九州の山旅

道後山、吾妻山
稲佐山
雲仙普賢岳、野岳、九千部岳
多良岳、経ヶ岳
那岐山
中山


【日時】 2004年11月16日(火)〜23日(火) 7泊8日 各日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 17日:晴 19日:晴 20日:曇り 21日:晴 22日:曇り 23日:晴

【山域】 中国山地
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 道後山・どうごやま・1268.9m・一等三角点本点・広島県、島根県
【コース】 月見ヶ丘より
【地形図 20万/5万/2.5万】 高梁/多里/道後山
【ガイド】 分県登山ガイド「広島県の山」(山と渓谷社)、日本300名山ガイド西日本編(新ハイキング社)

【山域】 中国山地
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 吾妻山・あずまやま・1238.5m・三等三角点・広島県、島根県
【コース】 国民休暇村より
【地形図 20万/5万/2.5万】 高梁/多里/比婆山
【ガイド】 分県登山ガイド「広島県の山」(山と渓谷社)、日本300名山ガイド西日本編(新ハイキング社)
【温泉】 比和温泉あけぼの荘 250円(ボディーシャンプーのみ)

【山域】 長崎
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 稲佐山・いなさやま・333.0m・二等三角点・長崎県
【コース】 稲佐山公園より
【地形図 20万/5万/2.5万】 長崎/長崎/長崎西北部
【ガイド】 分県登山ガイド「長崎県の山」(山と渓谷社)
【温泉】 小浜温泉海上露天風呂波の湯茜 300円

【山域】 雲仙
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 妙見岳・みょうけんだけ・1333m・なし・長崎県
 国見岳・くにみだけ・1347m・なし・長崎県
 普賢岳・ふげんだけ・1359.3m・一等三角点本点・長崎県
 野岳・のだけ・1142m・なし・長崎県
【コース】 仁田峠より
【地形図 20万/5万/2.5万】 熊本/島原/雲仙、島原
【ガイド】 分県登山ガイド「長崎県の山」(山と渓谷社)、日本300名山ガイド西日本編(新ハイキング社)
【料金】 仁田峠循環道路 770円、雲仙ロープウェイ 610円

【山域】 雲仙
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 九千部岳・くせんぶだけ・1062.4m・三等三角点・長崎県
【コース】 県道登山口より
【地形図 20万/5万/2.5万】 熊本/島原/島原
【ガイド】 分県登山ガイド「長崎県の山」(山と渓谷社)
【温泉】 雲仙小地獄温泉青雲荘 630円

【山域】 多良岳山群
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 多良岳・たらだけ・982.7m・三等三角点・長崎県
 経ヶ岳・きょうがたけ・1075.7m・一等三角点本点・長崎県、佐賀県
【コース】 中山キャンプ場より
【地形図 20万/5万/2.5万】 熊本/諫早/多良岳
【ガイド】 分県登山ガイド「長崎県の山」(山と渓谷社)、分県登山ガイド「佐賀県の山」(山と渓谷社)、日本300名山ガイド西日本編(新ハイキング社)
【温泉】 武雄温泉元湯 300円(石鹸なし)

【山域】 中国山地
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 那岐山・なぎさん・1240.3m・三等三角点・岡山県、鳥取県
【コース】 蛇淵ノ滝登山口より
【地形図 20万/5万/2.5万】 姫路/津山東部、智頭/日本原、大背
【ガイド】 分県登山ガイド「岡山県の山」(山と渓谷社)、分県登山ガイド「鳥取県の山」(山と渓谷社)、日本300名山ガイド西日本編(新ハイキング社)

【山域】 剱岳周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 中山・なかやま・1255.0m・三等三角点・富山県
【コース】 馬場島より
【地形図 20万/5万/2.5万】 高山/立山/剱岳
【ガイド】 分県登山ガイド「富山県の山」(山と渓谷社)
【温泉】 みのわ温泉ファミリーハウス 510円

