堂ヶ作山、滝沢峠、長峯

堂ヶ作山、滝沢峠
長峯


【日時】 2008年1月12日(土)〜13日(日) 1泊2日 各日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 12日:みぞれ 13日:吹雪

【山域】 会津
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 堂ヶ作山・どうがさくやま・382.2m・四等三角点・福島県
 滝沢峠・たきざわとうげ・490m・なし・福島県
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/喜多方/会津広田
【コース】 つつじヶ丘団地
【ガイド】 会津百名山ガイダンス(歴史春秋社)
【温泉】 喜多方蔵の湯 500円(石鹸のみ)

【山域】 飯豊連峰周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 長峯・ながみね・496.1m・三等三角点・福島県
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/熱塩/加納
【コース】 早稲谷分岐より
【ガイド】 なし
【温泉】 いいでの湯 500円

【時間記録】
1月12日(土) 7:10 新潟=(磐越自動車道、会津若松IC 経由)=9:30 滝沢峠入口〜10:00 発―10:25 堂ヶ作山―10:40 滝沢峠入口―11:16 舟石―11:36 滝沢峠―12:16 滝沢峠入口=(R.121、喜多方、R.459 経由)=15:30 道の駅裏磐梯
1月13日(日) 8:00 道の駅裏磐梯=(R.459、喜多方、山都、R.459 経由)=9:30 早稲谷分岐〜9:43 発―10:35 林道―10:45 稜線上―11:05 長峯―11:21 稜線上―11:16 林道―11:52 早稲谷分岐=(R.459、山都、会津坂下IC、磐越自動車道 経由)=16:20 新潟
 滝沢峠は、会津若松から白河に抜ける大名行列も通った旧街道の峠で、石畳や句碑、戊辰戦争の史跡も多く残されている。堂ヶ作山は、この街道の入口にある山である。

