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高森山、高久原山
八十里越


【日時】 2003年7月12日(土)〜13日(日) 各日帰り
【メンバー】 12日:単独行 13日:6名
【天候】 12日:曇り 6日:曇り

【山域】 南会津
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 高森山・たかもりやま・1099.8m・二等三角点・福島県
【コース】 玉梨放牧場登山口より
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/宮下/沼沢沼
【ガイド】 分県登山ガイド「福島県の山」(山と渓谷社)、会津百名山ガイダンス(歴史春秋社)、うつくしま百名山(福島テレビ)

【山域】 南会津
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 高久原山・たかくはらやま・1004m・なし・福島県
【コース】 林道沼沢玉梨線より
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/宮下/沼沢沼
【ガイド】 なし
【温泉】 金山町国民保養センターせせらぎ荘 250円(石鹸のみ)

【山域】 守門岳周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 鞍掛峠・くらかけとうげ・952m・なし・新潟県
 八十里越・はちじゅうりごえ・845m・なし・新潟県、福島県
【コース】 吉ヶ平から入叶津
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/只見、守門岳/光明山、守門岳、只見
【ガイド】 新潟の山旅(新潟日報事業社)、会津百名山ガイダンス(歴史春秋社)
【温泉】 守門温泉SLランド青雲荘 500円

【時間記録】
7月12日(土) 6:30 新潟発=(磐越自動車道、会津坂下IC、R.252、会津宮下、沼沢 経由)=10:05 玉梨放牧場登山口〜10:13 発―10:40 鞍部―11:44 高森山〜12:00 発―12:53 鞍部―13:11 玉梨放牧場登山口=(林道沼沢玉梨線)=13:21 「東北幹線15」巡視路入口―13:44 見晴台―13:57 マイクロウェーブ鉄塔―14:13 高久原山―14:22 マイクロウェーブ鉄塔―14:32 見晴台―14:50 「東北幹線15」巡視路入口=(玉梨、会津川口、R.252、叶津、R.289、入叶津、R.289、叶津、R.252、大白川 経由)=1800 大雲沢ヒュッテ  (大雲沢ヒュッテ泊)
7月13日(日) 5:00 大雲沢ヒュッテ発=(大白川、R.252、上条、R.290、栃尾 水ノ木峠 経由)=6:10 吉ヶ平〜6:15 発―6:31 馬場跡(雨生池分岐)―7:16 椿尾根〜7:25 発―8:06 山の神―8:23 番屋乗越〜8:30 発―9:12 火薬跡―9:30 沢―9:41 ブナ沢―10:01 高清水沢―10:17 空堀小屋跡―10:20 空堀(丸倉分岐)―10:33 桜の窟―10:45 殿様清水―11:24 鞍掛峠〜11:33 発―11:53 小松横手―12:15 田代平〜13:10 発―13:36 林道分岐―13:49 木の根峠(八十里峠)―14:30 松ヶ崎―16:12 八十里越入口―17:12 浅草岳登山口=(入叶津、R.289、叶津、R.252、上条、R.290、栃尾、R.351、R.8  経由)=20:30 新潟着

 金山町の只見川右岸に沼沢湖がある。地図には沼沢沼と書かれているが、地元では、語感の良い沼沢湖と呼んでいる。沼沢湖は火口湖で、大蛇伝説もある高原の静かな湖である。最近では、湖水祭りやオートキャンプ場などで、夏の期間は賑わうというが、それ以外のシーズンはひっそりとしている。高森山は、沼沢湖を取り巻く外輪山の最高峰である。