【時間記録】
11月16日(火) 14:00 新潟=(北陸自動車道、名神高速道路、中国自動車道)=
11月17日(水) 0:30 大佐SA (車中泊)
7:05 大佐SA=(東城IC、R.314、R.183 経由)=8:20 月見ヶ丘〜8:26 発―8:42 あずまや―8:56 岩樋山―9:01 近道分岐―9:05 大池分岐―9:18 道後山―9:35 大池分岐―9:38 近道分岐―9:49 あずまや―10:01 月見ヶ丘=(R.183、R.314、比婆山公園線 経由)=11:05 国民休暇村〜11:12 発―11:36 吾妻山―11:39 大膳原分岐―11:54 南の原分岐―12:04 国民休暇村=(比婆山公園線、R.432、庄原IC、中国自動車道、九州自動車道、長崎自動車道 経由)=21:00 川登SA  (車中泊)
11月18日(木) 7:30 川登SA=(長崎自動車道、長崎多良見IC、長崎バイパス 経由)=9:00 長崎  (ニュー浦上ホテル泊)
11月19日(金) 8:14 稲佐山公園―8:28 稲佐山―8:45 稲佐山公園〜15:30 長崎発=(長崎バイパス、R.34、R.251、小浜、R.57 経由)=19:00 雲仙  (車中泊)
11月20日(土) 8:00 雲仙=(仁田峠循環道路 経由)=8:10 仁田峠〜9:00 仁田峠駅=(雲仙ロープウェイ)=9:03 妙見岳駅―9:10 妙見神社―9:16 第2吹越分岐―9:24 国見岳分岐―9:35 国見岳―9:44 国見岳分岐―9:55 紅葉茶屋―10:15 普賢岳〜10:53 発―11:09 紅葉茶屋―11:22 あざみ谷―11:39 仁田峠―11:50 あずまや―12:00 アンテナピーク―12:10 野岳―12:15 あずまや―12:27 仁田峠=(仁田峠循環道路、R.389 経由)=12:54 九千部岳登山口―13:22 鞍部分岐―13:40 九千部岳―13:46 発―14:00 鞍部分岐―14:27 九千部岳登山口=(R.389、雲仙、R.57、島原まゆやまロード、R.389、R.251、R.57、諫早、R.207、太良 経由)=19:00 中山キャンプ場  (車中泊)
11月21日(日) 8:23 中山キャンプ場―9:09 石の鳥居―9:25 多良岳―9:51 前岳(三角点ピーク)―10:17 多良岳―10:33 石の鳥居―11:23 中山越―12:02 経ヶ岳〜12:15 発―12:39 中山越―12:43 林道―13:14 中山キャンプ場=(R.207、R.498、武雄、R.35、武雄北方、長崎自動車道、九州自動車道、中国自動車道 経由)=新見PA  (車中泊)
11月22日(月) 7:00 新見PA=(中国自動車道、津山IC、R.53 経由)=8:53 蛇淵ノ滝登山口―9:10 林道横断―9:58 五合目―10:03 大神岩―10:35 三角点峰―10:45 那岐山―10:53 三角点峰―11:15 大神岩―11:19 五合目―11:55 林道横断―12:10 蛇淵ノ滝登山口=(R.53、勝田、美作IC、中国自動車道、名神高速道路、北陸自動車道 経由)=21:00 小矢部川SA  (車中泊)
11月23日(火) 5:30 小矢部川SA=(北陸自動車道、立山IC、上市 経由)=7:13 馬場島登山口―8:03 稜線上―8:25 中山〜9:28 発―9:40 稜線上―10:16 馬場島登山口=(滑川IC、北陸自動車道 経由)=15:00 新潟

総走行距離 3074km

 道後山は、広島県の東北端にある島根県との県境に位置する山である。草原が広がる高原状の山で、一等三角点が置かれ、日本300名山にも選ばれている。
 吾妻山は、広島県と島根県との境に広がる比婆山連峰の一峰である。天然芝の草原の広がるのびやかな山で、日本300名山に選ばれている。
 稲佐山は、長崎港の西岸にたたずむ山で、長崎市内のほとんどから良く眺めることのできる山である。ロープウェイも架けられて、山頂からの展望を目的に観光客も訪れる山になっている。
 雲仙普賢岳は島原半島の中央部にある活火山である。1990年11月17日に200年ぶりに突然噴火し、1991年6月3日には大火砕流が発生して43名もの犠牲者を出した。爆発の跡には、元の最高峰の普賢岳よりも100m以上高い溶岩ドームが形成され、現在では平成新山(1486m)と呼ばれている。普賢岳の周囲には、野岳、妙見岳、国見岳、九千部岳などのピークがとりまくように連なっている。
 多良岳は、長崎県と佐賀県の境に広がる古い火山である多良山塊の盟主である。古くからの信仰の山であり、山中には宗教的な遺構も多い。また。多良岳の北に位置する経ヶ岳は、一方が岩壁となって切り落ちた特有な姿をし、佐賀県の最高峰になっている。
 那岐山は、岡山と島根県の境にある山で、一帯は、氷ノ山後山那岐山国定公園に指定されている。登山者にも親しまれている山で、幾通りもの登山道が整備されていたが、2004年秋の台風による倒木被害によって、通行不能になっている。今後の登山道の整備にあたっては、大幅なコースの変更が必要と思われるので、これから登ろうとする人は、最新の情報を得る必要がある。
 中山は、劔岳の登山基地として知られる馬場島の、早月川左岸にある山である。登山道は良く整備されており、最近では、劔岳の展望台として人気が高まっている。 

