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御飯岳、破風岳、土鍋山、老ノ倉山、明覚山
一夜山、城山(鮫ヶ尾城趾)、春日山


【日時】 2003年7月5日(土)〜6日(日) 各日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 5日:晴 6日:雨後曇り

【山域】 善光寺平周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 毛無山・けなしやま・1930m・なし・長野県、群馬県
 御飯岳・おめしだけ・2160.2m・三等三角点・長野県、群馬県
【コース】 毛無峠より
【地形図 20万/5万/2.5万】 長野/須坂/御飯岳
【ガイド】 北信・東信日帰りの山(章文館)

【山域】 善光寺平周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 破風岳・はふだけ・1999m・なし・長野県、群馬県
 土鍋山・どなべやま・2000m・(1999.4m・三等三角点)・長野県、群馬県
【コース】 毛無峠より
【地形図 20万/5万/2.5万】 長野/須坂/御飯岳
【ガイド】 北信・東信日帰りの山(章文館)

【山域】 善光寺平周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 老ノ倉山・おいのくらやま・2020m・なし・長野県
【コース】 林道分岐より
【地形図 20万/5万/2.5万】 長野/須坂/御飯岳
【ガイド】 北信・東信日帰りの山(章文館)

【山域】 善光寺平周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 明覚山・みょうかくさん・980m・なし(957.8m・三等三角点)・長野県
【コース】 水中峠より
【地形図 20万/5万/2.5万】 長野/須坂/須坂
【ガイド】 北信・東信日帰りの山(章文館)
【温泉】 湯っ蔵んど 650円

【山域】 南葉山塊周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 城山・しろやま(鮫ヶ尾城趾・さめがおじょうし)・190m・なし・新潟県
【コース】 斐太神社より
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/高田西部/重倉山
【ガイド】 新潟県ふるさとの散歩道(新潟県観光協会)

【山域】 高田周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】
 春日山・かすがやま・160m・なし・新潟県
【コース】 春日神社より
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/高田西部/高田西部
【ガイド】 なし

【時間記録】
7月4日(金) 20:30 新潟発=(関越自動車道、越後川口IC、R.117 経由)=23:30 飯山 (車中泊)
7月5日(土) 5:30 飯山発=(R.117、五位野、R.292、七瀬、R.403、須坂、大前須坂線 経由)=6:30 毛無峠〜7:03 発―7:20 毛無山―7:24 鞍部―8:35 前御飯―8:58 御飯岳〜9:07 発―9:22 前御飯―10:03 鞍部―10:07 林道―10:20 毛無峠〜10:27 発―10:53 土鍋山分岐―10:58 破風岳〜11:06 発―11:09 土鍋山分岐―11:20 五味池分岐―11:48 土鍋山山頂―11:48 三角点〜12:10 発―12:16 土鍋山山頂―12:38 五味池分岐―12:49 土鍋山分岐―13:10 毛無峠=13:25 林道分岐〜13:36 発―13:50 老ノ倉山〜14:00 発―14:08 林道分岐=(大前須坂線、堀之内、掘 経由)=15:20 水中峠〜15:25 発―15:41 明覚山―15:49 三角点―15:57 明覚山―16:11 水中峠=(坂田、R.406、井上、長野、R.406、鬼無里 経由)=21:00 奧裾花 (車中泊)
