長井葉山、八形峰、東黒森山、館山、西黒森山

長井葉山から八形峰
東黒森山、館山、西黒森山


【日時】 2009年4月18日(土)〜19日(日) 前夜発1泊2日 各日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 18日:晴 19日:晴

【山域】 朝日連峰
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 葉山・はやま・1237m・なし・山形県
 八形峰・はちがたみね・1289m・なし・山形県
【コース】 葉山森林公園より
【地形図 20万/5万/2.5万】 仙台、村上/赤湯、荒砥、朝日岳/長井、荒砥、羽前葉山
【ガイド】 山と高原地図「朝日連峰」(昭文社)
【温泉】 鷹の湯温泉 300円

【山域】 白鷹丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 東黒森山・ひがしくろもりやま・766.0m・三等三角点・山形県
【コース】 県民の森家族広場より
【地形図 20万/5万/2.5万】 仙台/荒砥/宮宿、白鷹山
【ガイド】 分県登山ガイド「山形県の山」(山と渓谷社)

【山域】 白鷹丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 館山・たてやま・549m・なし・山形県
【コース】 長松寺より
【地形図 20万/5万/2.5万】 仙台/荒砥/宮宿
【ガイド】 なし

【山域】 白鷹丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 西黒森山・西くろもりやま・846.9m・三等三角点・山形県
【コース】 馬牽高原より
【地形図 20万/5万/2.5万】 仙台/荒砥/宮宿
【ガイド】 なし

【時間記録】
4月17日(金) 20:50 新潟=(R.7、新発田、R.290、R.113、手ノ子、白兎 経由)=23:40 葉山森林公園  (車中泊)
4月18日(土) 6:17 葉山森林公園―6:22 葉山登山口―9:20 葉山山荘―10:44 八形峰〜11:08 発―12:02 葉山山荘―13:48 葉山登山口―13:57 葉山森林公園=(鮎貝、荒砥、畑谷 経由)=16:00 県民の森家族広場  (車中泊)
4月19日(日) 7:57 県民の森家族広場―8:28 東黒森山―8:52 県民の森家族広場=9:22 長松寺駐車場―9:36 館山―9:57 長松寺駐車場=10:07 馬牽高原入口―10:19 巡視路入口―10:35 テレビ中継基地―10:47 西黒森山―11:02 テレビ中継基地―11:13 巡視路入口―11:28 馬牽高原入口=(菅沢、R.348、宮内、R.113、新発田、R.7 経由)=16:30 新潟
 山形県には、葉山と呼ばれる山が幾つもあるが、長井葉山は、朝日連峰の末端の山である。上杉の家臣の直江兼続が属領の米沢と庄内を結ぶために切り開いたという朝日軍道は、この山が基点であったという。山頂は、これといったピークの無い台地状で、一隅には葉山神社が置かれている。八形峰は、葉山の北西隣に位置するピークである。夏道が、この山を経由して大朝日岳へ続いているが、通常は縦走の際の通過点として登られるようであるが、残雪期には、朝日連峰と飯豊連峰の遮るもののない展望が広がっている。

 山形市の西には、白鷹丘陵地と呼ばれる、白鷹山を中心とする火山群の火口丘が点在している。東黒森山は、その代表的山であり、山形県民の森からの登山道が整備されている。

 館山は、東黒森山から北西に下りる尾根の末端部にある小山である。山頂にはかつて、山形城の支城の畑谷城が置かれており、関ヶ原の合戦と同時に行われた出羽合戦の際にの直江兼続によって攻め落とされた。

 西黒森山は、畑谷の盆地を挟んで東黒森山と向かい合う山である。こちらの方が標高は高いものの、一般登山道は整備されていない。山頂近くにテレビ中継基地が設けられているので、その巡視路を利用して登ることができる。

