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坊谷山、竜海山、御嶽山
浅草岳(中退)


【日時】 2002年11月3日(日)〜4日(月) 各日帰り
【メンバー】 3日:単独行 4日:Akira 、とんとん、ヤブコギTaku、大雲沢
【天候】 3日:曇り時々雨 4日:雪

【山域】 越後三山周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
坊谷山・ぼうやさん・306.8m・三等三角点・新潟県
【コース】 登り:大崎コース、下り:細越コース
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/十日町/五日町
【ガイド】 新潟のハイキング(新潟日報社)

【山域】 越後三山周辺
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
竜海山・りゅうかいさん・140.5m・四等三角点・新潟県
【コース】 原虫野新田より
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/小千谷/小出
【ガイド】 なし

【山域】 魚沼丘陵
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
御嶽山・おんたけさん・306.0m・四等三角点・新潟県
堀之内城跡・ほりのうちじょうせき・258m・なし(255.2m・四等三角点)・新潟県
【コース】 登り:御嶽登山口、下り:月岡遊歩道
【地形図 20万/5万/2.5万】 高田/小千谷/小出
【ガイド】 新潟のハイキング(新潟日報社)、新ハイキング02年10月
【温泉】 こまみの湯 500円

【山域】 浅草岳
【山名・よみ・標高・三角点・県名】 
浅草岳・あさくさだけ・1585.5m・一等三角点本点・新潟、福島
【コース】 浅草林道
【地形図 20万/5万/2.5万】 新潟/守門岳/守門岳
【ガイド】 山と高原地図「越後三山・卷機山・守門岳」(昭文社)
【温泉】 浅草山荘 600円

【時間記録】
11月3日 7:30 新潟発=(関越道、小出IC、R.17、虫野、R.291 経由)=9:40 大崎登山口〜9:45 発―10:01 塔の山―10:10 坊谷山〜10:12 発―10:19 塔の山―10:45 細越登山口―10:59 大崎登山口=(R.291、虫野、R.17 経由)=11:51 原虫野新田―11:57 竜海山―12:03 原虫野新田=(R.17、小出、堀之内 経由)=12:30 堀之内工芸〜12:33 発―12:38 御嶽山登山口―12:51 無沢分岐―13:02 御嶽山〜13:10 発―13:17 無沢分岐―13:30 堀之内城跡―13:51 月岡遊歩道入口―14:02 御嶽山登山口―14:06 堀之内工芸=(広域農道、小出、R.252 経由)=17:00 大雲沢ヒュッテ  (大雲沢ヒュッテ泊)
11月4日 8:40 エコミュージアム分岐〜8:43 発―9:55 駐車場―10:16 ネズモチ平登山口〜10:42 発―10:54 駐車場―11:49 エコミュージアム分岐=(R.252、上条、R.290、栃尾、R.351、R.8、中之島見附IC、北陸道 経由)=15:40 新潟着

 坊谷山は、八海山から西に延びる尾根が、魚沼平野に突き出て最後の盛り上がりを見せる小山である。山中の登山道沿いには石仏が置かれて、地元の信仰の山になっている。
 竜海山は、小出の町の南、国道17号線脇に位置し、関越道によって、半分削り取られた標高差40mの小山である。
 御嶽山は、魚野川左岸の堀之内の背後に広がる魚沼丘陵にある山である。御嶽講の修験者によって開かれた山のようであるが、地元の山の会の手によって、登山道や山小屋が整備されている。栃原峠への縦走路や、堀之内城跡への周回コースなど変化に富んだハイキングを楽しむことができ、もっと取り上げられても良い山である。