7月6日(日) 4:50 奧裾花発=(R.406、鬼無里、財又 経由)=6:00 一夜山登山口〜6:15 発―7:02 一夜山〜7:10 発―7:49 一夜山登山口=(財又、戸隠、柏原、R.18、乙吉 経由)=11:08 斐太県民休養地入口駐車場〜11:30 鮫ヶ尾城趾〜11:35 発―11:54 斐太神社入口―12:10 斐太県民休養地入口駐車場=12:32 春日神社駐車場―14:55 春日山本丸〜15:00 発―15:13 春日神社駐車場=(上越IC、北陸自動車道 経由)=16:00 新潟

 御飯岳は、志賀高原と菅平の中間に位置する上信国境の山である。山腹を林道が通過しているが、登山道はない。清水栄一氏の「信州百名山」にも選ばれているが、これまではもっぱらスキーを利用して登られてきた。最近、南側の毛無峠から刈り払いが行われ、笹原の中に続くかすかな踏み跡を辿って登ることができるようになった。
 破風岳と土鍋山は、御飯岳の南の上信国境に隣り合う山である。破風岳は1999m、土鍋山は2000mの標高を持つことから、西暦年の一致した年には大賑わいになった。
 老ノ倉山は、御飯岳の北側によりそうように頭を持ち上げた小山である。長野から万座に至る林道干俣牧線と毛無峠への大前須坂線の分岐の広場から登山道が通じており、山頂からは遮るものの無い展望が広がっている。
 明覚山は、長野市のある善光寺平の東端にある山である。山頂にはかつて山城が置かれており、雨引城趾とも呼ばれている。
 一夜山は、戸隠の西山連峰の西のはずれに位置する山である。岩山がつらなる戸隠の山にあって、山頂を突き上げているとはいっても、特に難しい所のない、ハイキング向きの山である。この山は、鬼が一夜にして築き上げたという伝説が残されて、山名の由来になっている。
 鮫ヶ尾城趾は、新井の北西部の南葉山塊の山裾にあり、地図には城山と記されている。鮫ヶ尾城趾は、上杉謙信没後の相続争いの御舘の乱の舞台となったことで知られている。
 春日山は、上杉謙信の居城が置かれていたことで知られている。標高は低く、険しい地形も持たないが、大規模な遺構が広がっている。遊歩道が整備されて山中を散策できるが、一般観光客は、中腹の春日神社と、その入り口に立つ、上杉謙信の銅像を見て終わりとなる。
 東京への出張の際に、八重洲ブックセンターで、「北信・東信日帰りの山」のガイドブックを見つけて買った。これまで、長野県関係の里山のガイドは、何冊かは出ていたものの、コースがはっきり書かれていないため、本を読んで登ろうとしたものの登山口が判らずに断念したこともある。今回の本は、地図入りで、登山コースも何通りか記載されており、これからのスタンダードになりそうな本である。新しい本を読むと、その本を参考にして登って見たくなる。幸い、梅雨の中休みで、土曜日は長野県方面は天気が良さそうであった。
 清水栄一氏の「信州百名山」に、御飯岳という、あまり名前を聞かない山が取り上げられている。何とか名山に選ばれている山で登山道が無いとなると、逆に登ってみたくなるのが不思議である。登山道が無い山ならいくらでもあるのに。山のブランド志向に毒されているのかもしれない。最近、インターネットの情報で、刈り払いが行われていることを知り、登る機会をうかがっていたところでもある。登山口が同じの破風山と土鍋山を続けて登ることを考えて出かけた。
