越後駒ヶ岳、丸山

越後駒ヶ岳
丸山


【日時】 2007年9月15日(土)〜16日(日) 前夜発1泊2日 各日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 15日:晴 16日:晴

【山域】 越後三山
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
道行山・みちゆきやま・1298m・なし・新潟県
小倉山・おぐらやま・1378.0m・三等三角点・新潟県
越後駒ヶ岳・えちごこまがたけ・2002.7m・一等三角点補点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 日光/八海山/八海山
【コース】 石抱橋より 登り:学習院大学ルート 下り:銀の道
【ガイド】 新潟日帰りファミリー登山(新潟日報事業社)、山と高原地図「越後三山・卷機山・守門岳」(昭文社)
【温泉】 しろがねの湯(650円)

【山域】 奥只見
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
丸山・まるやま・1242.2m・三等三角点・新潟県
【コース】 奥只見丸山スキー場
【地形図 20万/5万/2.5万】 日光/八海山、檜枝岐/奧只見湖、高幽山
【ガイド】 新潟のハイキング(新潟日報社)

【時間記録】
9月14日(金) 19:40 新潟=(関越自動車道、小出IC、R.352、シルバーライン 経由)=22:30 銀山平  (車中泊)
9月15日(土) 5:54 石抱橋―6:12 銀の道取り付き―6:34 取り付き―7:48 道行山〜7:54 発―8:31 小倉山―9:07 百草の池―9:37 前駒―10:01 駒の小屋―10:20 駒ヶ岳〜11:00 発―11:10 駒の小屋―11:26 前駒―11:47 百草の池―12:18 小倉山―12:55 道行山―13:50 明神峠―13:58 銀の道分岐―15:01 銀の道取り付き―15:22 石抱橋=(シルバーライン 経由)=17:30 奥只見ダム  (車中泊)
9月16日(日) 7:33 奥只見ダム変電所入口―8:11 ぶな平ヒュッテ―8:52 丸山〜9:30 発―10:02 ぶな平ヒュッテ―10:32 奥只見ダム変電所入口=(シルバーライン、R.352、小出IC、関越自動車道 経由)=13:30 新潟

 越後三山は、八海山、中ノ岳、越後駒ヶ岳の三つの山をまとめての総称である。これらの三山は馬蹄型に山稜を連ね、中央の水無渓谷に一気に落ち込んでいる。三山の内では、中ノ岳が最高峰であるが、二番目の標高を持つ越後駒ヶ岳が、日本百名山にも取り上げられて知名度も高い。枝折峠からの明神尾根がもっとも利用されているが、駒ノ湯からの小倉尾根コース、水無渓谷からのグシガハナコース、さらに銀山平から小倉尾根途中の道行山へ登る登山道も開かれている。

 丸山は、只見川をせき止めてできた奧只見ダムの西岸にある山である。豪雪地にあって豊富な雪に恵まれていることから、春スキーで有名な奥只見スキー場が開かれており、山頂までスキー場の管理道が通じている。以前は、丸山への遊歩道はあったようであるが、現在は廃道になってしまったようで、この管理道を歩くことになる。

 三連休であったが、天気予報は、土曜日がかろうじて曇りで、後は雨模様というぱっとしないものであった。どこかテント泊の山と思っていたが、日帰りの山に計画変更することになった。
 登っていない山あるいは歩いていないコースを考えていくと、奥只見の銀山平から越後駒ヶ岳へのコースが思い浮かんだ。石抱橋から柳沢右岸尾根を経て道行山に登るコースは、山スキーのコースとして一般的に使われているが、登山道も整備されている。また、枝折峠側の明神峠には、銀の道も越えている。越後駒ヶ岳に登る際に、この二つの道を使ってみることにした。
 前夜のうちに銀山平に入った。銀山平では、トイレが石抱橋脇をはじめ数箇所設けられており、野宿をしやすくなっている。夜中は、満天の星。天気予報とは違い、快晴の朝になった。石抱橋の上からは、北ノ俣川の上流に越後駒ヶ岳の山頂が姿を現していた。高みに聳え、距離もありそうで、気を引き締めて登る必要がありそうであった。
 橋のたもとに、釣りの監視所があるが、その前に、銀の道一合目石抱の標柱がたっている。その奥に、銀の道の案内板も置かれている。
 『平成十五年度指定 湯之谷村文化財 銀の道(旧枝折峠)
 「銀の道」は平安末期、長寛元年(1163)尾瀬三郎房利郷が京を追われ、尾瀬へ逃げ延びた道としての伝説を持っている。それから約五百年後、銀山が発見され、銀を運ぶ唯一の道であった。銀山最盛期には、一万数千人が行き来し、人馬の絶えることがなかったという。
 人の汗、馬の汗、そして遊女の涙・・・さまざまな人間模様が刻まれ、どれほどの汗や涙を吸ったことだろうか。
 登り口は、口留番所のあった駒ヶ岳山麓の駒ノ湯近くの、坂本から始まる。坂本〜枝折大明神は標高差九百mで、延長約八km、眺望の良い所、水場など、自然と一服場が生まれ、人々の語らいの場となっていた。また、問屋場には、季節女郎までいたという。
 血と汗と涙で踏み固められ、銀鉱町と共に栄枯盛衰の歴史を刻んだ道である。

