霊仙寺山、飯縄山、黒岩山・鷹落山、小菅山

霊仙寺山、飯縄山
黒岩山・鷹落山、小菅山


【日時】 2007年11月17日(土)〜18日(日) 1泊2日 各日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 17日:晴 18日:曇り時々雨

【山域】 戸隠周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 霊仙寺山・れいぜんじさん・1875m・なし・長野県
 飯縄山・いいづなやま・1917.4m・二等三角点・長野県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/戸隠/若槻
【コース】 霊仙寺跡より
【ガイド】 北信・東信日帰りの山(章文社)
【温泉】 牟礼温泉・天狗の館 500円

【山域】 関田山塊
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 黒岩山・くろいわやま・911m・なし・長野県
 鷹落山・たかおちやま・870m・なし・長野県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/飯山/猿橋、飯山
【コース】 鷹落山入口より
【ガイド】 なし

【山域】 志賀高原周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 小菅山・こすげやま・1017m・なし・長野県
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/飯山/往郷
【コース】 小菅より
【ガイド】 なし
【温泉】 トマトの国 300円

【時間記録】
11月16日(金) 17:00 十日町=(R.117、豊田飯山IC、牟礼、R.18、飯縄東高原入口、霊仙寺 経由)=17:30 霊仙寺跡 (車中泊)
11月17日(土) 7:58 霊仙寺跡―8:13 五社権現奥社―9:01 ゲレンデ分岐―9:40 三角岩―10:18 稜線分岐―10:25 霊仙寺山〜10:32 発―10:38 稜線分岐―11:16 飯縄山〜11:43 発―12:17 稜線分岐―12:43 三角岩―13:05 ゲレンデ分岐―13:47 五社権現奥〜13:44 発―13:55 霊仙寺跡=(霊仙寺、飯縄東高原入口、R.18、牟礼、豊田飯山IC、R.117、飯山 経由)=17:30 鷹落山入口  (車中泊)
11月18日(日) 7:23 鷹落山入口―7:38 桂池分岐―7:44 黒岩山―7:47 のろし台〜7:52 発―7:55 黒岩山―8:02 桂池分岐―8:19 桂池入口―8:30 太郎清水―8:35 桂池〜8:56 発―9:02 鷹落山入口―9:14 鷹落山―9:25 鷹落山入口=(大関橋 経由)=10:07 小菅―11:03 小菅神社奥社―11:40 小菅山―11:46 見晴らし台―12:08 林道―12:35 北竜湖―13:01 小菅=(R.117、越後川口、関越自動車道 経由)=17:15 新潟

 飯縄山は、長野県北信地方にあり、妙高山、黒姫山、斑尾山、戸隠山と並んで北信五岳に挙げられている修験道の山である。霊仙寺山は、飯縄山の北に寄り添う衛星峰で、麓の霊仙寺より戸隠に至る道が開かれていた。

 黒岩山は、関田山塊の飯山近くにある山である。県境線からは、長野側に少し外れている。鷹落山は、黒岩山の近くにある山で、山頂にはアンテナ施設が並んでいる。

 小菅山は、野沢温泉の南にある北竜湖の東に位置し、古くから崇められてきた小菅神社の裏山である。地図にも山名が記載されていないが、小菅山ハイキングコースが開かれている。