 御飯岳の登山口の毛無峠へは、志賀高原から万座経由とするか、須坂から入るかで迷った。高速代の節約のため、一般道を走り、飯山に到着したところで眠くなったので、人気の無い公園に車を止めて寝た。新しい車を買って、来月初めには納車されるので、この車での野宿もあと数回となる。
 早朝は道路が空いているため、山越えするよりは、山を大きく迂回する方が早そうであった。須坂の町中で、県道への入り方が判りにくかったが、見当を付けて走っているうちに、うまくルートに乗ることができた。
 思ったよりも良い道が続き、カーブを繰り返すうちに一気に高度を上げた、万座温泉への県道から分かれて、右に分かれる林道牧干俣線に進んだ。トラバースしている頭上の山が、御飯岳のようであった。山頂から崖が切り落ちている破風山が近づいてくると、鞍部の毛無峠に到着した。鞍部一帯は、草地とハイマツ帯となって、立木は一本も見あたらなかった。破風山の山頂に向かって、笹原の中にジグザグを切って登山道が上っていくのが見えた。
 御飯岳方面は、毛無山と呼ばれる小ピークが目の前に頭を持ち上げており、山の斜面は草がはげて岩クズが露出し、索道の鉄塔の残骸が並んでいた。この鉄塔は、かつて硫黄鉱山として稼働していた小串鉱山の名残のものであるという。最盛期には約2000人もの人が住み、学校や病院も備えた町があったというが、30年前に廃鉱になったという。峠から群馬県側を眺めると、火山の火口のように、地肌が露出した荒涼たる眺めが広がり、町があったとは思えなかった。
 車の外は強風が吹き抜けており、寒さにみぶるいする状態のため、風よけに雨具の上を着込んだ。高速を使えば、昨晩中にこの峠まで上がってくることができたかもしれないが、この風の強さでは、上がってこなかったのは正解のようであった。車の中に入って朝食をとり、歩き出す準備を整えた。
 毛無山の山頂までの登りは、裸地になっているので、登山道の有無は関係なかった。毛無山の山頂は、周囲の展望が開け、破風岳から土鍋岳と御飯岳方面の登山道の状態を良く偵察することができた。毛無山の山頂から御飯岳をうかがうと、鞍部の笹原から、踏み跡が高みに向かって続いているのを目でとらえることができた。一見すると、御飯岳までは楽勝といった感じであった。
 毛無山から先は、笹原の歩きになったが、笹の背も膝下で、歩くのには問題はなかった。鞍部に下りると、左下のすぐ下を林道が通過しているのが目に入った。
 鞍部からの登りの踏み跡は、初めははっきりしていたが、登るにつれて、笹の丈も腰ほどまでになって、足元が見づらくなってきた。ひと登りして傾斜が緩んだ先の笹原からは、さらに踏み跡は判りづらくなった。足をすり足気味に前に出して、抵抗が無ければ、踏み跡にのっていて正解。笹の抵抗が大きな時はコースをはずしているということで、別な方向に足を出すといった歩きが続いた。時折臑を倒木にぶつけて、青あざを作った。幸い、笹は腰下で視界を遮る程ではなく、テープも数多く付けられていて、進む方向を知ることができた。シラビソの木の下は笹がないため、おおむね木をつないだようなコース取りがされていた。それでも、コースを外して、少し戻ってから、踏み跡を確認するようなことも数回あった。
 途中で、樹林帯の尾根の登りが現れて、ヤブコギもしばらくお休みとなった。このまま山頂まで行けるかと期待したが、再び笹のヤブコギが始まった。登り着いた小ピークは前衛峰で、山頂はまだ先であった。僅かに下ってから、御飯岳の山頂への最後の登りになった。御飯岳の山頂は前後に長い感じで、傾斜が緩んでからも、しばらく歩きが続いた。ようやく到着した御飯岳の山頂は、刈り払われた小広場になっており、三角点が頭を出し、山頂標識が置かれていた。
