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大楠山、御前山


【日時】 2003年12月13日(土)〜14日(日) 各日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 13日:晴 14日:晴

【山域】 三浦半島
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 大楠山・おおくすやま・241.3m・二等三角点・神奈川県
【コース】 安針塚駅より前田橋へ
【地形図 20万/5万/2.5万】 横須賀/横須賀/横須賀、浦賀、秋谷
【ガイド】 分県登山ガイド「神奈川県の山」(山と渓谷社)、関東百名山(山と渓谷社)

【山域】 奥多摩
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 御前山・ごぜんやま・1405.0m・三等三角点・東京都
【コース】 奥多摩湖より境橋へ
【地形図 20万/5万/2.5万】 東京/五日市/奥多摩湖
【ガイド】 アルペンガイド「奥多摩・奧武蔵」(山と渓谷社)、分県登山ガイド「東京都の山」(山と渓谷社)、関東百名山(山と渓谷社)

【時間記録】
12月13日(土) 6:02 新潟発=(上越新幹線、上野、京浜東北線、品川、京浜急行 経由)=9:35 安針塚駅―9:56 塚山公園〜10:05 発―10:57 阿部倉温泉下遊歩道口―11:34 衣笠城趾分岐―13:58 大楠山〜12:20 発―13:20 前田川遊歩道口―13:40 前田橋=(逗子、総武線、東京、京浜東北 経由)=15:30 上野
12月14日(日) 5:50 東京=(中央線、立川、青梅線 経由)=9:00 奥多摩駅〜9:30 発=(西東京バス)=9:46 奥多摩湖―10:46 サス山―11:47 惣岳山―12:06 御前山〜12:28 発―12:59 林道―13:32 栃寄ゲート―14:04 境橋〜14:24 発=(西東京バス)=14:35 奥多摩湖駅〜14:40 発=(青梅線、中央線 経由)=17:00 東京

 大楠山は、三浦半島の最高峰であり、山頂からは三浦半島の全貌や、富士山、丹沢山塊の眺めが広がり、ハイカーに親しまれている。
 御前山は、奥多摩山域のほぼ中央部に位置し、大岳山、三頭山とあわせて「奥多摩三山」に数えられる山である。山頂にはカタクが自生し、春には大混雑になるという。

