諏訪峠

諏訪峠


【日時】 2008年12月23日(火) 日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 晴

【山域】 飯豊連峰周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 諏訪峠・すわとうげ・446m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/津川/津川
【コース】 行地より
【ガイド】 新潟のハイキング(新潟日報事業社)

【時間記録】 8:20 新潟=(R.49、三川 経由)=9:45 行地〜10:02 発―10:18 一里塚―10:33 分岐―10:41 中の茶屋―11:10 大ブナ〜11:20 発―11:27 林道―11:40 諏訪峠〜12:10 発―12:10 林道―12:28 大ブナ―12:48 中の茶屋―12:54 分岐―13:04 一里塚―13:17 行地=(往路を戻る)=14:40 新潟
 諏訪峠は、旧会津街道の一部で、参勤交代のために新発田や村上藩主が、また新潟奉行も通ったという。江戸時代寛文年間に会津藩による街道整備で石畳が敷き詰められ、現在では、この石畳は林道によって分断されてしまっているものの、史跡として一部復元整備されている。

 週末に二日歩いた後の火曜日の休日とあって、山歩きもさほどのりきではなかった。天気予報は曇り後雪か雨というものなので、天気が悪ければそのまま寝てもいようかと思ったが、朝になってみると晴れ間が広がっていた。となれば、山に行かないわけにはいかない。
 とりあえずの予定通りに、旧会津街道の諏訪峠に出かけることにした。諏訪峠へは、これまで4回登っているが、いずれも柳新田からである。初回を除けば、いずれも白髭山へのアプローチとして登っている。峠となれば、もう一方の登り口の行地から登っておきたい。
 諏訪峠は、スノーシュー歩きのコースとしても良いが、柳新田からとは違って、地図に道は記載されていない。雪の季節に歩こうとするならば、夏道を歩いて、GPSで記録しておく必要がある。
 白崎で国道49号線から分かれて、上赤谷に向かう。五十沢の三川温泉入口を過ぎて、新谷川を渡ったところが、行地への入口になる。行地川沿いに進むと、行地の集落に到着する。集落下部の三叉路に、中部北陸自然歩道の看板と、歴史の道殿様街道という標識が置かれている。
 殿様街道について、次のような説明が書かれていた。
 関ヶ原合戦(1600年)以降、東海道を始め、全国各地の主だった街道整備が進められ、会津街道は慶安2年(1649年)頃会津藩により、現在の会津若松市から新発田まで約23里(約92km)が整備されました。
 会津街道は、新潟県側では「会津街道」、福島県側では「越後街道」と呼ばれましたが、地元の東蒲原郡では、新発田藩や村上藩のお殿様が参勤交代に利用していたことから「殿様街道」と呼んできました。当時は、阿賀野川の水運とともに塩、物資や日本海沿岸の文化等を会津へ導入した重要な街道でありました。また、この街道は全国的にも数少ない、石畳が残る海道として貴重な文化財でもあります。
 石畳は、寛文7年(1667年)一里塚を設置する時、会津藩により、越後街道のうち比較的湿地の多い、す諏訪峠の前後約7kmの悪路に石を敷き街道整備が行われたものです。
 家に挟まれた生活道路を進むと、鹿島神社のお宮があり、その上で、大きく迂回してきた車道に飛び出した。横断した先から、旧街道が始まっていた。帰りにこの車道を歩いてみると、カーブ地点に大きな路肩スペースがあり、雪の季節でも、車を置けそうであった。スノーシュー歩きを行うなら、上の登山口から歩き出した方が良さそうである。
 はじめは林道跡と思われる幅広の道が続いた。廃田跡を抜けていくと、水道施設があり、その先から、普通の山道に変わった。ひと歩きで、一里塚が現れた。道の両側に二つが頭を持ち上げていた。一里塚の説明として、以下のように書かれていた。 一里塚
 徳川家康は、慶長9年(1604年)各地の街道の両側に旅人の安息と便利を与えるために一里塚を築造させました。