 ここまで苦労した割りには地味な山頂で、広場からの眺めは木立に遮られていたが、笹原に戻ると展望が広がっていた。笠ヶ岳のピラミッド型の山頂がすぐそばに見え、その麓に見える建物のならびは山田牧場であろうか。山頂に立つアンテナでそれと判る横手山山頂から、白根山に至る山稜も一望できた。上信越国境の白砂山から志賀高原を経てこの山頂。南に上信国境を辿っていけば四阿山に至ると、山の位置関係が頭の中に入ってきた。毛無峠を中心とする一帯の山は、志賀高原と四阿山に挟まれてエアポケット状になっているが、もっと注目されても良いのではないだろうか。
 一休みの後に下山に移った。下山は少々踏み跡をはずしても歩き易く、先のテープが目に入っていれば、笹藪を踏みしめて歩いていけば良かった。もっとも、踏み跡の維持を考えて、できるだけ踏み跡を辿るように努力はした。
 前衛ピークを越して下っていくと、5名グループとすれ違った。やはりこの山は、信州百名山として、人気は高いようである。踏み跡はあるといっても、初心者では難しく、完全なヤブコギかといえば、慎重に踏み跡をたどればそれほどの苦労も無く歩ける状態で、自前の赤布を付ける必要は無かった。この刈り払いは、インターネットの知り合いでもあるFさんの手によるもののようであるが、一般のガイドにも取り上げられて、一般登山道の状態に変わるかこれからの状態が気に掛かるところである。
 毛無山との鞍部まで下った所で、登り返しが面倒になり、右手直下を通る林道に下ることにした。ここまでのヤブコギに比べれば笹の丈も短くて歩く支障にはならず、すぐに林道に下り立つことができた。後は、のんびりと林道歩きで毛無山に戻った。
 GPSのデーターを入れ替えて、土鍋山へ向かって歩く準備をした。林道は群馬県側に下っていたが、鎖がかかって進入禁止になっていた。その脇に、ただ「登山口」とだけ書かれた標識が立てられていた。笹原の中にジグザグ切る登山道が続いた。ひと息入れるために足を止めて振り返ると、御飯岳の展望が広がっていた。信州百名山では、鯨が横たわっているようと書かれているが、毛無山を頭にした巨大な亀といった風に見えた。
 登山道を笹藪が覆って、足元が隠されるようになった。山頂の左肩に近づいたところで、破風岳と土鍋山の分岐に出た。最初に破風岳の山頂を踏んでおくことにした。右の道に進むと、再び分岐に出たが、ここには案内標識は無かった。そこからは、僅かな歩きで、破風岳の山頂に到着した。
 破風岳の山頂は、北側が崖上になり、その縁に山頂標識が立てられていた。その下には、金属製の赤い郵便受けが置かれていた。登山届けなら登山口に置くのが普通なので、これは登頂記念に名前でも書いていれるものだろうか。中をのぞくのをうっかり忘れた。登山標識の背景は、なだらかに大きく広がる御飯岳の山頂が、レンズの画角一杯を占めていた。山頂一帯は、台地状の広場となり、周囲の風景を眺めながらの休憩にはうってつけであった。良い山頂ではあるが、毛無峠から30分程で登ることができるため、破風岳は通過地点になって、山行の目的地は土鍋山になってしまうようである。歩き始めに見えていた先行グループも先に進んだのか、誰もいない山頂であった。
 山頂近くの分岐からは良く刈り払われた道が続いていたが、標識がないため、これは乳山牧場への道かと思って、標識のあった下の分岐まで戻った。分岐から稜線へは、笹で足元が隠されていた。一般登山者であったら、この先の登山道の状態が不安に思うところであろう。稜線に上がると、はっきりした道が左右に続いていた。登山道は、頂点が下を向いた三角形の関係になっており、上の分岐からは、そのまま稜線伝いに進めば良かったということが判った。上の分岐に標識が無いのは、不親切に思われる。
 稜線付近は、笹原の中にシラビソなのか針葉樹が点在して、高山帯を思わせる風景が広がっていた。その割には、笹原の中の刈り払い道に、じくじくと水溜まりができているのが不思議であった。牧場のゲートがあり、放牧の牛が逃げ出さないようにという看板が掲げられていたが、扉は壊れたのか見あたらなかった。