 時ならぬ大雪に見舞われて、月曜日の守門烏帽子岳のヤブコギ登山はまず無理そうになった。前の晩は、入広瀬の大雲沢ヒュッテに泊まって宴会を行うため、その周辺の山を考える必要があった。天気も悪そうなため、登山道が有りながら登っていない山ということで、坊谷山を目指すことにした。
 小出からR.290に進み、大崎の集落をめざした。R.290は何度も通っているが、坊谷山の登山口をまだ確認してはいなかった。坊谷山の登山道は、地図をみると、県道のトンネルを越した細越からと、大崎の集落内からの二本が記載されている。まずは、細越の登山口を探すことにした。
 大崎トンネル手前で県道に入り、トンネルを越した所で登山道を探したが、杉の植林地に上がっていく、草がかぶった踏み跡があるだけであった。尾根に上がれば、はっきりした道が現れそうであったが、登山標識がないのが不安であった。もう一本の、大崎の集落からの道を探すことにした。大崎の集落内をゆっくりと車で移動したが、坊谷山を示すような標識は無かった。山に向かって枝道に入ると、県道と平行に走る道に出た。山の方を見ていくと、田圃の中を山に向かって延びていく車道が見つかった。山の麓にある作業小屋の手前で車道は左に曲がっていたが、直進方向に、荒れた林道が続いていた。登山標識は無かったが、地図を見る限りは、これが登山口のはずであった。路肩に車を停めて、歩き出す準備をした。
 坊谷山は、「新潟のハイキング」にのっている山である。1984年発行のこの本はすでに絶版になっているが、20年近くが経過して、山の状況が大きく変わっている。この本に載っているからといって、簡単には登らせてはもらえない山も多いのは、里山の難しさといってよい。少なくとも、日本百名山では、2万5千分の1地図をまじめに見て登った山は数えるほどしかないが、坊谷山を始めとする低山では、2万5千分の1地図を良く見ないことには、登山口に辿り着けないという事態に陥ることも多い。この本の後、「新潟の里山」といった、当然この山を紹介されていて良いガイドブックに、紹介されていないのは不思議である。
 林道跡といった方が良い道を谷奥に進んでいくと、尾根に向かって登って道が左に分かれた。テープが付けられているだけで、登山標識のようなものは無かったが、これが登山道のように思えた。ひと登りして尾根に上がると、しっかりした道が続いていた。急な登りであったが、稜線上まではそれほど時間はかからなそうなので、道の脇に置かれた石仏を見ながらのんびり登った。
 登り着いた小ピークには、石の五重塔が置かれており、ここが塔の山であることが判った。右手に向かって、しっかりした道が続いていた。帰りにはこの道を下ってみることにして、左に曲がって坊谷山の山頂を目指した。稜線沿いの木立は紅葉し、振り返ると白く染まった八海山や越後駒ヶ岳が中腹まで姿を見せていた。
 ほぼ平坦になった道を進んでいくと、お地蔵様(実際には大日如来とのこと)と鐘の置かれた広場に到着した。ここが坊谷山の山頂のように思えたが、三角点は見あたらなかった。山道が続いていたので、先に進んだ。刈り払いが最近行われたようであったが、歩く者は少ないような道であった。その先は下りになる山の肩の部分に、紅白ポールを上に載せた三角点が埋められていた。三角点周辺には草が茂っており、一般には、手前の広場が山頂とされているようであった。眼下には、八色原の眺めが広がっていた。
 塔の山に戻り、細越への道に進んだ。紅葉に彩られた気持ちの良い道が続いた。途中には、苔むした石仏が置かれていた。坊谷山の石仏は、日清日露戦争の際に出征し、戦死した12名の村民の慰霊のために置かれたものであるという。最後のピークからは、滑りやすい急坂の下りになった。僅かに登り返した小ピークは杉の植林地になっており、草に覆われた踏み跡を辿って、右下に見える車道を目指すことになった。踏み跡は、ジグザグを描いており、離れたところに石仏が置かれているのが、さらに判りにくいものにしていた。車道には、先に見た時、ここが登山道の入り口かなと思った所で下り立った。あとは車道歩きで、車に戻ったが、思ったよりは時間がかからなかった。