 雪融けが急に進んでおり、残雪の山を目指すにしても、ある程度の標高まで登山道を使える山を狙うしかない。一方、長谷堂城址の記録をまとめようとしているが、直江兼続によって攻め落とされた畑谷城のことが気になっている。長谷堂城址と同様にどこにあるのかはっきりしなかったのだが、東黒森山の西隣の館山にあったことを知ることができた。とりあえずは、ピークハントを一山できるようなので、この一帯の山を登ることにして、一日目の残雪の山を考えることになった。
 結局、長井葉山を登り、時間が許すなら、八形峰まで足を延ばすことにした。長井葉山には、1997年7月27日に登っているが、山頂は台地上で、どこが山頂か判らないような、あまり面白くない山という印象を持った。しかし、残雪期ならば、大雪原の向こうに朝日連峰の展望が広がっているのではという期待も持ってよさそうである。残雪期でも、特に難所のなさそうな登りやすそうなコースに思えた。
 前夜発で、真夜中近くに登山口近くの白兎に到着したが、そこから森林公園への道が判らなかった。少し手前の道を山に向かったが、様子が違うということで引き返した。先に一回登っているが、記憶は無くなっている。結局、交差点部に森林公園の案内標識があり、正しい道に進むことができた。
 立派な広域農道を横断すると、その先が森林公園であった。公園から先は未舗装の道路に変わったため、公園の駐車場に車を停めて寝た。
 翌朝は、早立ちとして、明るくなったところで歩きだした。杉林の中を進むと、じきに左手に鳥居が現れ、ここが葉山の登山口であった。葉山参道と彫り込まれた石柱も置かれていた。信仰の山であることがうかがわれる。
 丸太の段々が整備された急坂を登ると、ひと息で尾根上に出た。左手には、石の祠が置かれていたが、森林公園の案内板によれば、八祥神の祠のようである。
 ここからは、尾根沿いの登りが続く。登山道は、溝状に掘られて、昔からの参拝者が歩いてきたことがうかがわれた。周囲は、ガスがかかって、ぼんやりと白い世界が広がっていた。
 登るにつれて、谷へと落ち込む斜面、続いて溝状に掘り込まれた登山道に残雪が現れるようになった。タムシバやイワウチワの花も咲き、新緑も広がりはじめていた。
 尾根が広がるようになると、残雪歩きが続くようになった。わかんを持ってきてはいたが、つぼ足で充分な状態であった。少し急な斜面になっても、キックステップが利く柔らかさなので、足を滑らす危険性は低かった。
 木立が切れたところで背後を振り返ると、白鷹山や蔵王連峰が雲海の上に頭を出していた。快晴の日になりそうで、山頂からの展望の期待が膨らんだ。
 坦々とした登りが続いたが、東に延びる尾根との合流点が近付くと、傾斜も少し増した。雪が少し柔らかいためか、足にも負担がかかるようで、疲労が足にたまってきていた。 ブナ林の中を登っていくと、尾根の合流点に到着した。ここからはもうひと頑張りで、山頂に到着する。ブナ林が美しい尾根を登っていくと、前方に、大きな雪庇が現れた。突破が難しいかと思ったが、尾根通しの部分だけ、なだらかな雪の斜面が続いていた。
 ここを突破すると、山頂台地のいっかくに到着した。展望も広がったが、山名同定の焦点があうまで、少し時間がかかった。左手遠くに、ピラミッド型の鋭い山頂を二つ並べた山が見えていた。磐梯山だということに気がついたが、吾妻連峰はその左右のどちらに見えるのかが判らなかった。結局、家に帰ってからカシミールで確認する必要があったが、左は吾妻連峰で、右は飯森山を中心とする山塊であった。
 山頂がどこかは判らない、広大な雪原の歩きになった。右手の木立ちの向こうに二階建ての建物が見えて、近づくと、避難小屋の葉山山荘であった。中をのぞくと、中はかたずいており、快適に泊れそうであった。小屋の後が、木の祠が二つ並んだ葉山神社であった。その前の窪地が湿原のようであったが、一面の雪原に変わっていた。
 時間も早かったので、八形峰を目指すことにした。雪原の向こうには朝日連峰が見えていたので、邪魔のない展望地を求めて先に進むことになった。その先の1237mピークが奥の院と呼ばれている。ピークの上に立つと、飯豊連峰の眺めが広がった。飯豊本山と大日岳が並び、その右手には北股岳から先へと、稜線が長々と続いていた。飯豊の展望台は各地にあるが、この葉山もその仲間入りである。
 時間に余裕があるので、予定通りに八形峰を目指すことにした。この先、なだらかな起伏が続き、八形峰がどこか判らなかったが、歩いていけばそのうち判るはずである。この広大な雪原歩きを見逃す手はない。
 1237mピークからは北に向かい、ゆるやかに北西に方向を変えていく。小ピークを越し、次の1254mピークは北側を巻いたが、沢が入り込んで、間違った尾根に引きずり込まれそうになった。地形は意外に複雑で、視界が閉ざされている場合は、コースを見定めるのが難しそうであった。
 1254mピークを越えると、ようやく八形峰が目の前に迫ってきた。台地状の山頂を持ち、東の縁に雪庇を張り出した。鞍部から50mほどの標高差を登ると、山頂台地のいっかくに到着した。祝瓶山のさえぎるもののない展望が広がり、山頂を目の前に写真撮影のために足が止まった。
 八形峰の山頂は、雪原になっており、ひと塊の笹藪が雪の上に出ていた。風が冷たいため、この笹藪の陰で休むことにしてザックを下ろした。休みの前に遠望を楽しんだ。大朝日岳が大きな姿を見せていた。八形峰から先に登山道は続いており、この先に歩いていきたいが、次の名前のあるピークの中沢峰までは日帰りでは無理である。大朝日岳の右手には小朝日岳が雪を落とした黒々とした姿を見せていた。その右手には、月山と村山葉山が並んで見えていた。
 山頂は台地状のため、一点に立って全周を眺めるわけにはいかない。西の縁に移動して、するどい山頂を持つ祝瓶山の眺めを楽しんだ。祝瓶山から大玉山を経て大朝日岳に至る稜線を良く眺めることができた。その反対方向へは、柴倉山へと長い稜線が横たわり、その向こうには飯豊連峰が広がっていた。
 八形峰は、縦走路上の目立たないピークと一般的には考えられているのだろうが、残雪期には朝日連峰と飯豊連峰の眺めを同時に楽しむことのできる、屈指の展望ピークであることが判った。
 展望を充分楽しんだ後に下りを開始した。晴天のために雪も緩み、足にも負担がかかるようになってきた。葉山まで戻れば、後は下り一方になる。かかとを残雪に食い込ませながら快調に下ることができた。二人連れが休んでいるのに出会ったが、登山者ではなく、鉄砲を持った熊撃ちであった。この日に葉山の登山者は私だけであった。
 新緑の尾根に戻り、イワウチワやタムシバの花を楽しみながら下りを続けた。
 車に戻り、翌日の県民の森方向での温泉を考えた。荒砥の北のふるさと森林公園に日帰り施設の鷹の湯温泉があったので、そこに向かった。施設内に到着すると、「天地人 狐越街道 長谷堂合戦へのみち」という旗が並んでいた。関係した土地土地でドラマの放映に盛り上がっているが、白鷹町も加わったようである。