 ここまでは一本道であったはずだが、五味池という標識は見あたるものの、土鍋山という標識が無いのが不思議であった。登山道も県境稜線部をはずしており、あるいは牧場への間違った道に進んだかと、不安になってきた。樹林帯の中の三叉路に出ると、ここで右五味池、左土鍋山の標識があって、ほっとした。
 左の道に進むと、下り斜面に出て、前方に土鍋山の山頂が姿を見せた。笹原の中に登山道が切り開かれているのを目でとらえることができた。ここからの下りは、少し笹が延びていた。鞍部からの登りは、少々疲れも出てきて足が重くなった。頂上直下で、岩場に突き当たり、ここは木のはしごを利用して左に巻くと、ひと登りで土鍋山に到着した。ここにも、破風岳と同じ山頂標識と赤い郵便受けが置かれていた。この山の山頂標識の背景は、やはり御飯岳であった。
 土鍋山の山頂は、広場になっているが、笹が延びてきて、腰を下ろすところは限られていた。山頂の隅の木陰で、10人ほどの先行グループが休んでいた。三角点は、まだ先のようであった。山頂から南に進む刈り払い道には、「御注意 土鍋山から浦倉山の間は、歩道調査のため笹刈りを実施したものです。従って、正規のトレッキングコースとしての整備はまだされておりませんので、立ち入る方は充分御注意下さい。  嬬恋村」との掲示が掲げられていた。また、浦倉山5.8kmと書かれた木のプレートも置かれていた。
 浦倉山といえば、最近、ロープウェイを利用できることから良く利用されるようになった、四阿山への登山コース上にあるピークではなかっただろうか。御飯岳の下りからも、破風岳の背後に、四阿山が高く聳えるのが見えていたが、そこまではかなり遠そうであった。
 三角点へ通じているかは判らなかったが、とりあえずこの刈り払い道に進んだ。樹林帯の中を進んだいくと、三角点が道の脇に頭を出していた。山頂広場はグループの話し声がうるさかったので、ここで休むことにした。木立に囲まれて展望はなかったが、登山道も少しはっきりしない山には相応しい気がした。三角点の脇に、浦倉山・バラキ高原と書かれたプレートが置かれていた。先をうかがうと、刈り払い道は確かに続いているが、笹の切り口が足元でバキバキとおれて音を立てる状態で、歩きにくそうであった。
 帰りは、五味池分岐までの登り返しがあって息が切れたが、その先は足早に下るだけになった。破風岳からの下りの途中、御飯岳ですれ違ったグループが登ってくるのに出会った。
 毛無峠に戻り、続いて老ノ倉岳を目指した。老ノ倉岳は、破風岳方面からも、御飯岳に寄り添うように小さいながら三角形の山頂を見せており、気に掛かるピークになっている。
 万座方面への道の分岐に広場があり、そこから踏み跡が山に向かって続いていた。急な登りが続いたが、そう長くはないはずであった。ガレ場をまくと、山頂に到着した。小広場になった老ノ倉岳の山頂からは、周囲の展望が広がっていた。御飯岳の山頂は目の前であったが、破風岳方向からとは異なり、鋭角的な三角形の山頂を見せていた。志賀高原から白根山方面の眺めも大きく広がっていた。山頂の草むらには、ウスユキソウの花も咲いており、展望に花をそえていた。小さいからといって無視するにはもったいない山であった。
 老ノ倉岳を下ったところで、翌日の山を考え、信州百名山がらみで東山を登ることにした。そうなると須坂方面に下ることになるが、午後も時間が早いため、簡単な里山なら、もう一山登れそうであった。ガイドブックをめくっていくと、明覚山という山が目にとまった。東の水中峠からは、40分の登りのようであった。その後に温泉へ向かうにも都合が良さそうであった。
 須坂への道を戻り、堀之内から掘の集落へ向かった。登り口が水中峠というので水中の集落内に入ってしまい、山に向かう行き止まり道に入り込むことを二度ほど繰り返した。結局、最初の道を直進すればよかった。果樹園の中を登っていくと、林道起点の標識があった。林道は舗装されていたが、通る車は少ないのか、道の上に落石がおちていた。
