与板城跡、天神山城址

与板城跡、天神山城址


【日時】 2008年5月25日(日) 日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 曇り時々雨

【山域】 西山連峰
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 本与板城跡・もとよいたじょうせき・92m・なし・新潟県
 与板城跡
  城山・じょうやま・107.3m・四等三角点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 長岡/三条/与板
【ガイド】 新潟の里山(新潟日報事業社)、ふるさとの散歩道(新潟県観光協会)

【山域】 弥彦山周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 天神山城址・てんじんざんじょうし・230m・なし・新潟県
 松ヶ岳・まつがだけ・174m・なし・新潟県
  (松岳山城址・まつたけやまじょうし)
【地形図 20万/5万/2.5万】 長岡/弥彦/弥彦
【ガイド】 なし

【時間記録】 9:15 新潟=(北陸自動車道、中之島見附IC、R.403、与板橋 経由)=10:30 本与板城跡登山口―10:44 本与板城跡―11:11 本与板城跡登山口=(R.403 経由)=11:38 与板城跡駐車場―12:03 与板城跡―12:28 のろし台―12:51 与板城跡―13:06 与板城跡駐車場=(渡部橋、弥彦 経由)=14:00 丸小山公園―14:23 林道登山口―14:40 天神山城址―14:45 石瀬峠分岐―14:55 牧場脇―15:12 松ヶ岳―15:25 岩室神社―15:35 丸小山公園=(R.460、赤塚、R.116 経由)=16:20 新潟
 城山は、与板町の背後にある小山である。この山は、上杉景勝の家老直江山城守兼続の居城であった与板城が置かれていたことで知られている。また、与板城の北2kmの丘陵地に直江家三代の居城があり、これは本与板城と呼ばれている。この二城で守りを固めたと言われ、本与板城は陰城、与板城は陽城とも呼ばれるという。

 天神山城址は、弥彦近くの岩室集落の背後にある山城である。城主の大国実頼は、直江山兼続の弟である。二人は、樋口家に生まれたが、それぞれ、直江家と小国家に養子に入り、上杉家の重臣として活躍した。