 長峯は、福島県側の代表的な飯豊登山口である川入の南に位置し、下流一ノ戸川左岸にある山である。山頂一帯は、伐採地になっている。

 三連休ということで、今年最初の遠出ももくろんで、山都と裏磐梯周辺の山を計画した。あいにくと、土曜日に南岸低気圧が通過して、その後に冬型が強まるという天気予報が出た。
 土曜日の朝は、本降りの雨になっていた。さっそく予定変更になって、会津百名山にも選ばれている滝沢峠をめざすことにした。滝沢峠は、会津若松の市街地脇にあって、会津百名山に選ばれているものの、標高も低い。少々の悪天候でも歩けるはずであった。
 山間部に入れば雪になるかと思ったが、雨のままで会津若松に到着した。先日の奴田山もそうであったが、今回の滝沢峠も市街地のはずれからの出発になる。幹線道路から脇道に入って坂を登り始めると、旧滝沢本陣という古い建物が現れて、旧街道らしくなった。 つつじヶ丘団地に到着すると、滝沢峠入口の標識が置かれていた。車は、不動川沿いの林道に入ったすぐ先の路肩スペースに置くことができた。
 まずは、堂ヶ作山を登ることにした。雨具を着て、傘をさしての歩きになった。雪は周辺の山腹に僅かに見られるほどであったので、スパイク長靴を履いた。
 住宅地を抜けて、堂ヶ作山の南西にある神社マークを目指した。お稲荷様の赤い鳥居が並び、正一位種子釋(しゅしたく)大明神という額が掲げられていた。階段を登ってお堂の脇から尾根に取り付いた。雑木林の中の登りになり、すぐに雪も地面を覆うようになったが、長靴で充分歩ける状態であった。
 この山は、会津百名山の中でも、もっとも低い山で、ひと登りで山頂に到着した。もっとも、汗か雨かで、体はじっとり濡れてきた。山頂は、木立に囲まれて、展望は無かった。
 木立の中に石柱が頭を出しており、三角点発見と思ったが、良く見ると、図根点と書かれていた。四等三角点はと探したが、雪に覆われて見つからなかった。四等三角点よりは、図根点の方が珍しいので、これで良しとしよう。  中途半端な雪で滑りやすく、足元に注意しながら山を下った。
 今度は、滝沢峠に向かった。入口には、滝沢峠の案内板が置かれていた。
「 旧滝沢峠(白河街道)
 この峠は、天正十九年(1591年)にときの会津領主蒲生氏郷により、若松から白河に至る白河裏街道として開かれました。
 寛永四年(1627)に会津に入部した加藤嘉明も街道の整備に力を入れましたが、雨天や雪解け時などには泥道となって往来に困難したため、その子明成は寛永九年(1632)から十一年(1634)にかけて、延べ八万人の人足を動員して石畳道に改修、冬坂峠の表街道を廃止して滝沢道を表街道としました。以来大名の参勤交代、旅人の往来などに利用されて、大変賑わった街道でありました。
 新奥の細道
 環境庁・福島県」
 歩き出すと、峠への道が左に分かれ、その先は雪道になった。しばらくは、高みを目指しての歩きが続いた。堂ヶ作山の東に続く尾根上に出ると、傾斜も少し緩やかなった。この近くまで、つぼ足のトレースがあったのだが、特別な目標物も無い地点で引き返しており、この先は、真っ白な雪原の歩きになった。
 旧街道は、車道並みの幅があり、桜の木が並木状に植えられていた。昔は、冬でも往来の人々で賑わっていたのであろうが、静かに雪に覆われた道が続いていた。
 ひと汗かいた頃、石畳という看板が現れた。雪に埋まって石畳は見られないのは残念であった。その先で、舟石が左手に現れた。神が天下れた時、投じた鉾が化して八角の水晶になったとか、乗ってきた舟が石になったという謂れがあり、昔から名所であったという。
 また、この峠は、「會津戊辰戦争」の際の舞台にもなっており、白虎隊の出陣ルーとにもなっている。会津藩士の桜井常四郎は、妻に「我命ある限り、敵に滝沢峠は越えさせぬ。もし敵が城下に入らば、我は死したるものと思え」と言い残して家を出、この舟石に上って「怨敵退散」の祈祷をなしたという。しかし、敵が峠に迫ってきたのを見て、「もはや、これまで」と、常四郎は、迫り来る敵の方向を睨みつけながら、石の上で自刃を遂げたという。
 血に赤く染まったかもしれぬ舟石も、白い雪の衣をまとっていた。
 その先であずまやが現れ、その先左手奥に、芭蕉句碑「ひとつ脱てうしろに おひぬ衣かえ」が置かれている。「百五十年前、奥の細道行で芭蕉が会津に足を運ばなかったことを惜しみ、会津俳壇の宗匠らが集まって芭蕉野紀行句集「笈の小文」の中の一句を石に刻み、天保十一年(1840)四月に建てたものです。」とのことである。そこらに良く見かける句碑とは、年期の入り方が違っていた。
 また、このあたりには、茶屋が設けられていたという。
 この付近から、雪も急に深くなってきた。わかんを持ってくるべきだったと後悔したが、あとのまつり。幸い、突如という感じでわかんの踏み跡が現れた。どうやら金堀方面から、山仕事のために入ってきたようである。歩くのも楽になった。
 ひと歩きで、台地状地形が広がると、車道が上がってきていた。この先は、車道が金堀の集落に通じている。ここが滝沢峠のようで、目的地到着になった。峠には、「戦士十八人墓」の碑も置かれており、この旧街道歩きは、「會津戊辰戦争」の史跡巡りの色合いが強かった。
 雨を避けて、あずまやの下でひと休みし、峠道を戻った。  時間は、早かったが、山歩きは終わりにし、隣にある飯盛山を見学していくことにした。山の名前がついているが、登山の対象ではなく、白虎隊の自刃の場で、会津の聖地になっている。峠入口の滝沢本陣は、旧街道の本陣のみならず、「會津戊辰戦争」の本営になっており、白虎隊もここから出陣している。
 観光客で賑わう飯盛山も、みぞれの降りしきる中で、ひっそりとしていた。石段脇のエレベーター施設も冬季休業中であった。石段に雪がのって滑りやすくなっており、山よりも危険な状態であった。白虎隊の自刃の場にある石像は、若松城を望んでいるとのことであったが、みぞれの中で、お城も隠されていた。十九士のお墓に詣でて、山を下った。さざえ堂の先で、白虎隊が通過してことで知られている戸ノ口堰洞穴があった。
 翌日の山のため、喜多方の温泉に入り、裏磐梯の道の駅で夜を過ごした。
 午後になって雨は雪に変わったが、夜になると、吹雪になった。朝起きると地吹雪状態で、車の外に出ると、体が凍える状態であった。山は無理と、あっさり計画変更になった。
 標高を下げればなんとかなると思い、初日の予備の山と考えていた長峯に向かった。凍結した道を注意しながら下り、喜多方から山都経由で川入方面に向かった。
 長峯は、川入に向かう県道脇の山で、下廻戸集落の手前、早稲谷との分岐付近から緩やかな斜面が広がっている。現地に到着してみると、道路脇は崖状な法面になっていた。分岐から少し進むと、法面の上に続く道が設けられていた。路肩にも駐車スペースがあったので、ここから歩き出すことにした。
 法面の中間部には、用水路が走っていたが、踏み板が設けられていた。その上で、沢が落ち込んできており、板と木の枝を渡した粗末な橋が掛けられていた。雪が乗っており、恐る恐る渡った。ここが一番の難所であった。
 その先で台地の上に出ることができた。廃田跡のようで、雪原が広がっていた。ここでスノーシューを履いた。
 左手の沢に沿って杉林の中を登っていくと、伐採地に出た。雪が少なく、荒地状に広がる薮の枝がうるさい状態であった。枝を避けながらで、あまり快適とはいえない登りになった。吹雪の中で、雪が少ないと嘆くことになった。たっぷりと雪があれば、ここは一面の雪原になっており、気持ちよく登ることができたはずである。
 幸い、伐採のための作業道が現れたので、これを辿ることになった。山腹を林道が横断しており、カーブミラーが立つのも目に入ってきた。
 稜線の一段下を横断していく林道に出ると、脇は崖状の急斜面であったが、左に少し進むと、取り付ける場所があったので、稜線に向かって進んだ。
 結局、稜線まで伐採地は広がっていた。登ってくる途中から見えてきた杉の木が立つピークが長峯のようであった。山頂までの稜線歩きは、ところどころ薮がうるさいところもあった。
 到着した長峯の山頂は、小広場になっていたが、山頂標識やテープのようなものは見あたらなかった。晴れていれば、飯豊連峰の眺めも得られたのかもしれないが、雪雲が流れてきて、時折吹雪くという状態であった。
 山頂に立った時間も僅かで、下山に移った。下りは快調に歩いて、車に戻ることができた。  これで山は終わりとして、すぐ近くの飯豊の湯に向かって車を急がせた。吹雪に凍えた体に、熱い温泉が心地よかった。
 山都に戻って、天気の様子をうかがったが、相変わらず吹雪は収まらないので、家に戻ることにした。

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