 水中峠付近は、道幅が広いため、路肩に寄せて車を停めた。林道から尾根沿いに山道が続いていた。登り口には、雨引城趾とブリキ板に書かれた標識が取り付けられていた。雨引城趾保存会という名前も書かれており、登山道の保守のために、定期的に地元の手が加えられているようであった。
 雑木林の中の、見晴らしの利かない道が続いた。はっきりした道であったが、歩くものは少ないようであった。途中で方向が大きく変わるところがあるので、下りの時はそのまま尾根を直進しないように注意が必要である。進入禁止の印に木が横たえてあったが、見落としそうであった。山頂が近づいた所で、尾根に横堀が切られて、短いが急な登りが現れ、山城が置かれていた山であることが実感できた。
 山頂までもう僅かと思うところで、木の祠が置かれた雨引城趾に到着した。木立に囲まれて見晴らしはなかった。明覚山には三角点が置かれており、それはもう少し先のピークのようであった。水中峠からの安直なコースを使っているため、せめて三角点ピークまで足を延ばしておくことにした。
 緩やかな登りの後に最高点を越すと、一旦下りになった。横堀跡なのか、急な斜面を足元を注意しながら下る必要があった。三角点は、稜線上の通過点といった感じで、登山道の真ん中に頭を出していた。このピークからも展望は得られなかった。これで今日の山はお仕舞いということで、少々疲れてきた足にもうひと頑張りしてもらって峠に戻った。
 水中峠からは、峠を越した反対側におりて、須坂の日帰り温泉に向かった。温泉に入って夕食をとり、のんびり休んでから鬼無里に向かった。長野市内の通過も、時間が遅くなったせいか、それ程の渋滞に巻き込まれずにすんだ。長野から鬼無里を経て白馬に至る道は、オリンピック道路として整備されたと聞いていたが、細くてくねくね道が結構続いた。
 鬼無里から奧裾花に向かうと、谷沿いの道が長く続いた。途中の最後の集落で、奧裾花湿原の入山料の徴収所が現れた。一人400円ということであったが、夜遅くなっており、人はいなかった。観光バスを通すためか、道路を拡張中で、橋の付け替えやトンネルの工事も行われていた。ようやく到着した奧裾花には、観光バス用と自家用車用に分かれた広大な駐車場が設けられた。ミスバショウの季節には、観光客で賑わうように聞いていたが、これほどの駐車場が必要なほどとは思わなかった。駐車場の規模からすれば尾瀬の登山口に匹敵する。
 だれもいない駐車場の片隅に車を停めて寝た。朝起きると、雨が降り、見上げる山の稜線部はガスで覆われていた。東山へは稜線歩きが続くようなので、あっさりと諦めて、他の簡単な山に変更することにした。鬼無里近くの一夜山が、雨でも問題なく歩けそうであった。さっそく車を動かして、山を下った。
 鬼無里は、車を使っても山奥といった感じが強いが、観光地化が進んでいるようであった。鬼無里と一夜山については、昔から関係が深かったことを示す伝説が残されている。
 鬼無里村のホームページには、次のような伝説が書かれている。
「一夜山の鬼(いちやさんのおに)
 昔むかし、天武天皇は信濃遷都を計画し、三野王(みぬのおう)、小錦下釆女臣筑羅(うねめのおみつくら)らを信濃に遣わしました。使者は信州各地を巡視して候補地を探し、水内(みのち)の水無瀬(みなせ)こそもっとも都にふさわしい地相をそなえた山里だということになりました。そこでこの地の図を作って奉り、天皇に報告しました。
 これを知った土着の鬼どもは大いにあわて、「都など出来たら俺たちの棲み家がなくなってしまう」「都が出来ぬよう、山を築いて邪魔しよう」と、すぐさま一夜で山を築いてしまいました。これでは遷都はできません。鬼を憎んだ天皇は、阿部比羅夫(あべのひらふ)に命じて、鬼どもを退治させました。