 長崎へ出かけることになり、車で行くことにした。新潟から九州へは1泊2日で走り抜けることができるが、運転の連続ではかなり草臥れる。途中で山に寄り道して、のんびり行くことにした。
 新潟中部地震の影響で、長岡JCTまでは工事車両も多くのろのろ運転が続いたが、その後は快調なドライブが続いた。予定通りに中国自動車道の大佐SAで夜を過ごし、翌朝東城 ICで高速を下りて道後山をめざした。知らない土地であるが、車のナビのおかげで迷うこともなく、道後山スキー場に到着し、中腹からは、ゲレンデ脇に走る細い林道を登っていくと、登山口の月見ヶ丘に到着した。立派な駐車場とトイレが設けられていた。
 すぐ先に小高い丘が見えたが、これは岩樋山で、道後山はその後ろに隠されているようであった。トイレの脇からキャンプ場への道を歩き出したが、どうもこれは道後山への登山道ではないことに気が付いた。左に分かれる道に入り、堰堤の脇を過ぎると、本来の登山道に出ることができた。
 幅広の登山道が整備されており、登山者も多そうな山であった。山の斜面をジグザグを切りながら登っていくとあずまやがあり、展望が開けていた。歩き始めの駐車場が眼下に見えていた。そのすぐ先で、岩樋山の山頂への道とトラバース道との分岐に出た。まずは、岩樋山の山頂を目指すことにした。
 再び、急な登りを続けていくと、岩樋山の山頂に到着し、道後山にかけての高原状の稜線の眺めが広がった。草原はきつね色に染まって朝日に輝いていた。岩樋山からは、僅かな距離ではあるが、急な下りになり、鞍部からは緩やかな登りになった。
 大池への道が右に分かれたが、ここは直進して、道後山の山頂を目指した。登山道脇には石積みが残されているが、これは放牧場の名残とのことであった。
 ひと登りで道後山の山頂に到着した。広場になっており、一等三角点が頭を出していた。晴の日であったが、もやっており、遠望は利かなかった。周囲に山並みが広がっているのは見えるものの、知らない山域とあっては、山の名前は判らなかった。
 下りは、山頂から東に延びる道に進んだ。すぐ先で持丸・多里大山への道を左に分け、分岐を右に進んだ。南から巻くように進んでいくと大池に出た。半ば水草に覆われた静かな池であった。僅かに上り返すと、行きのコースに合わさり、その先の分岐で岩樋山のトラバース道に進んだ。あずまやからは、急坂を足早に進むと、じきに駐車場に戻ることができた。
 時間も早いので、続いて近くにある300名山の吾妻山を目指すことにした。林道を下っていくとダンプカーと出会って、細いカーブ道をバックするのに苦労するはめになった。ナビの示す通りに比婆山公園線に進むと、最終人家の先からは、一車線幅の細い道に変わった。舗装道路であったが、落ち葉に覆われて、心細い道であった。ドルフィンバレイスキー場脇に出ると再び広い道になってほっとした。
 吾妻山の登り口付近には、国民休暇村のホテルやキャンプ場が設けられており、どこが登山口か判りにくかった。高い所からと思ってキャンプ場に向かって坂を登ると、駐車場が設けられていた。一般には、ホテル脇から登るようで、この駐車場はキャンプ客用のもののようであった。偶然であったが、少し楽をしてしまった。
 車道の先に続く踏み跡を進むと、草原状の広尾根に出て、下から上がってきた登山道にのることができた。吾妻山の山頂もそう遠くない所に見えていた。草原がつきると、雑木林の中の急な登りが始まった。ひと汗かいて登り付いた小ピークは、小彌山(こみせん)と呼ばれるようであり、山頂まではもうひと頑張りする必要があった。
 階段登りもあって、息をはずませて吾妻山の山頂に到着した。おばさん二人組が家庭内の話を声高に話していたので、そのまま南ノ原への登山道に進んだ。左に比婆山連峰を眺めながらの展望の良い尾根道であった。大膳原への道を左に分けてさらに下っていくと、岩まじりの下りになって、南ノ原の分岐に出た。右に曲がってブナ林の中をゆるやかに下っていくと、キャンプ場に戻ることができた。
 吾妻山だけではファミリーハイクの山なので、比婆山の方まで足を延ばすべきだったかもしれないが、この後長崎までのドライブが残っているとなると、これくらいで切り上げる必要があった。
 国民休暇村のお風呂は3時からということで、中国自動車道に向かう途中で温泉を見つけて入浴した。
 長距離ドライブもiPodにいれた音楽CDのおかげで飽きずにいられる。コレクションのすべてを入れることはできなかったが、一通りの曲目は入れてある。今回はワーグナーのリング全曲、「ラインの黄金」、「ワルキューレ」、「ジークフリート」、「神々の黄昏」を聞き続けて、14枚分、おおよそ14時間を聞き終えたところで長崎に到着した。
 長崎の学会会場は、浦上であったが、そこからは浦上川を挟んで稲佐山がよく見える。中腹の駐車場からはひと登りのようであったので、朝登ることにした。
