六十里越街道、高倉山

六十里越街道
高倉山


【日時】 2007年9月8日(土)〜9日(日) 前夜発1泊2日 各日帰り
【メンバー】 8日:二名 9名:単独行
【天候】 8日:曇り 9日:晴

【山域】 月山周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
六十里越街道・六十里街道・山形県
【コース】 田麦俣より志津へ
【地形図 20万/5万/2.5万】 村上/湯殿山/湯殿山
【ガイド】 分県登山ガイド「山形県の山」(山と渓谷)、山と高原地図「鳥海山・月山」(昭文社)
【温泉】 湯殿山ホテル 400円

【山域】 月山周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
高倉山・たかくらやま・1053.8m・二等三角点・山形県
【コース】 今神温泉登山口より
【地形図 20万/5万/2.5万】 仙台/月山山/肘折、立谷沢
【ガイド】 分県登山ガイド「山形県の山」(山と渓谷)

【時間記録】
7日(金) 19:30 新潟=(R.7、鶴岡、R.112 経由)=23:30 志津 (車中泊)
8日(土) 5:50 志津=(R.112 経由)=6:30 田麦俣蟻腰坂入口〜6:40 発―6:54 弘法茶屋跡―7:03 馬立―7:11 塚ナラ―7:15 国道―7:31 ラブラブナ―7:35 独鈷清水〜7:42 発―7:52 護摩壇―8:01 ざとうまくり―8:07 御身仏茶屋跡―8:16 小堀抜―8:23 大堀抜―8:45 細越峠〜8:55 発―8:57 遥拝所入口―9:08 一杯清水―9:18 笹小屋跡―10:01 湯殿山本宮〜10:22 発―10:51 薬師小屋跡―10:54 六十里越街道分岐―11:08 龍ヶ池―11:21 菅谷地―11:36 雨池―11:49 二ノ峠―12:08 大ぐき峠〜12:35 発―14:07 車道―14:15 月山荘駐車場=(R.112、田麦俣、R.112、R.112、R.453、肘折 経由)=20:30 片倉  (車中泊)
9日(日) 7:00 片倉=(角川 経由)=8:00 今神温泉登山口〜8:18 発―8:49 御池〜8:55 発―9:03 分岐―10:16 水場―11:16 高倉山〜11:32 発―12:05 水場―11:07 分岐―13:17 御池―13:45 今神温泉登山口=(古口、R.47、R.345、鶴岡、R.7、中条、日本海東北自動車道 経由)=16:40 新潟

 六十里越街道は、庄内地方と内陸部を結び、物資の交易とならんで、湯殿山参拝に利用されてきた。この旧街道をコースを変えて整備し、車の通行を可能にしたのが、国道112号線で、これも六十里越街道と呼ばれるので注意が必要である。さらに、現在では、山形自動車道の中断区間になっている湯殿山ICと月山ICの間を結ぶ月山道路がこの間の交通に利用されている。湯殿山の山裾をぬう六十里越街道は、多くの史跡と並んで、美しいブナ林を楽しむことができ、ハイキングコースとして知られるようになってきている。

 月山の登山口の一つである肘折温泉の近くに、念仏温泉と呼ばれる病気療養専門の今神温泉がある。この奥に、ブナ林に囲まれた神秘的な御池があり、そこに姿を映す今熊山は、山形県の山のガイドにも取り上げられている。池を挟んで、高倉山があり、登山道が開かれているものの、情報は少なく、登る者は少ないようである。