 このときから、この山里に鬼は居無くなり、鬼無里(きなさ)と呼ばれるようになりました。」
 鬼無里から戸隠への道に入り、財又の集落を目指した。集落中心部で小さな橋を渡った所に、一夜山登山口の標識が立てられていた。沢沿いに、未舗装の林道が長く続いた。建物が三軒ほど残っている西越開拓地を過ぎると、T字路に出て、ここは左折。路面の状態は悪くなり、車の腹をこすらないように、ハンドルを左右に切り続ける必要がでてきた。幸いそう長くはなく、林道終点の広場に到着した。林道はその先にも続いていたが、ゲートがあり、車の進入はできなくなっていた。
 雨具を着て、最小限の荷物だけを持って歩き出した。ゲートの先の台地を進んでいくと、一夜山の山頂が頭上に迫ってきた。山頂の北側は崩壊地になており、鬼が一夜で山を築き上げたという伝説に相応しい風景と思ったが、これは奧裾花ダム建設のための採土跡だという。山に取り付くと、作業道は大きなヘアピンカーブを描きながら高みに上っていった。傾斜もあるのか、足の疲れもでてきた。稜線に上がると、作業道は、南側に一段下がったところに続いくようになった。山頂まで500mと書かれた黒ミカゲ石の立派な標識が現れた。山での500mというのは、結構長く感じるものだが、山頂が近づいたところで、傾斜も増した。続いて、300m、100mの標識が現れた。右手に崩壊地を見下ろすところで作業道は終点となり、その先は山道を辿ることわずかで一夜山の山頂に到着した。
 一夜山の山頂は、鳥居、祠、鬼女紅葉生誕一千年祭、展望盤が並んでいたが、広々とした草地の台地になっているため、ごちゃごちゃした感じは無かった。北アルプスや妙高連山といった山々の展望を楽しむことのできる山のようであるが、ガスが流れて、白一色になっていた。みると、草地には、シロバナノタカネグンナイフウロの群落が広がっており、思わぬ贈り物を貰った気分になった。雨はいつの間にか止んでおり、雨具を脱いでから下山に移った。
 時間もまだ早いことから、もう少し簡単な山と思ったが、雲がきれないままに小雨が降る中、車を走らせ続けることになった。戸隠を通り抜け、結局、新潟県に入って妙高を通過する頃になって太陽が顔を見せた。5月10日から11日にかけて妙高・高田周辺の山を登ったが、その際に鮫ヶ尾城趾と春日山を登り残したのが気になっていた。中越から上越にかけては、上杉家ゆかりの城山が数多いが、その中でも、上杉謙信の居城であった春日山と、御舘の乱の舞台になった鮫ヶ尾城趾は、まず第一に訪れておかなければならない。
 鮫ヶ尾城趾の麓一帯は、斐太県民休養地として整備が進んでいるようであった。18号線から高田へ通じる県道に曲がり、斐太県民休養地の標識に従って車を進めた。斐太神社の入口手前に山に向かって上がっていく車道があった。入ってすぐの所に広い駐車場があったが、車をもう少し進めると、カーブ地点に空き地があり、地元の車がとまっていた。その先が公園の敷地内で、車はここまでのようであった。
 斐太県民休養地は、芝地に整備され、左手の谷間には池が広がっていた。正面左手のピークが城山のようであったが、登山道がどこから始まっているのか判らなかった。真っ直ぐに進んでいくと、トリムコースの遊具が並べられた脇に管理棟があり、そこに鮫ヶ尾城趾と書かれた標識が置かれていた。
 幅広の遊歩道が谷奥に向かって続いていた。歩いていくと、頭上を上信越自動車道が、トンネル状にコンクリートの筒になって通過していた。谷を大きく巻くと、登りが始まった。杉木立の中で、薄暗い感じの道であった。
 尾根に上がると、十字路になっており、左は大手道、正面は搦め手(籠町)、右は本丸跡と書かれていた。ただ、登ってきた道については、なんとも書かれていなかった。この十字路からは、ひと登りで城山山頂に到着した。