 高久原山は、高森山の北西部の峰続きの山である。山腹を林道沼沢玉梨線が半周しており、中腹のブナ林へ遊歩道が通じているものの、山頂への道は開かれていない。

 八十里越は、中越と南会津を結ぶ旧街道の峠道である。下田村吉ヶ平から只見町入叶津までの32kmの行程で、一里が十里に思うほど険しいことから八十里越と呼ばれたという。明治・大正の頃は、人物の往来や物資の運搬で賑わったというが、現在では、只見線や六十里越の国道の開通によって、全く使われなくなり草に埋もれている。司馬遼太郎の「峠」の舞台である。長岡藩家老の河井継之介が、長岡戦争で敗れて会津藩へ落ち延びる途中、負傷して戸板に乗せられて運ばれる途中、「八十里こしぬけ武士の越す峠」と自嘲して読んだうたは有名である。八十里越は、国道289号線が計画され、現在の鞍掛峠付近の登山道は国道指定になっている。国道289号線の完成は平成二十年といわれているが、完成する道は旧道とはコースが違っているため、八十里越は、歴史の道として、静かに苔むしていくことになる。

 インターネットの仲間が集まり、八十里越を歩くことになった。八十里越の登山口である吉ヶ平と入叶津の間は、公共機関を利用しての、移動は困難である。またコース自体も、草に覆われた所があったり、判りにくい所があったりして、個人的に歩くのは難しいため、歩く機会がなかった。今回は、守門岳周辺の登山の際にお世話になっている大雲沢ヒュッテの世話になり、登山口までの送りと、事前に偵察をしてもらい、さらに入口付近の判りにくいあたりを案内してもらった。
 前日の集合が、入叶津であったため、土曜日は福島県の只見川沿いの山を登ることにした。どこの山に登ろうかと思いながら会津の山の検索をしながらホームページを渡り歩いていると、金山町広報で、高久原山へハイキングに行ったという記事が目に入った。高久原山は、高森山の隣のピークであるが、登山道があるとは知らなかった。どのようなコースであるかは書かれていなかったが、地図を見ると、玉梨放牧場からの登山道は、鞍部にまず上がっているので、そこから尾根通しについているように思えた。あるいは、林道が西の山裾を巻いているので、そこから続いているのかどうか。気になると確かめずにいられなくなり、高久原山と高森山を目標に出かけることにした。
 高森山は、1996年5月11日に沼沢湖側から登ったが、沼沢集会所からの道が、残雪のせいもあって判りにくく、苦労した覚えがある。沼沢湖を過ぎて林道に入ると、先回の登山途中で横断した林道の入り口に高森山登山道の道標が置かれていた。そのまま林道を玉梨牧場方向へ進んだ。
 高久原山から西に続く尾根の末端部で、送電線の巡視路入り口のに「東北幹線15」と書かれた標識が置かれていた。見ると、尾根の上はすぐそこに迫っていた。これが、高久原山への登り口の可能性は高かったが、まずは、高森山登山口をあたってみることにした。
 ヘアピンを終えて下っていくと、右手には草地が広がるようになった。はっきりした高森山登山口の標識が立てられており、その手前に、駐車スペースが設けられていた。
 高森山への登山道は、杉林の中の登りで始まった。それほど傾斜を増さないまま、雑木林に変わった中を登っていくと鞍部に到着した。鞍部には祠が置かれて、高森山へという標識が置かれていた。高久原山方面をうかがうと、残念ながら道は見あたらなかった。雑木林の密度はそれほど高くはなく、ヤブコギも時期を選べばなんとかなりそうであった。ただ、雨上がりの中を藪に突入する気にはならなかった。
 とりあえず、高森山の山頂をめざすことにした。尾根沿いの登りで、傾斜も増してきた。一昨日は、納涼会前のボーリング大会で、慣れない運動で足に筋肉痛を生じており、どうもいつものような調子が出なかった。簡単にピークを踏んでしまおうと思ったが、登り着いた小ピークから見ると、高森山は、まだだいぶ先であった。一旦僅かに下り、さらにピークをひとつ越すと、ようやく高森山の山頂迫ってきた。地図の破線では、山頂の南側にトラバースしてから登り出すように書かれているが、尾根をそのまま直進するようにして登りが始まった。
