御影森山、葉山

御影森山から葉山


【日時】 2009年10月23日(金)〜25日(日) 前夜発テント1泊2日
【メンバー】 単独行
【天候】 24日:曇り 25日:曇り

【山域】 朝日連峰
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 上倉山・かみくらやま・1144.0m・三等三角点・山形県
 御影森山・みかげもりやま・1533.9m・三等三角点・山形県
 前御影森山・まえみかげもりやま・1435m・なし・山形県
 中沢峰・なかざわみね・1343.3m・三等三角点・山形県
 八形峰・はちがたみね・1343.3m・三等三角点・山形県
 葉山・はやま・1237m・なし・山形県
【地形図 20万/5万/2.5万】 村上/朝日岳/羽前葉山
【コース】 朝日鉱泉より
【ガイド】 山と高原地図「朝日連峰」(昭文社)

【時間記録】
10月23日(金) 14:30 新潟=(R.7、新発田、R.290、R.113、今泉、上郷ダム、木山ダム 経由)=19:30 朝日鉱泉
10月24日(土) 6:30 朝日鉱泉―6:52 上倉山分岐―8:17 上倉山水―8:40 上倉山―8:45 大クロベ入口―8:55 大クロベ―9:02 大クロベ入口―10:51 御影森山〜11:05 発―11:45 前御影森山―13:21 中沢峰―14:17 水場  (テント泊)
10月25日(日) 6:25 水場―7:57 八形峰―9:02 葉山―10:06 追分―11:10 林道分岐―11:25 林道―11:45 愛染峠―13:04 朝日鉱泉=(愛染峠、黒鴨林道、黒鴨、鮎貝、手ノ子、R.113、荒川胎内IC 経由)=17:40 新潟
 朝日軍道は、朝日連峰南部の長井葉山から大朝日岳、以東岳を越え鶴岡鱒渕まで延びる、全長66kmに及ぶ山岳道路である。上杉家執政直江兼続が、会津移封後に飛び地となった領地の米沢と庄内を結ぶために開いた軍道である。飛び地になった領地の間にはかねてから領土争いを続けてきた最上義光がいることから、朝日連峰を通る修験の道を整備して、一年ほどで馬も通れる道が開かれたという。
 関ヶ原の戦いと同時に起こった慶長出羽合戦の際は、酒田城主志田修理義秀は、最上攻略に参戦していたが、関ヶ原の戦いにおける東軍勝利の知らせに、直江兼続を総大将とする上杉軍本隊は、米沢に撤退し、その結果最上領内に取り残されてしまう。そこで、志田軍は、11月のすでに冠雪した朝日軍道を通って、酒田に帰還したという。上杉軍は、関東出兵で上越国境を度々越えていたため、このような山岳地帯の行軍についての技術を集積していたのが、役に立ったものと思う。
 戦後に、上杉領地は、米沢に減らされてしまって、この朝日軍道の役目は終わってしまって廃道になってしまうが、現在でもその名残を見ることができる。以東岳から鶴岡へは豪雪地のゆえに消えて、残雪期の以東岳へのルートとして茶畑山から戸台山付近が歩かれているが、御影森山から以東岳の間は一般登山道として整備されて、朝日連峰縦走路のメインルートになっている。また、南端の葉山から御影森山の間も、登山道として整備されていたものの、最近は利用者も少なく藪にかえっていたものが、今回の天地人の放送によって、再整備の手が加えられた。

 今年の春に残雪の葉山に登り、八形峰まで進んでその先の縦走路を望み、歩いてみたいと興味を持った。インターネットで、朝日鉱泉から御影森山、葉山の周回を行ったという報告を見て、歩くつもりになった。日帰りで歩いたという記録もあるが、日も短くなっており、無理をしないでテント泊で歩くことにした。先頃の足の不調からも充分回復しておらず、歩く速度を上げられないこともある。
 新潟から朝日連峰は遠く、登山口に辿りつくのも大変である。今回の登山口の朝日鉱泉には、1993年9月に大朝日岳を登りに出かけた時以来であるが、アプローチの林道が悪かった覚えがある。少しでも早い時間に到着したいと思って早く家を出たが、国道から分かれて木川ダム付近になると、細い未舗装の道に変わった。日没も早まって、とっぷりと闇に包まれた中での車の運転になった。
 運転に草臥れてようやく朝日鉱泉に到着した。建物の脇を過ぎた先に登山者用駐車場がある。5台ほどのスペースで、1台の車が停められていたが、無人であった。登山の時期は過ぎているが、夏山や紅葉の盛りには路肩駐車の列が続くのであろう。
 明るくなってからの出発を予定し、ゆっくりと目を覚ました。周囲の谷間は紅葉の盛りになっていた。
