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勝山城跡、鎌田城跡


【日時】 2003年6月1日(日) 日帰り
【メンバー】 単独行
【天候】 雨

【山域】 東頸城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 勝山城跡・かつやまじょうせき・102m・なし・新潟県
【コース】 滝谷新田より
【地形図 20万/5万/2.5万】 長岡/柏崎/西山
【ガイド】 なし

【山域】 東頸城丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
 鎌田城跡・かまたじょうせき・141m・なし・新潟県
【コース】 鎌田より
【地形図 20万/5万/2.5万】 長岡/柏崎/西山
【ガイド】 なし

【時間記録】 8:30 新潟発=(R.116、西山、滝谷新田 経由)=10:30 勝山城跡遊歩道入口〜10:41 発―10:50 勝山城跡〜10:53 発―10:39 遊歩道入口=(滝谷新田、西山、R.116、二田 経由)=11:36 鎌田登山口―11:54 鎌田城跡―12:17 鎌田登山口=(往路を戻る)=15:00 新潟着

 日本海に臨む角田山・弥彦山・国上山一帯は、ハイキングの山として親しまれているが、大河津分水を挟んだ南には注目されることが少ない丘陵地帯が広がっている。
 勝山城跡は、西山町の西に位置する丘陵地にある城跡で、遊歩道が整備されている。
 鎌田城趾は、礼拝駅の北西に位置する鎌田集落にある城跡で、山頂へ山道が通じている。
 雨の週末になった。土曜日は、遅れていた山行記録のまとめで一日を過ごした。日曜日の天気予報も雨であったが、一縷の望みにかけて登山の用意をした。第一候補は、一般登山道のある山を選んだが、第二候補は、傘をさしてでも歩ける山を捜した。
 大河津分水西側の丘陵地帯では、勝山城跡がまだ訪れていなかった。2万5千分の1地図には載っていないが、道路地図には、鎌田城跡というものが記載されており、さらにその北側の出雲先には荒城跡というのもあるようであった。
 やはりというべきか、山に出かけることができるだけで満足するべき、本降りの朝になった。高速代ももったいないので、国道116を走って西山をめざした。西山駅の脇で越後線を渡ると、滝谷新田に出る。三叉路を県道23号線に進むと、すぐ先で勝山城趾遊歩道の標識が現れた。県道を離れて林道に進むと、舗装道路が続いていた。山の中に入り込むと、左手に駐車場が現れ、ここには勝山城趾遊歩道の案内図も置かれていた。
 大した距離ではないようなので、傘をさし、カメラと筆記用具を入れたウェストバッグを身につけて、GPSを片手に持って歩き出した。遊歩道といっても良い丸太の段々で整備された道が続いていた。雪割草採取禁止の看板も立てられていた。登山道の周りには赤松の木も点在していたが、多くがマツクイ虫にやられて枯れていた。
 尾根より一段下に続く道を登っていくと、勝山城跡に到着した。中央には、人の背丈ほどのミニチュア版のお城が置かれていたが、趣味が良いものとはいえない。
 脇の説明板には次のように書かれていた。
「史跡 勝山城趾
 この城についての文献が乏しく築城された年代や築城者等についての詳しいことは不明であるが、文治年中、城義資の一将である野呂一伯の居城であったと云われている。又、城氏の没落後は佐々木の一族である竹俣氏が在城するところとなったが、その後は上杉氏の番城となり、当時赤田城主であった斉藤家に預けられたと伝えられている。一山の頂上には本丸段々下りて出丸の跡があり、頂上からの眺めは正に絶景である。ここに勝山城趾を世に紹介するとともにその保護について御協力をお願いします。
昭和四十四年九月 刈羽村」
 雨のために展望が開けているかは判らなかった、広場の周辺は木立に囲まれていた。登り10分とあっては、少しものたりない山頂であった。
 帰りは途中の分岐から、林道に下った。この下り口には標識はないので、登りは駐車場広場から歩き出すのが良い。林道歩きも僅かで駐車場に戻ることができた。
 小ピークのはしごになると思ったので、コンピューターを車んできていた。GPSのトラックデーターを転送して、地図上に表示させると、行きと帰りで、コースが大きく違っていた。木立に雨粒が付くと制度が落ちるようだが、傘も受信に悪影響を及ぼしているのかもしれない。
 続いて、鎌田城跡を目指した。名前からして、登山道があるならば、鎌田の集落が起点になるように思えた。
 鎌田の十字路で県道373に曲がると、すぐ先の山際に看板が立っているのが目に入った。次のような、鎌田城趾についての案内板であった。
「鎌田城趾
町指定文化財 
昭和四十四年九月一日
鎌田には古城趾が三ヶ所ある。
その一城は村中央「かながえり」の真上の山頂で、鎌田兵衛尉の古城趾と伝えられている。頂上には城を築ける広さがある。ここからは、寺尾城趾、高内城趾を望むことが出来る。
この峯つづきに一三OO米程の所に鎌田公の物見枡形城趾があり、そこから又一OOO米程の所に鎌田公の家臣鎌田太郎左ェ衛門の古城趾がある。
西山町教育委員会」 
 毛筆で書かれており、デジカメの画像を見ながらでも、判読に手間取った。
 山に向かって道が開かれていたので、車を路肩に停めて歩き出した。
 ひと登りすると尾根沿いの道になった。途中の二ヶ所で、右手から山道が合わさり、里との関わり合いの多い山のようであった。山道周囲には、ブナやナラの木の雑木林が広がり、自然が良く残されていた。山頂までは、意外に距離があった。土塁跡と思われる、階段状に道が整備された急坂を登ると、鎌田城跡に到着した。山頂部は、人工的に切り開かれたと思われる平坦地になっていた。この山頂までは20分ほどなので、散歩には良さそうな距離であった。雨のために良くは判らなかったが、展望は一部開けているようであった。山頂の先に向かって踏み跡は続いていたが、草が被り気味であった。
 一応、二山登って、ひとまずの目的は果たしたが、荒城跡の偵察を行っていっことにした。
 稲川トンネル前後と、南の林道沿いを見たが、案内標識のようなものはなかった。大根上まで続く作業道はあったので、そこから尾根沿いに進むか、南からの尾根を使うかである。雨は本降りで、このような日に藪コギをする気にもなれず、冬の頃の課題ということにして、家路についた。
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