 慶長5年(1600年)、天下取りの野望を露わにした家康は、会津の上杉景勝が軍備を増強していることを詰問するが、直江兼続はこれに対して、直江状と呼ばれる絶縁状で返答した。これを受け、家康は会津征伐を開始した。しかし、石田三成らが上方で挙兵したことにより、会津攻撃を中止し、上方に引き返した。
 上杉景勝は、家康との戦いの代わりに、かねてから庄内地方の覇権を巡って宿敵関係にあった最上義光を討つべく、直江兼続に軍勢を預け、米沢と庄内の二方面から、最上領侵攻を開始させる。直江兼続は、白鷹から狐越街道を進み、白鷹丘陵のいっかくにある畑谷城を包囲する。

 明日の予定は、この畑谷城址や戦場であった東黒森山を訪れる予定であったので、上杉景勝が進んだ道を辿ることになる。もっとも車を走らせる県道17号線は、「狐一巡街道」と名前が付けられており、旧道の狐越街道とは少し違っているようである。
 荒砥の町で食料を買い込み、県民の森に向かった。途中で、登る予定の西黒森山と畑谷城のある館山を通過したが、夜を過ごす関係でまず県民の森に向かった。東黒森山の登山口になる家族広場は、夜間は他に人はおらず、静かに夜を過ごすことができた。
 家族広場の前に、東黒森山の東登山口がある。杉林の中のつづら折りの登りが続いた。朝一番の仕事とあって、汗が噴き出てきた。前日の疲れもあるのかもしれない。
 雑木林の尾根に出てひと登りすると、東黒森山の山頂に到着した。山頂には、展望台が設けてある。さっそく上がってみた。白鷹山は目の前で、山頂のレーダードームを良く眺めることができた。大朝日岳や月山が見えていたが、前日の澄んだ空気とは違ってもやってぼんやりとしていた。
 西登山口に向かって下山した。木立の間から、これから向かう畑谷の集落を見下ろすことができた。西に向かって下った後に、東に方向を変え、最後は、東登山口近くに戻ることができた。
 前日走った道を戻り、坂を下っていくと畑谷の集落である。集落の入口からは、丘状の舘山を良く眺めることができた。麓には、長松寺があり、その脇に、畑谷城訪問者用の駐車場が設けられていた。
 入口の案内板には次のように書かれていた。