 登りの途中で3ヶ所ほどの岩場が現れた。登山道は、岩場を巻くように続いていたが、足場に注意する必要があった。岩場の途中からは、眼下の見晴らしが開け、ガスの中から沼沢湖が姿を現していた。
 大きな岩の右側の基部を通過すると、傾斜も緩んで、山頂の一画に到着した。進んでいくと、杉林の下に石の祠が置かれた高森山山頂に到着した。刈り払われた小広場になっており、三角点が頭を出していた。木立に囲まれて、沼沢湖が一部見える程度であった。先回は、残雪歩きであったため、山頂の展望が閉ざされているという感じはなかったのだが、今回は藪っぽい山という印象であった。
 沼沢集落への登山道を見ると、藪に隠されていた。足元の踏み跡はわかるものの、藪を掻き分ける状態で、歩くのには苦労しそうであった。玉梨牧場からの登山道は、刈り払いが行われた後なので、最近は、もっぱら玉梨放牧場からしか歩かれていないのであろうか。
 思ったよりも時間がかかって、すでに昼になってしまった。昼食をとって、ひと休みしてから下山にうつった。
 車に戻り、高久原山の西の尾根末端部の送電線巡視路をのぞいてみることにした。草が短く刈り払われた送電線巡視路を登っていくと、尾根上に立つ鉄塔の手前で、左に山道が分かれた。高久原山登山道とは書かれていないが、幅2m程の道であった。この道はブナ林の広がる尾根通しに続いていた。
 ブナ林の中は、下草が少なく、非常に歩きやすいが、落ち葉に覆われた登山道を見失いやすかった。歩くものが少ないため、藪に返ろうとしている感じがした。途中で、見晴台と書かれたコンクリート製の道標が現れた。急な所には、丸太の階段も現れた。高久原山へのコースとしては尾根を外さなければ問題はなかったのだが、登山道をともすれば見失うようになってきた。
 尾根が痩せたところで、沼沢集落方面の展望が広がった。草に覆われて、傾いたベンチが置かれていた。どうやらここが見晴台ということのようであった。
 見晴台から先は踏み跡状態になり、密な藪が現れ、それを突破すると、マイクロウェーブの反射板の下に飛び出した。その先にも踏み跡は続いていたので進んだ。山頂は近くなっていたので、ここから引き返すのはもったいなかった。踏み跡沿いにはテープも取り付けられていたのだが、尾根を左にはずして下りになってしまった。どうやら、マイクロウェーブ鉄塔への保守道のようであった。
 尾根に戻り、ヤブコギで山頂を目指した。幸い、藪は薄く、歩くのに抵抗はなかった。高久原山の山頂は、なだらかに奧に向かって続いているため、どこが山頂か判りにくかった。三角点は無い山なので、GPSを頼りに、山頂に到着したことを確認した。ブンの木立に囲まれて、展望も無い山であった。人の入った様子も無かった。
 下りは、尾根を外さないように注意して歩き、マイクロウェーブ塔や見晴台を過ぎると、再びしっかりした道に戻ることができた。高久原山ハイキングというのは、山頂を目指すものではなく、おそらく山腹のブナ林を散策するものであったのだろう。
 登り口が近づいたところで、登山道は尾根から北にそれて、階段下りになった。登りの時には、この道は歩いていなかったが、どこに下り立つのか知りたく、そのまま進んだ。遊歩道として整備されたもののようであったが、草がかぶっていた。
 最後に林道に下り立つと、送電線巡視路のすぐ脇であった。入口には、見晴台という標識が立てられていたが、草がかぶって見つけづらくなっていた。この遊歩道入口から登っても、送電線巡視路から登っても、たいした違いはなさそうであった。駐車スペースは、巡視路入口脇にあるので、送電線巡視路から入る方が都合が良さそうである。
 明日の八十里越のために、下山口の入叶津に夕方集合の予定であった。4時過ぎまでには着いておく必要があり、思わぬヤブコギに遭遇したため、歩いている途中から時間が気になりだしていた。林道沼沢玉梨線を先に進み、玉梨にでると温泉施設があったので、ひと浴びして汗を流した。
 入叶津まではそれほどの時間もかからずに、4時過ぎに到着した。浅草岳の入叶津登山口の200m程先にゲートがあるため、車はここまでになる。5時近くになったところで、とんとん一行が到着したため、二台の車を置いて、入広瀬の大雲沢ヒュッテに向かった。只見から入広瀬へは、六十里越の国道が通じているが、車でも1時間ほどかかった。