 冬の訪れも迫っており、新潟方面では雨混じりの日が続いている。十日町への出張から続けて山に出かけるため、飯山線沿いに進んで北信方面の山を登ることにした。直前に土曜日は晴との天気予報が出たため、候補に挙げていた山のうちで、最も展望の良さそうな霊仙寺山を登ることにした。飯縄山は、1994年7月2日に登っているが、隣の霊仙寺山には登っていない。幾つかのコースが考えられるが、メインの霊仙寺跡よりの正面登山道を登ることにした。
 牟礼から妙高方面に国道18号線を進み、飯縄東高原入口からリゾートラインと呼ばれる県道を進む。別荘地の脇を掠め、左へカーブした先で、霊仙寺山登山口の標識があった。ここから数軒の家が並ぶ霊仙寺の集落に進む。集落の奥で未舗装の林道に変わると、すぐ先で霊仙寺跡の車数台を置ける駐車場に出た。
 静かに夜を過ごすことができたが、夜中の冷え込みは厳しかった。
 駐車場には、霊仙寺跡の説明が、次のように書かれていた。
「霊仙寺跡は、山岳信仰の修験所の遺跡で、霊仙寺山を経て飯縄山、戸隠中社という霊地へと通じる道の入口でもありました。霊仙寺は鎌倉時代にすでに栄えていた記録が残されていて、創始はさらにさかのぼるものと思われます。五社権現をまつり、前宮と奥ノ院があって、その別当寺(神宮寺)として霊仙寺がありました。応永十一年(1404)の年号が刻まれた石水鉢があり、室町時代にも信仰の地として栄えていたことがうかがえます。戦国時代の戦乱で焼かれましたが、上杉氏によって再興されたと伝えられています。江戸時代に入ると本居が長沼(長野市)に移され、明治のはじめには廃寺となりました。
 杉林の中に霊仙寺講堂や前宮の礎石、鳥居跡、石階段などが残され、山岳信仰の修験の場を今に伝えています。」
 登山を始める前には、この説明を読んでおくべきのようである。杉林の奥に遺構が広がっていたが、まずは山に向かうことにした。霊仙寺山登山道の標識が、林道の奥を示している。荒れた林道を進むと、左に霊仙寺山への道が分かれた。林道は、そのまま先に進んでいるので、この分岐を見落とさないようにする必要がある。
 参道を進むと、右手に手水石、その先に石段が現れた。説明板には、次のように書かれていた。
「石階段と手洗の水鉢
 戦国時代には上杉謙信の信仰をうけましたが、甲越合戦の兵火によって全山が焼してしまいました。しかし、天正十年(1582年)上杉景勝が北信濃を領有するに及んで復興されました。
 石階段と手洗の水鉢は上杉氏の寄贈と伝えられています。」
 石鉢や階段には苔がついて、時の流れを感じさせていた。滑りやすくなった石段を登ると五社権現奥の院跡に到着した。小広場の中央には、小さな石の祠が置かれていた。広場の左手には、大岩が転がり、霊場の雰囲気を漂わせていた。
 霊仙寺山へは、右手の山道に進むことになった。ここまでは、史跡巡りであったが、ここからは登山に変わった。
 ひと登りで尾根の上に出ると、後は尾根沿いの登りが続いた。最初は杉林が周囲に見られたが、すぐに雑木林の中の登りになった。陽だまりの中の歩きは気分が良かった。白樺の林も現れて、青空をバックにした白い幹の眺めを楽しむことができた。
 「ここは上村分岐、標高1500m ←ゲレンデ・水神」という標識があり、左から登山道が合わさった。もっともGPSで記録したこの地点を後で地図上で確かめると、1330m地点であった。
 この先で、急な登りが続くようになった。目標地点の無い一本尾根で、途中の三角岩くらいが目印になる。三角岩といっても、そう大きなものでなく、数歩で脇を通過できるが、標識もあり、目印にはなる。
 草付きの登りになると、展望も広がった。背後を振り返ると、霊仙寺湖が眼下に遠ざかり、その向こうには志賀の山が広がっていた。
 傾斜が緩んで、山頂も近いと思うようになると、南の谷越しに、飯縄山の山頂も見えるようになった。登山道をうっすらと雪が覆うようになった。
 山頂での展望の期待を膨らませながら歩いていくと、稜線を越した先の眺めが広がった。真白き後立山の峰々の眺めに思わず見入ってしまった。白馬三山、唐松山、五竜岳、鹿島槍岳と、各ピークをそれぞれ眺めることができた。考えれば、ここから後立山連峰までの距離は僅かであるが、これほどまでの展望は予想外でもあった。
 稜線分岐に出ると、霊仙寺山へは右へ。左の道は飯縄山へ続く。飯縄山も魅力的な姿を見せており、ここまで登ってきたのなら、足を延ばさないわけにはいかない。とりあえず、霊仙寺山の山頂を踏むことにした。
 ここから山頂までは、僅かな距離ではあるが、写真撮影で足が度々止まってしまった。 ひと登りで霊仙寺山の山頂に到着した。山頂は広場になっており、中央に石碑が立てられていたが、何と書かれていたかは読み取れなかった。黒姫山越しに妙高山や火打山の眺めが広がっていた。妙高山は黒々としていたが、火打山は真っ白であった。高妻山もすぐ近くに見えていた。一人きりの山頂を楽しんだ。