 1泊のテント装備を詰め込んだザックは重く感じられた。足の具合も本調子ではなかったが、行程に余裕があるのでゆっくり歩けば大丈夫なはずであった。
 朝日鉱泉の建物の下の広場に出ると、谷奥に大朝日岳の山頂が姿を見せていた。坂を下りると、吊り橋に出て、朝日川を渡る。しばらくは谷沿いの歩きが続く。鳥原山への登山道の分岐を過ぎると、その先で御影森山への登山道が左手に分かれる。ここの標識には、「11444m上倉山 日本一クロベ」という新しい標識が取り付けられていた。
 対岸に渡り、石仏とお墓のある広場を過ぎると、尾根の急な登りが始まった。木の根を足場にする我慢の登りが続いた。傾斜が緩むと、美しい黄色に染まった周囲のブナ林に目をやる余裕も出てきた。御影森山までは、一般登山道として整備されているが、歩く登山者も少ないためか、荒れた所も無く、ふかふかの落ち葉を踏みながら歩くことができた。
 大朝日岳の山頂が、姿を現し、登るにつれて姿を変えていった。959m点を過ぎると、傾斜も緩み、やがて上倉山水の水場に到着した。広場になっており、かたわらのパイプから水が流れ出ていた。この一週間ほど雨は降っていないことを考えると、この水場は、涸れることが少なそうである。
 水場からはひと頑張りで上倉山に到着した。ヒメコマツの大木の脇に山頂標柱が立てられていた。標柱は、熊が爪とぎをしたのか、大きく削られていた。尾根上の通過点といった感じで地味な山頂と思ったが、帰宅後にGPSのログを見ると、三角点ピークは越えず、北の小ピークに山頂標識が置かれていたようである。山頂標識に安心して地図を確認しなかったのが誤りであった。
 緩やかに下っていくと、「もうすぐクロベ」という標識が右手をさして、刈り払い道が始まっていた。ザックをおろしてクロベをめざした。笹藪の中に刈り払い道が続いており、谷に向かって240m下ったところで、クロベの巨木が現れた。周辺はブナ林が広がっているので、クロベの緑の葉が目立っていた。「日本の巨木100選 朝日の大クロベ 周囲9.27m日本一」という標識が根元に置かれていた。幹が二つに分かれ、太い枝が横に延びている様は、力強さを感じさせていた。
 登山道に戻って御影森山に向かうと、前方に山頂が見えてきた。山頂から東に延びる尾根に上がれば、その後の登りはそう大したことはなさそうであった。御影森山の南斜面は、急激に落ち込み、岩場を名残の紅葉が彩りを添えていた。下からもザレた細尾根状になっているのが見えていたが、その通過は足元に注意すれば問題はなかった。単独行が下ってくるのとすれ違ったが、大朝日岳からの下山であろうか。
 灌木に囲まれた小広場になった御影森山に到着し、まずは展望を楽しむことにした。平岩山方面の下り口に進むと、鋭角的な山頂が素晴らしい大朝日岳が姿を現した。平岩山を経て大朝日岳に続く稜線を目で追うことができた。その昔、この稜線に朝日軍道が開かれたとは驚きである。大朝日岳に向かって進みたくなるが、これは今回の目標ではない。祝瓶山や大玉山も見えて、朝日連峰南部の展望台になっていた。
 南の下り口に進むと、前影森山が一段下に広がり、その奥に中沢峰の頭が見えていたが、その間には大きなギャップが隠されているようであった。台地状に広がる葉山は、遥か遠くにあった。静かな山歩きのために葉山を目指すのだが、山頂からの眺めで登頂の意欲をそそるのは、やはり大朝日岳の方である。今回のコースの核心部である再整備された葉山への朝日軍道に進む前に、腹ごしらえをした。
 御影森山からの下りは、笹藪の中の刈り払い道で、迷うことも無かったが、足元で刈り払われた笹の枝がぼきぼきと音を立てる状態であった。足元が反れて転倒すれば、笹の切り枝で怪我をする可能性があり、慎重に歩く必要があった。
 斜面は急であったが、カーブも交えながらの下りのため、特に問題なく一段下の台地に下りることができた。尾根を辿って少し登り返すと、前影森山の山頂に到着した。この山頂はハイ松に覆われて、背後を振り返ると、ピラミッド型をした御影森山と大朝日岳が並んで姿を見せていた。
 1423mピークは西を巻いて下りに移った。高度を下げるにつれ、灌木帯から矮小化したブナ林、通常の太さのブナ林に変わっていった。尾根沿いの下りであるが、ときおりカーブを交えながら道は続いており、古い山道の名残を思わせた。
 鞍部から中沢峰への登りは、足の止まりそうな急坂になった。朝日軍道の地名では杖切坂と呼ばれていたようだが、確かにストックを短く持つ必要があった。
