富神山、城山(長谷堂城址)

富神山、城山(長谷堂城址)


【日時】 2008年7月27日(日) 前夜発日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 曇り

【山域】 白鷹丘陵 【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 富神山・とがみやま・402.2m・二等三角点・山形県
【地形図 20万/5万/2.5万】 仙台/荒砥、山形/白鷹山、山形南部
【コース】 北登山口より西登山口へ
【ガイド】 新・分県登山ガイド「山形県の山」(山と渓谷社)

【山域】 山形周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 城山・しろやま(長谷堂城址・はせrどうじょうし)・230m・なし・山形県
【地形図 20万/5万/2.5万】 仙台/山形/山形南部
【コース】 八幡口よりへ観音口へ
【ガイド】 なし

【時間記録】 7月26日(土) 20:00 新潟=(R.7、新発田、三日市、R.290、大島、R.113、赤湯、小滝、R.348、R.458 経由))=23:30 富神山西登山口  (車中泊)
7月27日(日) 7:07 山王登山口―7:27 黒森山―7:41 曲森山―8:00 西登山口―山王登山口=(R.458 経由)=8:38 八幡神社登山口―8:56 城山―9:10 観音口―9:18 八幡神社登山口=(R.458、R.13、米沢、R.121、喜多方、会津坂下、R.49、会津坂下IC、磐越自動車道 経由)=17:50 新潟
 先週、坂戸山や雲洞庵を訪問したが、「天地人」の小説を読み終え、さらに直江兼続についての資料を読んでいると、上杉家が移封された米沢を訪れたくなった。特に、直江兼続のシンボルになっている愛の兜を見たいが、それには米沢に出かける必要がある。週末の天気はあまりぱっとしなく、軽く歩いて、後は観光に費やすことにした。
 関ヶ原の合戦と同時に行われた最上・伊達軍との戦場になった富神山と長谷堂城址(城山)をまず歩くことにして、土曜日の夜に出発した。富神山は、山形の西の白鷹丘陵地の外れにある。深夜に到着したが、西登山口の駐車場が広かったので、そこで夜を過ごした。朝になると、早朝から登山者がの車が到着して目が覚めた。この山は、早朝登山の山として地元に親しまれているようである。
 車をまずは、山王登山口に移動させて、そこから歩き出すことにした。下山後の車道歩きで、下りになるようにという配慮である。
 山王登山口からは、トラバース気味に歩くとすぐ先で、下の墓地からの道が合わさる。ここから急斜面の直登になった。朝から、大汗を流すことになった。土の上には、足を置くステップはできていたが、苔が付いて滑りやすいところもあり、このコースを歩くものは多くないようであった。
 ひと汗かいて富神山の山頂に到着した。山頂には、石の祠が置かれており、山形周辺の盆地を見下ろす展望台になっていた。あいにく朝靄がまだ晴れず、山形の町は隠されていた。
 この山は、二度目になる。以前は、山頂に次のような説明板が置かれていたのだが、なくなっていた。
「市街地の中にぽっかり浮んでいる広い森が、山形城址霞城公園です。関ヶ原の戦いの頃、石田三成方直江兼続(上杉軍)が、徳川家康方、最上義光(最上軍)の拠点である山形城を攻めるためにここから城の様子を眺めようとしました。しかし、城には霞がかかってまったく見ることができません。10日間待っても霞は晴れず、その間に石田軍敗北の報が入り、上杉軍は撤退しました。このことから、十日見山(富神山)・霞ヶ城の名前が付けられたとも言われています。霞城公園内には、上杉軍を迎え撃つため出陣しようとしている最上義光の騎馬像があり、こちらをにらんでいます。」
 古戦場とはうらはらに、現在では、体力作りに親しまれている山に変わっている。
 下山は、西に延びる新道に進んだ。こちらの方が歩きやすい道である。最初は急であるが、穏やかな尾根道に変わった。途中で、尾根沿いの新しい道が開かれていたので、そちらを歩いた。ひと登りで到着した小ピークには、曲(まが)森山と書かれていた。
 こちらがメインコースになっているようで、数名のハイカーにもすれ違った。勝手山見晴台という高まりを過ぎると、ぶどう畑に出て、その先が西登山口であった。後は、車道歩きで車に戻った。
 続いて、長谷堂城址に向かった。地図には城山と記載されており、山頂は城址公園として整備されているようだが、登山道は不明である。現地に入ってから探すことになった。 国道を走っていくと、長谷堂城址の案内標識が現れた。集落内に入ると、長谷堂城址登山者用として、砂利敷きの大きな駐車場が現れた。脇のぶどう園には、NHK大河ドラマ天地人の旗が飾られていた。
 長谷堂城は、関ヶ原の合戦と同時期に行われた上杉軍と最上軍の激戦地になったことで知られている。