 飯縄山へ歩き始めると、単独行が登ってくるのとすれ違った。雪の上の足跡がすると、飯縄山からの往復のようであった。この後、単独行と5名程のグループとすれ違った。下山時には、スキー場からの単独行とすれ違い、これらが、この日の霊仙寺山の登山者の全てであった。
 霊仙寺山から飯縄山へは、標高差にして60m下って80m登るので、そう大したことはないと思ったが、岩を乗り越すところもある歩きにくい道が続いた。急坂を登り切ると、瑪瑙山との分岐に出て、その先が飯縄山の山頂であった。飯縄山の山頂は、霊仙寺山と違って、大勢の登山者で賑わっていた。
 飯縄山の山頂からは、ほぼ360度の展望が広がっていた。後立山連峰の眺めは、霊仙寺山からの眺めとそう変わらなかったが、北アルプス南部まで続く稜線の眺めが広がっていた。槍ヶ岳や穂高岳付近まで展望が広がっているようではあったが、山頂部に雲がかかって、各ピークを見分けることはできなかった。
 風当たりの弱い所に腰を下ろしてひと休みした後、下山を開始した。下山時には、落ち葉の下の霜柱が融けて、非常に滑りやすくなっていた。注意しても、数回尻餅をついてしまった。
 下山後、近くの温泉ということで、霊仙寺湖の畔にある天狗の館に向かった。気持ちの良い温泉であたが、湖越しに眺める霊仙寺山の眺めも素晴らしかった。霊仙寺山登山の後には、天狗の館を訪れることを勧める。
 翌日は迷ったが、関田山塊にある黒岩山を登ることにした。天気予報では、午後から崩れるというが、朝から歩けば大丈夫なはずである。
 飯山で食料の買出しを行った後に、県道飯山新井線に進んだ。すでに冬季閉鎖になっていたようであるが、ゲートもないので、先に進んだ。舗装され幅も充分ある道であったが、数え切れないカーブが続いた。一気に高度が上がった。峠部に到着すると、右手のピークに向かって林道が分かれた。平丸峠は、少し先で、関田山塊は、この付近では二重山稜になっている。林道が続く先のアンテナの立つピークは、地図には名前は書かれていないが、鷹落山と呼ばれるらしい。ここから黒岩山に向かう登山道があるはずなので、路肩広場に車を停めて寝た。
 夜中に心配であったのは、雪が降り出すことであった。標高も800mあり、天気が崩れれば、あっという間に雪が積もって、車での下山が危険になる可能性があった。幸い、前夜ほどは冷え込まず、朝を迎えることができた。
 曇り空の朝になった。とりあえずは、黒岩山に向かうことにした。林道の反対側、十字路になる形で山道が始まっていた。歩き出すと、すぐに北に向かって方向を変えて、稜線の上に出た。関田山塊には信越トレイルということで登山道が整備されているが、ここの道は、林道跡のような感じであった。
 緩やかな稜線を歩いていくと、分岐に出た。信越トレイルの標識があり、鷹落山0.9km、桂池1.3kmと書かれている。歩いてきた道が、鷹落山への道で、帰りは信越トレイルの順路になる桂池への道に進むつもりであった。
 その先僅かで黒岩山に到着したが、山頂は特徴の無い稜線上の一点であった。標識も無い山頂であった。その先に進んで僅かに下ると、あずまやが現れた。脇は広場になっているが、山の斜面は崖状になって切り落ちていた。飯山市街地を見下ろすことができ、高社山が向かい合うように聳えていた。志賀の山並みを眺めることができるはずであったが、厚い雲に隠されていた。雨が降り出し、あずまやの下で傘を取り出すことになった。
 引き返して、分岐から桂池への道に進んだ。トラバース気味に下っていくと、ブナ林に囲まれた小さな池の畔に出た。左右に道が通じていたが、右手の道に進んだ。この付近は、ブナ林の散策路といってよい。
 桂池の手前で、道は二手に分かれた。直進すれば桂池に出て、歩行距離も短くなるようであったが、時間に余裕もあったので、左の道に進んだ。ブナ林の中を登ってから下っていくと車道に飛び出した。この入口には、太郎清水と呼ばれる水場があった。
 車道を戻っていくと、桂池の脇に出た。紅葉の盛りはすぎたとはいえ、池の周囲の木立は、落ち着いた色の茶に染まっていた。普通の観光地なら、カメラマンがゾロゾロいるはずなのだが、あたりに人影はなかった。
 桂池に向かい合うように、平丸池がある。車道から分かれる林道に進むと、すぐ先で平丸峠の標石が現れた。道を下っていくと、池の畔に出た。取水関を越した先に踏み跡があったので辿ると、車道脇のトイレ脇に出た。丸太の段々で整備されているとはいっても、薮化が進んでいる遊歩道であった。平丸池を訪れるなら、林道経由が良い。
 車に戻り、今度は、高落山に向かった。林道をひと登りすると、展望図が軒下に飾られたあずまやが現れた。ここの斜面も崖状に切り落ちており、眼下に飯山市街地を見下ろすことができた。簡単な踏み切り台のようなものが作られており、パラセールかなにかのスタート台になっているようであった。
