白馬岳、春日山城址、鮫ヶ尾城址

白馬岳
春日山城址、鮫ヶ尾城址


【日時】 2008年8月1日(金)〜4日(土) 前夜発2泊3日、日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 1日:晴れ 2日:晴れ 3日:晴れ 4日:雨

【山域】 後立山連峰
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 白馬岳・しろうまだけ・2932.2m・一等三角点本点・長野県、富山県
 杓子岳・しゃくしだけ・2812m・なし・長野県、富山県
 鑓ヶ岳・やりがたけ・2903.1m・三等三角点・長野県、富山県
【地形図 20万/5万/2.5万】 富山/白馬岳/白馬岳、白馬町
【コース】 猿倉より大雪渓を登り、鑓温泉経由で下山
【ガイド】 アルペンガイド「立山・剣・白馬岳」(山と渓谷社)、白馬岳を歩く(山と渓谷社)、花の山旅白馬岳(山と渓谷社)、山と高原地図「白馬岳」(昭文社)
【温泉】 鑓温泉 300円(石鹸不可)、こびなたの湯 500円

【山域】 高田周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 春日山・かすがやま・160m・なし・新潟県
【コース】 春日神社より
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/高田西部/高田西部
【ガイド】 なし

【山域】 南葉山塊周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 城山・しろやま(鮫ヶ尾城趾・さめがおじょうし)・190m・なし・新潟県
【コース】 斐太神社より
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/高田西部/重倉山
【ガイド】 新潟県ふるさとの散歩道(新潟県観光協会)

【時間記録】 7月31日(木) 20:30 新潟=(北陸自動車道、糸魚川IC、R.148、白馬 経由)
8月1日(金) =0:30 猿倉  (車中泊)
 5:05 猿倉―5:19 鑓温泉分岐―6:15 白馬尻小屋―7:55 雪渓上部―11:05 村営小屋テン場  (テント泊)
8月2日(土) 6:30 村営小屋テン場―7:52 杓子岳〜8:05 発―9:21 鑓ヶ岳〜9:27 発―9:50 稜線分岐―10:25 大出原―12:10 鑓温泉  (テント泊)
8月3日(日) 6:30 鑓温泉―8:18 小日向のコル―10:00 鑓温泉分岐―10:12 猿倉=15:00 黒菱平  (車中泊)
8月4日(月) 6:00 黒菱平=(R.148、糸魚川IC、北陸自動車道、上越IC 経由)=10:06 春日山城謙信像下―10:27 本丸―11:04 春日山城謙信像下=12:13 斐太県民休養地入口駐車場―12:34 鮫ヶ尾城趾―13:01 斐太県民休養地入口駐車場=(上越IC、北陸自動車道、西山IC、R.116 経由)=16:30 新潟
 白馬岳は、夏にも残る大雪渓と高山植物の豊富さによって、北アルプスでも槍・穂高岳と並んで人気のある山になっている。白馬岳の登山コースとしては、猿倉からの大雪渓を登り、白馬三山に数えられる杓子岳と鑓ヶ岳を越して鑓温泉経由で下山するコースが、変化に富んでいることから人気が高い。

 春日山は、上杉謙信の居城が置かれていたことで知られている。標高は低く、険しい地形も持たないが、大規模な遺構が広がっている。一般観光客は、中腹の春日神社と、その入り口に立つ上杉謙信の銅像を見て終わりとなるが、遊歩道が整備されて山中を散策できる。

 鮫ヶ尾城趾は、新井の北西部の南葉山塊の山裾にあり、地図には城山と記されている。鮫ヶ尾城趾は、上杉謙信没後の相続争いの御舘の乱で、景虎が亡くなったことでも知られている。

