鳴倉山、樺沢城跡

鳴倉山、樺沢城跡


【日時】 2008年6月8日(土) 日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 曇り

【山域】 越後三山周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 鳴倉山・なりくらやま・578.6m・三等三角点・新潟県
【コース】 大沢登山口より
【地形図 20万/5万/2.5万】 日光/須原/大湯
【ガイド】 無し

【山域】 魚沼丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 樺沢城跡・かばさわじょうせき・300m・なし・新潟県
【コース】 龍澤寺登山口より
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/十日町/塩沢
【ガイド】 無し

【時間記録】 8:00 新潟=(関越自動車道、小出IC 経由)=10:17 鳴倉山登山口―10:32 林道横断点―10:42 十二山の神―11:00 見晴の松―11:17 つつじヶ原―11:38 鳴倉山〜12:05 発―12:32 十二山の神―12:39 林道横断点―12:50 鳴倉山登山口=(R.17、上越国際スキー場前駅 経由)=13:51 樺沢城跡登山口―14:22 本丸―14:41 樺沢城跡登山口=(上越国際スキー場前駅、R.17、小出IC、関越自動車道 経由)=17:15 新潟
 鳴沢山は、越後駒ヶ岳からカネクリ山、ヨモギ山、笠倉山を経て北西に延びる尾根が魚沼の平野部に終わる所にある山である。地図にも載っている大沢から延びる登山道は、地元の小学校の登山コースとして使われている。また、南面から山頂まで林道が延びており、ハンググライダーの山頂基地としても利用されている。山頂周辺は、丈の低い潅木帯で、周囲の展望の良い山である。

 樺沢城は、塩沢近くの上越国際スキー場近くにある丘に作られた山城である。後に上杉家を継ぐことになる上杉景勝は、この城で生まれたという。清水街道と三国街道の要所にあたることから、上杉家の関東攻略の宿所として築かれた。御館の乱の際には、越後に攻め入った北条軍によって占領され、坂戸城の攻略基点として使われた。乱の終息によって、この城は再び上杉家の支配下に置かれるが、会津移封によって、この城は廃城になった。現在は、地元の手によって、城跡の整備が行われており、曲輪や空堀など、要塞化された遺構を見ることができる。

