日本平山

日本平山


【日時】 2006年4月29日(土) 日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 晴

【山域】 川内山塊
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 日本平山・にほんだいらやま・1081.1m・一等三角点本点・新潟県
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/御神楽岳/高石、
【コース】 中山ルート
【ガイド】 分県登山ガイド「新潟県の山」(山と渓谷社)

【時間記録】 6:00 新潟=(R.49、五十島橋 経由)=7:00 中山ルート登山口〜7:17 発―7:24 青少年自然の森分岐―8:56 大村杉〜9:06 発―9:21 人分―10:47 大池―11:52 日本平山〜12:21 発―13:17 大池―14:18 人分―14:34 大村杉―16:00 青少年自然の森分岐―16:08 中山ルート登山口=(往路を戻る)=18:00 新潟

 日本平山は、川内山塊の盟主の矢筈岳を源流とする早出川右岸に位置する山である。細々としたゼンマイ道が僅かに通じているだけの川内山塊において、日本平山は、各方面からの登山道が切り開かれている貴重な山である。日帰りの山であるが、谷沢方面からにしろ、早出川ダムからにしろ、行程は長く、山の奥深さを感じさせる山である。山頂は、ならだかな高原状で、一等三角点本点が置かれている。
 
 五月連休の後半のため、前半二日は、おとなしくしている必要がある。天候も悪そうという予報が出ていたが、前日になって晴の予報に転じた。近場の山で、この季節ならではの残雪の山を考えた。そこで思いついたのは日本平山である。
 日本平山は、昨年秋に早出川ダムから登ったばかりであるが、青少年自然の森からはまだ登っていない。1993年5月4日に登ろうとしたのだが、残雪のためにコースが判らなくなり、大池手前で引き返しになった。その年の秋に谷沢から歩き出して、はじめて日本平山の山頂に立った。その後、青少年自然の森からのコースは歩かないままになっている。地形が複雑で残雪期には難しい山であるが、今はGPSを使うことができる。
 五十島から青少年自然の森を目指した。高石との分岐になるT字路を左折。大須郷の尾根乗り越し部で、日本平山登山口の標識が現れた。林道に進むと、トイレも設けられた登山者用の駐車場に出た。以前は、青少年自然の森から歩き出したのだが、様子が少し違っていた。下山後、青少年自然の森を確かめに車を走らせると、坂を下っていった先に入口があり、5月オープンのために準備中と書かれて、鎖が掛けられていた。位置的に、登山者用駐車場の方が高そうで、少し楽ができるようである。
 ウグイスの声を聞き、新緑を眺めながらの歩き出しになった。鎖のかかった林道を歩いていくと、登山道に変わった。青少年自然の森からの道を合わせ、緩やかな登りが続いた。右手の谷向こうには、残雪を抱いたマンダロク山を眺めることができたが、登山道周辺は、緑に囲まれて、春の装いであった。336.0mの三角点ピークは右下を巻いた。
 登山道の周囲にはカタクリが咲いていたが、登るにつれて、谷に残雪が見られるようになった。678.0mの大村杉(人分山)への登りにかかる頃には、登山道と残雪を交互に歩くようになった。雪の消えた登山道脇には、イワウチワの花が咲き乱れていた。
 大村杉のピークは、一面の雪原になっていたが、山頂標識も取り付けられた三角点ピークの回りだけが、雪が消えていた。周囲は木立が刈り払われて、マンダロク山を正面に眺めることができた。菅名山塊や五頭山塊、飯豊連峰の眺めも広がっていた。以前、大池手前で道が判らなくなって敗退し、ここの眺めで心を慰めながら休んだことを思い出した。いささか経験も積んで、以前の私とは違うぜと、心の中でつぶやいた。
 大村杉のピークからは、一旦大きな下りになる。下り斜面からは、三角ピークが聳えるのを眺めることができるが、これは持倉山で、日本平山はさらに奥である。雪原を下った中段で、藪に行き当たり、夏道の続き具合が判らなくなった。谷沢からの登山道が左から登ってくるので、そちらに合流するように続くかと思ったが、反対の右手に見つかった。急坂を滑らないように、注意しながら登山道を下った。
 鞍部は、人分と呼ばれるが、標識が雪の上に頭だけを出していた。再び登りが始まったが、残雪に隠される区間も多くなり、登山道を辿るのが難しくなった。歩いているうちに判ったことは、登山道が残雪によって途切れたら、水平に歩いていけば、登山道が続いているということであった。通常は、登山道は尾根上に向かうのだが、この道は鉱山道を利用したもののようで、水平に続いている。荷物を運ぶのには良いのかもしれないが、残雪期に辿るには非常に難しい。雪原が続くようになったところで、登山道を辿るのはやめて、自由に歩くことにした。