 例年8月はじめに取る夏季休暇で、どこの山に登るか迷った。南アルプスにも心が引かれたが、ガソリン値上げのために遠出する気がなくなっている。比較的近い北アルプスの中で、最近歩いていないコースを考えていったところ、白馬岳の大雪渓コースを思いついた。
 登山を始めた年に、大雪渓を登って白馬山荘に泊まり、鑓温泉経由で下山した。初めての北アルプスに、山小屋泊まりのうえに、二日目は悪天候のためにほうほうの体での下山になった。風景も充分に楽しんだともいえない。その後、白馬岳には、毎年のように登っているが、大雪渓の混雑を敬遠して、このコースは歩いていなかった。金曜日に休みをとったので、週末の混雑は回避できるはずであった。
 仕事を終えてから、急いで出発した。白馬までは慣れた道である。猿倉までの林道は、観光バスの進入禁止になっているが、舗装もされており、普通乗用車なら擦れ違いにも問題の無い道路である。猿倉の駐車場が満杯の際には、白馬の町外れの駐車場からバスを利用することになる。平日の夜中とあって、半分ほどは空いていた。それでも、朝になってみると、三分の二ほどはうまっており、時間が遅くなれば、満杯になりそうであった。
 駐車場から見る谷奥には、白みはじめた白馬の稜線が広がっていた。あそこまで登るとなると、かなりの頑張りが必要ということで、気を引き締めた。ひさしぶりのテント泊装備は、ずっしりと重かった。1泊と2泊では、食料の重さがかなり違ってくる。
 猿倉山荘で、登山届けを提出した。係り員がいて、届出の書類に目を通していた。歩き出そうとする登山者は少なく、静かな雰囲気がただよっていた。
 登山道に足を踏み入れてひと登りすると、林道に飛び出して、この後しばらくはこれを辿ることになる。すぐに鑓温泉への登山道が左に分かれる。谷奥へと長く続く林道の歩きを頑張ることになった。
 林道終点から登山道に入るが、雪渓見物のハイカーが訪れるためであろうか、木道も敷かれて良く整備されていた。「おつかれさん!ようこそ大雪渓」と書かれた大岩が現れると、白馬尻小屋に到着した。
 白馬尻小屋前のベンチ周辺には、ここまでとは違って、大勢の登山者で賑わっていた。暗いうちから歩き出した者が多かったのだろう。
 雪渓は、小屋周辺は融けており、しばらくは夏道を登る必要があった。雪渓の末端で、六爪アイゼンを履いた。白馬の大雪渓は、傾斜も緩く滑落の心配もなく、スプーンカットもできている。登るぶんにはアイゼンはいらないくらいだが、大荷物を背負っていて足が滑ると体力の消耗が大きくなる。アイゼンを履いて雪渓の上に立つと、残雪の硬さもほどほどで歩きやすい状態であった。
 以前は、レンタルの四爪アイゼンを着けた者が多かったが、ツアー団体の装備を見ると、ヘルメットに六爪アイゼンであった。装備が充分であることは良いが、団体で列を作って登ること自体が危険な行為のように思える。雪渓の上には大小の岩が転がっており、見た目の美しさとはうらはらに危険地帯であることは確かなようである。幸い、青空が広がっており、視界が開けているのは安全面の上でも良かった。
 団体をひとつ追い越して、雪渓の登りは、できるだけ急いだ。青空を背景に稜線が手に届くような距離に見えていたが、距離感がなくなっているようであった。
 雪渓の末端近くなると、左手の杓子岳側の斜面から細かい砂利が音を立てて流れ落ちてきていた。落石の危険性が感じられた。
 大雪渓の上端でアイゼンを外して、夏道に上がった。ここまでのアイゼン歩行で歩き方が違ってきており、ザレ場で足元が不安定なこともあり、おぼつかない歩きがしばらく続いた。
 雪渓から流れる水を飲んでひと息いれた。葱平に出ると、お花畑が広がるようになった。ハクサンフウロ、ミヤマクワガタ、シナノキンバイ、ミヤマキンポウゲ、イワオウギ、カンチコウゾリン、イワベンケイ、シロウマアカバナ、クルマユリ、シロウマアサツキ、タカネシュロソウ、ミソガワソウなどの花が次から次に現れて楽しませてくれた。