 8月18日に湯殿山登山口から月山に登ったばかりである。この湯殿山への参道として使われてきた六十里越街道が、ハイキングコースとして整備されているというので、興味を持った。湯殿山ホテルで入浴した時、還暦のお祝いに白装束で六十里越街道を歩くという催しのパンフレットを見て、ますます興味は増した。
 一方通行のハイキングコースのため、車二台が必要になって、単独では歩けない。Tさんも歩きたがっていることを知り、一緒に歩くことにした。
 田麦俣から志津へ歩くことにして、志津の月山荘前の駐車場で待ち合わせとした。前夜入りして朝を待った。台風が東北に抜けたところで、天気が危ぶまれたが、曇り空の朝になった。
 待ち合わせ時間少し前に合流し、私の車を置いて、田麦俣に向かった。月山道路は、トンネルと橋で結ばれた高規格道路で、かなりのスピードが出る道であるが、それでも30分ほどの時間がかかった。この距離を歩けるのか、不安も湧いてくる。
 月山道路から谷に向かって下っていくと、田麦俣の集落に出る。田麦俣の見所は、多層民家である。茅葺屋根で、二階建ての上に養蚕の部屋が乗せられている。二軒の建物が並んでおり、前には車が停められていた。どうやら、現在でも実際に人が住んでいるようである。鶴岡の致道博物館にも一軒が移転されている。
 集落を抜けて、田圃の中に続く坂道を登っていくと、カーブを越したところに、六十里越の登山口があった。六十里越街道と書かれたゲートが置かれており、間違える心配はない。蟻腰坂登り口と書かれ、弘法茶屋跡まで0時間20分 0.5kmなどと、次の目標地までの時間と距離が書かれていた。この標識は、湯殿山までの前半には、数多く付けられており、歩きの助けになる。この登山口の前には、車を置くスペースがあった。
 しっかりした登山道が続いていた。坂をひと登りすると、弘法茶屋跡に到着した。汗を拭きながら振り返ると、田麦俣の集落を見下ろすことができた。「弘法大師が休憩したと伝えられるこの茶屋跡は、約10m四方の広場になっている。灯篭1基(慶応元年/1865年/村上、酒田、大山、田麦俣等の人々の奉納)、弘法大師供養塔(天保年間/1830年代などの石碑3基がある。」という説明板が置かれていた。丁寧な説明板がこの先幾つも現れて、助かるのと同時に、読むのも大変になった。「田麦俣を眼下に見る峠にて 餅をくいぬわが子と共に 斉藤茂吉」という歌碑も置かれていた。旧街道の見所に加えて、斉藤茂吉の歌碑巡りも加わっている。この先はブナ林の中の、緩やかな登りが続いた。直接見えないが、地図を見ると送電線がそうように走っているので、送電線巡視路として整備されてもいるようである。
 次の目的地は、馬立。「蟻腰坂を登ってきた馬の荷物を積み直した場所であることから、この名がついたと言われている。」と書かれていた。
 その先僅かで、国道の月山道路の横断になった。道路を横断した先に旧道は続いているが、国道からは、一見したところでは判らない。ここから田麦俣までは、車では相当な距離を走ったのだが、歩いてみると、僅かな距離である。
 この先は、美しいブナ林が広がっていた。「ラブラブナ」という標識が現れ、良く見ると、二本並んだブナの木の横に伸ばした枝がひとつに合わさっていた。
 次は、「独鈷(どっこ)」「弘法大師が独鈷(密教で使う仏具で両端がとがった短い棒)で大地をついたところ水が渾々と湧き、大師はこの水で行水をなし、そばの杉の葉で手を拭いたために、葉の先がよじれたという伝説がある。杉は目通り1.5m、高さ30m、地上3.6mのところから幹が2本に分岐していた。昭和32年12月大風のため倒れたが、現在株分けした苗木を元の木のすぐ脇に植えている。」広場の脇の踏み跡を辿ると、水場から水が流れ出ていた。
 とりわけ美しいブナ林の中を歩いていくと、「護摩壇石」に到着した。「その昔弘法大師が荊を分けて道をつくりここで護摩祈祷をなしたという言い伝えがある拝所である。」と説明されていた。
 「座頭まくり 地滑りによってできた急斜面があり、盲目の人が杖を頼りに進むとまくれ落ちてしまうことから、この名が付いたと言われている。」の標識を見ると、崩壊地の脇の通過になったが、それほど危険な状態ではなかった。続いて、「御身仏」。「」ここは御(御・五)身仏と書記されている拝所である。また大杉の手前に見られる平地は茶屋跡と思われる。」と書かれている。
 その先で現れる「小堀抜(こほのぎ) 山を掘り抜いて造られた道。250mほど仙人沢方面に行くと大堀抜がある。」と「大堀抜(おほのぎ)」は、この六十里越街道のシンボル的な景観になっている。糸魚川と松本を結ぶ塩の道(千国街道)では、牛・人の往来によって斜面が削られて道が大きな溝になっているのをウトウと呼んでいるのと同じである。薄暗い溝を歩いていると、時代を遡ったような気分になる。
 この先は、登りが続くようになり、やがて細越峠に到着する。「夏茶屋跡と言われている。広い平坦地に湯殿山碑が2基ある。中でも明治13年7月に建立した湯殿山碑は四国阿波坂野郡撫養北濱産の石である。北前船の帰り荷といわれている。」この先下りになるので、ひと休みになった。
