高山、浦佐城址

高山、浦佐城址


【日時】 2008年12月21日(日) 日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 晴

【山域】 魚沼丘陵 【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 高山・たかやま・483m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/小千谷/小出
【コース】 西山三十三番観音巡りより
【ガイド】 なし

【山域】 魚沼丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 浦佐城址・うらさじょうし・300m・なし・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/小千谷/小出
【コース】 薬師橋手前より
【ガイド】 なし

【時間記録】 7:10 新潟=(関越自動車道、小出IC、R.17、浦佐 経由)=9:00 薬師橋〜9:15 発―9:54 四番観音手前の沢別れ―10:28 高山入口(第十六番観音)〜10:31 発―10:54 高山〜11:17 発―11:34 高山入口(第十六番観音)―12:30 薬師橋=12:33 浦佐城址登山口―12:58 浦佐城址―13:19 浦佐城址登山口=(往路を戻る)=15:30 新潟
 高山は、魚沼川左岸の丘陵地にあり、浦佐の町の背後の山である。山頂には、晋光寺の境内にある白山神社の奥の院の石碑が置かれ、西山三十三番観音巡りのコース最上部から道が続いている。

 浦佐城は浦沢城とも呼ばれ、応永二十八年(1421)に大関氏によって築城された山城である。三国街道と魚野川舟運を監視する重要な拠点であったため、戦国時代には上杉氏の出城としての役割を担っていた。謙信亡き後の御館の乱の際には、景虎援護のために攻め入った北条軍を撃退している。

