横根山、黒沢峠

横根山、黒沢峠


【日時】 2004年9月4日(土) 日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 曇り

【山域】 飯豊連峰周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 横根山・よこねやま・627.7m・三等三角点・山形県
【コース】 玉川橋より
【地形図 20万/5万/2.5万】 村上/手ノ子/小国
【ガイド】 新潟の低山藪山(白山書房)

【山域】 飯豊連峰周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 黒沢峠・くろさわとうげ・468m・なし・山形県
【コース】 市野々より
【地形図 20万/5万/2.5万】 村上/手ノ子/小国東部
【ガイド】 なし
【温泉】 えちごせきかわ桂の関温泉ゆーむ 500円

【時間記録】 7:40 新潟=(R.7、新発田、R.290、大島、R.113 経由)=9:25 玉川橋〜9:35 発―11:10 横根山〜11:25 発―12:50 玉川橋=(R.113、小国、市野々 経由)=13:15 市野々側林道入口―13:24 林道終点―13:50 黒沢峠〜14:07 発―14:33 林道終点―14:40 市野々側林道入口=(往路を戻る)=17:00 新潟

 横根山は、小国町の西側、荒川左岸にある山である。北山麓には横根スキーが開かれている。山頂付近に送電線が通過しており、その巡視路を使って登ることができる。 
 現在では米坂線や国道113号線が通る荒川沿いに続く越後街道は、かつては越後と米沢を結ぶ交通の要所であった。川沿いには難所が続いて道を付けることができないため、内陸部を切り開いて街道を作り、十三の難所が続いたことから十三峠街道とも呼ばれている。越後街道は、本街道として使われていたが、現在ではその役目が終わって、忘れられた道になっている。
 この十三峠としては、諏訪峠、宇津峠、大久保峠、才の頭峠、桜峠、黒沢峠、貝之淵、高鼻峠、朴ノ木峠、萱ノ峠、大里峠、榎峠、鷹ノ巣が挙げられるようである。街道の中心部に位置する黒沢峠には、昔の敷石が残されている。