山辺町文化財指定 第七号
畑谷城址
 山形最上氏は、置賜、下長井地方に通じる要衝の地である畑谷にその武将江口氏を配置して、置賜との境を守らせていた。江口氏は、東黒森山の尾根続きの館山に、山頂を本丸として、各所に空堀を配した山城を築き、その任に当たった。館山山頂は、標高五百四十九米で、山形城を遥かに一望でき、山麓低地との比高は、約七十米である。南方は急斜面で、狐越街道白鷹方面を直視し、四方は山続きとなっている。
 慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いにあたり、上杉家直江山城守は、主力軍二万をひきいて、荒砥から進撃し、山形城を目指して途中の畑谷城に迫った。九月十三日江口道連(光清)は手勢を指揮して迎え撃ったが約二時の戦いで敗れて、自刃し落城した。山城の攻防戦としては、山形県下に於いて代表的なものである。
 最上家との義に殉じ、不利な山間の山城で散った江口公とその一党の事蹟には特筆されるものがある。墓地の奥地には、江口公のお墓と彼の義に生きた生涯を顕彰する碑が建てられている。

 ここには、二時の戦いとあるが、4時間ではなく、二日間の戦いで上杉軍の足止めをしたようである。

 駐車場の奥から始まる坂道の脇は縦堀が走っており、その下には、首洗池と標識が置かれた小さな水溜りがあった。坂を登っていくと、左に山頂への道が分かれた。左にトラバース気味に登っていった後に折り返してひと登りすると、舘山の山頂に到着した。
 山頂には、立派な「江口光晴公之碑」が置かれていた。脇には、「旅人よゆきて伝えよ最上のために戦い倒れし者を」と書かれた石碑も置かれていた。
 ここにも「畑谷城主 江口五兵衛光清 天地人」と書かれた旗が立てられていた。各地で、ゆかりの旗が立てられているが、ドラマでどれほど取り上げられるか、期待にそう結果になるかは判らない。
 山頂からは、東黒森山の左手に、山形市街地を望むことができた。撤退命令が出ていたのに反し、玉砕覚悟の戦いを行ったのは、どのような考えであったのだろうか。静かな山頂で、歴史に思いを馳せた。
 下りは、途中で、「内城・水場へ」と標識が立てられた道があったので、こちらを下った。荒れ気味で、最後は民家の裏手の竹林に下り立った。民家の庭を通らせてもらって車道に戻ることになった。
 駐車場に戻り、脇の長松寺をのぞいた。脇の一段高いところに、江口光晴公のお墓があった。その先の杉林に進むと、大きな縦堀が残っていた。畑谷城は、防備を調えていたようだが、東黒森山側の高台に上杉軍が陣取ったため、大きな被害を受けてしまったようである。
 続いて、西黒森山に向かった。東に登ったのなら、西にも登らないわけにはいかない。山の北側に回り込んだところから、麓に広がる馬牽高原への道が始まっている。入口に車を止めて歩きだした。畑の中の歩きがしばらく続いた。朝日連峰や月山の眺めが広がっていたが、展望は帰りのお楽しみにして先へと急いだ。
 畑の端からは未舗装の林道が続いていたが、わずか先で終点になった。山頂近くにあるテレビ中継基地への巡視路として整備されているようで、硬質ゴム板による階段が作られていた。杉林の中を進むと、中継基地へ続く電柱の列の下の刈り払いを絡みながらの登りになった。ひと登りしたところで、左に方向を変えると、尾根沿いの登りに変わった。雑木林の中のはっきりした道が続いていた。
 テレビ中継基地に到着すると、その先は、荒い刈り払い状態になった。軽い藪こぎ状態で、今の季節は問題なく歩けるが、夏草が茂る季節は、歩くのは難しくなるかもしれない。
 山頂台地に到着したところで左に方向を変えて進むと、刈り払われた小広場に出た。三角点も頭を出していた。地元山岳会のプレートが木に取り付けられていた。
 西黒森山の山頂からは、東黒森山と館山を良く眺めることができた。やはり、東黒森山側の小ピークを押さえられると、畑谷城の守りは難しくなりそうである。
 西黒森山を下って、この日の登山は終わりになった。最後に、長谷堂城攻めの際に直江兼続が本陣を置いたという菅沢山によっていくことにした。菅沢山は、長谷堂城の北に向かい合う丘であるが、現在ではすげさわの丘という分譲住宅地になって、登山の対象からは外れている。坂を登っていくと、本陣跡を示す看板が置かれていた。
 坂を下って長谷堂城址に向かうと、先回車を停めた空き地は、公園になっており、R.348沿いに駐車場が設けられていた。以前の空き地は、土塁状の土盛りがされて、堀まで作られていた。現在は工事中であるが、ドラマで舞台として登場する前までには水が張られるのだろうか。
 山の雑誌への投稿を考えて、昨年に天地人の舞台を訪れたが、ドラマの放送に合わせて、急遽整備が進んでおり、うっかりすると現実とは違ったことを書いてしまう危険性がある。
 葉山も朝日軍道の起点であり、今回は、直江兼続ゆかりの地の訪問ということになった。

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