唐沢山、苗場山

唐沢山
苗場山


【日時】 2004年7月11日(土)〜12日(日) 各日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 11日:曇り後雨 4日:雨

【山域】 谷川連峰周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 唐沢山・からさわやま・1234.0m・三等三角点・群馬県
【コース】 法師温泉
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/四万/三国峠、四万
【ガイド】 山と高原地図「谷川岳・苗場山・武尊山」(昭文社)
【温泉】 法師温泉

【山域】 苗場山
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 苗場山・なえばさん・2154.3m・一等三角点補点・新潟県
【コース】 小赤沢
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/苗場山、岩菅山/苗場山、佐武流山
【ガイド】 アルペンガイド「谷川岳と越後の山」(山と渓谷社)、山と高原地図「谷川岳・苗場山・武尊山」(昭文社)
【温泉】 楽養館 500円

【時間記録】
7月11日(土) 6:30 新潟発=(関越自動車道、湯沢IC、R.17、永井宿 経由)=9:30 法師温泉〜9:40 発―10:53 国道―10:57 三国トンネル口―11:19 分岐―11:23 三国峠〜11:28 発―11:32 分岐―11:59 法師温泉分岐―12:34 大般若塚―13:01 唐沢山取り付き―13:07 唐沢山〜13:24 発―13:28 唐沢山取り付き―13:58 大般若塚―14:20 国道―14:37 法師温泉=(R.17、石打、R.353、中里村、R.117、津南、R.405 経由)=18:30 和山  (車中泊)
7月12日(日) 6:08 小赤沢コース三合目―6:34 四合目―6:56 五合目―7:23 六合目―7:36 七合目―7:50 八合目―7:56 坪場ベンチ―8:37 苗場山〜8:58 発―9:36 坪場ベンチ―9:41 八合目―9:52 七合目―10:02 六合目―10:23 五合目―10:41 四合目―11:02 小赤沢コース三合目=(R.405、津南、R.117、越後川口IC、関越自動車道 経由)=15:30 新潟着

 上越国境の永井宿から三国峠にかけての旧三国街道は、ハイキングコースとして整備されている。この途中の大般若塚より、猿ヶ京に向かって分かれる治部歩道がある。唐沢山は、この治部歩道沿いにある山である。

 上信越国境にある苗場山は、4キロ四方に及ぶ平らな山頂を持ち、矮小化したオオシラビソの原生林の間に湿原が広がっている。この山の名前は、日本有数の豪雪地の辺境秋山郷を著した鈴木牧之の「北越雪譜」によって世に広められた。登山道としては、各方面から通じているが、最近では、車を利用すると短時間で登ることのできる小赤沢コースの利用者が増えている。