 日曜日に後輩の結婚式があり、山行は土曜日だけということになった。9月に入って猛暑は終わったものの、新潟周辺の低山では、まだヒルの出るおそれがあり、うかつな山には出かけられない。以前から気になっていた山形県小国の横根山に出かけることにした。この山の麓は、山形経由で東北方面に出かける際に、何度ともなく通っており、気になっていた。以前、南の稜線伝いにあるデベソ山から登ろうとしたが、夏草がひどく茂っており、薮漕ぎをするのは秋になってからということで、そのままになっている。今回は、R.113号線の玉川橋のたもとから始まる尾根沿いにある送電線の管理道を利用することにした。
 R.113号は交通量も多く、車の駐車場所を探してノロノロ運転するのもさしさわりがあるため、国道から分かれて長者原への道に進み、玉川沿いに下りた所にある空き地に車を停めた。対岸の尾根末端を見ると、車が停まっているのが見えた。尾根末端部に入る道があるようだが、車を移動するのも面倒なため、ここから歩き出すことにした。
 玉川橋を渡ると、右手に米坂線の線路が走り、尾根の末端が落ち込んできている。少し先に進んだところから左下に続く脇道が始まっていた。ただ、この入口は、小国方面を向いており、新潟方面からだと、車のハンドルの切り返しが難しそうであった。
 未舗装の車道を下りていくと、国道と線路の下を通り抜けて、尾根末端の広場に出ることができた。米坂線の線路を跨ぐ必要があると思って、時刻表も調べてきていただけに拍子抜けであった。停めてあった車は、小国森林組合のもので、作業の人達が山に入っているようであった。
 広場の先に幅広の道が続いていたので進むと、すぐに終点になった。建物の土台跡のようなものもあり、これが地図にある建物マークの正体のようであった。送電線の巡視路のようなものは見当たらなかったが、頭上の送電線を見ながら山の斜面を登ると、左手からはっきりした道が上がってきた。
 下山して判ったことだが、この取り付きは、広場の手前寄りから線路沿いに進み、尾根の左よりから登りはじめるものであった。
 急な尾根であったが、こまかくジグザグが切られているため、歩きやすかった。尾根の傾斜が緩むと、その先は、送電線鉄塔の列が続いた。この送電線は、赤柴線と呼ばれるようだが、鉄塔の高さが低いため、その下が、きれいに刈り払われていた。刈り払いベルトの上では日ざしから逃げることができず暑かったが、時折脇の雑木林に道が付けられており、木陰でひと息つくことができた。
 登っていくと、機械での草刈り音が聞こえてきた。5名の作業員が、急斜面にとりついて草を刈っていた。送電線下のベルトには刈り取った草が横たわり、足下が判らないため、かえって歩きづらい状態になっていた。
 谷を巻いた先には、551mピークとそこを通過している別な送電線がはっきりと見えていた。
 横根山への最後の登りにかかる所で、山道風の巡視路は右に分かれたが、そのまま送電線下の刈り払いベルトを辿り、急斜面を足下に注意しながら登った。
 送電線は横根山の山頂を通過せず、そのまま先に下っている。下りにかかる付近で、薮の薄い所を狙って薮に突入した。尾根沿いに高みを目指し、GPSで山頂と判断されたあたりは、薮に囲まれた中であった。ススキに覆われた小区画があり、草の下を探していくと、頭が赤く塗られた三角点を見つけることができた。山頂標識やテープのような物は見当たらなかった。
 三角点の少し先にマイクロウェーブの反射板が立てられていたので、その下まで進んでみたが、草に囲まれて見晴しは利かなかった。
 送電線の刈り払いベルトの下に戻ってひと休みした。横根山は、飯豊や朝日連峰に挟まれた位置にあるので、この巡視路を利用して少し手を加えれば、良いハイキングコースになるであろうに、もったいないことである。刈り払い後の歩き難い道を、足下に注意しながら下った。
 横根山から下山後、もうひと頑張りということで、十三街道の一つである黒沢峠を目指した。どちらから登るか迷ったが、敷石が良く保存されているらしい、市野々側から登ることにした。
 横川にかかる橋のたもとから未舗装の林道が始まっており、その入口には、黒沢峠石畳の標柱が立てられていた。林道には車の轍が付けられていたが、草が倒れて道幅が狭くなっていたので、入口から歩き始めることにした。
 林道を進んでいくと、鎖がかけてあり、車、人の通行禁止と書かれていた。見ると、沢を渡る所で道が崩壊しており、地中に埋め込まれて水を通していたと思われるパイプが露出していた。崩壊部には降りられない感じであったが、上流部の草むらに踏み跡ができており、それを辿ると、沢に下りてから対岸に渡ることができた。これも、7月の豪雨による被害なのであろうか。
 このすぐ先で林道は終点になった。広場からは、尾根沿いに山道が始まっていた。幅5m程のしっかりした道であったが、人が通らないせいか、背は低いものの、草が表面を覆っていた。
 道沿いには杉林が続き、薄暗い感じの道であった。地図では、沢に沿って破線が記されているが、実際には尾根沿いに道が付けられていた。
 登りの途中、敷石が現れたが、短い区間で消えてしまった。こんなものかと思ったのだが、峠が近付いた所からは、敷石が長々と続くようになった。横長の石が置かれており、中央部にはかつて人が歩いたためか、窪みも認められた。石の上は苔が厚く生え、滑りそうで足を乗せるのは、はばかられた。カーブ地点も敷石がきれいに並べられており、高みに向かう列は見応えがあった。敷石の数は、約3600段とのことのようである。
 敷石を眺めながら登っていくと、黒沢峠に到着した。ここには、黒沢峠山頂と書かれた標柱が立てられていた。しずかな峠であった。昔を偲びながら、ひと休みした。
 現在では、地元の敷石道保存会が中心になり、毎年毎年10月下旬、黒沢峠まつりが開催されるというが、この峠道は、静かな一人歩きが相応しいであろう。
 越後街道は、米沢藩の特産品である青苧(あおそ)を越後のちぢみ織りの原料として運んだ道であったという。冬の織物作業がはじまる降雪前に運搬を終えるため、悪路であった街道の改修が必要になったという。そこで、手ノ子の宿場問屋、横山五郎右ェ門らが、悪路改修に立ち上がり、私財で多くの人足を提供し、敷石道を作ったという。かつて人の往来で賑わったことは、敷石が静かに語っているだけである。
 また、十三峠街道は、明治11年(1878)に来日し、東京から日光、会津、新潟、山形、青森、北海道と単身で旅行したイギリス人女性イザベラ・バードが著した日本旅行記、「日本奥地紀行」(平凡社 高梨健吉訳)にも出てきており、その中で黒沢峠は、「何百というごつごつとした石の階段を上がったり下りたりする。暗いところでは愉快なことではなかった。」と書かれている。「これらの峠はすべて森林におおわれた山中にあった。森林が立ちふさいでいる峡谷によって深い割れ目がつくられていた。時折雪をいただいた会津の連峰の一つが姿を遠くに見せて、緑の海の単調さを破っていた。」とも書かれている。置賜平野に入った時には、「アジアのアルカディア(桃源郷)」という過大な賛辞を与えているのも、十三峠越えのきびしさ故かもしれない。
 峠の先の黒沢方面にも敷石は続いているようであったが、落ち葉に埋もれていた。いつか機会を見て、峠の反対側も歩いてみようか。十三峠街道の他の峠も訪れてみる必要がある。
 夏の名残りの蚊もまだ残っており、数ヶ所を刺されて、体をかきかき下山した。

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