 会津藩でも幕府から一里塚を造るよう命を受け、寛文7年(1667年)会津街道に一里(約4km)ごとに塚を造らせ、「えのき」を植えさせました当時の一里塚は、旅人の工程や駄賃などの目安となり、休憩所として大変貴重な施設でした。また、「えのき」については、家康が部下に「いいき」を植えろと言ったところ、「いいき」(良い木)を「えのき」に聞き違えたものと言われています。
 現在、東蒲原郡内に残る一里塚は、福取・柳新田・行地・それと一里石のある栄山を含めて4ヶ所と極めて貴重な資料であります。
 柳新田から諏訪峠への途中、一里塚が残されているのを見ている。ただの土盛りのように見えるが、長い年月が経っても残されているのは不思議である。
 旧街道ということで、緩やかな登りが続いた。正面に尾根が迫ると、トラバース道に変わった。
 異例というべき暖かい日が続いて、積雪は無かったが、それでもうっすらと雪が道の表面を覆ってきた。
 分岐になって、ここは右の道に進む。送電線の巡視路なのか、左の道の方がはっきりしているので注意が必要である。雪の季節にこのコースを忠実に辿るのは、結構難しそうである。
 中の茶屋という看板が現れて、ひと休みしながら読むことになった。
中の茶屋
諏訪峠の7合目にあたるこの場所では、ふもとの人が「中の茶屋」を開き商売を行っていたと言われています。「中の茶屋」は、諏訪峠頂上の「峠の茶屋」と違い、冬になると里へ降り年中商売をしていなかったと言われています。
 平成8年に新潟県と三川村で実施した「殿様街道」の調査では、残念なことに「中の茶屋」の形跡等は発見できませんでした。しかし、このことからも、茶屋では、ふもとで作った団子や簡単なものを販売し、ちょっと一服する簡単な施設であったことが考えられます。
 時折カーブを交えながら、次第に高度を上げていった。旅人の水場になっていたかもしれない湧水を通過すると、その先で、二本並んだ大ぶなが現れた。そこにあった説明板には以下のように書かれていた。
 江戸幕府が大名統制のために諸大名を隔年交代で江戸に詰めさせた制度が参勤交代で、寛永12年(1635年)、将軍徳川家光の時に制度化され、当時、新発田・村上藩主がこの道を利用したので殿様街道といわれ、このブナの木あたりで休憩されたといわれている。文化11年(1814年)十返舎一九が、嘉永5年(1852年)には、幕府末の志士吉田松陰などもこの道を旅している。
 ここからは、飯豊連峰方面の眺めが広がっていた。蒜場山と棒掛山が並んだ奥に大日山が姿を見せていたが、山頂部は雪雲に覆われていた。昔の旅人は、故郷で見た飯豊の眺めに別れを告げたのであろうか。
 その先は、雪崩のために削られたのか、道が細いところが現れた。夏道として歩くのに問題はないが、雪の季節は難しくなるかもしれない。
 再び幅広になった道を進むと、林道に飛び出した。諏訪峠を通過している送電線の整備のために開かれた林道なのかもしれない。
 刈り払われた台地を進んでいくと、峠の脇に立つテレビ中継基地も見えてきた。その手前で、石畳という看板が現れた。登山道には確かに石が埋め込まれていたが、草も茂っており、気が付きにくい状態になっていた。また、石畳といっても、車が通行できるようにきれいに嵌め込まれているわけでもなく、ぬかるんだ場所を、石の上を踏んで通過できるようにしたといったもののようである。
 お馴染みの諏訪峠に、逆の方向から到着した。峠は、やはり双方向から歩いておく必要がある。峠には、吉田松陰歌碑が置かれているが、漢詩のため、読めない。
 冬の季節は、津川方面には御神楽岳の眺めが広がっているのだが、峠の両脇のアンテナ施設脇まで登ってはみたが、木立に遮られて、展望はあまり良くなかった。雪の季節には、豊富な積雪量に助けられて、高い位置から眺めているのかもしれない。
 峠を吹き抜ける風も冷たかったため、少し下で休みをとった。峠にもあずまやが設けられているのだが、壁がないため、役に立たない。
 下山は、歩きやすい道のため、楽であった。車に戻るのと同時に土砂降りの雨になった。途中で買い物をして車に戻ると、フロントガラスが雪に覆われていた。山中では、青空のもとの飯豊の展望を楽しむことできたので、良い時に山歩きを楽しんだことになる。

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