 坊谷山は、山中に石仏や鐘などが多く置かれているわりには、山頂標識や登山標識がまったく無い山であった。地元の人間しか登らない山のようである。
 雨が時折ぱらつくものの、歩きには支障の無い状態なので、堀之内の御嶽山をめざすことにした。小出に戻る途中、国道脇の竜海山の下を通過するとき、鳥居が立てられているのが目に入った。辰年に、新潟県内の干支にちなむ山を検索した時に、竜海山という名前を知ったのだが、登山の対象とならない小山のため、そのままになっていた。
 国道は通行量が多いため、高速道をくぐるように続いている脇道に入って、路上駐車した。小雨が落ちてきたため、傘をさして、竜海山に向かった。
 山の麓には、二つの鳥居が立ち並び、お墓のような石碑が置かれていた。脇に踏み跡が続いていたので進んでみると、山に掘られたトンネルに続いていた。奥には扉があるようで、室として使われているようであった。竜海山という名前はお寺にも使われているようで、信仰の山かと思ったのだが、期待に反して、山頂にお堂があって、そこに向かう参道があるというようなことは無いようであった。
 鳥居の背後の雑木林をうかがうと、木の間隔は開いていた。頂上までたいした距離でもないので、ヤブコギで登ることにした。傘の先で木の枝に付いた雨粒を落としながらの登りになった。ひと登りで山頂に到着したが、山頂は平らで、三角点探しが始まった。右前方に進んでいくと、刈り払いされた広場が有り、三角点を見つけることができた。下からは、高速道の走行音が聞こえていた。
 広場からは、完全にヤブに覆われていものの、はっきりした道跡が下に向かって続いていた。この道を下っていくと、鳥居よりは浦佐よりの、国道の反対側に神社のある場所で、国道に飛び出した。高速道の建設のために作られた作業道かと思われるが、民家の軒先をかすめるため、入り口を探すのは難しいと思われる。下りはともかく、鳥居の脇から登ってしまった方が早いであろう。
 小出駅の前から堀之内へ向かい、登山口の目印の六花寮を目指した。堀之内高校の前を通り過ぎて車道を進み、六花寮の前を通り過ぎたところで、車道は堀之内工芸の敷地に行き当たり、車道は終わりになった。右の畑沿いに農道が続いており、地図を見る限りは、ここが御嶽山の登り口のようであった。
 地元の新聞の投書欄を読んでいると、地元の里山に登って楽しんでいるといったような記事が載っていることがある。米山の脇の城山もそうであったが、この御嶽山も、新聞でそのような記事を読んだ覚えがある。それにしては、標識も無く、登山道らしからぬ道のようだと思いながら歩き出した。
 畑の脇を抜けると、突然といった感じで車道に飛び出し、その向かいに御嶽山登山口の標識が立てられていた。新しい車道ができたため、登山口が移動してしまったようである。登山標識には、「ブナ林0.2k、御嶽山1k、FM塔2.2k、栃原峠3.6km」と書かれていた。
 ここからは、整備の行き届いた遊歩道の登りが続いた。登山道脇の木立には、木の名前を記したプレートが付けられていた。急な所には、丸太の段々で整備されており、散策に良い道であった。途中、復元した炭焼釜を見物できるようになっていた。急登僅かで稜線上に出た所が、月岡公園への道が右に分かれる無沢分岐であった。月岡公園までは、1.5kmとあり、少し遠いようであった。
 三叉路から御嶽山へは、0.4kmとあり、あと僅かな距離であった。登山道脇には背の低い灌木帯が連なり、周囲の展望が開けていた。あいにくの天気で山の山頂は雲の中に隠れていたが、越後三山や権現堂山塊の眺めが良さそうであった。
 緩やかな稜線を辿っていくと、右手に手作り風の山小屋が現れた。中をのぞくと、下は土間のままであったが、雨風を遮るには充分であった。この付近のハイキングコースの案内でもないかと探してみると、壁に百名山やガイドブックの目次を綴じたものが吊してあった。地元の山愛好家がこの山小屋で、山談義を行っているようであった。