 飯豊日帰りの疲労は大きく、翌日の山といっても軽い山を選ぶしかない。ゆっくりと起きて、ETCの通勤割引のきく9時までに高速に乗って行ける範囲の山を考えていって、鳴倉山が思い浮かんだ。残雪歩きでは、昨年も登っているが、夏道は1999年に登ったきりで、その後、かなり整備の手が入ったようである。この山をネットで紹介したのは、私が最初であると思うが、最新情報を知っておく必要がある。
 曇り空であったが、前日よりは日差しが入り込んでいた。その代わりに、気温も高くなって、歩く前から、ペットボトルを開けてお茶を飲みたくなっていた。
 小出ICからは、大湯方面に向かい、道の駅「ゆのたに」前の十字路を右折する。県道のようであるが、先は行き止まりになってしまうようである。鳴倉山の山頂から北に落ち込む尾根の末端が登山口で、大沢橋近くの農機具倉庫のような建物の前に、以前は無かった登山標識が立てられていた。
 駐車場はないが、広い車道の路肩に車を寄せて停めた。
 田圃の中を進むと、林道が山奥に向かって続いているが、入口から登山道が始まる。地図に書かれている破線は、この林道を経由するようになっているが、実際と違っている。 杉林の中をひと登りすると、鳴倉神社のお堂が現れる。その奥には、畑が作られているが、その脇から左の尾根に向かって登山道が続いている。以前は、草が被り気味であったが、良く踏まれた道に変わっていた。
 急坂をひと登りすると、林道の横断になる。登山道はその向かいに続いている。林道は、草が茂っており、雪の季節ならともかく、今は歩く気にはなれない状態であった。
 しばらくは、尾根沿いの急な登りが続いた。十二山の神の祠が現れ、その前は休憩に良い小広場になっていた。向かいには、城山が山頂をもたげていた。したたり落ちる汗を拭ってひと休みした。魚沼盆地の中で、フェーン現象的に気温が上がっているようである。低山歩きもきつい季節になってきた。
 その後も尾根の登りが続き、見晴の松という標識が現れた。木立は切られており、見晴らしにはなっていたが、松は見当たらない。城山の山頂も見下ろすようになっていた。
 その先で傾斜は緩やかになり、方向を南に変えていくと、背の低い潅木帯が広がるようになって、つつじヶ原に到着した。ヤマツツジがオレンジの花を付けていた。前方には、鳴倉山の山頂を望むことができた。手前には、急坂が待ち構えているのが、目で確かめることができた。  急坂の下に到着すると、「おとみ坂」という新しい標柱と、古びた「おとめ坂」という看板が並べて置かれていた。一字違いであるが、内容が違ってしまう。おとみとは、女性の名前をさしているのだろうか。そうなると、知られているのは、「死んだはずだよお富さん」ということになる。死ぬほどの急坂をしゃれこんでいるのだろうか。おとめだとすると、おとこ坂があって良さそうなものであるが、山頂手前にももう一度急坂が現れるので、それとセットになっているのかもしれないが、そちらには標識はなかった。
 ロープも掛けられており、急坂ではあるものの、登るのは難しくはなかった。頭上を見上げると、パラグライダーが飛んでいるのが目に入った。
 最後の急坂を乗り越すと、鳴倉山の山頂に到着した。山頂は広場になっているが、10数人の団体が休んでいた。先の林道終点には、パラグライダーのサポートに上ってきたらしいオフロード車がとまっていた。
 鳴倉山の山頂からは、360度の展望が広がっている。北には、権現堂山塊、唐松山、毛猛山塊が並び、南には越後駒ヶ岳と八海山の並びが印象的である。小出の街も眼下に見下ろすことができる。
 展望を楽しみながら昼食をとっていると、団体も下山していき、静かな山頂になった。虫も煩く、下山に移ることにした。登りは暑さに悩まされたが、下山は、そう時間もかからずに下ってしまった。
 下山口には、観光バスが止まっており、どのような団体かと見ると、柏崎のグループとのことであった。この山も次第に知られてきたようであるが、登山道も整備されて軽い登山には良い山になった。
 時間も早かったので、塩沢の樺沢城跡を訪れることにした。場所は上越国際スキー場近くで、龍澤寺が目印であることしか判っていない。国道17号線から別れて上越国際スキー場に向かう。上越線の下をくぐった先で左折すると、下屋敷跡と書かれた石碑が置かれていた。その先で、龍澤寺の前に出ると、その向かいが樺沢城跡の入口であった。
 坂を少し登った所に駐車場が設けてあった。駐車場の周りには、「天地人」、「上杉景勝公生誕の地 史跡樺沢城跡」、「09年大河ドラマ天地人」といった三種の旗が風になびいていた。
 龍澤寺には、上杉景勝公生誕の碑があり、門前には、「仙桃院お花畑跡」という碑も置かれていた。仙桃院は、上杉謙信の姉で、坂戸城の長尾政景に嫁ぎ、上杉景勝の生母である。上杉謙信亡き後の跡継ぎ争いの一方の当事者の景虎には、娘を嫁がせて孫もできていたという。景勝を跡目にという謙信の遺言は、仙桃院の偽証によるものといわれており、どのような思いでの決断であったか、興味が引かれる。また、直江兼続を上杉景勝の近習に推挙したのも、仙桃院であるという。
 樺沢城跡の入口から進むと、元屋敷跡の石碑が置かれている。本来の場所は、上越線の線路が引かれているため、少し場所を移動してあるとのことである。線路沿いに進むと、杉林の中の登りになる。ひと登りで空堀が現れる。
 望楼跡の脇を過ぎると大手口の標識が現れた。虎口と呼ばれるじぐざぐ道を進むと、三ノ丸に出た。その先で二ノ丸に出たが、その上に見えている本丸には、堀があって進めない。少し戻って本丸への道に進むと、胞衣塚が現れた。これは、景勝公のへその尾を収めたものという謂れのようである。
 本丸へと登っていくと、帯曲輪が取り巻いて、行方を阻んでいた。迷路のような構造になっていた。
 ひと登りすると、ようやく本丸に到着した。魚沼平野を見下ろすことができ、正面に八海山が広がっていた。坂戸城もすぐ近くであり、御館の乱の際の北条軍による占領時の緊迫感が伝わってくる思いがした。標高をそれほど無い丘陵であるが、通路が曲がりくねっていて距離も長くなり、汗が流れ落ちていた。
 先に進むと、崖状の急斜面になっており、土に掘られたステップとロープに頼って下ることになった。左に曲がって進むと、西ノ丸跡に出た。空堀が複雑に巡らされており、来た道に戻るのに、途中で不安を覚えるようにもなった。
 景勝公関連の史跡の他にも、山城の要塞化の様子が良く判ることから、樺沢城は、訪れるべき城跡である。
 
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