 山頂には、鮫ヶ尾城跡の石碑が置かれ、あずまやも設けられていた。新井の町を見下ろすことができ、展望磐が置かれていた。鮫ヶ尾城跡の説明としては、次のように書かれていた。
 「県指定史跡 鮫ヶ尾城跡
                  昭和三十九年三月二十一日指定
戦国時代の武将上杉謙信が築いた代表的な山城の一つで、険しい尾根や急斜面を削って築いた数重の郭や、各所に空掘、たて掘、よこ掘を配置し、土塁を構築した堅固な守りの城郭である。
天正年間には堀江宗親が城主をつとめていたが、謙信没後に景勝と景虎の二人の養子が越後を二分して争った「御舘の乱」で、敗走してきた景虎が自害した悲劇の城として伝えられた。
                  新井市教育委員会」
 補足すると、敗北した景虎は、兄の北条氏政を頼って小田原に落ちる途中、鮫ヶ尾城に立ち寄った。ところが、城主の堀江宗親の謀叛にあい、ここで自刃したという。城主の裏切りにはふれていないのは、地元の教育委員会にとって都合が悪いと思ったためだろうか。
 下山は、大手道に進んだ。尾根沿いで、この道の方がハイキングコースとしては、歩いていて気持ちが良かった。これから整備を行うためなのか、各所でビニールテープが木に結ばれていた。途中で、曲輪跡のような台地が何ヶ所かで現れたが、その一ヶ所で道を見失ってしまった。急な斜面の下に道が続いているのが見えた。木を掴んでおりて道に戻ったが、台地の手前で道が分かれていたようであった。
 尾根を下りきると用水掘りの脇に出て、左に曲がると、斐太神社の鳥居の脇に出た。ここには標識は無く、初めてだと大手道に進むのは難しいかもしれない。コース紹介としては、鳥居の脇から用水掘り沿いに進み、神社の社務所の裏手に進む道を見送り、尾根の末端部から登り出すということになろうか。管理棟脇からの道を登って、大手道を下りに使うというのが良さそうである。
 鳥居をくぐり、斐太神社を見てから、横手の車道に出て車に戻った。
 続いて、春日山に向かった。春日山は、上杉謙信の居城であり、上杉家ゆかりの城巡りとしては、欠かすことができない。春日山下の交差点で県道から分かれ、春日山に向かった。
 麓から大手道を歩いて登っていくこともできるようであったが、山の中腹にある春日神社入口から歩き出すことにした。相当昔に一度春日山を訪れたことがあるものの、本丸まで登ったかどうかすら覚えていない。神社入り口のポストに、「春日山城跡史跡めぐり」のパンフレットが入れられていた。無料で、歩くための参考になるので、是非手に入れておくと良い。
 お土産屋の並んだ春日神社の入り口に立つ上杉謙信の銅像を見物してから、向かって左手に車道を進んだ。少し先に三の丸へという標識があったので、遊歩道に進んだ。三の丸から二の丸を抜けていくと、春日山の山頂の本丸跡に到着した。説明板を読みながらのんびりと歩くのに良いコースであった。
 本丸からは、頸城平野の眺めが広がっていた。春日神社付近は、大勢の観光客がいたが、遊歩道に進んで空は、出会う人もまれで、山頂にも人はいなかった。
 下りは、直江屋敷経由で春日神社に下ることにした。護摩堂や毘沙門堂といった、上杉謙信の小説でお馴染みの舞台も出てきた興味深かった。遊歩道は、細かく道が分かれるので、イラストマップを見ながら歩いていても、判りにくかった。モデルコースを作って、順路の番号を付けていくと良いのだが。
 春日神社の境内に下り立つと、その先で車に戻ることができた。春日山の登頂をを目的としたため、足早に回ってしまったが、周辺には上杉家縁の史跡や、春日山城史跡広場といった観光施設もあるようなので、史跡巡りとして、一日をすごすのが良さそうであった。
 歩き回っているうちに家に帰る時間になり、山歩きも終えることにした。
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