 中腹に広がる稲佐山公園までは車で上がることができる。車道は山頂まで続いているのだが、大駐車場から先は、関係者、タクシー以外の一般車は乗り入れ禁止になっている。大駐車場からはゴンドラも設けられているが、始発の時間は遅く、歩いても大した距離ではない。
 ゲートの先で車道から分かれて遊歩道に入った。階段登りも続いて汗ばんできたが、直にロープウェイ駅に到着して、その先で山頂広場に出た。三角点は、右の小高い木陰に置かれており、モニュメント風の過剰な飾りに囲まれていた。どうやら、稲佐山の山頂は整地されて最高点は低くなり、三角点だけがもとの高さに残されたようである。
 広場からは、長崎市街地を良く眺めることができた。1000万ドルの夜景とも称されるようだが、活気のある町並みを一望することができた。
 長崎に落とされた原爆の爆心地は、浦上近くで、現在は平和公園になっている。長崎は、山に囲まれていたため、被害は広島と異なって限局的なものになったという。稲佐山は、楯として爆風を遮るのに役立ったようである。
 仕事も終わって、雲仙普賢岳を目指すことにした。車の中でかける曲は、長崎にちなんで「マダム・バタフライ」。「マダム・バタフライ」は1898年、アメリカ人の原作者ジョン・ルーサー・ロングによって長崎を舞台にして書かれた小説をプッチーニがオペラとして作曲したものである。くしくも2004年の今年は、イタリア・ミラノスカラ座での初演から100年目の記念の年にあたる。しかし、結婚の場にハミングコーラスと共に現れる蝶々さんは、15才。淫行条例にひっかからないかね、ピンカートン。「ある晴れた日に」の歌声を聞くうちに、青い海が目に入ってきた。
 事前に九州の温泉情報を調べたところ、最近は、小浜温泉が人気が高いようである。雲仙温泉は翌日の予定とし、この温泉に入ることにした。町営駐車場に車を置き、入浴場所について教えてもらった。通りに面して並んだホテルでも比較的安い料金で日帰り入浴を受け付けているようであったが、海辺にある海上露天風呂に入ることにした。海岸の堰堤とテトラポットの間に浴槽が設けてあった。海には手が届きそうな距離であった。一人の先客も出ていき、一人占めの温泉になった。夕日が海に沈んでいこうとしていた。
 夕食も小浜でとり、暗くなった中、雲仙に向かった。普賢岳の登山口の仁田峠への有料道路は、夜間閉鎖になることは事前の調べで判っていた。有料道路入口手前に未舗装の空き地があったので、そこに車を停めて寝た。
 有料道路が開くのは、朝の8時なので、その前に、近くの小ピークに登ろうかと思っていたのだが、朝起きてぐずぐずしているうちに、それには遅くなってしまった。夜明けがめっきり遅くなっている時期ではあるが、長崎ともなると、新潟に比べても時間的な差がかなりあるようである。調べてみると、11月20日の日の出は、新潟で6:29、長崎で6:55とのことで、25分の差がある。以前、年末に宮浦岳に登った時は、日の出が遅く、一日の長い歩行時間を考えて、懐電で歩き出したことを思い出した。
 ゲートが8時に開くのと同時に仁田峠に向かった。仁田峠循環道路は、完全な観光道路であった。仁田峠には大駐車場が設けられていた。目の前に妙見岳がするどく立ち上がっていた。楽をして登るつもりでロープウェイ駅に向かうと、始発は8時50分とのことであった。先行の登山者は、歩いて登るとみえて、姿を消していた。歩いたとしても、妙見岳に登り付いた時には、ロープウェイで登ってきた登山者に先を越されそうなので、始発を待つことにした。朝から、待つばかりで時間が過ぎていった。
 結局、9時にロープウェイは動きだし、3分で山頂駅に到着した。ガスの中に入ってしまい、眺めは閉ざされてしまった。一緒に登ってきた観光客は、これで面白いのだろうか。
 遊歩道に進むと、すぐに仁田峠からの登山道を合わせ、妙見神社に到着した。妙見神社から妙見岳の最高点への登山道は閉鎖されており、登山道はトラバースして通過していた。僅かな距離であったが、火山活動に伴う規制とあっては従うしかない。
 展望のよさそうな外輪山歩きであったが、ガスがかかって展望が閉ざされていたのは残念であった。つつじの花がしおれながらオレンジの花をつけていた。春から咲き続けていたものとも思えないので、園芸種のバラのように秋にも花をつけたのだろうか。
 妙見岳から緩やかに下っていき、分岐から国見岳をめざした。ガスの中からおぼろげながらドーム状の山頂が見えていた。登山道に草が倒れかかって、ずぼんの裾が濡れてしまった。国見岳へ登る登山者は多くはないようであった。急な登りとなり、ロープのかかる露岩帯も現れたが、脇の笹原に踏み跡状の迂回路ができていた。思ったよりも早い時間で国見岳の山頂に到着したが、展望は閉ざされており、目の前に普賢岳が聳えているはずと想像するしかなかった。普賢岳を目指すために、急斜面を注意しながら下った。