 峠から歩き出すと、すぐに遥拝所入口の標識が現れた。木の間から湯殿山の赤鳥居が見えることからすると、湯殿山を参拝できる見晴らしになっているのかもしれない。10分0.3kmとあって、少し離れているようなので、そのまま通過した。
 坂を下っていくと、「いっぱい清水」に到着した。「ここは、六十里越街道の中で、最も水量の豊富な水場で、いくらでも飲める場所です。この先にある、一杯清水は、一杯しか飲んではいけない水場です。」沢のように勢いの良い流れであった。この説明文を読んで、意味が判らなかったのだが、少し下ったところの一杯清水を見ると、ほとんど水は枯れていた。いっぱいとわずか(一杯)の違いを意味していた。
 坂を下ると、草原の広がる台地に出た。オタカラコウやオニシオガマ、オヤマリンドウの花が咲いていた。花を楽しみながら進むと、「笹小屋跡」に到着した。「笹小屋は注連寺、大日坊より出張して賄接待をした。明治末期頃遠藤某が茶屋を経営し豆腐を作って仙人沢で商っていたという。仙人沢への近道もこの人が切り開いたと伝えられている。現在も豆腐道として利用されている。」と説明されている。ここで、六十里越街道と湯殿山本宮への豆腐道が分かれる。
 ここで時間の確認。順調に進んでいるので、湯殿山本宮へ寄り道することにした。豆腐道に入ると、ここまでの道よりは、草が被り気味で、普通の登山道といった感じになった。尾根を乗り越すと、沢の上流に向かう道になった。湯殿山本宮の赤鳥居が目の前に現れると、仙人沢に向かっての下りになった。前日の雨のためか、水量は増しているようであった。流れを良く見ると、流れに沈んでいる岩を踏んでいけば渡れるようであった。結局、くるぶしほどまで水につかったものの、無事に渡ることができた。Tさんは、靴を脱いで渡ってきた。靴を脱ぐ気になれば、ここの徒渉はそれほど難しくはない。
 対岸は夏草が繁っており、道が判りにくくなっていた。坂を登ると、駐車場の脇に飛び出した。
 今回の六十里越街道歩きは、この湯殿山が中間点になる。ここで、大休止にした。観光地とあって、飲み物を売る自動販売機や食堂もあり、休むのには良いところである。一般的なハイキングなら、ここで歩きを打ち切って、食堂で昼食とし、後は湯殿山神社にお参りするのも良いであろう。
 前半は、分県登山ガイドが参考になったが、後半は山と高原地図を頼ることになった。しかし、ここから湯殿山本宮参道への入り方が判りにくかった。結局、登山者用に指定されている駐車場の湯殿山ホテル側に旧道の入口があった。ここには標識がないため、判りにくい。
 途中、ザンゲ坂の標識があるものの、緩やかな下りが続いた。一旦、湯殿山道路の脇に出るが、すぐに旧道は林の中に方向を変える。湯殿山道路は、歩行禁止になっている。
 薬師小屋跡(ここには大きな窯跡と炊事棟跡が残っている。明治期まであったといわれているが何時まで営業していたのか明らかでない。)を過ぎると、六十里越街道に合わさる。横断して左に下がる方向に湯殿山ホテルへに続く、湯殿山本宮参道が続いている。
 山腹を巻いていく道を進んでいくと、龍ヶ池が右手に現れた。「街道から下方に位置し、水面が樹間から見える。瑠璃色の神秘的な池である。」と書かれている。池までの道はなく、覗き込むことになった。池の周りに赤土が向き出た斜面が広がっているのが気になった。その先で、新しい排水溝が作られ、山の上に向かって広がる赤土の斜面の横断になった。自然が損なわれた感じで気になったが、造林のための伐採とも違うようで、土砂崩れ跡の整地なのであろうか。
 その後は、仙人岳から湯殿山にかけての山腹を巻く道が長く続いた。菅谷地(湿地帯でチシマザサが密生している。ここから湯殿山御寶前への横道があったといわれているが、現在は辿ることはできない。明治6年(1769年)の田麦俣肝煎文書によると、菅谷地への下りに鶴岡から9番目の一里塚があるとされているが、その所在は明らかではない。街道の側に一里塚と思われる小さな石が積まれた盛土があるが、まだ特定されていない。)や雨池(湿地帯から流れてくる、丸い小さな出口のない池(溜池)である。6月頃には、モリアオガエル、クロサンショウウウオの卵塊を見ることができる。ミズバショウの群落は疲れを癒してくれる。)を通っていく道は、地形的特長にとぼしく、現在地が判りにくい。
 小さな尾根の乗り越し部には、二ノ峠という標識が置かれていた。「いつも涼しい風が吹いている小さな峠である。小休止に最適だが水場はない。熊のため糞がある。」と書かれている。
 湯殿山から南西に延びる尾根に向かっての後半一番の急登が始まる。これを登り切ると、大岶峠(おおぐきとうげ)に到着した。「湯殿山から西に延びる台地状の尾根である。尾根の中央部には明治30年代に設置された二九六と刻まれた国有林班界の石柱があり、現在野郡界となっている。東端には天保年間に作成された出羽一国絵図や田麦俣肝煎文書(明和6年/1769年)に記されている最上領と庄内領との境界石を見ることができる。標高は、1150m程である。」