 梅雨明けを思わせる猛暑が続いたが、週末は雨の予報。どこに出かけるか、土曜日の朝まで迷っていた。先週は、三国峠から平標山への縦走路を歩いたが、この線を法師温泉まで延ばそうかと思った。旧三国街道の近くには、唐沢山という、どのような山かは知らないが、気になるピークもある。土曜日は法師温泉を中心とした周遊コースを歩き、日曜日は、秋山郷側から苗場山へ、歩いていないコースで登ろうかと、おおよその計画をたてた。
 晴れの新潟を後にしたのだが、上越国境が近づくにつれ、どんよりとした雲がたちこめる天気になった。先週もお世話になった元橋の駐車場をのぞくと、あいかわらずの混み様であった。冬型気象とは異なり、三国峠を越して群馬県側に入っても、天気が良くなるということはなかった。
 永井の宿より法師温泉への林道に進んだ。法師温泉の駐車場に車を置かせてもらい、歩きだした。赤い郵便ポストの置かれた温泉宿の玄関前を過ぎるとすぐに、大般若塚への道が右に分かれたが、これは下ってくる予定の道である。泊り客が散策する温泉の裏庭を過ぎると、法師沢沿いに道が始まった。砂防ダムの堰堤を過ぎると、向いの左岸に逢初の滝がかかっていた。
 法師沢の左右を鋼鉄板の橋で渡りながら沢を遡っていった。緑の色が濃く、紅葉の季節は美しそうな渓谷であった。落ち葉が厚く積もり、クッションのように足裏に優しかった。道に沿って、送電線の「湯宿線」が走っており、所々で巡視路が枝分かれした。後でGPSの軌跡と地図を比べると、直線的に歩いていたことに気がついた。送電線の巡視路として整備されているためか、昔の道とは少し違っているようであった。沢の二又より、尾根の登りが始まったが、急な所は大きなカーブを描く緩やかな登りで、体力的にはきつくはなかった。
 国道を車が走る音が近付いたところで、足にちくりと痛みを感じた。ズボンの裾をまくると、ヒルが吸い付いていた。いそいで裸足になって点検をした。靴や靴下に潜り込んだ10匹以上のヒルを取り除くはめになった。足の五ケ所ほどに吸い付かれて出血が生じる被害状況であった。Tシャツも脱ぎ、パンツの中も覗き込んで確かめたが、こちらは無事であった。四万周辺の山や谷川岳ヒツゴー沢ではヒルが出るとは聞いていたが、法師沢にもいるとは思ってもいなかった。谷川連峰の東面はヒルの危険性があるということのようである。知らないとはいえ、ヒル地帯に梅雨時に入れば、被害は当然である。
 気を取り直して歩き出した。ひと登りで国道に出て、左折してしばらく国道を歩いた。三国トンネル入口から再び山道に入った。三国峠へは、これまでも何度も登っているが、群馬県側からは初めてであった。車道の手前の広場には多くの車が停められていたが、行き交う登山者も多かった。
 ひと汗かくと水平の道に合流し、これが旧三国街道のようであった。左に曲がると、そう遠くない距離で三国峠に到着した。二週続けての三国峠になった。三国山に向かう登山者を見上げながら写真を撮っていると、中高年が中心の団体が到着した。若い女性の引率者が、「そこが山頂ですので、ここで何分まで休憩します。」と話していた。三国峠から見えるのは、お花畑の台地で、三国山の山頂は見えない。危なっかしいガイドであった。
 登る人、下る人で混み合う峠で休む気にはならず、旧街道に進むことにした。分岐まで引き返し、永井への旧街道に入った。この道は初めてであった。立派な道が続いていたが、尾根の乗り越しで小さなアップダウンがあり、意外に体力を消耗した。山腹を切り開いた道で、途中で小さな沢が何ヶ所も落ち込んでおり、良い水場になっていた。
 この旧街道にもハイカーが数組入っており、夏山シーズンの到来を感じさせていた。朝から蒸し暑い陽気が続いていたが、ここにきて雲が厚く、日が陰ってきた。雨も近そうであった。「長岡藩士なだれ遭難の墓」という看板が現れ、
「天文五年(1740年)二月五日長岡藩士永井磯七ほか七名、外人足、四名が長岡藩内の犯人を、江戸で捕らえて唐丸かごに入れて護送中表層なだれに遭い藩士全員死亡。
 犯人と人足はなだれに巻き込まれず、助かった。
 昭和五十九年三月一日
 新治村」
 このように書かれていた。看板の背後には石作りの墓が並んでいた。