一合目 石抱 拷問所のあった所。膝の上に重石を積んで告白を強要した。
二合目 榛(はん)ノ木 榛の巨木がそびえていた。
三合目 オリソ 降りる沢。
四合目 十七曲がり つづら折りの坂道。
五合目 松尾根 松の巨木が繁っていた。
六合目 ブナ坂 ブナの巨木が両側に繁っていた。
七合目 焼山 当事の山火事で、一帯が焼け果てたことから。
八合目 水場 定かに水場の跡が確かめられ、湧水が今も続く。
九合目 問屋場 問屋場で、季節遊女までいた。
十合目 大明神 山仕事や鉱山普請の安全を願って、木花開耶姫(このはなさくやひめ)命をまつってある。
九合目 日本坂 日本中が見渡せるほどの展望。
八合目 仏堂 お堂があり、多数の仏像が安置されていた。
七合目 千体仏 多数の仏像を安置したところから。
六合目 中ノ水 付近一帯をこのように呼んでいた。
五合目 半腹石 峠の頂と麓との中間点
四合目 水函 湧き出す水を箱にため、水場とした。
三合目 楢の木 水楢の大木がそびえ、格好の休憩所であった。
二合目 目覚し 芋川宿を早立ちすると、ここで夜が明けることから。
一合目 坂本 峠のはじまり。
 魚沼教育委員会』

