変わった。

 天気予報は、雨時々止むというものであった。12月はじめは、晴天は期待できず、雨を覚悟しなければ山歩きはできない。車道歩きが主なコースとして、朝日山を考えた。
 朝日山は、2001年6月に訪れているが、この時は車で山頂まで上がってしまった。その後、新潟中越地震が起こり、朝日山一帯も大きな被害を受けた。少し前には、朝日山の登山道が整備されたというニュースも流れてきたので、再度出かける必要があると思っていた。
 横渡で国道17号線から山古志へ通じる国道291号線に進むと、すぐに浦柄の集落に到着する。朝日山古戦場の看板があり、ここが朝日山の登り口になる。入口手前の路肩広場に車を止めて歩きだした。幸い、雨は止んでいた。
 民家の間を抜けて坂を上がっていくと、左上に浦柄神社のお堂が現れる。坂を登った所に、神社参拝者用の駐車場が設けられていたので、一般的には、ここがスタート地点になる。
 棚田や養鯉池の間を抜けていく林道歩きが続いた。後で、ガイドブックを見ると、登山道が始まるように書かれていたが、気がつかずにそのまま林道を登り続けた。付属の地図を見ると、登山道は林道脇に沿って続いているようなので、林道歩きでも問題はなかったようである。
 細いながら良く整備された林道が続いた。尾根を越して南側斜面に入ると、林道の分岐に出た。朝日山は左手へ向かうはずと進むと、地滑りの工事部で行き止まりになってしまった。沢の向こうを見ると、ピンクのリボンが付けられて、その向こうに、昔の道が続いているようであった。
 少し戻って土砂で覆われた窪地を横断し、泥斜面をひと登りすると、その先に林道が続いていた。林道の末端部は、崩れおちて崖になっていた。その先の林道は、舗装面が斜めに傾いていたりして、地震の被害の大きさを改めて思い知らされた。その先のカーブ地点で、舗装面が大きく割れており、泥斜面を足元に気をつけて登る必要があった。幸い、大きな被害部は、この二ヶ所で、後は静かな林道歩きになった。この部分は、この先整備されないのなら、朝日山ハイキングコースで、地震の爪痕を体験できるポイントとして、見どころにしてもよいであろう。
 通行不能個所のあった林道であったが、車の走った跡が見られるようになった。不思議に思いながら歩いていくと、送電線が頭上を通過した先で、下から林道が上がってきた。砂利道で、一般車が上がってくるのは難しそうであった。
 数回ジグザグを繰り返すと、朝日山の山頂に到着した。展望台を備えた資料館が中央にあり、その周りにはフランス式塹壕や砲台跡の遺跡が残されている。草は刈られ、周辺の木立ちも切られて、見通しが良くなっていた。信濃川の流れに沿って広がる小千谷や長岡の街並みを望むことができた。
 司馬遼太郎の「峠」で、河井継之助のもとで行われた北越戦争は広く知られるようになった。新政府軍は、会津藩征討のため、長岡にほど近い小千谷を占領した。河井継之助は、武装中立の立場をとっており、長岡への侵攻の中止と会津藩の赦免を求めて新政府軍の軍監・岩村精一郎と小千谷の慈眼寺で会談するも、会談は決裂して戦いが始まる。長岡藩軍は、長岡への侵攻路になる榎峠を守るために朝日山に陣をひく。新政府軍は、朝日山を攻略するも、長州藩参謀時山直八の戦死など大きな被害をこうむる。この膠着状態を打開するため、新政府軍は軍を二つに分け、一軍を船によって信濃川を渡して長岡城の攻略に向かわせる。長岡藩軍の主力は、榎峠などの守備に回っていたため、無防備の長岡は落城してしまう。態勢を整えた長岡藩軍は、長岡城を再奪回して新政府軍を敗走させるが、河井継之助が足に怪我を負うなど大きな被害をこうむる。その五日後の新政府軍の再攻勢によって長岡城は再占領され、越後全域が新政府軍の勢力下になる。河井継之助は、八十里越街道から会津に落ちのびるも、途中で怪我が悪化し、只見塩沢にて落命する。
 このように歴史を振り返ると、朝日山の陣は、良く守られたことが判る。長岡城自体は、現在の長岡駅前にあったというが、遺構は全く残されていない。朝日山は、北越戦争の貴重な遺構であり、歴史散策としても訪れる価値がある。
 資料館は冬囲いされて中に入ることはできなかった。屋上の展望台に登って風景を楽しんだ後は、塹壕跡を眺めながら、山頂広場をひと回りした。風が冷たく腰を下ろして休む気にはならなかったが、穏やかな日には、ここでお弁当を広げるのは楽しいであろう。
 下りは、寺沢方面に向かうことにした。山頂から先は、登山道が整備されていた。右手は地震による地滑りで崩れ、振り返ると山頂の東斜面は砂防工事が施されていた。少し下ると幅広の道になった。山頂まで続く道であったものが、地震によって崩れ、登山道が新たに設けられたようである。
 緩やかに下っていくと、小ピークの手前で、左手に道は方向を変えた。以前の道は直進するようであったが、これも地滑りによって、道が変わったようである。その先で、林道終点の広場に飛び出した。
 この先は、車道歩きになったが、思わぬ苦労をすることになった。林道を右に進んで、朝日の集落を経て寺沢に出るというのが、正解であったようであるが、。朝日の集落に出るのにも、メインと思われる東寄りの道の他に、西よりにも道がある。こちらなら、場合によっては、送電線の下を通過して新幹線のトンネル出口付近に下り立つことができると思われた。
 車道を東に向かうと、すぐに未舗装の道が分かれたので、この道に進んだ。尾根の一段下に沿って、一気に下っていく道であった。池を回り込んで、右手の谷に下ると、田圃脇で道は行き止まりになってしまった。沢沿いに下れば、国道まではそう遠くない距離であったが、引き返すしかない。谷向こうの朝日集落に向かう道があるはずと、枝道を確かめたが、いずれも行き止まりであった。
 池を回り込むところまで戻ると、杉林をすかして、林道が走っているのが見えた。藪を通って林道に下り立った。左方向に回り込んでから下る道は、行き止まり。後で地図と歩いた軌跡を重ねると、ここまで下ってきた昔の破線道の延長であった。戻って右方向に進むと、これは行き止まりにならずに、順調に下るようになった。送電線の下を通過すると、未舗装の道が上から下ってくるのに合わさった。朝日山の山頂手前で分かれた道が下ってきたもののようであった。
 最後は、新幹線のトンネル脇で国道に下り立った。ここから車を置いた浦柄までは、そう遠くない距離であった。偶然であったが、寺沢から戻る車道歩きを半分ほどに短縮することができた。人には説明づらいが、効率よく周回できるので、再訪の時は、このルートを歩きたいと思う。

山行目次に戻る
表紙に戻る