 大雲沢ヒュッテでは、5人が集まり、いつものように楽しい前夜祭になった。この日は、他に2グループの泊まり客がおり、浅草岳や守門岳の登山者も多くなっているようであった。
 翌13日は、朝の5時に大雲沢ヒュッテを、浅井さん運転のマイクロバスで出発した。早起きのため、前の晩の酒が残っていた。栃尾を過ぎて吉ヶ平が近づくと、守門川沿いのくねくね道になった。途中から未舗装になり、振動も大きく、車酔いしそうになった。以前にも、番屋山登山のために、吉ヶ平を訪れたことがあるが、この道の運転がいやで、吉ヶ平には足が向かない。
 吉ヶ平は、山荘前の中庭が駐車場になっている。朝集合の、ホッキョククマが到着していた。以前は学校の分校で、今は無人の宿泊施設になっている吉ヶ平山荘が、霧の中に寂しそうに佇んでいた。山荘には、雨漏り防止用なのか青いビニールシートが被されて、中を覗くと、雑然と散らかっていた。どんよりとした雲が空を覆い、小雨も残っていたため、雨具のズボンを履いた。
 八十里越の第一歩は、樽井を渡ることから始まる。かつては荷馬車も通ったということが納得できるような幅広の道を歩いていくと、馬場跡と書かれた石碑のある分岐に到着した。左は、雨生池(まおいがいけ)を経て番屋山への登山道となるが、八十里越は、右の道に進む。ススキなどのはえた草地を道は通過しているが、最近のものと思われる刈り払いで、歩きやすくなっていた。分岐からすぐ先で、詞場と書かれた石碑が現れた。同じような石碑が八十里越の新潟側には数多く置かれていた。道標として役に立ったが、同じような写真を何枚も撮ることになった。
 杉林の中を抜けていくと、左右に道が分かれた。この分岐には、小さな標識が置かれているが、草が被っていると見落としかねない。右の道は守門川へ通じているようである。左の道に進むと、浅い谷をつめていく登りになった。先頭は浅井さんであったが、二日酔いのせいか、ペースが早く感じられた。椿尾根への登りは、草が茂っていると、辿るのが難しい難所のようであるが、幸い、草の刈り払いを行ったばかりで、歩くのには問題はなかった。登り切った所が番屋山から南に延びる尾根を乗り越す峠で、椿尾根と呼ばれている。切り通しになっており、以前訪れた鞍掛峠と同じような感じがした。
 浅井さんは、翌日も宿主催のツアーとして八十里越を歩くというので、間違い易い椿尾根まで我々を案内したところで戻ることになった。ひと汗かいて、少し食欲も出てきたので、軽くパンを食べて朝食とした。早立ちのため、朝食としておにぎりをもらっていたのだが、昼にまわすことにした。この先は高速道路なみだからという浅井さんの言葉に励まされて、先に進んだ。
 道は、ブナ林の中にほぼ水平に続いた。幅広で、昔の街道と思わせるところもあったが、沢を巻くような所では、足場が悪い所も現れた。30分ほどで山の神を過ぎ、続く30分ほどの歩きで番屋乗越に到着した。
 番屋乗越からは、足場の悪いヘツリ道が連続する難所になった。枝沢を渡る所では、雪崩に削られた急な泥の斜面を、固定ロープを頼りにかすかな足跡に従って通過することになった。手を付いて体を安定させる必要もあり、手は泥だらけになった。へつり道の途中で、雲が下がってきて、烏帽子岳の山頂が姿を現した。鞍掛峠は烏帽子岳の東の肩にあることを考えると、そこまではまだまだ距離がありそうであった。振り返ると、粟ヶ岳も一本岳のピラミッドを従えた姿を見せていた。
 火薬跡と書かれた石碑が現れて、ひと息ついた。この火薬跡というのは、明治時代の道路改修で火薬を使って道を開削したことに由来するという。ヘツリ道はここでようやく終わり、この先は沢に向かっての緩やかな下りが始まった。周囲にはブナの原生林が広がり、へつり道の緊張感を和らげてくれた。このブナ林の中では、幅広の道が続いたが、突然別の道が現れて、これを横断するところもあり、ルートを示すマークに注意して歩く必要があった。