 概念図も書かれた丁寧な案内図である。
 その奥には、「河は眠らない」と掘り込まれた開高健の碑が置かれている。銀山湖の巨大岩魚を紹介し、銀山湖の魚の保護にも力を注いだ作家であるが、銀山平で釣竿を垂れる釣り人のどれほどが、氏の作品を読んでいるのだろうか。「夏の闇」は、ここで構想が練られたという。日本百名山の深田久弥と同じに、釣り人のカリスマの開高健。本業の作品以外のところで名前が残されるのは、どのようなものであろうか。
 いろいろ案内板を呼んでいて、歩き出しは遅れた。
 碑の奥に続く道に進んだ。小砂利の敷かれた林道であったが、ススキが倒れこんでおり、朝露をストックで払いながらの歩きになった。右岸に渡る橋の手前の二合目榛ノ木で、山道に進んだ。道の様子からすると、あまり歩かれていないようであった。途中、急斜面で落ち込む川岸のへつりもあり、山スキーで歩くコースにしては様子がおかしかった。
 銀山平に作られたログハウス群の背後に回りこんだところで、林道に飛び出した。地図にも、枝折峠への車道を進みカーブ地点から分かれる道が記されている。結局、現在ではあまり使われていない旧道を歩いてきたことになる。林道に上がってすぐ先が、銀の道の三合目のオリソであった。
 この先は、林道歩きがしばらく続いた。柳沢の右岸尾根に取り付くのだが、ここには赤テープが掛かっているだけで、標識はないので注意が必要である。GPSを使っておれば、見落とす心配もなく、気楽に歩ける。
 このコースは、学習院大学コースとも呼ばれるようである。夏道としては、道行山から銀山平への近道として利用されているという。雪山のメインコースであっても、夏に歩く者は少ないようである。夏草が少しうるさいものの、しっかりした登山道が続いていた。しばらく柳沢の上流部に進んだ後に、枝沢を渡ると、枝尾根の急な登りが始まった。1064m点の北の肩に上がったところで、傾斜も少し緩やかになる。北西に方向を変えてしばらく緩やかな尾根を辿る。周囲にはブナ林が広がり、道行山の稜線や越後駒ヶ岳をうかがうことができる。再び急斜面の登りになる。この急斜面を登り切って、周囲は潅木帯に変わると、道行山に到着した。取り付きからは、1時間15分の登りであったので、意外に早く感じられた。
 道行山の山頂からは、遮るもののない展望が広がっていた。越後駒ヶ岳、中ノ岳、荒沢岳、未丈ヶ岳、毛猛山塊といった山々。歩き始めの銀山平も眼下に眺めることができた。枝折峠からのコースを歩いたのは、これが三度目であるが、この小倉山からの展望を楽しんだのは始めてである。枝折峠からの登山道は、この山頂直下を通過しており、道行山の山頂に寄らずに先を急ぐことになる。道行山は、越後駒ヶ岳の随一の展望地であるので、ひと登りすることを進める。位置的関係から、駒ヶ岳に朝日が当たっている行きに寄るのが良い。帰りは逆光になって、写真写りは悪くなる。この日も、昼過ぎから、気温が上がってもやった感じになり、道行山での写真が一番美しい結果になった。
 次の目的地の小倉山へは、緩やかな尾根の登りが続く。小倉山で、駒の湯からの登山道が合流し、この先の歩いた回数も多くなる。スタート地点の関係か、出会う登山者も少なく、静かな歩きを続けることができた。
 百草ノ池からは、急坂の登りが続く。コース終盤の一番の頑張り所といって良い。登りきった1763m点の前駒からは、越後駒ヶ岳の山頂直下の岩場の眺めが広がる。風景を楽しみながら、最後の休憩を取った。
 岩尾根を辿ると、鎖もかかる岩場の登りになる。鎖は、一番急な所に落ち込んでいるので、鎖とは無関係に、左手の薮との境を登った方が足場も豊富で楽である。その先の岩場も、足場の続きを良くみると、難しい登りではない。
 駒の小屋に到着すると、駒ヶ岳の山頂も目の前になる。驚いたことに、団体の列が続いていた。ここまで、静かな歩きを続けてこれたので、良しとしよう。1時間30分後に出発しますという声も聞こえていた。数組の団体がいるようであった。
 山頂直下の雪渓もなくなり、水は下の沢まで下りる必要があった。草原も、茶色に色づきはじめていた。
 団体の列について、山頂に向かった。山頂は登山者で大賑わいであったが、どのみち、混みあう山頂で休む気もない。周囲の写真を撮り、中ノ岳方面の縦走路に少し進んでから腰を下ろした。気温も猛暑日の状態に上がっており、ビールがうまかった。
 中ノ岳方面の展望は、駒ヶ岳の山頂からでは、薮が前景に入ってしまう。この下り口まで進むと、遮る展望が広がる。中ノ岳のピラミッド型の山頂と、そこに続く縦走路の取り合わせが美しい。八海山の岩峰も手に取るように見える。巻機山の山頂は雲で隠されており、谷川連峰方面の天気はあまり良くないようであった。妙高連峰も良く見えており、その奥に広がる稜線は、白馬連峰であろうが、姿をはっきり捉えることはできない。
 展望を楽しんだ後に、駒の小屋まで下りると、団体が出発の合図をしていた。団体に巻き込まれてはたまらないと、岩場の下りを急いだ。その後は、マイペースでの歩きを続けることができた。
 気温が上がってきて、辛い歩きになってきた。この暑さの中、まだ登ってくる登山者も多かった。駒の小屋に泊まるとなれば、時間的には余裕はあるのだろうが、暑いさなかに登るのは、苦行といってよい。山は、やはり朝の涼しいうちに登るのが良い。
 道行山まで戻り、銀の道を歩くために、明神峠に進んだ。間には、二つの小ピークがあり、この上り下りが、意外に体力を必要とした。体力に余裕のない登山者は、この最後の区間で、ばてる者も出てくるであろう。