 小屋のすぐ先が御嶽山の山頂であった。広場になって、八海山大神、御嶽山大神、三笠山大神と彫られた石碑が置かれていた。この山は、御嶽講修験者によって開かれたという。傍らには鐘がツルされていたので、木槌でたたいたが、近づきすぎていたため、頭に響いた。堀之内山の会が立てた御嶽山山頂の標識も広場の一画にあった。ベンチに腰をおろして、この先どうするか考えた。稜線は、この先も、ほとんど高低差の無いままに続いているようであった。栃原峠2.6kmという数字に迷った。往復の5.2kmとなると、ちょっと長く、天気が悪いことを考えると、引き返してくる頃には薄暗くなり始めている。栃原峠へ抜けるのは別の機会ということにして引き返すことにした。
 その代わりに、無沢分岐からは、月岡公園への道に進んだ。こちらも良く整備された道であった。高低差のほとんど無い道であったが、地図で見るよりも痩せた尾根が途中で現れた。台地状の258mピークに出ると、堀之内城跡の案内板が置かれていた。
「堀之内城跡
 大字堀之内字古長沢に位置する標高258mの山城である。山頂付近は通称「城ノ平」と呼ばれる実城跡である。この主郭の稜線に、深さ10mの空堀がある。城ヶ沢への斜面には15条の堅堀(畝形阻塞)が構築されている。ほかに数段の曲輪、堀切、土塁が散見される。
 南北朝(1336〜92)の動乱時代、越後守であった新田義貞の嫡子義顕の出城と伝えられ、また一説にその支族である里見氏の居城とも伝えられる。別名を月岡城、古長沢城ともいう。 堀之内教育委員会」と書かれていた。
 月岡公園に向かって歩き出そうとすると、草むらに標石が埋められているのに気づいた。持っていた地図には三角点は記載されていないので、何の標石だろうと思った。よく見ると、コンクリート製の石柱の上に金属プレートが取り付けられており、四等三角点と書かれていた。後日、国土地理院のホームページにアクセスして調べてみると、点名「古長沢」の四等三角点で、2000年9月1日に新設とあった。備考に軽量標識とあるのは、金属プレートをコンクリート標柱に載せた形態のものを言っているようであった。GPS測量に移行して三角点は用済みかと思ったが、現在でも三角点の新設は行われているようであった。
 月岡公園に向かっていくと、尾根の末端部で右に方向を変え、沢を渡って下ると、野球場とゴルフ練習場が並んだ月岡公園の道路脇に飛びだした。ここには、「月岡遊歩道」という登山標識が立てられていた。
 地図には記載されていないが、車に戻るためには、この車道を歩けば良いはずであった。山裾を巻くように歩いていくと、御嶽山登山口に戻ることができた。両登山口は、歩いても大した距離ではないので、御嶽山からの周遊コースをとるのが面白いであろう。
 この広域農道は小出に通じているようなので、どこに出るかと思って車を走らせると、いつも利用しているこまみの湯に出ることができて、下山後の入浴のためにもよかった。
 温泉にゆっくり入り、小出の酒の量販店でワインを仕入れ、守門岳の麓の大雲沢ヒュッテに向かった。この連休に、キノコ狩りと烏帽子岳のヤブコギ山行を予定していたのだが、時ならぬ大雪のために計画は大幅に変更になった。キノコ狩りは中止。烏帽子岳も林道が雪で閉ざされて、来年の課題になってしまった。明日どこの山に登るかは、夜の宴会の時に決めることにした。
 大雲沢さんが先日守門岳に登った時は、1000m付近からラッセルになったとのことであった。先週、浅草岳から鬼ヶ面山に縦走した時は、浅草岳の木道整備のためにプレハブ小屋を建てて作業員が入っていた。水曜日にプレハブ小屋はヘリで下ろし、作業員は下山したとのことであった。ネズモチ平n駐車場までは除雪がされており、トレースも期待できそうであった。小出付近の鳴沢峰あたりなら雪も無くて良いかなとも思ったが、浅草岳へ雪を見に行くのも面白そうであった。