 分岐からは大下りになった。ロープウェイでかせいだ高度の半ばを失ったような感じである。鞍部の紅葉茶屋からは、再び急な登りが始まった。仁田峠からあざみ谷経由で先行していた登山者も休み休みの登りになっており、追い越すことになった。
 広場に登り付くと、新しい石の祠が祀られていた。そこからひと登りで普賢岳の山頂に到着した。左手の少し高くなった岩場の上に、普賢岳の山頂標識と、一等三角点が置かれていた。噴火によって三角点はどうなったのだろうと思っていたのだが、無事であったようである。
 平成新山は目の前にあるはずだったのだが、ガスによって隠されていた。数組の登山者がガスの切れるのを待っていたが、諦めて下山していった。遠くから来たのにと諦めきらずにいたのだが、下山に移ることにした。山頂からは、下の広場の先に塔が立っているのが見えたので、見に行ってみた。広場の先で山道は立ち入り禁止になっていた。岩場の上に立てられていたのは、秩父宮殿下登山記念碑であった。
 立ち入り禁止の先は、枯れ木の立つ原となっており、その先に、砂礫の斜面が高みに向かって広がっていた。噴火によって、林が白骨状態になってしまったようである。写真を撮っているうちに、急に普賢岳の山頂が見え始めた。
 再び山頂に戻り、カメラをかまえた。普賢岳よりも一段高いドームの上に円錐状に山頂が乗っていた。噴煙も所々から上がっていた。これだけの山頂が僅かな時間で盛り上がったとあっては、無事に済むわけがない。大自然の力を思い知った。
 平成新山を眺めることができて、満足して下山することにした。山頂からの急坂では大勢の登山者とすれ違った。家族連れの、日頃は登山はあまりしないような者も多かった。
 紅葉茶屋からはあざみ谷経由で仁田峠に戻ることにした。もうひと下りした後は谷間を行く緩やかな道になった。あざみ谷には、古びた木の鳥居が立てられていたが、その先は立ち入り禁止になっていた。古い地図を見ると、普賢岳を巻いて東の普賢神社に行く道があったようである。現在ではその場所は平成新山の下になっている。妙見岳へのロープウェイ乗り場の脇の登山道入口にある神社が、移転された普賢神社のようである。1996年に終息宣言がなされて、メインの登山道は歩けるようになったとはいえ、噴火の影響は現在でものこっている。
 僅かに登り返すと、ロープウェイ乗り場の脇に戻ることができた。仁田峠一帯は、大型観光バスも入って観光客で賑わっていた。振り返ると、普賢岳の山頂の向こうに平成新山も頭を見せていた。
 時間も早いので、そのまま駐車場を突っ切って、向かいの尾根に上がって野岳を目指した。尾根上は石畳の展望地になっていた。その先は、幅広の道が続き、土の上にキャタピラの跡が続いていた。雑木林の中に入って展望の利かない道が続いた。
 あずまやがあり、その先で昭和天皇の御幸の際の歌碑が置かれていた。さらに進んでいくと、尾根沿いと一段下の道に分かれた。一段下の道の方が広いので、こちらを進むとテレビの中継基地の下に出て、尾根の高みからも離れてしまった。電線埋設の踏み跡を辿って尾根の上に出たが、雑木林の中で、山頂標識のようなものはなかった。尾根沿いの道を通って歌碑の脇まで戻ると、脇の小ピークに踏み跡が続いているのが見つかった。細々とした踏み跡を辿ると、岩場になった小ピークの上に出て、妙見岳から普賢岳の展望が広がった。ただ、灌木に囲まれた狭い山頂で、休むような所ではなかった。
 尾根上の展望地に戻った所で、展望を楽しみながら昼食とした。野良猫が近寄ってきて餌をねだるので、堅くなっていた鮭のおにぎりをやった。噴火の時はどうしていたのだいと聞いたが、答えはなかった。
 野岳の山頂からは、低いながら独立峰的に円錐状の山頂を突き上げている九千部岳が目立っていたので、続いてこの山を登ることにした。仁田峠循環道路を下り、R.389を北上した。
 国道脇に九州自然歩道の入口があり、ここが九千部岳の登り口になる。前方に見える1004m小ピークに登るのかと思ったが、ひと登りして鞍部に出ると、尾根を乗り越して反対側の谷間に向かっての下りになった。GPSに落としたコースよりも下るのでおかしいと思いながら先に進んだ。道は間違っておらず、地図よりも下ってからトラバースに転じた。枯れ草色に染まった道が続いた。
 1004m小ピークの北西側に回り込んだ鞍部で、田代原牧場への道が分かれた。木の鳥居をくぐると急な登りが始まった。急坂を終えてようやく山頂かと思ったら、山頂はまだ先であった。岩尾根となって、歩きづらい道になった。
 九千部岳の山頂は、広場になっており、展望盤が置かれていた。国見岳が普賢岳を隠し、左脇に平成新山が頭をのぞかせていた。午後になって、青空が広がったとはいえ、もやってきて遠望は利かなくなっていた。
 帰りも登り返しがあって、草臥れてきた足には辛くなってきた。今日は充分歩いたということで、山歩きも終えることにした。
 雲仙温泉へ、入浴のために引き返した。温泉街の中心部は、観光客の車で一杯であったので、少し離れた小地獄の国民宿舎で温泉に入った。今流行ともいえる乳白色の濁り湯で、翌日まで硫黄の臭いが体に残った。