 急坂の途中、単独行とすれ違ったが、時間的に考えると、葉山からやってきて御影森山を越して朝日鉱泉に下山し、一泊してから愛染峠経由で下山という行程であろうか。地元主催の朝日軍道ツアーでも、草岡から葉山に登り、御影森山を経て朝日鉱泉に下山するというコースで歩いたようだが、かなりの強行軍で、日没の早い今の時期では難しくなっている。
 足場の悪いザレ場を越えて山頂到着かと思ったが、山頂はまだ少し先であった。最後に急坂を越えると、中沢峰の肩のT字路に飛び出した。ザックを置いて登山道を右に辿ると、中沢峰の山頂に到着した。笹の刈り払いの中に三角点が頭を見せていた。その先の登山道は、祝瓶山荘へと続いている。祝瓶山荘方面からの登山道は歩いておらず、朝日連峰は知らない所が多い。
 分岐に戻り、先の様子をうかがった。一段下にはブナの原生林が広がり、葉の落ちた梢が白く光っている様が美しかった。鞍部の先は、焼野平ピークとなり、葉山は近づいてきたとはいえまだ遠い。
 うまくすれば、葉山まで進んで、葉山山荘で泊まれるかとも考えていたのだが、無理そうであった。足の具合も本調子でなく、無意識にかばっているのか、逆の足の筋肉に痛みを感じ始めていた。
 中沢峰から下ると、ブナ林の中の歩きになった。登山道の刈り払いもほとんど必要とされない古い道型を辿るようになった。カーブを交えながらの下りを続けた。中沢峰から焼野平ピークの間が、一番朝日軍道の名残が感じられた。
 坂を下って鞍部に到着して傾斜が緩んだところが水場であった。水場と書かれた字が消えかかった木の標識が地面に置いてあり、左手の笹藪の中に新しげなお地蔵様が置かれていた。背面を見ると、ここで亡くなられた東洋大学ワンゲル部員を慰霊したもののとのことであった。
 登山道右手には、テント四張り程が設営可能な横長の広場があった。焚火の跡もあり、登山道整備の際の前線基地になっていたようである。
 水場は、中沢峰側の崖下で、踏み跡は明瞭であったが、足場の悪いところもあって、泥の斜面を滑り落ちないように注意が必要であった。パイプが差し込まれており、水が流れ出ていた。この水場も涸れる心配はなさそうである。
 2時過ぎであったが、ここで泊まることにして、テントの設営を始めた。すでに日が陰って、急に肌寒く感じられてきた。
 周辺には、ブナの原生林が広がり、良い幕営地であった。朝日軍道の地名では、この付近に御殿御小屋平という地名が見られる。おそらくこの水場をあてにして、小屋が設けられていたのであろう。
 ビールを飲みながら早い夕食を取り終えると、薄暗くなってきた。話す相手もいないことから、寝袋に潜り込んでiPODの音楽を聴いて時間をつぶすことになった。数枚分を聞くと眠気にも襲われて、眠りについた。
 穏やかな夜であった。時折パラパラという音が聞こえたので雨かと思ったが、木の葉が落ちる音であった。
 充分に寝て、目が覚めた時は、空が白みかかる5時過ぎであった。まずは、お湯を沸かしてコーヒーの準備をした。バックミュージックは、いつものようにグールド演奏のゴールドベルク変奏曲。寝ぼけた頭に、ガスの燃焼音と合わさった音楽が流れていった。
 テントを撤収し、歩きの開始。ひと晩過ごしたテン場は、いつものように名残惜しい気持ちが湧いてくる。
 まずは、焼野平ピークへの登りが始まった。三角の頭が高く見えていたが、登山道は大きくジグザグを切りながら登っていき、順調に山頂下の巻き道に出ることができた。標高1150mで巻き道になったので、頂上までの標高差70mほどを楽することができた。
 緩やかに下っていって鞍部に出ると、カツラの純林が広がる谷間に出た。下生えが無いのは良いが、落ち葉で登山道が隠されて、登山道の先を知るのに、前方のマークを捜す必要があった。
 この先は、小さなピークの乗り越しが続いた。登山道周辺も矮小したブナ林が囲んでおり、見晴らしは利かなかった。
 次の目標は八形峰であったが、ひと登りして台地を抜けていく所が八形峰であった。最高点は左手の高まりであったが、藪に閉ざされており、踏み跡のようなものも無かった。春の残雪期に葉山から八形峰まで足を延ばして朝日連峰の大展望を楽しんだが、雪の無い時期には訪れても楽しみの無いピークであった。