 今回は、風邪や急用で参加者が5名と少なくなったが、楽しい夜の宴会になった。ワインを中心に飲んだため、翌日の二日酔いが心配になった。宴会のお開きは、12時を回った遅い時間になっていた。
 ゆっくりと起きて朝食をとり終えると、朝は青空ものぞいていたものが、小雪もちらつくようになった。結局、浅草岳に向かうことにして、家にそのまま戻る二名と別れた。浅草大橋脇の駐車場で、大雲沢さんのマイクロバスに乗り換えた。駐車場付近の渓谷は紅葉が美しい盛りであった。林道に入ると、みるみる雪が増えてきた。道路上を雪が覆うようになり、エコミュージアム分岐で、それ以上進むことはできなくなった。地図を見ると、ネズモチ平まではかなり距離がありそうであった。
 積雪量は、30センチ程で、この先はもっと増えそうであった。浅草岳の山頂まで登ることは無理そうであったが、せっかくの雪なので、行ける所まで歩くことにした。皆には、ワカンを持ってくるように連絡してあった。始めはつぼ足で歩きだしたが、直にワカンを履くことになった。4名でトップ交代をしながらのラッセルが続いた。ラッセルになるのは中腹からかと思っていたが、林道歩きからこれほどの本格的なラッセルになるとは予想していなかった。
 雪も本降りになったが、雨が降るよりは、ましであった。歩いているうちに、目標はネズモチ平の登山口になった。周囲の木立は雪に覆われて、11月初旬とは思えない風解が広がっていた。この時ならぬ雪景色を見にくるだけでも来た甲斐があったというもの。浅草岳は何度も登っている者ばかりで、登頂にこだわる必要も無かった。
 浅草岳は人気の山で、林道の路上駐車が問題になっていた。現在、ネズモチ平登山口の手前に、新しく駐車場が整備中である。トイレは完成したようだが、舗装は終わっておらず、整備は来年にずれ込んだようである。整備後は、その先に車が進入できなくなるようにゲートが設けられるかについては、地元でも今後の検討の課題のようである。来年は、浅草岳の登山口の情報に注意している必要がある。
 ここまで来たからということで、ネズモチ平登山口まで進むことにした。駐車場から登山口までの歩きなら、すぐ先と思ったのだが、20分もかかってしまった。雪の無い季節なら、5分くらいの距離であろうか。
 登山口の標識は雪の上に顔をのぞかせていたが、登山道には木の枝が倒れ込んで、判りにくくなっていた。歩くのはここまでにした。登山届けのポストが置かれていたが、引き返し地点で、登山届けというのも冗談のようなことになる。
 雪の降り方が激しくなったため、杉の木の下に潜り込んで休むことにした。ラッセルで汗をかき、寒くても、ビール美味しく飲んだが、そろそろ暖かい飲み物に変えた方が良いかもしれない。雪の上に敷くクッションも忘れており、冬装備の入れ替えもまだ不十分である。
 体が冷えてきたので、引き返すことにした。来た時のラッセルの跡には、はやくも雪が積もって、輪郭がはっきりしないものになっていた。一人の登山者が登ってくるのとすれ違った。大雲沢さんの知り合いで、地元のテレマーカーとのことであった。スキーの足馴らしとのことであった。雪の到来を待ちかねた人もいるようであった。
 雪の上を歩くのにいいかげんにいやになった頃、車に戻ることができた。まさか、本格的なラッセルになるとは思わず、長靴にワカンを付けたため、歩くのに疲れてしまった。今回のような林道歩きなら、スノーシューが良かったのだが、装備の選択を誤った。
 洞窟温泉手前付近で車から下ろしてもらい、紅葉の写真を撮った。三段紅葉ならぬ、紅葉と雪のミックスであった。紅葉見物の観光客は、一人いるだけであったのは、もったいないことであった。めったに見られない美しい風景を写真に収めることができた。
 大雲沢さんと別れ、温泉に入った後に解散した。

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