 登りの傾斜はきつくて体力的には大変であったが、楽しめる登りであった。前回の記憶はまったくないので、登りに専念する必要もあったが、テン場への到着時間を後から考えると、花の観察にもっと時間をとっても良かったかもしれない。
 杓子岳の北斜面に聳える天狗菱の岩峰は、登るに連れて次第に姿を変えていき、最後には、その向こうに杓子岳の山頂も姿を見せてきた。
 稜線から広がる雪渓の下に出たところで、腹もすいてひと休みになった。大雪渓を見下ろすと、登山者の列が続いているのが見えた。雪融け後の斜面が、シナノキンバイとミヤマキンポウゲのお花畑で、黄色く染まっているのは見事であった。ウルップソウも咲き残りを見ることができた。
 傾斜も緩やかになって、高みに村営小屋も見えるようになった。お花畑を楽しみながら、最後の登りを頑張った。ここのところ、大雪渓を登ってくる登山者を、ビールを飲みながら見下ろすのが常であったが、自分が登るとなるとやはり疲れの色も濃い状態での到着になった。
 テン場に入ると、時間も早いこともあって、まだがら空きであった。それでも夕方までには満杯になるはずなので、奥の静かな場所にテントを張った。
 昼になっていたので、白馬山荘の食堂で昼食をとることにして、カメラ一式を持って出かけた。テン場の脇のお花畑を通って稜線に出ると、周囲の展望が広がる。白馬岳までは、もうひと頑張りする必要がある。下から登ってきた登山者は、一様に疲労の色が濃い。登るに連れて、背後に明日歩くことになる杓子岳と鑓ヶ岳に眺めが広がった。見慣れた風景であるが、素晴らしい眺めである。
 白馬山荘のレストランの夕食は、特別料理が食べられるとのことであったが、昼食は牛丼があるだけであった。もっとも特別料理があっても、高いので注文しないであろうけど。生ビールもたのんで、山頂とは思えない昼食になった。
 すっかり酔ってしまい、白馬岳の山頂まで登るのも、息が切れて辛い状態になってしまった。山頂一帯は、いつもながら大勢の登山者で賑わっていた。場合によっては清水岳方面へ足を延ばそうかと思っていたが、旭岳下に急斜面の雪渓のトラバースがあるのを見て、あっさりとやめて、稜線の花の写真撮影に専念することにした。ミヤマアケボノソウの花が見つかったのは収穫であった。ミヤマシオガマやタカネツメクサ、イワツメクサ、チシマギキョウの群落も見事であった。
 今回は、時間の余裕もあると思って、文庫本も持ってきていた。iPODで音楽を聴きながら、本を読んでいるうちに夜になった。テン場も余裕はあるものの、ほぼ埋った状態になっていた。
 夕飯も終えたとところで、日没をみるために、丸山の上に登った。雲の切れ間から、剱岳がシルエットになって空に浮かんでいた。
 二日目も、鑓温泉までと歩行時間は短いので、ゆっくりとしてから出発した。丸山に登ると、立山・剱岳と毛勝三山の眺めが広がった。少し遠いが槍・穂高山塊も望むことができた。杓子岳から鑓ヶ岳に至る登山道も手にとるように見えていた。先回といっても二十年まであるが、風雨で展望も閉ざされたなか、緊張しながら歩いた道であるが、今回は展望も開けて、プロムナードコースになっていた。
 東の空には、高妻山や妙高連山が山頂を見せていた。丸山からは、一旦大きく下った後に登り返しになる。風が強く、日が高くなっても雨具の上着を着続ける必要があった。
 杓子岳は、山頂を通らないトラバース道もあり、先回は、余裕もないことから、この道を使った。今回は、当然、杓子岳の山頂を目指すことになった。ガレ場の中の急な登りで、息が切れた。
 ようやく杓子岳の山頂に登りつくと、ここまでの苦労を忘れ去るような展望が広がっていた。八ヶ岳、富士山、南アルプスが姿を見せていた。鑓ヶ岳の肩からは、鹿島槍の双耳峰も眺めることができた。大雪渓も眼下に広がり、登山者の列が長く続いていた。週末とあって混みあっているようであった。