 次の目的地の多良岳へは、来た道を引き返せば良かったのだが、普賢岳の噴火の跡をもっと見たくて島原方面に下った。眉山の麓を通過する県道に進むと、平成新山が目の前にそそり立ち、水無川一帯が土石流に埋まり、巨大な砂防ダムが幾重にも築かれているのが目に入った。
 多良岳へは、佐賀県側の中山キャンプ場から登ることにしたので、有明海の海岸線を北上した。暗くなってから中山キャンプ場に到着したが、駐車場は狭かったので、一旦引き返して、きれいなトイレが設けられた公園で夜を明かした。
 早起きのつもりであったが、緊張感に欠けていたためか、朝の出発は少し遅くなってしまった。中山キャンプ場に車を移動させると、他の登山者が出発の準備をしていた。
 キャンプ場からは杉林の中の登りとなり、千鳥坂の急坂が始まった。傾斜が緩やかになって尾根の左を巻く道になると、幸福坂の標識が現れた。続いて、見上坂を過ぎると、谷の詰めで、夫婦坂の登りになった。急坂を終えると、多良岳から経ヶ岳に至る稜線の鞍部で、ここからは金泉神社への道が分かれていた。石の鳥居が立ち、山頂に向かって石段が続いていた。石段をくぐった先に役ノ行者の石像が置かれており、一本歯の下駄が置かれているのは、健脚にあずかってとのことであろうが、イボ取り地蔵の別名は判らない。
 石段は急で、古びて石がずれているところもあり、足元に注意が必要だった。尾根の右に回り込み、鎖のかかる急坂を登ると、山頂の一画に到着し、左は国見岳、右は多良岳と書かれていた。下山時に左の国見岳に寄ってみたが、すぐ先が山頂で、木立に囲まれて展望は良くなかった。
 右に曲がって緩やかな道を辿ると、広場になった多良岳に到着した。一段高くなった所に石碑が置かれ、その前には石が敷き詰められていた。昔は、祠の前に、お堂が並んでいたのかもしれない。広場の周りには木立が広がって展望は良くなかった。
 ここまでの歩きでは、多良岳登頂というには少し物足りない。三角点までは水平距離で500mなので、軽い気持ちで先に進んだ。
 山頂からは急な下りになり、滑りやすい所ではロープの助けをかりる必要があった。痩せ尾根を辿ると、右手に「一ノ宮、風配、中山キャンプ場」への道が分かれ、尾根通しの方向には前岳と書かれていた。三角点ピークは前岳と呼ばれているようであった。
 岩の間を登ると、周囲が切り落ちた大岩の上に出て展望が広がった。痩せ尾根を辿ると、すぐ先に絶壁に張り出した上が平な大岩があり、ここが座禅岩のようであった。この付近は足元に注意を払う必要があったが、その先は、広尾根の雑木林の中をひと登りすると、前岳の山頂に到着した。ここまで足を延ばす者は少ないのか、登山道も落ち葉で判りにくくなっていた。
 大岩に戻り、展望を楽しんだ。目の前に多良岳のピークが立ち上がり、その向こうに片側が切り落ちた岩壁を持つ特徴のある姿をした経ヶ岳も望むことができた。これから経ヶ岳まで足を延ばすつもりであったが、そこまでは距離がありそうであった。多良岳を登る際には、足場の悪い所も途中にあるが、三角点ピークまで足を延ばすことを是非勧める。
 多良岳の下りの途中、何人もの登山者に出会うようになった。鎖場を過ぎ、石段を注意しながら下ると、あさりと石鳥居の立つ分岐に戻ることができた。経ヶ岳へは、稜線伝いの道に進んだ。すぐに金泉神社からの道が左より合わさった。経ヶ岳へは、稜線を外して右に曲がって下りになった。指導標が間違っているのかと思って、地図を確認した。しばらく下ると、963mピークの山腹を巻く道になった。岩を跨いでいく道で、岩の表面に苔も付いており、足下に注意して歩く必要があった。あまり歩かれていないようで、踏み跡が分かれてしまう所もあって、コースに注意する必要があった。
 二つ並んだ小ピークは、最初は右を巻き、続いては左に巻いて、稜線に上がったり下がったりで、体力を消耗していった。890mピークへを乗り越すと、鞍部に向かっての下りが続いた。
 鞍部の中山越からは、林道に下って中山キャンプに戻るつもりであった。はっきりした道が続いているのを確認してから経ヶ岳に向かった。
 経ヶ岳への急な登りが始まった。山頂北側の平谷越へ続くトラバース道を見送り、尾根通しの道に進んだ。雑木林の中の道で、注意して辿る必要があった。途中、道が崩壊気味に抉られており、ロープが架けられているところもあった。
 経ヶ岳の山頂は、大勢の登山者で賑わっていた。この山は、1000mを僅かに越す標高であるが、佐賀県の最高峰であり、展望が優れていることから人気が高いようである。周囲を取り巻く山もそれ程の高さでないことから、標高以上の感じがした。多良岳は遠ざかり、有明海がすぐ近くに見えた。一等三角点に相応しい展望ピークであった。昼食のためにすっかり腰をすえた登山者が多かったが、この後は長いドライブをする必要があったので、そうゆっくりもできず、下山に移った。