 黄色ペンキでマークされたブナ沢を飛び石伝いに渡ると、続いて、がれて石が転がる高清水沢に到着した。赤ペンキに従って、少し上流に登ってから対岸の道に進んだ。
 高清水沢からは、ゆるやかな地形の歩きになった。この一帯は御所平と呼ばれているが、これは、高倉宮以仁王(たかくらのみやもちひとおう:後白河法皇の第二皇子)伝説によっている。源頼政と共に平家討伐の兵を挙げた治承の乱(治承四年 1180年)で破れた高倉宮以仁王は、大和国城上郡綺田(かばた)の光明山麓で追っ手の平家の手によって非業の死をとげたとされているが、実は、中仙道から上州沼田を経て尾瀬から八十里越を通って越後に逃げたという言い伝えが会津一帯に残されている。高倉宮以仁王で思い出されるのは、只見からほど遠くない昭和村の御前ヶ岳に、妃の紅梅御前が付き人桜姫を伴って隠れ住んだという伝説である。小野岳の麓の大内宿にも、高倉宮以仁王伝説が残されている。また、尾瀬の名前の由来になっている尾瀬中納言藤原頼実卿は、高倉宮以仁王に随行して、尾瀬で没したといわれている。会津の山に残された伝説を合わせると、ひとうの大きな物語になっていくようである。河井継之介にしてもそうだが、八十里越は、落ち武者に縁の深い峠道である。
 道は歩きやすかったが、先が長いため、ペースを上げる必要があった。石碑の置かれた空堀小屋跡は、刈り払われた小広場になっており、すぐ先に沢水も流れて、良い泊まり場になっていた。続く空堀は、城跡の伝説によるものか。ここには、丸倉からの道が左手から合わさっていた。丸倉とは、下田から延びているR.289の道路終点付近をいうようである。エスケープルートの一つではあるが、R.289は、大谷ダムの先でゲートがあって通行止めであり、丸倉に下りたとしても長い車道歩きが必要になる。 桜の窟は、道にかぶさるように大岩が並んでいるが、洞窟状にはなっていなかった。これも、高倉宮以仁王伝説に由来するもののようである。
 この付近までは、刈り払った草が登山道に落ちていたが、急に草深い感じになった。手入れに入った人が、ここらまでは草を刈りながら歩いてきたものの、時間切れで、先を急いだような感じであった。殿様清水という石碑が現れたが、枝沢が多く水場には不自由しなかったので、そのまま通過した。ヘアピンを描きながら高度をかせいだ後に、再びトラバ−ス道になった。サンカヨウの青い実が、数多く見られた。アジサイの青の花や、シモツケソウのピンクの花が、藪にアクセントを付けていた。道にかぶさった草を掻き分けて歩くようになり、時折オオイタドリに触れて、悲鳴があがった。鞍掛峠直前は、登山道を草が被う状態が一番ひどかった。
 緩やかなトラバースを続けていくだけで、烏帽子岳から続く尾根は、なかなか近づいてこなかった。一旦休もうかと思って足を止めて、GPSと地図を確かめると、鞍掛峠までは数十メートルのようであった。この様子では、峠まではそう簡単には着かないだろうと思ったが、歩き出すと、高みに向かって真っ直ぐに登るようになり、ひと頑張りで鞍掛峠に到着した。GPSの示す水平距離を考えれば、器械は間違ってはいなかったことになる。
 鞍掛峠には、2001年6月24日に、浅井さんの案内で田代平と合わせて訪れている。ようやく見知った所に出てほっとした。八十里越を歩くには、偵察として、一度、田代平から鞍掛峠までを歩いておくことを勧める。鞍掛峠は、八十里越の中間点となるが、浅井さんの歩いた時間記録と比べても、ほとんど同じで、順調なペースであった。お腹も空いてきていたが、もうひと頑張りして、田代平で昼食をとることにして歩きだした。
 鞍掛峠からは、ここまでの道と比べると、格段に歩きやすい道が続いている。丸倉から上がってきた道は、現在の状態でも地図上では国道となっているが、せめて、これくらいの道を整備しておりてくれると、ここまでの苦労もしないですんだのだが。前方から、単独行が歩いてきたので、このようなところで人に会うとは珍しいと思ってみると、takuさんであった。我々が八十里越を歩くと知って、田代平にやってきたとのことであった。鞍掛峠までは、走って30秒というと、ほんとうに走っていってしまった。健脚のtakuさんなので、じきに追いつくはずなので、田代平めざして歩き続けた。