 地図を見ると、ゴールの志津までは大きな登りはなさそうである。ここで昼食にした。峠は、登山道の幅しかなく、薮との境に腰を下ろすことになった。彼方には、月山の登山口として賑わう姥沢の建物を望むことができた。
 峠を下っていくと、田代沢の徒渉になったが、飛び石伝いになんなく越えることができた。緩やかな登りで尾根を越すと、やがて美しいブナ林が広がるようになった。後半は、雑木林が主であったので、ブナ林の中の歩きになって、心がなごんだ。  工事の物音が近づいてくると、車道に飛び出した。国道112号線になっている六十里越街道である。歩いてきた道を振り返ると、夏草がかぶって入口は隠されていた。脇には、丸いトタン造りの小屋があるのが目印になるが、こちらからの歩き出しはあまりお勧めではない。車道歩きも僅かで、車に戻ることができた。
 田麦俣に戻って車の回収を行い、登山を終えた。
 湯殿山ホテルで入浴し、翌日の山のため、肘折温泉に向かった。国道458号線を通ったが、これは失敗であった。大きな峠越えで、カーブ連続の細い道、途中からは未舗装に変わった。二度と通りたくない道であった。車の運転に疲労困憊して、肘折温泉に到着した。翌日の今熊山のために県道57号線に進むと、これまた細い道の連続。谷間に下りたところに空き地があったんで、ここで夜を過ごした。車の止め場所としては、良い選択ではあったが、これ以上の運転は無理という状態まで追い込まれていた。
 翌日、元気を取り戻して、車を再び走らせた。幸い、その先はすぐに良い道になった。 今神温泉の入口から、未舗装の林道になった。標識によると、4kmとあった。道の状態は悪くは無かったが、車のすれ違いが難しいところがあり、気づかれした。
 この今神温泉であるが、「日帰り1、2日はお断りします。七泊以上予約制です。一見さんお断りします。」という、愛想のない言葉が標識に書かれている。
 今熊山の登山口に到着すると、その先に大きな駐車場が設けられていた。その奥が今神温泉であるが、入口には鉄柵で閉ざされていた。この温泉は、現在では休業中のようである。
 登山口には、今池御池という標柱が立てられていた。歩き出すと、周囲にはブナ林が広がるようになった。急斜面を左にトラバースしながら登っていくと、今熊山から南に延びる尾根の乗り越しになった。見上げると、今熊山の山頂部は岩場になっていた。
 緩やかに下っていくと、美しいブナ林が広がった。その先で、御池の畔にでた。紺碧の水をたたえた静かな池であった。スラブをまとった周囲の山の姿を映していた。ブナ林の季節に訪れたいところである。写真撮影に興じたが、蚊が多いのにはまいった。
 池を回りこんでいくと、高倉山への道が分かれた。2時間ほどの登りと言うので、今熊山に登ってくることにした。この時は、登山道が藪に覆われていないだろうかとは心配していたものの、体力的には軽く登れるだろうと、軽く考えていた。
 一旦下って、沢を跨ぎこし、対岸の斜面に取り付いた。事前に地図を見てコース設定した際には、今熊山から続く尾根を登るのかと思っていたが、そちらの尾根はスラブをまとって登れそうもなかった。
 急な枝尾根を登っていき、左にトラバースして、東に落ちる尾根にのった。このトラバース部は、足場が不安定で、注意が必要であった。
 ここからは、傾斜も少し緩やかなった。この後は、順調な登りかと思ったものの、暑さが厳しく、体温があがって、足が進まなくなった。この日は、台風が過ぎた後のフェーン現象となって気温があがり、低山歩きには厳しい状態になった。
 登りの傾斜はそうきつくはなかったが、滑りやすく、足場が悪いところが続いた。標高800m付近から等高線が密になると思っていたら、岩場が現れた。左にトラバースしていくと、小さな沢が流れているのに出合った。これ幸いということで、水を飲んで渇きをいやした。水は1.5Lほどしか持ってきておらず、この水場がなかったら、あるいは登れなかったかもしれない。水場の周りは、チョウジギクの群落が広がっていた。
 その先のトラバースは、泥斜面で足場が柔らかく、掴む木の枝もないため、慎重に歩く必要があった。その先で尾根に戻れば、後は、緩やかなた尾根を辿るばかりであるが、熱中症寸前で、辛い登りになった。
 ようやく到着した高倉山の山頂であるが、刈り払いの小広場になっていたが、潅木に囲まれて最上川河畔部の平野が見える程度であった。潅木の陰に入ってひと休みした。
 下りは、暑さが厳しいといっても、早かった。あと少しで麓かなと思うと、御池と今熊山の眺めが広がった。岩山と池の取り合わせが美しかった。この眺めだけでも高倉山は登る価値がある。
 高倉山を登り終えたが、続けて今熊山に登るだけの体力は残っていなかった。今熊山は、次の機会ということにした。ここは、紅葉の時期に是非訪れてみたい。戻る途中の僅かな登り返しが、辛いものに感じた。

山行目次に戻る
表紙に戻る