 鞍部の中山越に戻り、北の林道に向かった。驚いたことに100mも行かないうちに林道に飛び出しだした。地図では破線で書かれている部分も林道化が進んでいた。後は中山キャンプ場に向かっての林道歩きが続いた。林道の周囲には、杉の植林地が広がっていた。林道には、キャンプ場のすぐ先で鎖が掛かっており、一般車は進入できなくなっていた。
 多良岳で九州の山は終わりにして、新潟へ向かっての移動を開始することにした。九州には、登るべき300名山も残っており、また来る必要がある。
 下山後の温泉として武雄温泉に向かった。昔からの温泉ということしか知らなかったのだが、風情のある共同浴場で気に入った。中国風の楼門をくぐると、中は料金によっていくつかのランクに分かれていた。一番安い元場に入ったが、木造の昔ながらの造りで、温泉を楽しむことができた。100円、200円と高くなっていくと、浴槽もきれいになって、サウナや露天風呂も付属するようになるようであったが、ひなびた風情が一番大切である。といっても、元湯は、石鹸、シャンプーも持ち込む必要があるので、注意が必要である。江戸中期に城主鍋島氏によって作られた大理石張りの殿様湯というのもあって、これは1時間3800円とのこと。これは入ってみたい気もしたが、後でパンフレットを見て知った。九州には、面白い温泉があって、下山後の温泉の楽しみも多い。
 高速に乗って、帰路に付いたが、翌日の中国地方の山として那岐山を選んだ。岡山県まで戻っておけば、最終日の行程がずいぶんと楽になる。
 海峡を挟んで街明かりがきらめく関門海峡を再び渡り、本州に戻った。広島を越して岡山県まで戻るには、長く感じるドライブに耐える必要があった。長距離ドライブでは、行きよりも帰りの方が辛く感じられる。
 那岐山へ向かうために高速を下りた津山は、結構大きな町のようで、朝のラッシュなのか、道路も込んでいた。那岐連峰の山麓に広がる日本原高原は自衛隊の演習地になっているようであった。国道から分かれて山に向かうと、蛇淵ノ滝に通じる林道の入口に到着した。見ると、那岐山のA、B、Cコース共、登山不能と書かれていた。どうしようかと迷ったが、掲示してから日数も経っているようであったので、登山道の状態を歩いて確かめることにした。蛇淵ノ滝入口へ通じる林道周囲の杉林には、倒木が広がっていた。
 蛇淵ノ滝入口の駐車場に車を停めて朝食をとっていると、姫路ナンバーの車が到着して、5名の中高年グループが出発していった。歩けるようになったのかと安心して出発の準備をしていると、すぐにグループが戻ってきた。登山道の入口の掲示を見て、登山は諦めたとのことであった。それなら、手前の林道入口にも掲示があったのだが。
 林道を歩いていくと、直に登山道の入口に出て、すぐ先でA、Bコースが分かれた。Aコースは尾根、Bコースは沢沿いのようなので、被害は少ないかなと思って、Aコースに進んだ。
 目の前に杉林の広がる谷間が開け、思わず目を見張ることになった。杉がことごとく倒れ、倒れていないものは中程からへし折られていた。植林して間もない若い木ではなく、充分太くなった木なので、どれくらいの強風であったのだろう。那岐連峰から吹き下ろす風は特に強く、「広戸風」と呼ばれて農作物に被害を及ぼしてきたという。今回の被害は、10月23日の台風23号によってもたらされたようである。倒木を避けるように踏み跡が続いていたので、先に進むことにした。山腹を見上げると、被害の出ているのは局地的のようで、うまく倒木帯を突破できれば、登山道を歩けるような気がした。
 谷間からひと登りすると、林道を横断して、幅広に整備された登山道に出た。ひと安心したのもつかの間、右にトラバースする付近からさらにひどい倒木帯に出た。踏み跡を辿るものの、倒木を伝い歩き、枝をかき分ける所もあって、踏み跡を見失いやすかった。倒木の反対側に出ただけで、踏み跡を見失う状態なので、GPSだけでは不安になり、赤布を付けながらの登りにした。まさか一般登山道のある山でヤブコギとは思っていなかった。登山道は、GPSに入れた地図の破線とは、違っているようで、少し北の尾根沿いを登るようであったが、そこは倒木がからみあって通行不能であった。踏み跡は、右手の杉林の斜面をジグザグに登っていったので、これを辿った。杉林から笹原をトラバースすると、本来の登山道に乗ることができた。山腹をじぐざぐに登っていく道が続いたが、再びひどい倒木帯が現れた。倒木の下にかろうじて見える登山道が頼りになった。倒木帯の中で五合目の標識を見つけて、コースに乗っていることを確認できた。
 大神岩に出ると、その先は尾根沿いの道になって、ナラやブナの木の目立つ幅広の登山道が続くようになった。この先の被害は少なく、登山道に倒れかかっている倒木もあったが、通過するのに問題はなかった。緩やかなスカイラインを描く那岐山の山頂も近づいてきた。