 その先で東屋とトイレの置かれた法師温泉への分岐に到着したが、これは登ってきた国道口近くに下り立つもので、さらに先に進む必要がある。
 その先で、三坂の茶屋跡に出た。
「坂上田村麻呂の血縁関係であった、田村越後の守が三坂の茶屋を営んで居た所である。
又、三国権現の神主でもあった。
茶屋跡は道をはさんで南側に、小さな茶屋も、一軒あり、広い敷地で当時をしのぶ事ができる。当時三坂の茶屋は、三国権現の賽銭をかますに入れて馬で、毎日運ぶ休憩茶屋であり、越後へ越す、お助け小屋でもあり、冬季間の雪のやむまではここで逗留して居た。本宅は裏山の小高い場所に敷地跡があった。
戊辰の戦いで会津藩が敗北の際に全部が焼失してしまわれ明治時代は(明治二十年以前)道沿いの、大きな宿であった。」さらに三国峠の或る一日ということで、一日の人や馬の通行量が書かれていた。
 看板の脇には、草の茂った空き地があり、昔の屋敷跡であることが偲ばれた。
 旧街道を急ぎ足で歩いていくと、大般若塚に到着した。大般若と彫られた石塔が立てられていた。ここは四ツ辻になっており、直進は永井への大般若坂、右折は法師温泉への道、左折すれば治部歩道になっている。ここには東屋も置かれていた。唐沢山へは治部歩道に進むことになる。
 大般若塚には、面白い昔話が残されている。
「大盤若塚理趣分供養塔
昔の三国峠
 今の大盤若塚あたりに、妖怪が現れては、往来の旅人を嚇かして死者も出て居ると言う様な話で人々は、恐れてここを通るのも命がけであったと言われていたが、その後人々はこれは風雪等のために此の峠に於いて命を落とした人々の霊であろうと気付き、三国権現の神主である田村越後の守に、乞い願い死者の冥福を祈り且つ大盤若経の文字を小石に一字ずつ書き、尚、死者の氏名を石に刻み、経石と共に、之をここに埋めて塚となし墓の上に、大盤若塚理趣分供養塔を建てたのである。
新治村 観光協会」と看板には書かれていた。
 法師温泉の売店に置いてあった笛木大助署「三国峠の伝説」によると、もう少し違った話が載っている。
「大般若と九十九曲り
 大般若から南に下がると法師温泉に通じる。昔は越後から法師へ行く本道であった。法師温泉へは真下になるでジグザグの曲がり道を開いた。当時は偶然にもジグザグの曲がり百曲がりあったそうである。
 大般若から、くぐつが橋に亘って夜な夜な妖怪が出て、峠越えをする人を悩ますので僧侶に相談したところ、百曲がりの途は妖怪を呼ぶというので一曲がり減らし、九十九曲がりにしたと伝えられている。
 また、三国峠に出没する妖怪を封じるため、百曲がりを九十九曲がりにし、峠で亡くした人の供養をあわせて、大般若経を河原の小石に一字ずつ刻み、これを叺に入れて大牛八頭で運びこの地に埋め、その上に塔を建て、八人の僧侶によって法要を営んだ。これ以後妖怪の姿は消滅したと伝えられている。」おおよそ、このような話が載っている。三国峠を歩く人にはお勧めの本である。
 大般若塚の前には、戊申戦争で亡くなった吉田善吉の墓があり、三国峠周辺には、伝説やら戊辰戦争の遺構にはことかかないようである。
 伝説によるものか、あたりは急に薄暗くなってきた。唐沢山へと急ぐことにした。治部歩道は、ひと登りすると、尾根の一段下のトラバース道が続いた。道はしっかりしていたものの、夏草が茂っている所もあり、歩く者は少ないようであった。前方に小ピークが迫ってきて、それが唐沢山の山頂のようであった。治部歩道は、山頂直下を通過しているので、最後の区間は自分でルートを見つける必要があった。尾根を右から左に乗り越すところで、尾根沿いに続く踏み跡が見つかった。下りははずさないように注意が必要な踏み跡であったが、薮漕ぎの心配はなくなった。枝を掻き分けなガらひと登りすると、唐沢山の山頂に到着した。山頂は小広場になって、三角点が頭をのぞかせていた。薮に囲まれて展望は無い山頂であった。
 黒雲が広がり、雷鳴も聞こえ始めたが、とりあえず腰を下ろして昼食とした。雨の降り出すのも時間の問題ということで、急いで来た道を戻った。
 大般若坂からは、小さなつづら折りをくり返す道を下った。伝説の通りに九十九のカーブがあったかどうかは判らない。国道を横断し、法師温泉への下降を続けた。国道からの入口付近は草がかぶり気味であったが、すぐに良い道になった。