 母が入院し、その退院の手伝いに東京に行く必要が出た。新潟のこの季節は悪天候が続くため、早めに出かけて関東方面の山歩きをすることにした。
 登る山としては、関東百名山のうちから三浦半島の大楠山と奥多摩の御前山を選んだ。
 いつものような車ではなく、電車とバスを乗り継ぐため、交通機関の下調べがまず必要になった。大楠山の登山口となる安針塚駅といっても、どこにあるのか知らなかった。横須賀の手前で、京浜急行で行くらしいということで、なんとなく判った。
 地図でコースを確認しようとしたが、車道歩きが長いのに、2万5千分の1地図では、歩くはずの道路が載っていないようであった。ガイド文を読んでも、地元の人間にはポピュラーすぎるのか、コース紹介があいまいであった。なにしろ、山頂までのガイドは書いてあるものの、下りは○○コースをとろうで終わっている。道路や住宅地が良く書かれているスーパーマップルの電子地図もプリントアウトして持っていくことにした。
 国境の長いトンネルを越すと、青空が広がっていた。高崎付近からは真っ白な浅間山や黒々した妙義山の眺めが広がり、東京が近づくに連れて富士山が大きな姿を見せるようになった。下山後のことを考え、上野駅のコインロッカーに余計な荷物を置き、品川から京浜急行に乗った。
 安針塚駅では、数組のハイカーが下りたった。山とはまったく無関係な周囲の雰囲気であった。塚山公園の標識に従って、駅を出た左手でガードをくぐり谷沿いの道に進んだ。狭い車道であるが、車の往来も結構あり、いつものようにぼけーっと歩いている訳には行かなかった。急坂の登りが始まったが、回りには家が建ち並んでいた。汗ばむようになると、車止めに出て、その先で塚山公園に出た。公園の上には、どこからか車道が上がってきていた。
 ここには、三浦安針(ウィリアム・アダムス)夫妻の墓が置かれていた。下の看板には、このように説明されていた。
「国指定史跡 三浦安針墓  大正十二年三月七日指定
 三浦按針は、本名ウイリアム・アダムスという英国人である。オランダ東印度会社が東洋に派遣した艦隊の水先案内人となり、マゼラン海峡を過ぎ太平洋を横断し、モルッカ島に向かって航行中、大嵐にあって九州に流れ着いた。のち徳川家康の新任を得、外交顧問となった。
 また、航海術、天文学、造船術にも優れ、伊豆伊東で西洋帆船を作った。三浦郡逸見村縫い二五〇石を与えられ、三浦按針と呼ばれた。按針とは、水先案内人のことである。按針は、元和六年(1620)長崎県平戸で亡くなった。
 この墓は按針とその妻女をとむらうもので、遺言によってこの地に立てられたと伝えられている。
 この墓石の形態は宝篋印塔といい、凝灰岩でできている右塔が按針の墓、安山岩でできている左塔が妻の墓である。
平成三年三月 横須賀市教育委員会」
 塚山公園からは、遊歩道の下りとなったが、それも長くはなく、高速道の脇に下り立った。そこからは、長い車道歩きが続いた。車道歩きの途中からは、鉄塔の立つ大楠山の姿を眺めることができた。
 横須賀インターの出入り口の下を通り、池上トンネルの手前から本円寺に向かい、小さなグランド脇を左折すると交通量の多い車道に出て、ここを左折すると大楠登山口のバス停に出た。ここから山に向かって進んだ。横浜横須賀道路を高架橋で横断し、ここまではノンミスで辿り着いたが、阿部倉温泉への道に入って引き返しになった。実際には、温泉のある高台への道を見送って直進すると谷間に入り、そこから沢沿いの登山道が始まっている。この分岐では、横浜横須賀道路をくぐってやってきたグループが、道が判らなくなっており、この道で良いか尋ねられた。こちらも自信がある訳ではないが、この道だろうと答えた。
 沢沿いの道を少し進むと、沢沿いと左の高台に上がっていく道の二手に分かれた。分岐の標識もどちらをさしているか判らず、その先で合わさるのだろうと思い、幅広の左の道に進んだ。急斜面に、金網でできたステップが階段状に置かれていた。ひと登りすると送電線の鉄塔下の広場に出て、道は終わりになっていた。その先に踏み跡は続いていたが、決してハイキングコースレベルのものではなかった。地図を確認すると、ハイキングコースは谷の反対側に上がっていくようであった。間違ったコースに入り込んでしまったということで引き返しになった。後から、他のグループが迷い込んできてしまった。足跡からみても迷う者が多いようで、ここには行き止まりとでも書かれた大きな看板が欲しいところである。
 急斜面を滑らないように下って分岐に戻った。谷沿いに登山道が長く続いた。前の日にでも雨が降ったらしく、登山道はぬかるみ状態になっていた。大楠山は、簡単なハイキングコースと思っていたので、普段履きのローカットのウォーキングシューズを履いていたため、滑らないように細心の注意が必要であった。また、夕方病院に寄る必要もあったので、泥だらけになるわけにはいかなかった。ズボンの裾を気にしながらの、いつもとは勝手の違う歩きになった。
 谷から離れて尾根上に出ると、衣笠城址からの道が合わさり、その先でゴルフ場のフェンス脇に出た。住宅地の中に取り残された山というのが、大楠山である。大楠山の山頂直下に出たところで、道が二手に分かれた。右手は階段とあったので、左の道に進んだ。この左手の道は、一旦西側の車道に出てから山頂に回り込むものであった。大回りになるので、右手の階段コースに進んだ方が良かったようである。車道の終点広場には車が上がってきていた。
 大楠山の山頂は、広場になっており、どこからと思われるような、大勢のハイカーが休んでいた。螺旋階段の付けられた展望台が、立てられていた。さっそく上に登ると、周囲の展望が広がった。三浦半島や横須賀の町を良く眺めることができたが、あいにくと、富士山の山頂には雲がかかっていた。この季節、新潟ではお目にかかれない青空が広がっていた。
 展望台下のテラスに腰を下ろし、富士山の雲が消えないかと眺めながら、ビール片手に昼食をとった。展望台の一階部分は売店になっているようであった。