 鑓ヶ岳へは、一旦ガレ場を下った後に、大きな登り返しになる。標高差200mなので、縦走路ではこれくらいの標高差は覚悟する必要がある。標高差が少なければ、それは目立たない山ということになってしまう。
 ジグザグを切っていく急斜面で、途中で傾斜が揺るんだところで、ひと休みになった。先を歩いていた団体に追いついてしまい、間を開ける必要があった。休む間に斜面を見ると、ミネウスユキソウやミヤマアズマギクのきれいなお花畑が広がっていた。そのまま歩き続けていれば、このお花畑を見落とすところであった。
 ようやく鑓ヶ岳の山頂に到着すると、ガスがかかりはじめてきた。なだらかな稜線上に建つ天狗山荘の写真を撮った後に、展望は閉ざされてしまった。風も冷たいため、休みもほどほどにして、先に進むことにした。大出原への下降に入れば、風も収まるはずであった。
 ガレ場を下って、幅広尾根を進むと、鑓温泉への道が分かれた。下降を開始すると、直に風も止んで、Tシャツだけになることができた。子供も含む団体が登ってきたが、稜線に登ってからの歩きには苦労したのではないだろか。
 傾斜が緩んで谷が広がると、大出原に到着した。白馬連峰でもお花畑が素晴らしいことで知られているが、ハクサンコザクラとハクサンイチゲ、ミヤマキンバイが花の絨毯を作っていた。稜線のガスもあがって、残雪に覆われた山の斜面の眺めも広がっていた。美しい風景でのんびりしたい所であったが、団体が休んでおり、ここで追い抜いておく必要があった。花の写真を撮りながら先に進んだ。
 お花畑が尽きて潅木帯の中の道になると、岩場の通過が現れる。カメラとストックを仕舞いこんだ。岩場のトラバースであるが、水が流れており、滑りやすかった。鎖を掴んで慎重に通過した。軽装なら、足を滑らしても、鎖を握っていれば問題はないだろうが、大型ザックでは致命的な事故になる。数回岩場の通過を終えると、雪渓に覆われた谷間に出た。すぐ下に、鑓温泉の建物も見えていた。雪渓は、すでに大きく穴が開いて通過はできなくなっており、脇の夏道を辿ることになった。
 鑓温泉のテン場は、小屋の下の斜面に設けられていた。時間が早いために数張りしかなかったが、土曜日とあって、そこそこに混み合うはずであった。
 テントを設営して、さっそく楽しみの露天風呂に向かった。先回は、そのまま通過してしまい、温泉には入らなかった。浴槽は広く、溢れたお湯が勢い良く流れ出ていた。中に入ると、熱い湯であった。日焼けした腕が痛かった。後から入ってきた登山者も、熱くて入れないという声が多くあがっていた。源泉かけ流しの湯よりも、水で薄めた温泉の方がありがたいと思う者が多かったようである。湯船の中よりも、脇で涼んでいる者の方が多かった。この温泉は、下のテン場から丸見えであった。建前は、男女混浴とのことであったが、夜の女性専用時間でなければ、入ることは難しい状態であった。ヌーディスト村よろしく、しばらく裸の時間を楽しんだ。
 昼食は、食堂でカレーを食べた。今回の山行では、食料は簡単にして、山小屋での一食をあてにしていた。
 夕方までは、時間もあったので、昼寝と読書で過した。夜に、再度風呂に入ってから寝た。温泉付きのテント泊というのも良いものである。
 翌朝は、猿倉に下山するだけなので、ゆっくり起きるつもりであったが、周りの物音に目が覚めてしまった。朝風呂ということで温泉に向かうと、満員状態で、風呂の中からご来光を待っていた。ひと風呂あびてもまだ太陽が昇らなかったので、テントに戻って、そこでカメラ片手に待った。