 道が谷に向かって張り出すように屈曲するところに小松横手がある。ここには、越後見返りの松がかつてあって、河井継之介が例のうたを詠んだという説がある。もっとも、番屋乗 越に向 かう手前の「里眺め」、あるいは国境の「木の 根峠」で 詠んだという説もあって、はきりしない。黒姫の眺めが良いはずなのだが、前回と同じく、山の眺めは閉ざされていた。先を急ぐと、右下に田代平の湿原が近づいてきた。田代平に下りるか迷っていたのだが、takuさんに聞くと、トキソウが花盛りとのことであったので、寄っていくことにした。
 分岐から、短いが急な斜面を下りると、田代湿原に下り立った。巨大化したミズバショウの葉っぱが出迎えてくれたが、おどろいたのは、木道脇に群生するトキソウの花であった。尾瀬などの湿原でトキソウを見たことはあったが、これほど沢山の花が咲いているのを見たのは初めてであった。木のテラスに腰を下ろして、ビールに加えてワインも開けて、いつものような宴会モードの昼食になった。昼食に転じたおにぎりは、おかずも付いていて、ご馳走であった。
 まだ、八十里越は、半分近く残っているため、宴会も1時間ほどで切り上げて出発した。湿原の中央から分かれる木道を進むと、それほどの登りもなく、田代平林道終点の広場に戻ることができた。田代平には、五味沢から五味沢林道が通じているので、万が一の場合のエスケープルートになる。林道から分かれて、木の根峠への山道に進んだ。田代平へ自転車で来ていたtakuさんと分かれ、入叶津への道に進んだ。再びへつり道が現れ、先が案じられたが、ほどなく木ノ根峠に到着した。木ノ根峠は、新潟県と福島県の県境で、ここには木ノ根茶屋があったちう。吉ヶ原をたった河合継之助一行は、ここで一夜をすごしたという。木ノ根茶屋跡とは別に、八十里峠と書かれた石碑も置かれている。
 福島県側は、幅広の良い道が続いていた。機械を使って刈り払いを行ったような感じであった。福島県側は、だらだらの下りが続き、途中の地名も、松ヶ崎だけで、どこまで歩いたのか、判断しにくかった。時折、慎重に足元を確かめながら越すへつりやなめ滝も現れて、気を引き締めてくれた。道は、泥田状態で、登山靴が泥まみれになってしまった。地図を見ると、へつりから尾根沿いの道に変わって、下降を開始するようになっていたが、いつまでたっても、尾根の下りが始まらなかった。それでも、沢の徒渉部に壊れたパイプ作りの橋が現れたり、道にゴムの敷物が置かれているのに出会うようになって、里は近いことがうかがわれた。
 谷が迫ってきて車道が見えた時はうれしかったが、道は緩やかな下りを続けて、なかなか近づいてこなかった。最後に、ようやくという感じで、国道289号線の工事中の車道に飛び出した。車道の新潟方面には、トンネルが見えており、八十里越の入り口は、直線道路の途中なので、八十里越入口の標識が置かれているものの、通り過ぎないように注意が必要である。
 ここからゲートまでは、4km程の距離があった。国道289号線は、平成二十年完成とのことで、橋脚が建設中であった。冬季も通行可能な、高架橋やトンネルで一気に県境を越える高速道路並みの道路になるようである。この国道が完成の暁には、八十里越も大きな変貌をとげるだろうという内容の文章を見かけるが、完成する国道は、現在の八十里峠越とは、全く違うコースをとっている。八十里越は、役目を終えて、ただ草に埋もれて、静かに消えていく運命にあるようである。
 ただ、期待できるのは、国道289号線が完成された場合、八十里越の入り口の吉ヶ平と入叶津の移動が、1時間ほどに短縮されることである。現在では、車のデポを考えると、二日がかりの山行になってしまうが、車の回送が短縮されれば、日帰りも可能になってくる。八十里越は、歴史を忍び、ブナ林や田代平の湿原を楽しむ登山愛好家の道に生まれ変わることを期待している。
 車を置いてきた大雲沢ヒュッテへ戻り、その後温泉に入って解散となった。


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