 雪原の登りを続けていくと、持倉山の山頂が右手に迫ってきたが、間には沢が入っている。緩やかな稜線であるが、地形は複雑で、初回は、この付近で敗退になっている。今はGPSがあるため、先の地形も判り、歩いていて不安は全くない。尾根通しから緩やかに下っていくと、大池の畔に出た。池は残雪に埋もれて、一面の雪原になっていた。この池には浮島があり、以前はその上に乗って、脇に置かれた竹竿で押したりして遊んでいたようだが、今はさすがにやっていないであろう。
 大池の先で稜線上に出ると、ようやく日本平の山頂が目の前に迫ってきた。谷間の雪原に複雑な筋模様が引かれているのが面白かった。後は、足を運ぶだけで、山頂到着と思ったが、甘かった。997mピーク付近から、稜線上の雪が鶏冠のように飛び出している箇所が現れるようになった。幸い、雪庇も落ちて上もなだらかになっており、上を乗り越したり、下を巻くのも簡単になっていた。雪山のシーズン中なら、難所になりそうであった。もっとも、日本平山までは、アプローチを含めて距離もあり、冬山として日本平山に登ったという話は聞かない。
 最後は、山頂へと続く雪原の登りになった。傾斜が緩むと、雪綾の続く日本平山の山頂に到着した。最高点に到着したのだが、三角点は、雪庇の向こう50m程と出た。雪庇の踏み抜きが怖く、一旦下って雪庇の様子を見てから、縁に近づいてのぞいた。雪庇の先は、雪原が広がっていた。2m程の壁を下って雪原に進むと、三角点の木の標柱とカエルの石像が頭を出しているのに出会った。三角点部の雪はずいぶんと薄くなっているようだが、雪のために地形が変わっているのには驚かされた。
 雪の上に腰を下ろして大休止にした。今年一番の暖かい陽気になっており、喉も非常に渇いていた。五月連休にもかかわらず、独り占めの山頂を、ビール片手に楽しんだ。新潟周辺の山でも、五頭や菅名では、大混雑になっているであろう。日本平山に登る者は他にいないのは、奥深い山として敬遠されてしまっているのであろう。もっとも、同じ川内山塊の銀次郎や銀太郎山あたりには、登山者も多く入るので、日本平山は、静かな山の穴場といっても良いかもしれない。
 日本平山は、紅葉の季節は別にして、展望の得られない、あまりぱっとしない山頂というイメージがある。このイメージを打ち破るように、残雪期には、遮るもののない展望が広がっている。少し距離はあるが、飯豊連峰の全体を眺めることができた。雪稜の先には、相対するように鍋倉山。その向こうには、御神楽岳の山頂が頭をのぞかせていた。雪稜の上に立てば、川内山塊の盟主矢筈岳や五剣谷岳の眺めも楽しむことができた。季節を変えて登れば、山の印象もがらりと変わる。
 帰りは、飯豊を正面に眺めながらの快適な下りになった。ただ、小さなアップダウンもあり、一気の下りとはいかなかった。大池を過ぎて、持倉山の山頂が背後に遠ざかっていき、人分鞍部も近くなったなと思う頃、5名グループが登ってくるのに出会った。時間からして、泊まりグループかと思ったが、よく見ると、日帰りの軽装であった。「山頂までもう少しだろうか」と聞いてきた。「あれが山頂だろう」と、持倉山をさして聞いてもきた。「あのピークは違っていて、山頂はまだまだ遠く」と答えた。時間はすでに1時半であった。1時間の雪道の下りなら、登るのには2時間はかかろうか。「踏み跡はしっかりしているか」とも聞いてきたので、どうやら、先行者の踏み跡たよりの登山のようである。ここまでの登りに時間がかかっているのも、夏道や私の踏み跡を見失って、ヤブコギを行ってきたのではないだろうか。「これでは無理だ」とかいう話声を後に、下りを続けた。
 下山後に、登山口に置かれた車を見ると、関東ナンバーであった。標高1000mの山で、この時期、雪山が待ちかまえているとは想像できなかったに違いない。また、山と渓谷社の分県登山ガイド「新潟県の山」では、登山適期は、5月からとなっているが、連休中は残雪に覆われて、一般登山の領域から外れている。もしこの本を読んで、日本平山に登りにきたのなら、敗因はガイドのせいということになる。
 大村杉への登り返しは、きつく感じられた。大村杉を過ぎて下っていくうちに、雪も消えて夏道の歩きになった。イワウチワやカタクリの花の写真を撮りながらの歩きになった。
 登山口に戻ったのは、4時になっており、意外に時間がかかったことに驚かされた。日本平山は、自宅から登山口までは1時間。山頂までは1日がかり。近くて遠い山であった。五月連休頃は、残雪歩きを楽しめる山としてお勧めである。
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