 朝食をゆっくりとってから、出発の準備を整えた。歩き出そうとすると、団体が先に出てしまった。少し待って、間を開けたが、すぐ下の雪渓の下降で追いついてしまった。雪も硬く、踏み跡以外のところでは、滑る可能性が高いため、後ろについて歩くことになった。団体が遅いのは仕方がないにしても、トップのリーダーが脇に出てカメラを構え、その度に、一同が足を止めてポーズをとるのには頭にきた。20人以上の団体であるが、先頭のリーダーしか引率者はいないようであった。その先の、もう一本の雪渓は登りであったので、脇に出て一気に追い抜いた。
 その先は、谷を巻いていく、長いトラバース道が続く。小屋の掲示に落石沢に注意と書いてあった。それらしい岩で埋った沢を越えると、その先で、ヘルメット姿のスタッフが登山道を見守っていた。どうやら、上部で崩壊が生じて落石の危険性が高まっているようである。
 その先で、杓子沢に出た。上流部には滝がかかり美しい眺めであった。その先に進んで振り返ると、杓子岳の山頂であろうか、尖ったピークが見えていた。谷向こうに鑓温泉の建物も眺めることができた。
 小日向のコルまでの道は、谷を大きく巻いていくため、見た目よりも長い。日差しがきつく、汗も吹き出てきた。朝風呂は、なんの役にもたっていない。
 小日向のコル手前の台地で、新しい道に付け変わっていた。この旧道との分岐には、雪渓からの雪融け水も流れており、ひと休みには良いところであった。
 この先は、台地状の草原や潅木帯に道が付けられていた。切り開かれてから時間はたっていないのかもしれないが、歩きやすい道であった。
 小さな池に出ると、その先は、コルに向かっての登りになった。振り返ると、鑓温泉が、山の中腹に建っているのが見えた。良い眺めであったが、少し登ってから振り返ると、ガスが流れてきて、展望は閉ざされていた。
 小日向のコル一帯は、小さな池や草原の広がる台地になっていた。下りにかかったところでも、アカバナシモツケソウやタテヤマウツボグサ、オニオアザミといった草原性のお花畑が広がっていた。
 足も草臥れてきて、我慢の下りになってきた。傾斜が緩んで、平坦な台地を進むと、歩き始めの林道に飛び出した。あとは、ひと歩きで猿倉登山口に到着した。
 昼前ということで、登山口周辺はひっそりとしていた。
 白馬へ戻る途中のおびなたの湯に入り、汗を流して登山を終えた。
 翌日は、八方尾根から唐松岳を目指して、花を楽しむという、いつものパターンでいくことにした。ファミリーレストランで昼食を取り、食料を買い込んでから、黒菱平に車で上がった。今年から、黒菱平からのリフトは休止になったようである。そのぶん、観光客が入らなくて空いていて良いという感じであった。
 黒菱平で夜を過したが、朝方から霧雨。もうひと眠りして起きると、本降りの雨になっていた。あっさりと予定変更になった。上越に戻って、直江兼続関係の山城を訪れることにした。
 糸魚川に戻って高速に乗ったが、本降りの雨のため、様子見で時間をつぶすことになった。
 上越ICで高速を下りて、まずは、御館跡に向かった。直江津近くにあるが、街中の公園になっている。「史跡 御館」という標石だけが、往時を思い出させてくれる。御館は、もともとは、上杉謙信をたよって関東から逃げてきた関東管領上杉憲政を住まわしたところで、上杉家の政庁として機能していた。謙信亡き後に、景虎がこもって戦いの場になり、この跡目争いを御館の乱と呼ぶ謂れになっている。付近に観光用の案内板もなく、名前の割りに、忘れられた場所になっている。
 この一帯は、府中とも呼ばれ、多くの寺院も建てられている。その中で、三重の塔が見所になっており、謙信が再建したという国分寺と、越後一の宮である居多神社を訪れた。 続いて、林泉寺に向かった。米沢にも林泉寺があるが、上杉家の移封と共に、米沢に移ったもので、ここが本家である。春日山の麓に位置し、山城の一部になっていたようである。
