大里峠、萱野峠

大里峠、萱野峠


【日時】 2006年11月11日(土) 日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 雨

【山域】 飯豊連峰周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
大里峠・おおりとうげ・470m・なし・新潟県、山形県
【地形図 20万/5万/2.5万】 村上/小国/小国
【ガイド】 越後佐渡の峠を歩く(新潟日報事業社)

【山域】 飯豊連峰周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
萱野峠・かやのとうげ・278m・なし・山形県
【地形図 20万/5万/2.5万】 村上/小国/小国
【ガイド】 なし

【時間記録】 7:00 新潟=(R.7、R.290、R.113、赤芝発電所 経由)=9:10 玉川―9:35 発―9:46 林道終点広場―10:40 大里峠〜10:45 発―11:23 林道終点広場―11:36 玉川〜11:55 発―12:30 萱野峠〜12:35 発―13:02 玉川=(往路を戻る)=16:00 新潟

 朝日連峰と飯豊連峰は、荒川によって分けられている。現在では米坂線や国道113号線が通る荒川沿いは、かつては越後と米沢を結ぶ交通の要所であったが、赤芝峡をはじめとする難所が続いて道を付けることができず、内陸部を切り開いて、村上から羽前小松の間を十三の峠で結んだという。この十三峠街道は、出稼ぎや物資の運搬に使われていたが、現在ではその役目が終わって、忘れられた峠道になっている。
 この十三の峠は、異なる意見があるようであるが、玉川の萱野峠入口の説明板によれば、以下のように続いていたと記されている。
 下関(本宿)―「鷹巣峠」―「榎峠」―沼―「大里峠」―玉川―「萱ノ峠」―足水―「朴木峠」―小国―「高鼻峠」―「貝淵峠」―黒沢―「黒沢峠」―市野々―「桜峠」―白子沢―「才ノ頭峠」―沼沢―「大久保峠」―「宇津峠」―手ノ子―松原―「諏訪峠」―小松

 紅葉三昧の文化の日三連休と一変して、悪天候の週末になった。冬型が強まり、山間部では雪の可能性も高いため、遠出は諦めることにした。夜間の県境越えや峠越えでは、冬用タイヤが必要になりそうである。
 土曜日は、雨の予報が出ているとはいえ、前線通過中でまだ大崩にはなっていないはずで、山歩きはできそうであった。それでも、風雨の影響の少ない所ということで、峠歩きを考え、大里峠を思いついた。大里峠は、2000年6月25日に訪れているが、新潟県側からしか歩いていない。峠歩きは、本来は通しで歩くのが望ましいのだろうが、車を利用している関係で、一方からの往復になってしまい、二度訪れる必要が出てくる。大里峠は、麓の玉川を挟んで、東の萱野峠に続くので、ここも予定にして出かけた。
 時折小雨が降る状態の中、車を走らせた。紅葉も麓に下りて、荒川沿いの山の斜面は美しく色づいていた。昼過ぎの帰宅時には、三脚にカメラをすえつけたカメラマンを何人も見かけた。
 玉川の手ノ倉沢川沿いの林道入口には、大里峠登山口の大きな標柱が立てられている。峠までは2.6kmとある。林道の状態が判らないため、入口にスペースを見つけて車を停めた。
 歩きはじめてみると、林道は落ち葉が積もっていたものの、簡易舗装で車は乗り入れられる状態であった。もっとも、昔の十三峠越えを思い浮かべることも目的であるので、玉川の集落から歩き出すことが望ましい。
 10分強の歩きで、林道終点の広場に到着した。前方には、砂防ダムが築かれていたので、この林道は、この建設用に整備されたようである。大里峠への道は、広場のすぐ先で、左に分かれた。旧街道に相応しく、緩やかな登りが続き、少し急なところは、細かいつづら折りが付けられていた。
 登山道周囲には、ブナも混じる雑木林が広がっていた。先日の強風で、葉が落ちている木が多かったが、中には美しい紅葉も残っていた。谷間には、送電線が通過しており、前方の高みの乗り越し部が峠であろうと、距離をうかがうことができた。
 雨は降ったり止んだりであったが、谷間のためか風当たりも弱く、長靴に雨具のズボン、傘の装備で気楽に歩くことができた。このような日には、ピークを目指すのではなく、このような峠歩きの方が楽しめる。
 林道の終点広場には車が一台停められていたが、結局、誰にも会わないまま峠に到着した。峠は、両側から尾根が落ち込んできた窪地にあり、見晴らしはない。お堂が設けられているのが、古くからの道であることを示している。
 この大里峠には、大蛇伝説があり、そのいわれが書かれた看板が立てられている。
「昔々のその昔まだ関川村という名もついていない頃、女川の蛇喰いというところにおりのという人妻ががいて、ある時蛇の味噌漬を食べたため蛇身となりここに棲みつき荒川一帯を泥の海とする計画をたてたが、蔵の市というびわ法師に悟られ、村人に退治されたという伝説が今に伝えられている。」と書かれている。この「おりの墓」は、関川から光兎山の登山口の中束に行く途中の蛇喰の集落で見ることができる。
 夏に、関川村では、「たいしたもんじゃ祭り」ということで、わら細工の大蛇をかついで練り歩く祭りが行なわれているが、こちらでは、大蛇が洪水から村を守ってくれたということに変っているが、大里峠の大蛇と話がつながっているのかどうかは知らない。
 散り残りの紅葉を眺めながら、玉川の集落に戻った。