 あいにくと雨の日曜日になった。土曜日は、雑用が溜まって山に行かなかったので、山歩きをしない訳にはいかない。長靴を履いて傘をさせば問題なく歩くことのできる山を考えることになった。
 ここのところ気になっていたのは、「直江兼続」である。上杉家の文武両道に秀でた重臣であるこの武将は、朝日軍道の整備で、山との関係も深い。来年のNHKの大河ドラマの主人公になるといういうことで、「直江兼続」に関係した場所の観光整備が進められている。
 与板の城山は、1999年12月に登ったことがあり、直江兼続の居城であることは知っていたが、最近出版された「長岡市与板城山」のパンフレットを見ると、与板城に先立つ本与板城の説明が載っており、こちらも登らねばという気持ちになってきた。また、弥彦山を訪れた際に、岩室付近に「直江兼続」の観光用旗が並んでいるのが目に入っていた。岩室背後の天神山が、直江兼続の弟の大国実頼の居城であったということで、こちらも観光活動に便乗しているようである。
 ネットを検索すると、これらの山城の情報は沢山出てくるが、史跡の説明は詳しいものの、登山記録と違って歩いたコースははっきりしない。現地に着けばなんとかなるかと思って出かけることにした。
 中之島見附で高速を下りて、与板に向かった。信濃川に架かる与板橋を渡り、そのまま直進すると、県道274号線とのT字路に出る。この角に本与板城の案内板が置かれていた。本与板城の位置は判らなかったので、この指示に従うことになった。左折して500mほど進むと、右手に分かれる道沿いに「直江兼続」の旗が並んでいるのに出会った。この道に進むと、右手に林道が分かれ、これに入った。
 200m程進んだところで、本与板城駐車場という案内板が現れた。ここには簡易トイレも設けられていた。
 すぐ先の尾根の張り出し部が登山口であった。尾根沿いに登っていくと、曲輪跡のような地形が現れ、右に進むと万才閣跡という標識が現れた。日清・日露戦争の戦死者を弔う建造物があったようであるが、現在は敷石が残るだけであった。ここは、腰曲輪の跡とのことである。
 元の道に戻って直進すると、大空堀跡が現れ、そこに進んで右手に上がると主郭に出た、城址の碑も二つ置かれていた。杉林が広がっていたのも、忘れられたような山城跡に相応しいような気がする。
 元の道に戻って、さらに奥へと続く道に進んだ。主郭から先は歩く者も少ないようで、草が被り気味であった。二の曲輪を見て、その先の台地に進んだが、道はここで消えていた。おそらく、ここが三の曲輪だろうと思うのだが、標識は無かった。
 城跡一帯には杉林が広がっていたが、伐採が行われて見通しが良くなっていた。大河ドラマを控えて、急遽城跡の整備が進められたような感じもする。
 なお本与板城の位置であるが、地図では、本与板の集落の南の丘陵地を走る林道があり、その南の92m点一帯である。
 本与板城は、直江家の居城であったが、直江兼続によって与板城が作られて主役の座から外れ、さらに兼続の米沢移封によって廃城になったようである。歴史に思いを馳せながら、続いて与板城に向かった。
 与板城は、八坂神社が登り口になるが、駐車場が問題になる。与板の街中を通過して八坂神社の下に出ると、その先のうま道森林公園に進む林道方向に与板城駐車場という案内板が置かれていた。250mほど進んだところに駐車場が設けられていた。脇には、直江兼続公館跡地という標識が置かれていた。
 登山口の八坂神社下に戻ると、石段の下には、案内パンフレットの置かれたボックスが設置されていた。与板城や直江兼続について詳しく説明されているので、訪問者は是非手に入れておこう。
 階段をひと登りすると、八坂神社の社殿があり、その右奥に道が続いている。遊歩道として、コンクリート敷きの道が続いていた。傘をさした観光客にもすれ違った。
 竹林の中を抜けると、尾根の上に出る。再び山の斜面にぶつかるところで、「おせん清水」が現れる。「お船」は兼続の妻の名前である。お船は、直江実綱の一人娘であり、はじめ信綱を夫に迎えたが御館の乱の際に殺されてしまい、長尾家の断絶を惜しんで、樋口兼豊の子与六(兼続)に継がせたという。来年のテレビドラマでは、女性の出演者にも欠かないようである。姉さん女房のように描かれるのだろうか。右手の沢を下った所がおせん清水のようであるが、ロープで立ち入り禁止になっていた。
 曲輪跡のような小広場の間を抜けて登っていくと、赤い鳥居があり、それを潜ると、その先で山頂の実城に到着した。登り口には、「城の一本杉」がある。樹齢約400年の古木で、慶長三年、直江兼続が会津移封のおり記念として贈った五本の杉のうちの一本とのことである。
 その先にお堂があり、軒下に掲げられた額を見ると、「城山稲荷社」と書かれていた。 城址の碑に加えて、兼続の直筆書の写しのような「望む所の事は 信の一字なり」よ書かれた碑も置かれていた。
 山城の案内図も置かれており、それを見ると、奥に向かって郭跡が広がっているようである。道も続いていたので、先に進んだ。
 先に進むと、深い空堀に下って登り返すということが続いた。二の郭、三の郭まで進むと、さらに先に千人溜があるという標識が現れた。千人溜は、周囲が土塁状の壁に囲まれた台地であった。その先には、のろし台があるという標識が立てられており、さらに進むことになった。
 この付近になると、あまり人は歩いていないようであったが、道はしっかり整備されていた。ひと登りで林道に飛び出した。頭上を送電線が通過していることから、現在地を確認することができた。山沢方面から上がってきた林道のようである。  林道を右に進んでいくと、のろし台という標識が現れた。林道に平行して登っていくと、小ピークの上に出て、ここには小さな石の祠が置かれていた。すぐ先で林道に出たので、林道を戻ることになった。
 実城に戻り、今度は北の登山口へ下ることにした。こちらは、大手口と呼ばれるようで、本来はこちらが表の道のようである。つづら下りの山道を下ると、赤い鳥居の立つ登山口に出た。ここから駐車場までは、そう遠い距離ではない。
 車に戻って、岩室に向かった。岩室の丸小山公園に天神山という登山案内があることは知っていたが、まだ歩いていなかった。公園には、弥彦山・国上山エリアの中部北陸自然歩道の立派な案内板が置かれていた。一帯の登山道が詳しく書かれており、興味深く眺めた。今後は、これがスタンダードな登山道の案内になるはずであるが、これにも載っていない道もあり、これは知られざるコースとして大切に扱う必要がありそうである。
 公園を横断して山裾に近づくと、「多宝山・弥彦山登山道 岩室温泉登山口」の標識が置かれている。水道施設の脇を登っていくと、尾根の上に出て、ここにも水道施設が置かれていた。ここから尾根沿いの山道が始まった。天神山の位置は正確には知らなかったが、山裾を林道が巻いているはずであった。果たしてというべきか、しばらく尾根歩きが続いた後に、僅かに下って林道に飛び出した。林道は、車の走行も可能な状態であった。
 林道を横断した先に山道が続いていた。ここにもポストが置かれており、中をのぞくと、天神山城址の説明パンフレットが置かれていた。このパンフレットも天神山城址を理解するのに役に立つものであった。
 天神山城の城主は、小国重頼に養子に入った樋口家の次男与七実頼で、直江兼続の実の弟である。上杉景勝の賀使として聚楽第で秀吉に謁見したりと活躍している。ほとんど知られていない城址であったが、今後は、知名度が上がるのかもしれない。  山道に入ってひと登りすると、物見台に出た。新潟平野が眼下に広がっているようであるが、雨雲で霞んでいた。ひょうたん池、土塁石塁跡を過ぎてひと登りで天神山城址に到着した。丸太のベンチが置かれた広場になっていた。
 天神山城址からは、松ヶ岳をめざして先に進んだ。200m程で石瀬峠への道が分かれる。多宝山の登山口と書かれているが、岩室からではいささか遠すぎる。多宝山へは、やはり石瀬口から歩き出した方が楽そうである。
 山道は、北に向きを変える。霧がかかって、どこを歩いているか判りにくくなった。
 鉄条網で仕切られた牧場地の縁に出て、間瀬峠の東にいることが判った。しばらくは、林道跡のような幅広の道が続いた。小さなピークを過ぎた先で、松ヶ岳のピークに到着した。石碑が置かれた広場になっており、天神山城の支城になっている。
 松ヶ岳からは、つづら折りの一気の下りになって、岩室神社に下り立つ。後は車道歩きで丸小山公園に戻った。
 天神山コースは、低山ながら緑の濃い林が広がっていたので、春の花の季節にも歩く必要がありそうである。
 
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