 駐車場に入ったものの、本降りの雨のために、しばらく車の中で待機になった。入口の惣門は、春日山城から移したものとのこと。その先の立派な山門には、「春日山」と「第一義」の額が掲げられている。正面の本堂の右手には、宝物館があり、謙信直筆のこれらの額の本物や鎧や書、寄贈の仏像が飾られていた。特に興味深かったのは、謙信の兜で、前立てに「昆」の字が飾られていた。今や有名になった直江兼続の「愛」の兜とは字が違うだけである。こうなると、「昆」は毘沙門天を著すことは確かであるので、「愛」も神仏から来ているはずで、そうなると愛染明王を著すと思われる。なぜか、この「昆」の兜は無視されている。
 本堂の左手の丘の上には、上杉謙信や、川中島合戦死者供養塔、堀家の墓が並んでいた。ただ、薮蚊が多く、たちまち何箇所か食われてしまい、早々に退散することになった。 続いて春日山城へ。中腹の謙信像の駐車場から歩き出すことにした。幸い雨も止んでいた。春日山城は、遊歩道も多く張巡らされており、「春日山城跡めぐり」のパンフレットを入口のボックスで手に入れる必要がある。
 謙信像から左手の車道に進み、三の丸、二の丸を経て本丸を目指す。三の丸は、謙信の亡き後の跡目争いの当事者である景虎が居を構えていたところとされている。山の斜面を切り開いてつくられた小広場になっている。二の丸を経て本丸まで登ると、それなりに汗も吹き出てくる。本丸からは、高田の街並みや直江津港を見下ろすことができる。
 一般的には、ここから毘沙門堂へと下ってしまうが、山の裏側にある景勝屋敷跡に寄っていこう。下ってすぐの所には、水の涸れることにない大井戸がある。その先が、景勝屋敷跡になる。景虎と景勝の屋敷は、僅かな距離のうちにあった。
 山頂に戻り、毘沙門堂へと下る。休憩所を過ぎると、再建されたものか判らないが、毘沙門堂が現れる。戦勝祈願のために上杉謙信がこもったというお堂である。そのすぐ下が、直江屋敷跡である。三段に及ぶ台地になっている。さらに下ると、千貫門を経て春日神社に戻ることになる。神社の境内や謙信像付近は、観光客や遠足の子供達で大賑わいになっていた。
 さらに、景虎の慰霊碑のある妙高市乙吉近くの勝福寺に向かった。町中の小さなお寺で、見つけづらかった。前庭に、景虎の石像と、慰霊碑が置かれていた。
 最後に、鮫ヶ尾城址を訪れるために斐太県民休養地に向かった。入口手前に駐車場が設けられており、ここから歩きだすことになる。
 入口付近は芝生の広場になっており、池の向こうに城山が頭をもたげている。池を右回りに進むと、管理棟があり、そこから鮫ヶ尾城址への道が始まっている。壁に「越後あらい景虎物語」の看板が掛かっていた。美貌の悲劇の武将として、地元ではイベントを開催しているとのこと。駐車場には、天地人ゆかりの地として旗が飾られていたが、。直江兼続と景勝を中心に物語が転回するとなると、景虎は敵役になってしまうが、ドラマではどうなのだろうか。
 緩やかな道を辿って、高速道路の下を抜けると、山頂に向かっての登りが始まる。雨は止んで気温も上がってきて、汗が吹き出るようになった。この時期、低山歩きは辛い。
 大手道と搦手からの道が合わさると、その上が鮫ヶ尾城址である。御館の乱で破れた景虎は、北条氏の支配する小田原へ逃げ戻ろうとし、途中でこの鮫ヶ尾城に寄るが、城主の堀江宗親の裏切りにあって、自害する。山頂からは、春日山も遠くない距離に見えていた。
 天地人の第一のクライマックスともいえる御館の乱は、後始末ともいえる戦いはしばらく続くが、一方の主人公の退場によって、ここで幕となる。この後より直江兼続は、上杉家の中で力を付けて活躍することになる。
 下りは、大手道を歩いた。先回は、登山道の整備中であったが、急な所にはロープも掛けられており、整備の手が加えられていた。途中で、池への道が分かれたので、この道に進んだ。池に出てからひと登りすると芝生の広場に戻ることができた。
 これで、上越方面の直江兼続ゆかりの地の訪問もおおむね終えることができた。

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