 イギリスの女性旅行家イザベラ・バードが、明治十一年に行った、新潟から山形に抜ける際の大里峠越えの紀行文を「日本奥地紀行」から引用して昔を偲ぶことにしよう。
 私は、その夜とぼとぼと沼という集落に入ると、彼らの最低の生活状態を見た。(略)昨日はとても疲れる日であった。二井、鷹ノ巣、榎という大きな峠を、躓きながら登り、辷りながら下ることで、大半の時間が過ぎた。これらの峠はすべて森林におおわれた山々の中にあった。森林が立ちふさいでいる峡谷によって深い割れ目がつくられていた。時折雪をいただいた会津の連峰の一つが姿を遠く見せて、緑の海の単調さを破っていた。馬の沓は数分毎に結んでも、また解けてしまい、一時間に丁度一マイルしか進めなかった。ついに私は玉川というまことに頼りないところについた。

 萱野峠への道は、玉川の集落の小中学校前から始まっており、ここには標識が立てられている。学校入口に、十三峠の案内が書かれている。少し長いが、この峠を訪れるためには知っておきたい情報なので、読んでいこう。

越後街道十三峠 萱野峠
 ここは越後街道の宿駅「玉川」である。
 大永元年(1521年)頃、戦国大名伊達種宗(たねむね)が、玉川の羽越国境大里峠を開いた以後、この越後十三峠が整備され、ここから米沢方面に「萱野峠(標高273m)」が在する。この駅のそばには、飯豊山を源とする玉川に架かる吊橋、越後街道三大橋のひとつ「玉川大橋」がある。そこから「萱野峠」までは、1.5kmの道のりである。峠は萱野であった。峠から間宿であった「足野水」までは、1.7kmである。下る途中、切り通しの両側にブナ林が現れる。また古木も多く、峠の歴史をも伝えている。
 米沢方面からは、たばこ、青そ、小豆、ぜんまい、わらび、栗などを越後に移出し、越後からは乾物、塩魚などが入ってきた。街道は、開設当時はぬかるみも多く、荷の運搬に支障をきたしたため、米沢藩は藩の豪商や在郷有力者等に人夫を供出させ、街道の敷石工事を実施した。萱野峠の途中にも、敷石を切り出した「石切り場」があり、多くの敷石が埋設されていると言われている。こうして敷き詰められた石には、先人の血と汗が染み込んでいる。明治十一年にはイギリスの女性旅行家イザベラ・バードがこの峠を玉川から足野水に越えている。著書「日本奥地紀行」に当時の地域の生活の様子が記されている。明治十七年頃、県令三島通庸によって、小国街道が開設されたことにより、この街道は人々の生活から遠ざかり、荒廃してしまった。
 百二十年後の今、先人の偉業を後世に伝承し、永久に保存するため、地域民とその支援者により、萱野峠敷石道の復興に向かって歩むこととした。
 平成十八年三月 玉川地域振興協議会
 
 登山標識のある角から民家の間に入っていくと、すぐに車道は終わり、谷に向かって下りていく歩道になる。下ったところには、赤く塗られた吊橋が架かっていた。玉川大橋と名前が書かれているが、人が渡るには充分な橋であるものの、大橋というほどのものではない。橋の上からは、玉川の流れを見下ろすことができた。
 川を渡った先は杉林で、一段高くなった台地には、屋敷跡という標識が置かれていた。この後、姥杉、清木などの標識が短い間隔で出てくるが、昔からのものか怪しい感じである。
 道は、はっきりした山道という程度のものであった。刈り払いが行われていなければ、草が被り気味になりそうであった。
 尾根を絡みながらの登りになると、足元に石が敷き詰められる場所が断続的に現れた。十三峠の石畳としては、黒沢峠が有名であるが、そちらは石段風に続いているのに対し、こちらは、石敷きの舗装道路といった感じで段差もない。落ち葉の積もった石畳は、昔の賑わいを忘れたかのように、土と一体化していた。
 石切り場という標識が置かれている場所では、切り出されたと思われる大石が頭を見せていたが、苔に覆われて、人工的な跡は見えなくなっていた。その先で台地に出ると、峠の名前の由来である萱の原が現れた。緩やかになった道を歩いていくと、じきに萱野峠に到着した。
 標識以外には、なにも無い峠であった。展望もなく、昔の旅人も、ひと休みの後には、先へと急いで下っていった峠なのであろう。
 二つの峠を訪れたことで、今日の山歩きも果たしたということで、家に戻ることにした。

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