 この先は、春の歩きで地形は頭に入っているが、登山道は必ずしもそのコースと一致していなかった。八形峰の先の1254.4mピークは、残雪期には山腹を巻いたが、夏道はその上を越していた。緩やかに下っていくと、池もある高層湿原が現れた。茶色に染まった湿原に白い霧が流れていた。朝は太陽が出ていたが、空を雲が覆うようになってきていた。その先の奥の院1237mピークは、北を巻いたが、沢に落ち込む斜面のトラバース部で、足元に注意が必要であった。
 葉山に近くなるにつれ、登山道も人の気配が強くなった感じがした。愛染峠との分岐に出て、今回の朝日軍道歩きは終わった。朝日軍道は、本来の役目を終えた後も、里に近い部分では、里人が奥山に山仕事で入るのに使われ続けてきたのではないだろうか。現在の林道が廃道化しても、山菜やキノコ採りに使われているのと同じに。
 ザックを置いて、葉山神社にお参りしていくことにした。湿原の縁を進んでいくと奥の院との分岐に出たが、展望も無いので奥の院は割愛することにした。
 葉山の二基並んだお堂にお参りし、その脇の避難小屋の中をのぞいた。天地人のマスコットのビニール人形が登山ノート脇に置かれており、窓ガラスには愛の兜の飾りが飾られていた。
 分岐に戻り、愛染峠への道に進んだ。灌木帯の中に切り開けれた道を歩いていくと、小湿原が現れ、「愛染峠5km、葉山1km」という標識が置かれていた。先はまだ長いようである。緩やかな下りが続いたが、進につれてブナ林が広がるようになった。紅葉の盛りは過ぎて、落ち葉が登山道を覆っていた。
 最初の目標地点は、高玉との分岐の追分であった。地形図では、そう遠くない距離で二本の道が分かれることになっているので、分岐を捜しながら歩いた。GPSにあらかじめ入力してあった分岐を過ぎてしまい、高玉に向かって下り始めた。美しいブナ林が広がって、歩いていても楽しい場所であったが、分岐を見落としたかと不安を覚えるようになった。
 ようやく分岐に出たが、東よりの分岐からは500mほど東に下った所であった。ここにははっきりした標柱が立てられているので、地図を見ないで道を辿っていれば迷うことはない。
 下った分を登り返すことになった。途中で横断する沢は、水場になっていた。1238.5m点の東の湿原マーク付近で、地形図の破線に戻った。
 この先は、三本楢をはじめ、ピークを巻いていく道が続いた。良く整備され、最近刈り払いがも行われていた。三本楢の山頂下のトラバース部では、登山道脇にひと登りしたところのガレ場から展望を楽しむことができるようであったが、山の眺めは閉ざされ、紅葉に彩られた谷間を霧が静かに流れていた。
 ヌルマタ沢源流部へは、三本の幅広の道が分かれたが、これは地元の人が使うマイタケ採りのための道のようである。
 三本楢を過ぎて沢を巻いたところで、トラバース道はさらに先に進むが、林道へのショートカット道が右に分かれる。楽をすることにして、この道に進んだ。尾根を越えると林道跡に出て、緩やかに下っていくと舗装道路に飛び出した。これは中止になった広域林道のなれの果てのようであった。車の走行にも問題のない道路を歩いていくと愛染峠に到着した。
 愛染峠の手前で合わさる黒鴨林道と、峠から朝日鉱泉に向かって下る林道は、ともに舗装されていた。峠はダートの広場になっており、一段上に避難小屋と愛染明王の祀られたお堂が置かれていた。伴走車を連れたマウンテンバイクの一団がおり、朝日鉱泉に向かって下っていった。
 最後の頑張りと思って、朝日鉱泉への林道に進んだが、谷間の下までカーブを連ねて下っていく道を見て、ザックを背負っての歩きは、足を痛めるだけと諦めた。ザックを藪の中にかくし、カメラだけを持って空身で歩きだした。
 林道脇は、紅葉の盛りになっており、写真撮影をしながらの歩きになった。林道は、途中から未舗装に変わったが、車の走行には問題はない状態であった。
 朝日鉱泉で車に乗り込み、さっそく峠にザックの回収のために戻った。
 愛染峠に戻ったところで、家へのコースを考えた。舗装された黒鴨林道にひかれて、この道を下ることにした。この道を通れば、新潟へはかなりの近道になる。黒鴨林道は、峠付近は舗装済みであったが、中間部からは荒れた未舗装の道に変わり、崖際の路肩に気を使う道が延々と続いた。近道はできたかもしれないが、二度とは通りたくない道であった。
 黒鴨の集落に下りると、林道入口に、朝日岳表登山口の石碑が置かれていたが、ここから入山する者はまずいないであろう。
 直前の山行報告に従って急遽出かけた朝日軍道歩きであったが、天候に恵まれ、今年最後の機会をうまく使うことができた。

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