 山頂部は、いくつものアンテナ施設が並んでいた。一番高い所にある施設の背後に回り、薮の間の踏み跡を辿ると、鷹落山と書かれた立派な山頂標識が現れた。この標識のことは、インターネットを見て情報を得ていたが、前もって知らなければ、探すはずも無いものであった。
 車に戻り、続いて小菅山に向かった。山を下り、千曲川を渡った先の小菅の集落が登山口になる。
 小菅の集落までの途中には、大きな鳥居、仁王堂が現れた。小菅神社は白鳳8年(680年)に創建され、中世には戸隠や飯綱と並ぶ北信濃の三大修験場にあげられていたといた。本堂、講堂、三重塔、仁王門、鐘楼を構え、37の坊、100の末院、6社、5堂が立ち並び修験、山伏、僧侶が300人いたという。永禄4年(1561年)に武田信玄の侵攻により奥社を残し諸坊ことごとく焼き払われ衰えてしまったが、その後上杉氏により復興され、さらに飯山歴代城主により保護されてきたという。
 めざす小菅山は、地図にも名前が記載されておらず、どこが山頂かも判然としないが、小菅から小菅神社奥の院、小菅山を経て北竜湖に至るハイキングコースが整備されている。小菅神社の裏山が小菅山であるようである。
 集落に到着し、坂道の上に神社の杉並木入口が見えるところに駐車場があったので、ここから歩き出すことにした。いずれにせよ、北竜湖へ周回した後に戻ってくることになるので、無理して車を進めることはない。
 僧坊のようなお寺に挟まれた坂道を登っていくと、鳥居の立つ杉並木の入口に到着した。石段の道が始まった。傾斜もけっこうあるようで、登っていくと息が切れた。奥の院詣でといっても、観光気分では無理なようで、ハイキングの覚悟は必要なようであった。あぶみ石だとか隠れ石などの説明板が次々に現れたが、石自体が小さく、いかにもこじつけ然としており煩く感じられた。
 谷間が狭まって杉並木が終わると、左手の尾根への登りが始まった。参道歩きと油断していたが、足も辛くなってきた。愛染岩と呼ばれる大岩の下を過ぎると、深山の雰囲気も漂うようになった。
 道は二手に分かれ、左は迂回路で、右の道は鎖場があると書かれていた。大したことはあるまいということで、右手の道に進んだ。短いが、鎖に頼る必要のある岩場が現れた。これを越すと、お堂が現れた。そう大したものではないなと思って上を見ると、大きなお堂の屋根が目に入った。下の建物は、社務所のようなもののようであった。
 左右に並んだ石灯篭の間を抜けて石段を登ると、奥の院に到着した。回廊を備えた、立派な建物であった。冬支度なのか、戸は閉められていたが、周囲の回廊は歩くことができた。このような山中にと驚かされる建物である。室町時代中期のもので重要文化財にも指定されており、上杉謙信が川中島出兵のおりには、必勝祈願の願文を捧げたという由緒あるものである。
 一旦止んでいた雨が降り始め、軒下でひと休みしてから、傘をさして歩き出した。迂回路の方に僅かに下ると、高みに向かう山道が分かれた。北竜湖へのハイキングコースであるのは判るのだが、入口のプレートに「通れない」と手書きで書き込まれていた。迂回路でもできているのかと思って、先に少し進んでみたが、この道しかないようであった。
 高みに向かう道は、ハイキングコースとして、丸太の段々が整備されたようであるが、崩れて歩きにくい状態になっていた。といっても歩けない状態ではない。
 尾根上に出ると、水の涸れた用水路沿いの歩きになった。谷沿いから幅広尾根に出ると、周囲には立派なブナ林が広がるようになった。ガスがかかり、周囲は薄暗くなってきた。登山道を落ち葉が覆って、コース判断も難しくなってきた。残置テープを辿りながら、山勘を働かせながらの歩きが続いた。こあたりが小菅山の山頂のようであるが、山頂標識もなく、はっきりしない。
 1017m点を過ぎると、左手への枝道があり、その先は展望台ということであった。北竜湖を見下ろすことができるようであったが、展望は閉ざされていた。
 下るに連れて尾根も細くなって、道を見失う心配も無くなった。鉄柱の間に鎖が張られたガードが現れたが、傾斜が少しきつい程度で、転落の心配もない場所であった。鉄柱はすでに傾いており、なんのためのコース整備か判らない状態である。
 北竜湖まであと僅かというところでブルも入っている作業道の歩きになって、最後は林道に飛び出した。北竜湖をかすめて林道を下っていくと、北竜湖の畔に出た。公園風に整備されていたが、シーズンオフで、観光客もおらず、静まり返っていた。この後の車道歩きも、それほど長くはならずにすんだ。
 雨に濡れて早く温泉に入りたかったが、北竜湖脇のホテルの日帰り入浴は800円と高かったのでパスして、帰宅途中の国道沿いにあるトマトの国で温泉に入った。温泉から出ると、土砂降りの雨になっていた。
 家に戻ってニュースを聞くと、津南では、70センチの11月としては記録的な大雪になっているということであった。数時間の差で、大雪から免れたことになる。

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