 灌木帯を登り詰めると、幅広の稜線に出て、右手に三角点が置かれていた。ガスが流れて展望のないのが残念であった。右へ緩やかな稜線を辿ると、一旦僅かに下り、その先で避難小屋があり、その先の高みが山頂であった。予想しない苦労をしての登頂になった。
 ここまでの倒木帯を考えると、歩いたことのないBコースを下ることは無謀と考え、来た道を戻ることにした。
 下りの途中、大神岩の手前で、単独行とすれ違った。通行不能と行っても、地元の山慣れした登山者は結構登っているようであった。倒木帯の下りは、コースを見失わないように、登り以上に神経を使った。杉林の迂回路を下っていくと、さらに他の登山者と出会うようになった。倒木に腰掛けて、先に進むのを諦めて休んでいる登山者もいた。登りに付けた赤布を外すつもりであったのだが、他の登山者がそれを見て登ってきてしまったので、外すわけにはいかなくなった。一般登山道のヤブコギは、いつものヤブコギと勝手が違った。
 今回の台風被害で、那岐山の登山道は壊滅的な被害を受けた。本来は、ファミリーハイクのレベルの山であるが、未経験とあっては、GPSと赤布をフルに活用する必要があった。登山道の復活には、別なコースを新しく切り開くしかないであろう。
 高速道路上で一番気に掛かる、大阪付近の渋滞も、平日の午後とあって、スムーズに通過することができた。交通量も少ない北陸自動車道に走り込むと、安心して車を運転することができた。
 最終日の予定は、石川県から富山県にかけての山が良いかなと思いながらも、決めかねていた。車を走らせ続ければ、深夜には新潟に戻ることはできそうであった。夕方のテレビの天気予報を見ると、全国的に晴れ間が広がるようであった。このチャンスを逃すことはないと思い、剱岳の展望台として人気の高い中山に向かうことにした。
 中山の登山口は、劒岳登山口として知られている馬場島である。高速道上のSAで夜を明かし、暗いうちに移動を開始した。高速を下りてから馬場島へのルートは少し分かりにくいが、昨年赤谷山を登っているので、迷うことも無かった。この付近の山に登ろうと思って晴天の日を待っていたのだが、今年は週末の天候不順が続き、機会を失ってしまった。
 早月川沿いの道路に変わると、白く染まった劒岳が姿を現した。その前に黒々としたドーム状の山頂を見せているのが中山のようであった。馬場島発電所を過ぎ、馬場島の手前の白萩川と立山川の合流点が中山の登山口である。橋の手前にダートの駐車場があるが、満杯の時は、橋を渡った先の広い駐車場を利用できる。
 グループがひと組出発の準備をしていていただけで、もっと混んでいるかなと思っていただけに予想外であった。
 いきなりの急な登りが始まった。一旦傾斜は緩んだものの、すぐに急斜面に突き当たって、ジグザグを切りながらの登りが続いた。登山口には、中山遊歩道という看板が置かれており、良く整備された登山道ではあったが、遊歩道というのはどうかなと思う、体力を使う道であった。時間が経つにつれ、劒岳も次第に明るくなってきたが、太陽が顔を出したと思ったら、完全な逆光で見え難くなってしまった。
 天然杉の並んだ稜線上に出て、ようやく山頂かと思ったが、まだもうひと登りする必要があった。傾斜は緩くなっていたので、歩くのは苦にはならなかった。
 途中で先行のグループを追い抜いてきたため、誰もいない山頂に到着した。私を出迎えるかのうように、劒岳の巨大なピラミッドが、目の前に空に向かって山頂を突き上げていた。稜線上に連なる岩峰もひとつずつ見分けられ、迫力のある眺めであった。すでに山頂は雪に覆われていたが、岩壁には雪が付かないのか、黒々としたところもあった。尾根の末端部には赤谷山が頭を持ち上げ、ブナクラ峠の鞍部を越した先には、猫又山が山頂を見せていた。しばし、眺めを前に立ち尽くした。
 ひとつ問題なのは、逆光のために写真を撮ることが難しいことであった。中山から劒岳の山頂は、真東に位置している。もう少し太陽が上がるのを待つしかないかということで、時間は早かったが、ビール片手に腰を下ろした。夕暮れに、赤く染まった劔岳を撮影するのに良いポイントであろうが、天気の見計らいと、暗くなっての下山が難しくなりそうである。
 1時間程も待つと、太陽の具合も少し良くなった。他の登山者も到着しはじめたので、写真を改めて撮ってから下山に移った。下りの途中、大勢の登山者にすれ違うことになった。大人数のグループが何組もいた。すれ違う登山者から、「山頂は混んでいますか」と何回か聞かれた。中山の山頂は、広い広場になっているが、お弁当を広げるために腰を下ろす場所に苦労するようになったかもしれない。写真的には、早い時間の登頂は無駄であったが、静かな山を楽しむには、早立で良かったようである。
 最後に寄り道をしたが、高速道をもうひと走りして、往復3000kmの九州への山旅を終えた。

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