 浦佐の西山三十三番観音巡りコースは以前から気になっていたが、コースがはっきりしなかった。中越方面で軽い山歩きを考えていくうちに、このコースが思い浮かんだ。インターネットで調べてみると、コース最上部から高山まで道があることが判った。やはり歩くなら、西山三十三番観音巡りよりはピークを踏みたい。ピークハントを楽しみに出かけた。
 小出で高速を下りて浦佐に向かう。浦佐の町の手前で上越線を渡り、町中を進む。晋光寺の下を通過し、Y字状に折り返して、山の手に進む。人家が途切れて畑が現れると、左手の山に向かって、丸太の段々が設けられた山道が始まっていた。標識は無いが、これがインターネットで見かけた浦佐城址への道のようであった。高山から下山した後に、寄ることにして先に進んだ。
 その先で薬師橋を渡るとT字路になった。沢の上流方面には、冬季通行止めの柵が置かれていたが、すぐ先の堰堤下までしか車は進めないので、わざわざ冬季閉鎖と表示する必要もない。橋のたもとの路肩に車を止めた。
 西山三十三番観音巡りコースは、「毘沙門堂裸押合い祭り」のホームページに出ている案内マップに観音像の置き場所が書かれており、これをプリントアウトしてきて役にたった。
 すぐ下が、裸祭りで有名な毘沙門堂のある晋光寺の境内であるが、帰りに見物することにして、まずは山に向かった。
 沢には砂防ダムの堰堤がかかり、その下は公園広場になっていた。堰堤を過ぎると、山道に変わった。最初に現れるのは「八兵ノ地蔵」である。路肩の斜面に嵌め込まれた円形のコンクリート管の中に置かれていた。
 三十三観音はなかなか現れないまま、谷の奥に進んでいった。左岸沿いの道が続いたが、ようやく現れた一番観音は右岸に置かれていた。沢をまたぎ越して、対岸の石仏にお参りした。左岸に戻りさらに沢沿いに進んだ。二番観音は少し高みにあり、下から見上げたところで先に進んだ。
 ここからは、沢の中の歩きが続いた。水量もそれなりにあり、普通の登山靴だと、足を濡らすことになってしまう。長靴を履いているため、足元を気にすることもなく歩くことができた。両脇から岩が迫ってくるような細いところもあり、道を間違っていないか不安も覚えるようになってきたが、三番観音が左手上部の崖に現れて、ほっとひと息つくことができた。
 沢沿いの歩きは、四番観音下で終わり、左手の尾根に上がる。ここには、はっきりした標識が置かれているので、見落とすこともないであろう。ひと登りで四番観音に出るが、小広場になっており、休むのに良い場所になっていた。
 しっかりした山道を歩いていくと、緩やかな下りになって、水のほとんど無くなった沢を横断した。ここには五番観音が置かれていた。杉林の登りになるが、坂の途中に短い間隔で石仏が現れてきた。ひとつずつ写真を撮りながら歩いたため、のんびりペースになった。
 案内図では、瞑想の森というらしい杉林の中の歩きが続いた。下生えも刈られ、明るい感じになっていた。少し下った台地は、春にはかたくりの群生地になるようである。
 水平に続く道から分かれてひと登りすると、十六番観音の置かれた広場に到着した。展望広場になっており、魚沼平野を見下ろし、越後駒ヶ岳と八海山が正面に大きく広がる眺めが広がっていた。すばらしい展望地であった。広場からは、尾根沿いに下山に使う登山道が下っていた。
 広場のかたわらには、「高山(白山神社奥社)」という標柱が立てられて、山道が始まっていた。ここまでとは違って、藪っぽい道であった。杉林から、尾根に挟まれた窪地に出ると、池まではいかない水たまりが現れた。その縁を通って、窪地の中を前方のピークめざして進んだ。笹もうるさくなったが、足元の踏み跡はしっかりしていた。この道は、一般登山者には知られていないことから、年一回の礼拝祭の際に地元の人間だけに歩かれているのかもしれない。
 ピークに登りついて山頂到着かと思ったが、まだ先であった。尾根が痩せてきたぶん、道も明瞭になってきた。最後に急坂が現れたが、藪もここでは手がかりの助けになった。
 高山の山頂は狭く、白山と彫られた石碑と台座で、ほぼ満杯になっていた。台座に腰をおろし、大休止にした。越後駒ヶ岳と八海山が大きく、その後ろには中ノ岳の山頂も姿を見せていた。毛猛山塊や守門岳も白い姿を見せていた。巻機山や谷川連峰の展望も開けていたが、冬至間近で太陽が低いため、逆光になっていた。魚沼平野に流れる魚野川も長々と続いていた。12月末とは思えない穏やかな陽気の中で、風景を楽しむことができた。ただ、一般には、この風景は11月中旬のものといって良いであろう。
 藪掴みで急坂を下り、西山三十三番観音巡りのコースに戻った。尾根沿いの下りは、つる根道と呼ばれているようである。しっかり整備された道が続いていた。登山道の脇に小広場が置かれて、観音像が祀られていた。
 尾根道の途中には、何か所もの展望地が開けていた。沢沿いの道を避けて、この尾根だけを往復するのも良いであろうが、その時には、観音像の置かれた広場が良い休憩地になる。
 新幹線の浦佐駅を目の前に見下ろす広場に出ると、晋光寺への最後の下りになった。後日、新幹線で浦佐駅を通過する際に良く見ると、この展望地を見分けることもできた。 最後には、墓地の脇から晋光寺の境内に下り立った。境内にも三十番から三十三番観音が置かれており、それを捜す必要があった。有名な毘沙門堂は、雪囲いされていた。
 高山は、登山道がある山として、ひさびさのヒット作といって良い。
 車をすぐ近くの浦佐城の登山口に移動させた。浦佐城址は、10月25日に行われた「にいがた狼煙プロジェクト」に参加している。当日の写真を見ると、登山口には、幟が立てられていたようであるが、すでに撤去されており、標識のようなものは無くなっていた。地図を見ても、どこが城跡か判らなかったが、歩けば判るはずであった。
 杉林の中から、ひと登りで尾根沿いの道になった。曲輪跡のような台地に出ると、瀬戸の狐像が奉納されているお稲荷様の石の祠が現れた。その先は、土塁状の崖になっていた。すぐ上が本丸のようであったが、下を大きく回り込む必要があった。かなり大規模な土木工事が行われた山城のようであった。本丸跡と思われる台地に出たが、標識のようなものは見当たらなかった。ただ、ドラム管状の中で火を起こした跡があり、ここが狼煙を上げた場所と判り、本丸到着と判断した。ここからも、越後駒ヶ岳と八海山の眺めが広がっていた。
 「にいがた狼煙プロジェクト」は、「持続的な里山の保全や歴史文化の再生」を目的としているようである。その参加リストを見ると、知られていない山城が多く含まれている。地元復興を目的とするならば、登山道の状況をもう少し詳しく教えてもらいたいものである。
 高山と浦佐城址といった二つの展望ピークを知ることができ、満足して家路についた。

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