 1235mのピークには、明神峠と書かれた標識が置かれているが、その少し下に大明神のお堂があり、銀の道が駒の湯から上がってきている。山頂を峠と呼ぶ例もあるが、やはり明神峠というのは、お堂のある地点ではないだろうか。
 枝折峠への道を200mほど進んだところで、銀山平への銀の道が分かれる。入口付近は、夏草が少しうるさい状態であったが、道はしっかりしていた。分岐からすぐの台地に、問屋場の標識が現れた。この先の合目標識は、間隔は一定しておらず、歩く配分の助けにはならない。また、上からおりていくため、十七曲がりやブナ坂などは、通過してから標識を読っむことになってしまう。
 尾根の途中には、旧街道に見られるような、溝状の窪地も現れた。つづら折りも交えながら、高度を下げていく歩きやすい尾根道であった。途中で、枝折峠への車道が脇に寄ってきたが、コンクリートで固められた法面の縁を歩くため、転落しないように注意が必要であった。
 銀山平のログハウス群が近づき、最後のつづら折りを下りきると、三合目のオリソに到着した。
 今度は、林道をそのまま歩いて、枝折峠への車道に出てから戻った。
 大汗をかいた歩きになったが、下山後の入浴のための、しろがねの湯が近いことはありがたい。この温泉の浴室からは、越後駒ヶ岳と中ノ岳の山頂が一望でき、登山を終えるのに相応しい。
 翌日の山を考える必要があった。候補は、いくつか考えてあった。銀の道の駒の湯からの半分も考えていたが、もう少し涼しくなってから歩きたい。未丈ヶ岳を歩くには、少し疲れている。結局、まだ歩いていない奥只見丸山を登ることにした。
 一旦小出に戻り、食料の買出しを行ってから奥只見に戻った。奥只見ダム周辺には、いくつもの駐車場が設けられているが、トイレも設けられたポケットパークがあったので、そこで夜を過ごすことにした。寝るまで車は無かったのだが、明け方から車が到着して、鈴を鳴らしながら歩き出す音がして目が覚めた。登山者ではなく、釣り人が集まっているようであった。
 快晴の朝になった。曇り時々雨の天気予報ははずれたようである。奥只見ダム下の駐車場に移動した。銀山平やスキー場までは何度も訪れているが、このダム下の駐車場を訪れたのは、大学時代にダム湖を船で渡って尾瀬に入った時以来である。船付き場までの登り坂には、観光客が利用するモノレールが設けられていた。
 今回の丸山登山についてのガイドは、「新潟のハイキング」(新潟日報事業社)にのっているが、1984年発行で、現状と違っていて何度も苦い目にあっている。地形図には、船付き場の先から尾根に取り付く破線が記載されているので、なんとかなるかなと思ってあるきだした。
 駐車場の上には、巨大なダムの堰堤が横たわっている。このダムは、「ホワイトアウト」の舞台になっている。冬の間は、シルバーラインが唯一のアプローチで、それを閉鎖すれば、密室状態になるというのが、話のバックグランドになっている。
 ダムサイトに出ると、観光船も桟橋に付けられたままで、湖面には釣り人のボートが浮かぶという静かな朝の風景が広がっていた。船着場の先に進むと、そこで行き止まり。一段上に上がり、民宿の前の駐車場の奥から道が始まっていた。入口には、関係者以外は立ち入り禁止という看板が置かれていた。ハイキングコースにしては様子がおかしかったが、様子をみることにした。草がはえた幅広の道が続いていたが、破線が始まるはずの尾根の先の沢で、道は消えていた。ここからの登山道はないようであった。
 ハイキングコースとなると、いろいろな施設の関係で取り付きは違っている可能性がある。その上の奥只見電力館からかなと思って先に進んだが見つからなかった。電源神社も石段を登ってのぞいてみたが、登山道は見あたらなかった。家に戻ってから本を読み返すと、この電源館が登り口であったようである。
 諦めて、スキー場に続く管理道を歩くことにした。この道も地形図には記載されているが、実線である。
 実線の始まりは、変電施設へ通じる車道の途中にある。シルバーラインに戻り、この車道の入口にある空き地に車を置いて歩き出した。宿舎の前を過ぎると、カーブ地点から管理道が始まっていた。簡易舗装も施されており、普通車でも走れる状態であった。
 カーブを交えながら登っていくと、背後にダムの眺めが広がった。歩き出しをもたもたしていたせいで、日差しがきつくなってきた。周囲にブナの大木が並ぶようになるが、スキーの林間コースとして、幅広く刈り払われているので、木陰はない。
 ブナ平ヒュッテと呼ばれる広場に出て、ゲレンデの中間点となる。山頂も、スキーゲレンデの上に見えているが、取り付けば、目に見えるよりも急斜面であるはずなので、そのまま管理道を進んだ。この先は、未舗装の荒れた道になった。斜上した後に、つづら折りの登りになった。尾根の上に出て、傾斜は緩やかになると、二本目のリフトの終点になる。リフトの乗り継ぎとしては、一旦尾根の北側に滑り降りてから三本目のリフトに乗ることになるが、そのまま尾根沿いの歩きを続けることになる。
 ひと登りすると、丸山の山頂に到着した。山頂のヒュッテもあり、リフトも上がってきており、登山の対象として考えると、あまりぱっとしない。しかし、展望は、素晴らしかった。未丈ヶ岳が目の前に広がり、荒沢岳が険しい山頂を見せていた。燧ヶ岳、会津駒ヶ岳、会津丸山岳がすぐ近くに見えていた。村杉岳も谷向こうのすぐ近くに見えていた。味わいのある眺めであった。
 下りも暑さがこたえた。時間も早かったが、家に戻ることにした。

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