 秀吉亡き後、大名のほとんどを従わせてもなお反旗を翻していたのは、上杉景勝であった。会津で軍備を整える上杉家に、詰問の手紙を送って上洛を促したのに対し、直江兼続は直江状として知られている反論の手紙を送り返す。これに激怒した家康は大軍を率いて、上杉攻略に向かう。開戦直前のところで、石田三成挙兵の報を受けて、江戸へ引き返してしまう。これを追って討つという直江兼続の意見は、上杉景勝の「上杉家の家訓に後を見せた敵を討つということはない」との言葉で停められてしまう。
 そこで、直江兼続は、この機会に、敵対関係にあった最上義光を討とうということで、米沢から出兵する。破竹の勢いで山形城に迫るが、その手前の長谷堂城の守りは堅く、激戦の末に膠着状態になってしまう。伊達軍も最上軍の援護に出てきて、攻めあぐんでいるうちに、石田三成の関ヶ原の合戦における大敗の知らせがとどく。
 米沢への撤兵となるが、追う最上・伊達軍との間で、大激戦が演じられる。ここで、登場するのが、漫画の「花の慶次」で知られる前田慶次である。しんがりを直江兼続から代わった前田慶次は、大活躍し、壊滅状態から脱して引き上げに成功する。この際、最上義光は、兜に銃弾を受けたものの、なんとか命拾いをするという出来事も起こっている。
 その後、家康に和睦を申し入れ、会津120万石から米沢30万石に減封されるものの、上杉家は存続することになる。
 米沢見物の前に、是非とも長谷堂城址を見物しておきたかった。
 長谷堂城跡入口(八幡口)の標識に従って、坂道を登っていくと、すぐ上で八幡神社に出た。この先は、緩やかな尾根道となり、曲輪跡を見ながら登っていくと、左手から長谷堂神社からの道が合わさり、その上が長谷堂城址の山頂であった。草の生えた台地になっており、長谷堂城址の標石とあずまやが置かれていた。山頂からは、山形の市街地を間近に眺めることができた。ここが落とされれば、後は本城のの山形城しかないことになる。最上家にとってはぎりぎりの守りであったようである。合戦のあった時代に思いを馳せた。
 山頂には稲荷神社も置かれていたが、そのいわれは判らない。坂を下っていくと、長谷堂神社のお堂に出た。最上三十三観音の一つとあって、城の訪問者よりも参拝者の方が多かった。
 神社からの下りは、参道とあって、良く整備されていた。
 車道の入口には、観音口と書かれていた。車に戻る途中、大手門口と書かれた標識も置かれていた。今回歩いたコースの途中で、もう一本の道が合わさったようである。
 低山歩きといっても、暑くて汗がしたたりおちて、蚊にも何箇所かくわれた。夏の低山歩きは、あなどれない。
 車を国道に戻し、北に向かって走らせていくと、主水碑が見つかった。長谷堂合戦の際に戦死した上杉軍の武将・上泉主水泰綱を供養したといわれる供養塔である。背後には、長谷堂城址が、つつましげな山頂を見せていた。立ち上がりは急であるが、小さな山なので、長期間の篭城は難しかったと思われる。
 この後、米沢に向かって車を走らせた。山形と米沢の間には、大きな峠は無く、領地を守るのは、双方にとって大変であったろうと思う。
 米沢ではまず、米沢城本丸跡に建立されている上杉神社を訪れた。堀に囲まれて城跡の名残を見せていた。
 堀を渡って境内に入ると、右手に謙信の銅像。左手の丘の上には、謙信の御廟跡があった。その先には、伊達政宗の誕生地と書かれた標柱が置かれていた。銅像のようなものがないのも、上杉家の敵方であったことにより冷遇されている証拠のようであった。その先に、上杉鷹山の像が置かれていた。脇には、良く知られた「なせは成る なさねは成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」の碑が置かれていた。本殿に参拝した後、宝物殿である稽照殿に入館した。
 稽照殿には、謙信や景勝の兜と並んで兼続の兜も展示してあった。有名な「愛」の前立ての兜である。その他にも、謙信愛用の馬上杯や頭巾など、見るものも多かった。ただ、館内は写真撮影禁止であったのは残念であった。
 上杉神社の前に松岬神社があり、直江兼続は、ここに祀られている。上杉博物館があったので入ったが、特に見なければならないようなものは無かったが、愛の兜のレプリカ展示品があり、ここで写真撮影ができた。
 上杉家御廟で、上杉謙信、景勝他の代々の墓を見た後、林泉寺に向かった。林泉寺は、曹洞宗のお寺であるが、ここには、兼続とおせんんの方のお墓が並べられて置かれている。夫婦でお墓が同じ大きさなのは、珍しいという。その他にも、景勝の正室菊姫や仙桃院、上杉家の家来の墓も置かれており、訪れるべき場所になっている。
 最後に、米沢を洪水から守る目的で、治水のため兼続が作らせた堤防を見た。これは直江石堤と呼ばれる。
 以外に時間も経ってしまい、これで家に戻ることにした。
 ここまで見てくると、春日城周辺も訪れておく必要がありそうである。

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