 下山は、前田橋コースに向かった。遠回りをして登ってきた最後の急坂を下った所で、右に曲がると気象観測のレーダードームの下に出た。この一帯は、春には菜の花畑が作られるようであった。尾根沿いの登山道が続いた。関東ふれあいの道として整備されているようであったが、泥んこ道は非常に滑りやすくなっており、油断がならなかった。登山道周辺の木立は、照葉樹が目立った。中にはシュロも交じっていたが、自生のものではないはずだ。
 前田川に下り立つと、車道に出たが、川沿いに続く前田川遊歩道に進んだ。大きな石を並べて、飛び石伝いに川を何回も渡るように遊歩道が整備されていた。途中で、泥だらけになった靴を洗った。川歩きを楽しんでもらおうという目的であろうが、人工的な過剰整備が鼻についた。
 前田川バス停にでると、ほどなく逗子行きのバスが到着した。車窓からは、駿河湾に浮かぶ富士山を眺めることができた。
 二日目は、東武線の始発に乗ったものの、上野駅、東京駅、立川駅での乗り換えに加え、トイレに行きたくなって途中下車したりして一台遅れ、奥多摩駅発9時半のバスにようやく乗り込んだ。このバスは、7:43新宿発の「奥多摩ホリデー号」に接続するようで、最初からこの列車をねらえば、もう少し楽ができたようである。それにしても、同じ東京都といっても、家のある足立区からは、奥多摩はえらく遠い。立川から先の列車は、満員状態で、あらためて中高年の登山ブームを思い知らされた。それでも、奥多摩が近づくにつれて、各駅でどんどん下りていき、奥多摩駅まで乗っていたものは一部であった。小菅行きのバスは、臨時便を加えた二台で出発した。
 水根バス停で一団が下りたが、六ツ石山に登る人達のようであった。奥多摩湖バス停は、そのすぐ先であった。ここで下りたのは、全部で5名であった。他の山に比べると、登山者は格段に少ないようであった。
 ダム湖の向こうに御前山の山頂が頭をのぞかせていた。なかなか登りでがありそうであった。ダムの堰堤を渡って登山口をめざした。奥多摩湖は、都民の水瓶として知られており、渇水の時は、ニュース画面に必ず登場するが、満々と青い水を貯めていた。昔は、小河内村が沈められてできたことから小河内ダムの名前が良く使われていたはずなのだが、いつの間にか奥多摩湖という、通りは良いがありふれた名前が使われるようになっている。
 堰堤を渡った先の左手に東屋やトイレがあり、その奥から登山道が始まっていた。痩せ尾根の一気の登りが始まった。荷物もデイパックだけで軽いため、快調に登り続けると、眼下に湖面が広がるようになった。サス沢山の小ピークに出ると、雨量監視用の施設があり、その前からは、奥多摩湖や雲取山の眺めが広がった。霜柱が、太陽に照らされて輝いていた。
 左手には檜の植林地が広がり、その境界に登山道が続いていたが、防火帯の切り開きに出ると、周囲は木立の間が開いた雑木林が広がるようになった。富士山が真っ白な姿を見せていたが、木の枝越しの眺めしか得られないのが残念であった。
 岩場風の斜面を登りきると、惣岳山山頂に到着した。ここが御前山の山頂かと、うっかり思いこんでいたので、ちょっとがっかりした。昼も近くなってお腹もすいてきていた。惣岳山から先は、登山道の両脇にロープが張られ、立ち入り禁止のガードが固められていた。どうやらカタクリを保護するためのもののようであった。新潟あたりでは、カタクリは、登山道にはみだして、邪険にするわけではないが、ともすれば踏みつけてしまうのとは大違いであった。もっとも、山頂近くにカタクリの花が咲くというのも、新潟あたりで山の麓で咲いているのとは様子が違っている。
 ゆるく下った後に最後の登りになったが、息もきれてきた。山頂までもうすぐという所に、木立が刈り払われた見晴らしがあり、富士山と三頭山の眺めが広がっていた。御前山の山頂は展望が良くないと聞いていたので、この富士山の眺めは嬉しかった。純白の中に襞が彫り込まれた姿は美しかった。ここのベンチで昼食かとも思ったが、やはりきりの良い山頂で休むことにした。
 御前山の山頂は、数組が休んでいるだけであった。広場の回りはカラマツ林で囲まれて、周囲の展望はあまり良くなかったが、おちついた気分になる山頂であった。横たえられた木に腰を下ろして昼休みにした。登る途中は暑くなって山シャツだけになっていたが、フリースと雨具を着る必要があった。昼になっても低い温度のままで、日陰は冷え込みも厳しくなっていた。
 予定では、湯久保尾根を下るつもりであったが、日の短いこの季節とあっては無理はしない方が無難のようであった。また、五日町方面へのバスの本数が少ないため、バス停で長時間待つ間に凍えきってしまう恐れがあった。短時間で下れてバスの便の良い、栃寄から境橋へのコースに変更することにした。
 御前山の山頂から急坂を下り、左にトラバースすると御前山の避難小屋が建っていた。きれいな小屋で、水場も傍らに設けられていた。山腹を斜めに横切るように下っていくと、体験の森に入り、遊歩道が入り交じるようになった。登山標識を良く見ないと迷子になりそうであった。日陰になった谷間は、気温もぐんと低くなっていた。昨日の暖かい陽気に少し油断して、冬用の下着を着てこなかったのは失敗であった。
 急な下りも長くは続かずに林道に飛び出した。登山道は、栃寄大滝を経て沢沿いに続いているようであったが、遊歩道に入り込んで迷子になるのもいやなので、林道をそのまま下った。速度をゆるめるのにも足に負担がかかるような急坂が続いた。一気に高度を落として人家が現れてやれやれと思ったら、ここは栃寄の集落で、境橋のバス停までも、もうひと頑張りの歩きが待ちかまえていた。車は集落の中に大きな駐車場があり、林道は鎖がかかって進入禁止になっていた。
 境橋のバス停に到着して時刻表を見ると、2時台は1本しかなく、20分程の待ち時間であった。待ち時間が長いのなら奥多摩駅まで歩こうかとも思っていたが、バスを待つことにした。3時、4時代は、バスの本数も多いので、登山者が下山するのはその頃になるようであった。
 山歩き自体は順調であったが、冬至近くで日の陰るのも早く、どこか忙しない山行になった。
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