 法師温泉の駐車場に戻り、念のためにと足下を確認すると、数匹のヒルが取り付いていた。幸い、時間も経っていなかったためか、被害は受けていなかった。
 日帰り入浴の時間は過ぎていたが、親戚ということで家から電話しておいてもらい、法師温泉に入った。ひさしぶりの法師温泉であったが、本降りの雨のもとで薄暗くなり、あんどんの灯が、秘湯の風情を増していた。囲炉裏端でしばらく話し込んでから、温泉を後にした。
 翌日は、苗場山に登るため、秋山郷をめざした。一旦湯沢に戻り、石打から六日町方面への山越えを行った。途中で雷雨に遭遇し、車を走らせながらも、翌日の山歩きができるのかどうか、疑問に思えてきた。
 昨年秋に、佐武流山から赤倉山を経て苗場山までの登山道が再整備され、今年の秋には苗場山付近の湿原内の木道の整備が終わって縦走路のお披露目になるという。5月連休の縦走の後半では、この登山道に助けられたが、赤倉山で下山してしまい、赤倉山から苗場山の間を歩いていないのが、心残りになっている。秋山郷から佐武流山に登り、苗場山から和山登山道を下れば、両登山口もそう遠くはなく、一人でも周遊できそうであった。その偵察も兼ねて、和山登山道を歩いてみたかった。
 秋山郷に入ると、雨は止んだが、栃川は茶色の奔流になっていた。和山登山道は、徒渉もあるようで、これでは諦めた方がよさそうであった。第二候補として、まだ歩いていない大赤沢コースを登ってみようかと思った。取りあえず、キャンプ場近くの空き地に車を止めて寝た。
 翌朝、ラジオをかけてみると、雷の空電が盛んに入っていた。期待も空しく、天気も崩れそうなため、時間もそうかからない小赤沢コースを歩くことにした。これまでに二度歩いているが、この天気では、良く知っているコースの方が安全である。
 99年7月4日以来の小赤沢コースであるが、登山口の駐車場が大きく広げられていたのには驚いた。これも最近の登山ブームによるものである。雨具を着て出発の準備をしている間に、本格的に雨が降り始めた。
 小赤沢コースの駐車場は三合目で、かなり楽をすることができる。緩やかな尾根を登っていくと、四合目の水場に到着する。雨は激しくなり、登山道は、沢歩きのようになった。幸い長靴を履いていたので、水溜まりは気にせず歩くことができた。合目標識は、20分ほどおきに置かれており、登りのペース配分の役にたった。途中の鎖は、以前よりも数が増えていたが、それに頼る必要はないようなものである。
 下山してくる登山者にもすれ違うようになった。山頂の山小屋の泊まり客であるが、翌日の天気がどうなるか判らない状態では、その日のうちに下山してしまった方が良かったのではないだろうか。
 八合目を過ぎると、ひと登りで山頂湿原の一画の坪場に到着する。七から八合目への登りは一番苦しいところであるが、八合目で長く休むよりは、坪場まで登ってから休んだ方が良い。
 吹きさらしになる山頂湿原の歩きを心配していたのだが、登りの途中で豪雨のピークは越したようで、周囲の風景を楽しみながら歩くことができた。ガスの中から池塘が現れては消えていった。花は、キンコウカやワタスゲが見られるくらいで、端境期のようであった。
 途中のオオシラビソの林の間では、登山道は水たまりの下になっており、下山途中の中高年グループが、足の置き場がああだこうだと言い合っていた。長靴の強みで、水たまりの真ん中を突っ切った。
 遊仙閣の裏手の一等三角点に触れて登頂とした。いつもは人で混み合う小屋前の木のテラスにも人はいなかった。タイミングを合わせてくれたかのように、ガスが上がり、山頂湿原から佐武流山の眺めが広がった。予期せぬ眺めであったが、これがあるから雨の日であろうと、登山は止められない。
 傘をさし、パンを食べながらビールを飲んだ。寒く感じるビールであった。
 再びガスが展望を閉ざしてしまった。長居は無用ということで、下山の足を速めた。
 ともあれ登山を終えて、近くの楽養館で温泉に入った。鉄分を含んだ、どろどろの湯であり、暖まることができた。

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